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『ココロのミステリー』カテゴリの記事

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「肩甲骨、意外に動くね」
週末、我が家に来て、「エゴスキュー」というエクササイズを教えてくれた
高校時代の友人が私の動きを見てそう言いました。
私は、辛さが自覚できないくらい慢性的に肩が凝っているのですが、
肩甲骨を動かすことと、正しい姿勢を保つことが重要と聞いたので、
ここ数週間、Youtubeで見た動画の運動を続けていたのです。
どうやら少しは成果が出ているらしいことがわかりました。


正しい姿勢についてネットで調べてみると、
正しい姿勢はラクな姿勢だそうですね。
背筋をピンと伸ばした姿勢は一見正しい姿勢に見えますが、
続かない姿勢で、正しい姿勢ではないそうです。


30代の頃、体の姿勢を意識した時期がありました。
自分らしく悠々としているには、体の姿勢が大切だと思っていました。
なぜか、悠々としていたり、堂々としていることが、
信頼を得る上でも重要だと思っていたのです。
で、特にその頃は、歩く姿勢を意識していた記憶があります。


ところが、慣れというのは恐ろしい。
いつのまにか意識しなくなり、気がつくと猫背気味です。
おそらくパソコンを使う時間が長いせいでしょうね。
で、もう一度初心にかえって、姿勢を良くしようかなと思う今日この頃です。


「姿勢」というのは、「姿」の「勢い」と書きますよね。
姿のパワーを表すのが姿勢。そう思うと、より一層重要な気がしてきます。


姿勢には、「体の構え方」という意味のほかに、
「心の構え方」という意味もあります。
カーネギーは、「心の構えは、声のトーン、顔の表情、体の姿勢に影響し、
その人が抱くあらゆる感情の性質を左右するとともに、
その人が話す言葉の印象を変える」と言ったそうです。
カーネギーに反論するのも憚られますが、
私は反対ではないかなあ...と思います。


武道も書道も踊りもスポーツも、基本はまずは体の姿勢。
それを整えることが心の構え方を整える上で不可欠というのが、
日本の伝統的な考え方です。


そういえば、「今でしょ!」の林修さんも
以前のテレビ番組「あすなろラボ」でこんな発言をしたようです。


ーーーーー
しつけの中で一番大事なことは「姿勢」。
集中力がないのは、集中できる姿勢ができてないからです。
宿題ができないのは、宿題をきちんと座ってできる姿勢ができてないからです。
「姿勢の良い不良」はいない。
姿勢の良い子に成績の良い子が多い。
ーーーーー


しかも、背中が曲がっていると、脳が発達しないのですって! へぇ〜

だから、カーネギーさん、
やっぱり体の構え方の方が先なのではないでしょうか。


体の構え方が体の使い方(行動習慣)につながり、
体の使い方が心の構え方になり、心の使い方になる。

これは、今流行りのルーチンをしっかりやろうという考え方にも通じますよね。


たとえばデスクでPCを立ち上げて仕事を始めるその一連の作業はルーティン。
ところがこれをルーティンだと思っている人は少ないし、
その作業をしているときの自分に興味を持っている人も少ないですよね。
これは自分の体の姿勢や動きに興味が持てないのと同じ感覚のことだと思います。
姿勢なんて、ルーティンなんて、それほど重要だと思っていないということです。


でも、実は姿勢やルーティンにこそその人の価値観や生き方が表れるのですよね。
それは、他のことにも影響するでしょうし、
もちろんパフォーマンスにも影響しないはずはありません。

体の姿勢が悪ければ、心の姿勢、生きる姿勢を整えることはできず、
反対に、体の姿勢を整えると、心の姿勢も生きる姿勢も整ってくる。
たかが姿勢、たかがルーティンなのですが...。


姿勢を整えるために、バンダイから出ている「猫背」というフィギュア(写真)を
机の上に飾ろうかな...と思って始まる月曜日です。
読んでいただきありがとうございました。どうぞ素敵な1週間を!

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今日は我慢強い、忍耐強いということが本当にいいことなのか?という話です。

心理学者アドラーが「すべての悩みは対人関係の悩みである」と言ったように、
人間関係はストレスの最大原因といっても過言ではありません。
ストレスを抱えてしまう人は「我慢」しようとする傾向が強いと言われます。

やりたいことや希望とは裏腹なことに直面しても我慢する、
イヤなことを頼まれても何も言わない、
ネガティブな感情を出してはいけないと思っている、
波風を立てるようなことは避けたいと思う、
言いたいことがあっても飲み込んでしまう、などなど。

これを聞いてどう思いますか?
全然、特殊なことではありませんよね。
私にも当てはまるし、恐らくあなたも自分ごとに感じられるのではないでしょうか。


◆「我慢」を是とする価値観はどこから?◆

この「我慢」を是とする価値観はどこから来たのかと思い、調べてみました。
東洋的なものなのかといえば、必ずしもそうでもなく、
たとえば新約聖書「ローマ人への手紙」にも次のような記述があります。

「忍耐をもって善を行ない、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、
永遠のいのちを与え...」(2章7節)、
「忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す...」(5章4節)。

しかし、福音総合研究所のスミス牧師の解説によると、
この「忍耐」は「しょうがないから、我慢しよう」というようなものではなく、
「信仰と希望をもって積極的に頑張って生きる」ことであるそうです。


では、仏教はどうなのでしょう?
仏教用語での「忍耐」とは「心の平安や平和」を意味し、
「忍耐しなさい」は、「落ち着いていなさい、平和な心を保ちなさい」の意。
仏教でも、「忍耐」は苦しいことを耐え忍ぶことではなく、
まして「我慢」に至っては、煩悩の一つなのだそうです。
自分を偉いと思い、他人を軽んじることであり、
自分に執着することから生まれる慢心が「我慢」なのだとか。


「我慢」を是とする価値観は、どうも仏教から来たとは考えにくいですね。
では、私利私欲を捨てて公のために生きることを是とした武士道の影響か?
「和をもって尊しとなす」という聖徳太子の言葉にあるように、
個よりも集団の「和」を重んじる大和時代からの精神性の影響か?
その答えはわかりませんが、国民的な刷り込みがあるように思うのは、
私だけではないと思います。


◆「我慢」は自分への執着◆

根源はさておき、私たちが人間関係で「我慢」している状態というのには、
共通点があります。

・自分と誰かとの関係において、自分が願うことと違うことが起きている。
・それを言うと、相手を傷つけたり、波風が立ちそうに思えたり(恐れ)、
 言ったところで、変えられそうにないと思える(諦め)。

波風を避けたいというのは、防衛本能から来るものでしょうし、
諦めるというのも、願って叶わない結果になるのがイヤだという心理でしょうから、
これもまた傷つきたくないという防衛本能が根底にあると思います。
まさに「我慢」の本質は「自分への執着」だと思えてきて、
仏教の教えは真理を突いているなあと感じます。


自分を守ろうとすると、相手は遠のく。
それは信頼関係を築くこととは反対のベクトルにあるものです。
本来は、相手との間に「和」を築きたいのに、結果的に反対方向に向かってしまう。
これは、自分にとっても、相手にとっても、悲しいことに違いありません。
自分に背くことを罪とするなら、「我慢」はまさに罪だと言えます。


◆相手に「我慢」をさせてない?◆

けれども、では我慢をした方だけが悪いのでしょうか。

たまに部下から「ずっとこう思っていた」と打ち明けられることがあります。
それは大抵の場合、言いたかったけれど、これまで言えなかった話です。

そんな時、そこで打ち明けてくれたことは良いことなのに、
「なんでもっと早く...」という気持ちが私の頭の中をよぎるんです。
一瞬ですが、心の中で相手を責める。
未熟な私の防衛本能ですね。
そして、そこからめっちゃ反省モードに入って、
言いやすい関係になれていなかったんだろうな...
信頼関係に慢心があったのかもしれないな...
サインを出してくれていたいのに見逃していたのかもしれないな...など、
自分にダメだし。


だから、、、
自分が我慢をしているときには、
我慢は「自分への執着」であり、自分に背く「罪」だと思い、
相手が我慢をしているとわかったときは、相手を責める前に、
自分を振り返って相手の気持ちを大切にする人間でありたいものです。
仏教の修行をしたくなりました。

読んでいただき、ありがとうございます!
どうぞ素敵な1週間を!

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週末は春のように暖かな陽気でしたね。あまりのポカポカにベランダで読書にいそしみました。読んだのは、ドン・ミゲル・ルイス著の「四つの約束」(コスモス・ライブラリー)です。これは、以前参加した研修会での課題図書だったのですが、当時は今ひとつ興味が持てず、途中で挫折して読み終えませんでした。


この本で著者ドン・ミゲル・ルイスは、古代メキシコでスピリチュアルな知識を伝承する「トルテック」と呼ばれる人々(科学者や芸術家)の智慧に基づき、人が幸福に生きるためには4つの約束を守る必要があると説いています。そのため、序文が少々神話的であり、本文も宗教や心理学の本であるかのような印象であることは否めません。しかし、やっぱり本を読むにはタイミングというのがあるのですね。今回は、とてもぐいぐいとひきつけられる感覚で、読み進むことができました。


4つの約束が何であるかの前に、この本の主張は、私たちは子どもの頃から大人から刷り込まれた自己像を背負って、褒美をもらいたいがために生きているが、他者の価値観に添うのではなく、ありのままの自分を受け入れて生きなければ、真の幸福は得られないということが前提となっています。その意味で、アドラー心理学などにも通じるものがあり、4つの約束の内容自体もどこかで聞いたことがあることが再整理され、こうして提示されているという印象でもありました。


では、4つの約束とは何でしょうか...? 以下、4項目は引用です。


(1)正しい言葉を使うこと
(2)なにごとも個人的に受け取らないこと
(3)思い込みをしないこと
(4)つねにベストを尽くすこと


掻い摘んで要点をお伝えすると...


(1)「正しい言葉を使うこと」というのは、罪のない言葉=自分に背かない言葉を使うこと。愛する相手を束の間の感情で罵ったりすることは正しい言葉を使っていない。
(2)「なにごとも個人的に受け取らないこと」というのは、自分に関する良い話も悪い話も個人的に受け取らず、それに影響を受けないで生きるということ。
(3)「思い込みをしないこと」。思い込みとは、物事をはっきりさせるためにすべき質問をせずに、こうであるに違いない、相手はわかってくれているはず...という考えが真実であるかのように思い、その考えに縛られていることに気づかないこと。
(4)「つねにベストを尽くすこと」というのは、今を生き、その状況で最善を尽くした自分でいるということ。そうすれば、自分を責めることなく生きられる。


いずれの約束も破ると、感情的な毒を撒き散らして人を傷つけたり、自分が傷ついたりする羽目に陥ります。


さて、私にとって、この中で一番印象に残ったのは、やはり「正しい言葉を使うこと」でした。そりゃそうですよね、『「言葉」で未来をつくる』が企業理念ですから。


その章の中で、こんな話が書かれていました。
ある母親が仕事で疲れ頭痛を抱えたまま帰宅した時、小さな娘が大はしゃぎで歌を歌っていた。母親は我慢できずに、「静かにしなさい。変な声で歌わないで!」と怒った。そこを境に、その娘は二度と人前で歌わなくなり、愛されるためには感情を抑圧しなければならないと学んでしまった。母親にとって、その娘は目に入れても痛くない存在であったのに...。
作者はこのような罪のある言葉を「まじない」「黒魔術」と表現しています。黒魔術というのは、罪のある言葉=自分に背いた言葉を使うことです。「誰それは◯◯が上手だ/下手だ」「誰それは可愛い/ブサイクだ」など悪意のない評価も罪ですよね。
愛する相手を束の間の感情で罵ったりすることは、なおさら正しい言葉とは言えません。ああん、耳が痛い。。。


言葉は白魔術に使わなくてはいけない、それが作者の主張です。白魔術というのは、たとえば愛を分かち合うことに使うこと。そのためにも、まずは自分に向けて使うことから始めることを勧めています。「(自分が)どれだけ素晴らしい人間であるか、自分に言いなさい。どのくらい自分を愛しているか、自分に言いなさい。」と。
それが幸せな生き方に直結する...ということのようです。


この本を読んで思ったのは、まったく自覚できない意識のレベルで、私たちは意外に自己否定しているのかもしれないな、ということ。よく「あの人は自己肯定感が低い」などという表現で、他人を評価する声を耳にしますが、そんなことを語っている当人を含めて、もしかしたら誰もがどこかで理想の自分になれていない自分を自己否定していて、それを直視したら辛すぎるから意識の彼方へと葬り去って、自己肯定している自分を演じているのかもしれません。


うーん、人の心理は奥深いですね〜
とにかく「白魔術師になりたい」とそんなことを考えた週末でした。
どうぞ良い1週間をお過ごしください。

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年が明けたかと思ったら、あっというまに1月が過ぎ、今日から2月。
2月といえばまもなく卒業シーズン。
当社に昨年9月から働いてくれていた大学生のL君も、
まもなく卒業です。


「卒業」という言葉、最近は教育の課程を修了する以外でも、使いますね。


「〜を卒業します」


子育てはもう卒業します、
AKBを卒業します、
紅白を卒業します、
ユニクロダウンを卒業します、
恋に恋する『かわいい私』を卒業します、
モンスト卒業します、
拒食症から卒業します。


これらは、「卒業します」で検索した結果です。


恋人や友人との関係にピリオドを打つ時にも使われているようですね。
わかるけど、それは、どうなんだろうなあ?


それほど好きな言葉とは言えませんが、
とはいえ「卒業する」というと、過去の何かから脱出して、
新しいことに向かって一歩前に踏み出せるような感じがするのは事実ですよね。


あなたは今卒業したいこと、ありますか?
私自身はどうだろう?と我が身を振り返ってみたら...?  コミュニケーションの面でありました。


自分より経験の浅い人と接する時、
特に、たとえば何か指導的なことをする場合に、
「教えてやろう」「気づかせてやろう」と思うことを卒業したいですね。


いや、あの、私はそんな上から目線の人間ではないつもりですが〜!


でも、教える行為を授ける行為だと意味づけていると、
心のどこかに「自分はGIVEする側だ」という心理が生じます。
ある意味、相手の成長に対して
真剣にコミットしていることではあるのですが、
私がどうこうして授けようと考えるのではなく、
相手はそもそも創造的で才知に溢れた存在であり、
欠けるものなどなく、素晴らしい力を持ち合わせた存在なのだ、
という目線の自分でいられたらなぁ...と思います。


"People are Naturally Creative, Resourceful and Whole.(NCRW)"
つまり、この言葉自分の血肉にできたら、
私も、今の自分を卒業して、素敵な人間になれるんだろうな、と。


何度追試を受けてもなかなか合格できない...なんてこともありそうですが、
卒業できるようにがんばってみよう!


今日は如月の第1日。
どうぞ良い1週間、良い1カ月をお過ごしください。

オープン

先日、私と当社の現社員、元社員の3人でランチを食べる機会がありました。
8年前まで当社にいたその方は、当時生まれたお子さんが8歳に。
子どもの教育に話が及び、「花まる学習会」のことが話題にのぼりました。
思考力や応用力を高めることに重きを置いた勉強なのだそうです。
急成長しているためか、最近はマスコミから叩かれたりもしているようですが、
保護者の間での評判は良いのだとか。


思考力や応用力をもった人材といえば、まさに企業が求める人材です。
もっと言えば、何歳になっても自ら成長できる人材を
企業は欲しているのではないでしょうか。

これは、とても奥が深い。
スキルなどの能力開発だけで成長を考えるのと、
人間力を含めた成長を考えるのとでは、教育観が異なってきます。


私個人は、スキルも大切ですが、人間力の方がより重要、という意見です。
というのは、いくらスキルに長けていても、
人間的な魅力に乏しいと、「この人と仕事をしたい」と思ってもらえず、
チャンスに恵まれなくなり、
結果として成長できないという悪循環を生むからです。


その人間力、養うのは簡単ではありません。
スキルは、努力する姿勢と行動があればなんとかなりそうですが、
人間力は努力や行動だけ伸ばせるものではありません。
その人が「オープン」でいる、「柔軟」でいるなど、
「あり方」があってこそ初めて伸ばせます。


どういうことかというと、
「オープン」に受け入れる気持ちがあるから、
人から自分一人では気づけないフィードバックをもらうことができ、
「柔軟」でいるから、素直に受け入れて自分を変えることができる。
まず単純にそういう好循環が「何歳になっても成長する」ために必要です。
また「オープン」に人に意見を述べるけれども、
自分の意見に固執せず「柔軟」であるから、
意見や助言を求められるようになり、信頼の貯金ができる。
それが新しい体験へのチャンスを生み出す。
さらに「オープン」である人は、他人に助けを求めることができるから、
周囲は協力を惜しまない。

ところが、、、、
この「オープンでいること」について、世の中は矛盾に溢れています。


企業は人間力のある人材を求めながら、
オープンに発言することをよしとしているでしょうか。
会議では若手からベテランまで発言しやすい雰囲気があるでしょうか。
本音なんて言ってはいけないと誰もが思っているのではないでしょうか。


つまり、オープンであることを是としない組織が、
オープンさを必要とする人間力のある人材を求めている、
という矛盾があります。


風が吹けば桶屋が儲かる式にいうと、
個人はオープンでいないと、人間力が養えない。
人間力が養えないと、仕事のチャンスが減り、個人的成長ができない。
組織の風土がオープンでなければ、個人もオープンになれず、
組織は活性化せずにイノベーションも起きないから、組織的成長ができない。
...であるのに、組織も個人もなかなか「オープン」に近づけません。

私自身は何歳になっても成長したいという思いから、
「オープン」でありたいと願っている人間ですが、まだ序の口。
とはいえ、そのおかげで成長できた面は多々あります。
ですが、それは手厳しいフィードバックと向き合うことでもあるので、
素直に受け入れるけれど、必要以上に傷つかないなど、
「オープン」でいるためのマインドセットはまた別に必要ですね。

早いもので1月も残すところ2週間。
どうぞ良い1週間をお過ごしください!

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 こんにちは。先週、私の周りで起こったいくつかの出来事には共通点があって、それが何かといえば、「性(さが)を知って、さがを生かす」ということでした。


 遠方から訪ねてこられたある方のケース。入り口は、社内報のご相談でしたが、整理をしていくとその方ご自身の生き方や価値観と今の仕事をどうつなげるかという問いが根っこにありました。本当に心が動くことは何なのか、理屈でなくやりたくなってしまうことは何なのかを知った上で、方向性を考えたらいいのでは?と、まるで新宿の母のようなアドバイス(笑)


 またコーチ業のある友人は、自分の立ち位置を変えることにした、と。経歴やスキルを社会に役立てることは目的ではなく手段で、本当の目的は自分が心から願っていること、その価値観を広めることだとわかった、と言いました。


 よく若い時には「やりたいことをしたい」「やりたいことを見つけたい」という思いがあって、それが見つからないと焦るという話を聞きます。やりたいことがあるフリをしてしまうということさえ聞いたことがあります。


 「やりたいこと」という響きには、具体的な「絵」と「向き」で示された「意思」と、その先にある「コト」が感じられます。それは、当然、「未来」の話になりますよね。だから、勝手な想像をして、こういうことをやってみたいという好奇心をベースに、どんどん妄想して「やりたいこと」を描く人もいます。


 ですが、そういうことよりも先に、「今」の自分が、めっちゃワクワクするシーン、頼まれてもいないのにやってしまうこと、幸せや充足を感じる瞬間、そいういうものがあるはずです。これをやっていると、あるいはこんな状況になると「燃える!」「前のめりになってしまう」という経験は、誰にでも絶対にあります。それは、想像よりもまちがいなくリアルです。


 私は、「やりたいこと」というのは実はすごくシンプルで、そうやって単純に心が踊ることではないのかなと思います。しかも、「こと」と言っても決して仕事的な定義ではなく、性(さが)のようなものだと思います。だから、さがを自覚しないと、生かしようがありません。


 では、私自身はどんなことに心が動かされるのでしょう。それは、誰かと心でわかりあえる瞬間にいること。家族のように安心してお互いが心を開いている瞬間にいること。さらに欲張るなら、その関係で何かを達成しようとする状況にあること。そして、それは案外簡単ではないので、プレシャスに思え、だからこそ心がうずくし、少しでもわかりあうために、伝え合うことに一生懸命でいよう!ということを広めたいのだと思います。


2015年もあと10日。慌ただしい年の瀬をお元気でお過ごしください!

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1週間ほど前、「森のリトリート(Biz編)」という2泊3日のプログラムに参加してきました。プログラムの概要を一言で言うと、ナビゲーターを含め、グループで原生林に入り、森の中では各自が一人になって過ごし、夜は焚き火を囲んで、その日の自分の体験を語り合う、簡単にいうとそれを3日連続で行うというものです。森の中で自分と対話し、森とも対話し、戻っては人と対話する、この3つの対話がこのプログラムの要になっています。
私が参加しようと思ったのは、一人で森で過ごすということに好奇心を掻き立てられ、滅多にできない体験であることに魅力を感じたからです。それ以上のものは何もなかったのですが、想像していた以上に良い体験となりました。


さて、「森」と聞くと、どんな場所を連想しますか? 白神山地とか屋久島のイメージでしょうか? 巨木が生えていて、木々が鬱蒼と生い茂っている、そんなイメージがありますね。実際に入ってみると、そういう場所ももちろんあるのですが、もっといろんな表情を感じさせます。到底倒れそうにない巨木が倒れて、朽ちていたり。そう、巨木もそうでない木も、案外たくさん倒れていました。台風の影響などもあるのでしょう。ですが、なぜあの木ではなく、この木が倒れたのか。それは神のみぞ知る世界です。「寄らば大樹」という言葉がありますが、「大樹」だから安心とは言えないな...なんて思ったり。
ナビゲーターの山田博さんは「本当にまるで誰かが意図したかのように、うまいこと倒れる」と言い、偏りがないように倒れ、倒れると、また新しい木が育っていく、森全体の循環システムが素晴らしいと話してくれました。


《ゆっくり、静かに、感じる


森での時間は、自分で決めた「自分の場所」で過ごします。土地の傾斜、光の入り加減、木の密集度、木の種類などからしても、森にはいろいろな場所があるので、座ってみては落ち着けるかどうかを判断しながら、場所選びをしました。私が最終的に選んだのは、木はそれほど密集しておらず、開けた印象の場所でした。幹の直径が1メートルほどある木の根元に座り、時には寝っ転がったり、周囲を散策したりしながら、過ごしました。


「このリトリートをより有意義なものにするためのコツは、『ゆっくり、静かに、感じる』です」。
 そう初日に言われましたが、この3つは、都会に住む私たちの暮らしとは正反対の事柄です。森に入ると、自然に五感が活性化されますが、『ゆっくり、静かに、感じる』を意識することで、より一層五感が開きやすくなるのでしょう。しかも、たとえば、ゆっくり歩く時、ただゆっくり歩くのではなく、大地をしっかり踏みしめて、ゆっくり歩きます。そうすると、なぜか身体感覚が活性化する。自分が地球の構成員のひとつだとも感じるから不思議です。


視覚の使い方でも、ワイドアングル・ビジョンを使え、というアドバイスがありました。
「都会で使っている目の使い方は対象を凝視するやり方。ここではソフトフォーカスにして見える範囲を最大化して見るようにする、そうすると感覚が広がって、いろいろなものが見え、感じられるようになる」と。
で、実際に、たとえば両手を正面から徐々に左右に広げていくと、限りなく180度近く見えるんですね。驚きました。


五感が開くとどうなるか?


森の中で『ゆっくり、静かに、感じる』を実践すれば、五感が開く。で、どうなるのか? のんびりリラックスして過ごすので、癒されたり、ストレス解消になるのは、言うまでもありませんが、それ以上の価値がありました。

つまり、どんなことが起きたかというと、、、
まず、五感が開く。すると、自ずと考えるのではなく、感じられるようになり、本能的な直感が働き出します。心にスペースが生まれている状態になり、感覚が研ぎ澄まされているので、いろいろなものが向こうからやってくるように感じます。いろんなものというのは、たとえば想念のようなものだったり、自然が贈ってくれるメッセージであったり、インスピレーションだったり...。


想念というのは、自分が着想して、自分の思考と感情から始まる想像です。自問なども含まれるのかもしれません。普段の私たちもやっていますが、森の中にいるといつも以上に想像力が働く気がします。
自然からのメッセージは、目の前で見たこと/起きたこと(たとえばトンビが頭上で旋回したとか、キツツキが木を叩く音を聞いたなど)が、まるで何かの意図を持って起きたかのように感じ取ること。実際には自分が意味づけしているのですが、そう意味づけした自分を外から眺めてみると、自分の願望を客観視できたりします。
インスピレーションは、なんの脈略も前触れもなく、天から降りてきたようなイメージや概念。。。と、まあ、そんなことが次から次へと心に宿っては去り、宿っては去って行きました。


焚き火をしながら、人の話を聞いてみると、体験自体はそれぞれに違うものの、みんな同じような感覚を得ていることがわかりました。


私の体験を少しだけ、お話しますね。2日目に、とても大きな問いが心に生じて、これに答えを見出せないと、ビジネスを進めることができないと感じました。その問いは、ちょっと哲学的でさえあって、簡単に答えが出せそうには思えませんでした。ところが、インスピレーションを得られ、新しいチャレンジができそうなコンセプトと出会うことができました。最終日、私は森にある約束をしました。その内容は秘密です(笑)


さて、タイトルの「心の中に森を持つ」は、山田博さんが言った言葉です。そういう人を増やすことが、彼の願いだそうです。とかくロジック中心のビジネス現場になりがちですが、『ゆっくり、静かに、感じる』姿勢を持つこと、5分でもいいから、そのような時間を持つことは大切ですよね。落ち葉でいっぱいの森の写真とともに、シェアします。

今日は、コミュニケーションの本質、
「信じること」について、
認知症治療の最前線の話題から、驚くべき事実を紹介します。


私の両親は80代です。
おかげさまで何とか自立しています。
が、もちろん認知症の入り口にいるなど、
押し寄せてくる課題はいろいろです。
そうこうする中で、
ここに書く情報をキャッチしました。


認知症患者は2025年に700万人を突破。
65歳以上の5人に1人です。
アメリカの研究者の中には、認知症は治るし、
ガン以上に多くの人が影響を受けるのだから、
もっと研究に経済的支援をしてほしい
と主張する人たちもいます。
私はそれに賛成です。


けれど、
今日はそうした政策の話をしたいわけではなく、
コミュニケーションの本質に目を向けたいと思います。
なぜなら、コミュニケーション能力が衰えていく最中でも、
人間にはすごい力があることを、認知症患者は教えてくれます。
そこには
「伝えること」「理解すること」「信じること」
の本質があります。


特に、様々な認知症ケアの検証結果には、
たくさんのヒントがあるので、
今日は「ユマニチュード」と「バリデーション」
という2つのケアの手法から、
「信頼」の本質を考えてみます。



まずは、フランスから始まった認知症ケアの手法
「ユマニチュード」。
うつ病や暴言に即効性があるとして、注目を集めています。
「見つめる」「話しかける」「触れる」「立つ」の、
4つのコミュニケーションを柱にしています。


このケアで、一番大切にされているのが「見つめる」こと。
認知症になると人よりも視野が狭くなるため、
まずは本人の視界に入って、
こちらの存在を認識してもらうことが大切だそうです。


だから、、、
同じ目線の高さで、20cmほどの近距離で、
親しみをこめた視線を送る、
たかだかそんなことなのに、言葉で説明するよりも早く、
確実に「私はあなたの味方です」ということを伝えられ、
相手は暴言しなくなるそうです。


これ、スゴくないですか?
目線で、こいつは信頼できるヤツかどうかを、
人間はわかるってことです。
確かに、、、「目は口ほどに物を言う」は本当かもしれません。
認知症になっていてさえ、嗅ぎ分ける。
いや、スゴいですよね。


ところで、「味方」って何でしょう?
この文脈で想像すると、まずは
「自分に危害を加えない人」
「自分が安心していて良い人」
ってことでしょうね。
一般人も、そういうことを無意識に
推し測っているような気もしますね(笑



認知症患者へのケアから学ぶことは他にもあります。
アメリカ発の認知症ケア技術「バリデーション」。


「バリデーション」では、認知症の人が大声を出したり、
徘徊をしたりすることにもすべて
「意味がある行動」として捉えるそうです。
そして、なぜそのような行動をとるのかに立ち返ります。
そのときにケアする側が大切にすべきことが、
「嘘をつかない」「ごまかさない」こと。


「バリデーション」では、認知症の人が大声を出したり、
徘徊をしたりすることにもすべて
「意味がある行動」として捉えるそうです。
そして、なぜそのような行動をとるのかに立ち返ります。
そのときにケアする側が大切にすべきことが、
「嘘をつかない」「ごまかさない」こと。


認知症の患者が「部屋に誰かいる」と言ったなら、
「そんなわけない」と否定したり、
「本当だね、誰だろうね」
とその場を取り繕ってはいけなくて、、、、
「どこにいる?」「どんな人?」と聴き、
彼らが見ている世界を教えてもらい、
彼らの感情や思いに近づこうとすることが大切だそうです。


で、私がびっくりするのは、
認知症だからといって、嘘をついたり、ごまかすと、
それが認知症患者にわかってしまうということです。


やっぱり嘘を言っているって、
コミュニケーション能力が低下している認知症患者でさえ
結局はわかっちゃうんですね。。。


こいつが自分の味方かどうかも、
こいつが嘘を言っているかどうかも、
人は信頼できる人なのか、信頼できない人なのかも、
コミュニケーション能力が衰えている認知症患者でさえ
本能的にわかるわけです。


つまり、障害がない状態なら、
なおさらわかっちゃうわけですよね。
そのぐらい、人間の基本本能にその能力があるのですね。
人間ってすごいな〜



きっとそれは、私たちが暮らしている生活も同じこと。
自分が相手を心から思いやっている味方であること、
あくまで本音で接し、ごまかしていないこと、
それが、他の人が信じてくれる本質なのだなと思いました。


信じてもらえる人でありたいですね。
今週もいい1週間をお過ごしください!

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ここ最近、「言いにくい話」を「する? しない?」ということが、
私の周りでよく話題に上っています。
社内ミーティングでも「オープンマインドでありたいね」とか、
「とは言っても、遠慮してしまう」などの話が出たり。
そんな折、かつて当社のスタッフだったX君と飲みに行ったのですが、
偶然にもまたそんな話題になりました。
X君は、某ベンチャー企業で経営を任され、
苦労はあっても、仕事が楽しくてたまらない様子。
けれど、リーダーとして次のステージに行くには、
言いにくいことも言えるようになりたいと感じているのだそう。


リーダーであろうが、なかろうが、
人に対して言った方がいいのかな...と思いながらも、
言いにくさを感じることは、誰にとってもありますよね。
で、言いにくくなる理由が何かといえば、
・それを言ったことによって、相手を傷つけてしまうのではないか
・その結果、相手から嫌われてしまうのではないか
...の2点ではないでしょうか。
そして、そんな危険を冒してまで、相手にそれを言う理由はあるだろうかと問い、
言わないことが安全だと信じて、言わない道を選びます。


私は、人が人から「嫌われたくない」と考えるのは、
動物の本能として当然だと思います。
嫌われることは、敵を作ることを意味し、
敵を作ることは、攻撃されることを意味し、
攻撃されることは、それだけ生存しにくくなることを意味する、
と考えれば、動物の防衛本能そのものだとも言えます。

しかし、仮に嫌われもしないし、攻撃もされない、
むしろ信頼されるとわかっていたら、私たちはどう振る舞うでしょうか?


こうすると「好かれる」、こうすると「嫌われる」の法則は、
実はかなりの部分が思い込みから来ているように思います。

たとえば、、、、
「営業は、ニコニコ元気な態度である方が好感を持たれる」は、本当でしょうか。
もちろん、仏頂ズラが良いとは言えないかもしれませんが、
ニコニコ元気な態度を取られると、
何かを売りつけられると思って、むしろ警戒しませんか?
なのに、営業はこうあるべきだと教えられるし、
一度そう思い込んでしまうと、そのままそうしがちです。


「こうすると嫌われる」も同じようなことが言えます。
ある人が自分に何らかの助言をしてくれたとして、
本当に自分のことを思ってくれていることさえ理解でき、
押し付けられているのではないことがわかれば、
むしろ信頼したくなりませんか?
その助言の通り、行動しなかったとしても、信頼感は増すと思います。
反対に、いくら円満な雰囲気で会話できていたとしても、
上っ面の会話しかしない相手は、信頼しないのではないでしょうか。


反対側から見ると、そう思えるのに、
それができないのにも、やっぱり理由があります。
言いにくい時ほど、相手のことを考えていないからです。
嫌われたらイヤだなというのも、結局考えているのは自分のことですし、
こっちの言い分を押し付ける心理、
相手を否定している心理にあるから、言いにくくなります。
要するにどこか「後ろめたい」ってことですよね。


私自身はこのような考えでいるので、どちらかと言えば、
言いにくいと思わずに言う方なのですが、
それでも言いにくいと感じてしまうことがあります。
そういう時は、大抵、相手を否定している心理があったり、
相手を思うよりも、自分の考えをわかってほしいという気持ちの方が強かったり、
どこかしらバランスを欠いています。


「言いにくさ」を感じた時、
その裏には、人としての成長のヒントがたくさん隠れている。
そう思うと「言いにくさ」ともうまく付き合えそう!

10月も残すところ2週間。どうぞ良い1週間をお過ごしください。

アメリカンヒーロー映画、お好きですか?
私は、マニアではありませんが、あのお約束的な痛快さが好きで、
シルバーウィークには、まだ観ていなかった
「アイアンマン」「スパイダーマン」を堪能しました。

あの手の映画には、意外に名台詞があるんですよね。
たとえば、「一人の人間でも世の中を変えることができる」とか。
単純な私は、そっか〜!と思ってしまいます。


で、トビー・マグワイアが主人公ピーターに扮する「スパイダーマン3」。
本筋ではないのですが、あるシーンが妙に気になりました。
「ダメだよ、スパイダーマン!」と。
主人公ピーター・パーカーと、ヒロインのMJことメリージェーンが会話する
心のすれ違いのシーンです。

舞台女優になるという夢を叶えたMJは、
ある芝居で主役の座を獲得しますが、その演技を酷評されてしまいます。

辛い気持ちを聞いてほしくて、ピーターの部屋を訪れたMJですが、
ピーターからこんなことを言われます。
「ボクが言いたいのは、落ち込むなってこと。
自分を信じて、前向きになるんだよ!
君は少し、打たれ強くならないと・・・」
そう言われたMJは、
「気休めを言わないで! 私の気持ちもわかって!」と
言い返します。
ピーターの言葉は、MJを励まそうとして出てきたものです。
(ちょっと調子に乗ってしまっている面もありますけど)
でも、私はMJに共感しました。
そして、MJが言われたかったのは、そんなことじゃない、と思いました。
ただ、自分の気持ちを汲み取って、それを代弁してほしかったのではないか、と。
「好き勝手なことを言われては、辛いよね」とか、
「酷いことを言うな。気が休まらないね」とか。


さて、この映画を観た翌々日、
現実の世界で同じことが起きました。
私は友人と二人で、病気療養中の友だちのお見舞いに行ったのですが、
一緒にお見舞いに行った友だちが励ましの言葉を贈りました。
それは、今、必要だろうか。
私は、違和感を覚えましたが、
励ましたいと思ったその人の気持ちを咎めるのも違うなと思います。
その気持ちは私も一緒だったので。


世の中には、「励ましの言葉」を求める風潮もあります。
「励ましの言葉」を発信するTwitterもあれば、
相田みつをの言葉が必要とされていたり。

でも、「励ましの言葉」ほどタイミングが重要です。
心が下向きの時に言われると、わかってもらえないと感じます。
心が上向きになってきた時に聞いて、はじめて励ましが勇気づけになるんですよね。
心が下向きの時は、ただただ「わかってくれている」ことを感じたい、
それが真理なのではないでしょうか。


でも、、、
実は、私もよくやっちゃうのです。
まちがったタイミングでの、励まし、アドバイス、同調という名目での経験談語り。

相手が辛い状況にあると聞いた時、人が取る代表的な行動って、
次の4つではないでしょうか。
・「がんばれ」「大丈夫」と励ます
・「〜したら?」とアドバイスする
・「わかるよ」と言いながら、自分の経験を話してしまう
・どう反応していいかわからず、沈黙している

根拠ない私の推測では、8割ぐらいの人は
こんなふうに行動してしまうような気がします。
でも、実際に相手が望んでいるのは「辛いね」の一言だったりするのですよね。


アドバイスする人より、「辛いね」の一言を言える人になりたいもの。
スパイダーマンが「僕はまだダメだ」とメイ叔母さんに言った時、
彼女はこう言います。
「一番難しいことをしなさい。自分自身を許すの」。
できていないことに気づきながら、進歩していきたいものですね。


今週は、10月に突入しますね。
よい1週間をお送りください!

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ブログを書いている人

小野真由美

グラスルーツの代表。組織をただの集団ではなく、チームにするための組織内コミュニケーションはどうあるべきだろう?…なんていうことを、いつもツラツラ考えています。ブランディングやコミュニケーション、チームやリーダシップ系の話題が7〜8割、その他の話題が2〜3割。そんなブログを目指します。ぜひおつきあいください。

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