ブランディング、コミュニケーション、チームワーク…。週1回の社長ブログです

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社長の脳みそ整理mono-log モノログ

個人的な話で恐縮ですが、私は去年から今年にかけて、
自分のマンションの管理組合の理事として、
2カ月に1度ぐらいの頻度で開催される理事会に出席しています。
マンションに住んだことのない方には、
そのしくみがイメージできないかもしれませんので、
簡単に紹介しますね。
基本、マンション(集合住宅)は住民の自治で成り立っています。
実際には、管理会社がかなりの面でサポートしてくれているので、
住民がゼロから考えるシーンは多くありませんが、
それでも「自治」という原則に基づいて、管理会社が出してくれた情報を判断し、
決断するのは住民...という構図です。


最高決定機関は、全住民が出席する「総会」で、
「理事会」は住民代表の執行機関のようなもの。
その人数はマンションの規模によって異なりますが、
私の住む今のマンションは73世帯あり、
6人が役員(理事5名、監事1名)として選出されるしくみになっています。
そして、理事5名の中から、理事長1名、副理事長1名、理事3名を選びます。
役員は立候補が優先されますが、
一般に多くのマンションでは輪番制で
みんなで交代交代で役割を担うというパターンが多いのではないでしょうか。


この週末、新旧交代の場、つまり現在の役員と
次の役員が集う場が設けられました。
本来は次の役員の役割を決める場、という意味もありました。


新しく輪番制で回ってきた6名のメンバーのうち、
参加は4名、欠席は2名です。
参加4名のうち、女性3名はマンション自治の原則について理解しており、
男性1名はこのようなことが初めてのようでした。


さて、このような状況で、役員を決めるということについて、
人がどう動くのか、私は興味深く観察しました。
その過程で感じることは多々あったのですが、中でも一番、
「ああ、人それぞれ違うものだなー」と思ったエピソードを
1つ紹介します。


それは、欠席している人を巡っての反応です。
いない場で、役割を決めてしまっていいかどうか。
仮にもし全員がここにいたら、なんらかの方法、すなわち
・話し合い
・じゃんけん/あみだくじ等
のいずれかによって、役割を決めただろうと思います。


しかし、欠席している人がいるという事態に直面し、
見方は別れました。
「いない場で決めるのはどうか」
「欠席裁判のようになるのは感じが悪いであろう」
これらの意見は、役割を決めるなら全員同席した上で決めるべきだ、
という考え方です。


ですが、、、私がどう感じたかというと、
出席していない人がいるからといって、決めないのではなく、
「理事会に一任」という委任状が形骸化されないためにも、
出席していない人の分も含めてアミダくじで決めるのもアリだと思いました。


...というのは、、、、
実は昨年、私自身が理事になる年、同様の会があったとき、
私も都合が悪くて欠席しました。
その際に、「理事会の選任の重要な時期に欠席してすみません、
結論はお任せします」というようなことを委任状に記して、
欠席表明した記憶があります。
これを書いた時、一応それなりに覚悟をしています。
どんな役割が回ってきても、受け入れよう、と。
で、そう書いたのに、欠席者がいたからもう一度会を設けると言われたら、
「二度手間にならないために、委任状を出したのに...
私が欠席したからまた場が設けられたのかな、申し訳ないな...」
と私は思うからです。


そもそも輪番制のメンバーは、全員がなにがしかの役割になります。
「私が理事長をやりますよ」という人が現れない限り、理事長は決まりません。
反対に理事長をやりたい人は、おそらくこの日に欠席しないでしょう。
だから、私の意見では、適任かどうかは別として、アミダくじで決めて、
万が一、適任に見えない、頼りなさそうな人が理事長になってしまったとしても、
それを周りが支える...それが現実的にあるべき姿なのではないか、
私はそんなふうに考えていました。


ですが、今回は「いない場で決めるのはどうか」が判断基準となり、
結論は持ち越されました。
私の考え方とは違うなーと感じましたが、
そのほかの無言の意見や、声ある意見にも、
謙虚に耳を傾けることの大切さを痛感しました。
そして、自分とは違ういろいろな考え方があること、
認識すべきですね。

先日、宣伝会議様主催の「企業のための定期勉強会 広報コース」で
「インナー広報」をテーマに約3時間、レクチャーとワークを提供してきました。
「他部門からの協力が得にくい」という共通の悩みがあることを、
事前に伺っていたので、
冒頭で、自分の部門や自分自身の意義を自分が理解せず、
プレゼンスが低いと、協力も得にくい...
と、ちょっと耳障りの悪い話をし、
でも、プレゼンス、つまり存在感は簡単に上げられます、という話をしました。


プレゼンスに一番関係があるのは、「情報発信」の「量と頻度」です。
原因のすべてが情報発信にあると断定するつもりはありませんが、
関係すると言われて、違和感を感じる方は少ないのではないでしょうか。


情報発信は、別の視点から見ると「接触」です。
人は、触れる回数が多いほど好感を抱きやすくなる傾向があると言われ、
その作用は「ザイオンス効果」(あるいは「単純接触効果」)と呼ばれています。
営業やマーケティングではもちろん、恋愛などでも当てはまるようです笑
メルマガなどは送ったからといって「接触」にはならず、
読んでいただいて初めて「接触」が成立します。


また、情報発信には「自己開示」という側面もあります。
一般に「開示度」が高い人は信頼されやすいく、
低い人は何を考えているかわからない人と受け止められる、
これも社会でよく言われることですよね。


「自己開示」と聞くと、
とかくオープンマインドであるべきという話に聞こえるかと思いますが、
そこまで大袈裟な話でなくても、簡単にできることは多々あります。
要は、まず単純に相手から「コンタクトしやすくしておく」ことです。


メールの文章に署名(社名、部署名、住所、電話)があるだけで、
相手は電話をかけたり、郵便を送るのが簡単です。
「コンタクトはお気軽に!」とあるだけで、ハードルが下がります。
企業に所属している場合は社内ルールもあるかと思いますが、
個人でビジネスをしている方を見ていると、署名欄をつかって信条を書いたり、
短い自己紹介を書いたり、工夫をしている例を多数見かけます。
「好きなことば:○○○○○、好きな映画:○○○○○」とか、
「最近おもしろかった1冊:○○○○○」とあるだけで、
話しかけたくなりますよね。

SNSが発達し、個人が誰でも簡単に発信できるようになった今の時代だからこそ、
仕事でもプライベートでも、誰がどんなことに興味を持っているか、
どんなふうに人とつながろうとしているか/していないかが、
お互いに簡単に察せられるようになりました。


当社も、このメルマガやブログ、facebookやセミナーなどを通じて、
情報を発信しています。
こうした活動は2007年頃から少しづつ積み上げてきたものですが、
それを行う以前と今とでは、情報の流れやコンタクトの流れが変わりました。
不思議なことに、情報を発信していると、情報が入ってきます。


いっしょにメルマガを書いている阿部貢己(あべつぐみ)は、
6年間書き続けてきた結果、今や私に次いで対外的に有名で、
新しくお会いする方から、「あなたが阿部さんですか。初対面の気がしません」
と言われることもしばしば。
あなどれませんね、情報発信。

あ、そうそう、先日、私は自分個人のfacebookに
「ゴルフ始めました」と新品のクラブの写真をアップしました。
実際には、初めてではなく、挫折を続けての3度目です。
まだクラブを買っただけで、練習も何も始めていないのですが、
目にした方たちから、「いっしょにやろう」というお誘いを多数いただきました。
練習が苦手なので、それだけでモチベーションが上がりました。
facebookは時々派の私ですが、「始めます宣言」という情報発信で、
自分のやる気がこんなに上がるとは!

信頼関係や存在感、人との繋がりやモチベーション等、いろいろな観点で、
改めて情報を発することの意義を感じる6月第1週。


今週も素敵な1週間をお過ごしください。

先週金曜日、宣伝会議様からご依頼いただいた
「企業のための定期勉強会 広報コース」全10回のうちの第3回「インナー広報」で
講師登壇させていただきました。
https://www.sendenkaigi.com/class/detail/publicrelations_workshop.php


外部からのご依頼で多いのは「◯◯セミナー」や「◯◯講座」です。
でも、今回は「勉強会」です。
講師として、どう臨むかを考えるにあたり、
まず「セミナー」「講座」と「勉強会」はどう異なるのか、異なるべきなのか、
そこから考えました。


「セミナー」「講座」「勉強会」の本来の意味は別として、
それらの言葉が、今現在、世の中でどう受け止められているかというと、
「セミナー」「講座」はどちらかというと講師が教えるスタイルで、
「勉強会」になると、講師はいるとしても、一方的に教えるというよりも、
参加者同士の意見交換が入るイメージ。そんなところではないでしょうか。
(私はセミナーや講座であっても、ワークショップを取り入れていますが)
宣伝会議様も、そのようなイメージでおられ、机は班で組みたいとお考えでした。


一般的イメージとしては、そんな感じだと思いますが、
そもそもに立ち返って、人が「勉強」するというのは何を意味するのでしょう?


私は、勉強の「勉」の文字は「努める」。
つまり、勉強というのは、強く努めること、と受け止めました。
では、何に向かって、努力するのか?
私の答えは、「自分が求めるありたい自分に向かって」です。
だから、根源的に自分の欲求があってこそ、勉強はいい形で成立します。


でも、「ありたい自分」を描けていないまま、
「あらねばならない自分」のために勉強しようとしたら、
それは、もうやらされ感に支配されているのであって、いい勉強にはなりませんね。


今回の勉強会の冒頭でこんな話をしました。


こういった学びの場では、
・たくさん勉強する人
・少し勉強する人
・資料は持ち帰るけれど、ほとんど勉強しない人
がいる。どう違うのか。


「ありたい自分」が描けていると、やらされ感がない。
自然に好奇心が湧いてきて、この場に居て知識を吸収することができる。
でも、「あらねばならない」というマインドセットの場合、
いい結果になりにくい。
だから、自分の欲求に自覚的であることは良い勉強する上で不可欠。
けれど、、、、
好奇心を持って聞くことは重要だけれど、それだけでは不十分で、
何が必要かというと、「考えること」。
情報をインプットしても、考えないことには、人は翌日には忘れてしまう。
情報や知識を聞いたままにしていると、それは、ただ「点」としてあるにすぎない。
その情報を自分の体験と結びつけて、気づきが生まれると、
入ってきた情報が「点」ではなく「面」になる。
そうやって「考える」ことが「たくさん勉強する」ために不可欠です、と。


そして、このセッションにどう臨むかも自由。
たくさん勉強したいと思うのもヨシ、
少し学べればいいと思うのもヨシ、
すべては自分の選択。
でも、「少し学ぶ」を選びたいなら、それでもいいので、
けれど、そこに自覚的であってほしい。


...冒頭で話したのは、そんな話です。


こんな話をしながら、私が思ったことは、
結局人生は「選択」であり、選択していることにどれだけ自覚的であるかが、
人生の質を左右するな、ということでした。


「選択」の本質は「自己責任」です。
自分の行動の結果を人のせいにするのはNGだと思います。
人生、うまく行くこともあれば、行かないこともありますが、
自分が選択したと思えたら、文句も出ません。
文句が出るのは、誰かのせいにしたいからですよね。


すべては選択、人生は選択。
そんな考えに改めて思い至った感じです。
「選択」ということについて、あなたは何を考えていますか?


どうぞ素敵な1週間を!

私事ですが、なぜか今月は「還暦イベント月間」です。
11日は還暦を祝う高校の同期会、
17日から小学校時代の友人たちとの九州旅行、
本日21日から新卒で入った会社の同期の仲間たちと伊勢参り...。


さて、そんなこともあって、いつもより1日遅れで、
火曜日配信となったこのメルマガですが、
テーマは話すスピードについてです。


あなたは、話すのが速い方ですか、遅い方ですか?


これを取り上げるきっかけは、、、
高校の還暦を祝う同期会で、MC(司会役)を頼まれたことでした。


頼まれた時点で、私が企画運営メンバーに言ったことは、
私は話すスピードが遅いし、スラスラ話すのは苦手だし、
瞬発力が必要な掛け合いのようなことを求められてもできません、
それでもよければ、精一杯やります、、、ということでした。
謙遜ではなく、私の特徴を知っている人は、
その意味がきっとわかると思います。


で、170名の前で話してみてうれしかったことは、
私のMCも結構受け入れてもらえたな、ということです。
ま、お世辞であったとしても、それを真に受けるのが私の良いところです。
結果、いろいろな人から良かったと言われました。具体的には、
「淀みなくスラスラと話さないとことろが良かった」
「アナウンサーみたいじゃなくて良かった」
「自分の気持ちを素直に話したところが良かった」と。


私の場合は、誰から教えられたわけではなく、
性質として「ゆっくり」話すことしかできません(泣笑。
セリフを暗記して演じることも大の苦手です!
でも、話し方専門家の西任暁子さんが「流暢に話してはいけない」と言うように、
「ゆっくり」話すことには、何かしらいい面があるようです。


「速く」話すことができない私が経営者になって、
プレゼンテーション役や講師役、指導役を務める立場になり、
「速く」話す人と「ゆっくり」話す人の傾向についてずっと観察してきました。


「速く」話す人は、おもしろい言葉を瞬間的に発することが得意で、
持っている情報も多く、情報をテンポ良く伝えるのが魅力です。
一方で「ゆっくり」話す人は、周りをお待たせ気味になりますが、
考えを整理しながら話す傾向があり、その考え自体がおもしろい場合が多いです。


「速く」話す人は、考えたことよりも、情報や出来事を話そうとし、
考えたことを話す場合は、考えを整理する前に言葉を発しようとする傾向がある。
「ゆっくり」話す人は、情報よりも、考えたことを話そうとし、
考えや意味を突き詰めていこうとする傾向がある。
...というような気がするのですが、どう思いますか?


そんな二人が対話すると、
「ゆっくり」話す人は、「速く」話す人の話を聞いて、
「それで、いったいどう思ったの?」と感じ、
「速く」話す人は、「ゆっくり」話す人の話を聞いて、
「それで、おもしろかったのはどこ?」と感じたりするのかもしれません。


私の場合、ゆっくり話してしまうその理由は、
多分、意味が曖昧な状態に身を置くことが生理的に嫌いだからです。
意味を掴み、疑問のないクリアな状態でいたいという願望があり、
整理しようとして話すので、時間がかかるのだと思います。


「速く」話す人が、なぜ速く話すのか、私にはわかりませんが、
強みで「速く」話す人と、強みではないのに「速く」話す人がいて、
だいぶ印象が違います。
強みではないのに、「速く」話そうとしている人を見ていると、
会話が途切れることへの恐れを抱いているのかな?とか、
自信がないのかな、と感じることがあります。
そうだとしたら、その恐れの根っこには何があるのでしょうか?


話が少し逸れますが、当社の社内で私が説明を受ける際に、
説明の言葉数は多いのだけど、聞けば聞くほど、
考えが整理できていないと感じることがあります。
言葉数が多くなるのは、上司にはちゃんと説明できないといけない...
という使命感や責任感からだと思いますが、
でも、言葉数が多いというのは、考えを整理できていない証拠でもあるので、
説明の場では、むしろ逆効果だと思います。
そして、なぜか、そういうシーンでは早口で説明されることが多いです(笑


あ、これ、外部の営業の方と初対面でお会いするときにも
感じることがあります。
営業の方が早口で話すのは、元気よく見られたいからだと思いますが、
むしろ自信がなさそうに感じるのは私だけでしょうか。


あなたが、もし強みとしてではなく、
何かの思い込みから「速く話そう」としがちなら、
「ゆっくり話す」ことを試すのも悪くないかもしれません。
もしご興味があったら、「ゆっくり話す」「効用」で検索してみてください。
私自身の課題は、緩急の急を使えるようになることかな。がんばります!


どうぞ素敵な1週間を!

あなたは、もし上司から「何でもやっていいよ、
今までやっていないようなことにチャレンジしてほしい」と言われたら困りますか?
先週、ある企業のトップから、社内に対しては「何でもやって良い」という
メッセージを出していると伺いました。
でも、「何でもやって良い」と言われると戸惑う人もいる...
そんなことに話が及んだので、今日はそこを糸口に考えていきたいと思います。
確かに、戸惑わない人より、戸惑う人の方が多いような気がしますよね。


その方も上場企業の社長でしたが、
おそらく社長やリーダーになっていく人たちは、
「何でもやってよい」と言われて困ることはないと思います。
私も、規模は小さくても一企業の社長をしているわけですが、
若い時から、言われなくても何でもやってきたように思います。
「何でもやってよい」と言われると困る人と困らない人の違いは何なのでしょうか?


あ、誤解があるといけませんね。
ここでは、困らない人の方がエライと言いたいわけではなく、
いろいろな価値観や行動パターンがあることに目を向けたうえで、
私自身にとってもヒントになることを探したくて書いています。


「何でもやってよい」と言われて困るということの本質は何でしょうか?
きっと「そう言われても、何をしていいかわからない」ということですよね。
この状態は、何かをしたいという欲求がない状態とも言えますし、
見方によっては、あまり考えずにいる状態とも言えます。
というのは、欲求というのは好奇心を抱いて初めて湧いてくるものですが、
物事をぼーっと眺めていただけでは好奇心は湧いてこないからです。


こんな状態でチコちゃんに出会ったら、
「ボォーと生きてんじゃねーよ」と叱られてしまうかもしれません(笑)


でも、、、
果たして、好奇心も欲求もないという人は存在するでしょうか?
私は人間である以上、誰もが持っているものだと思います。
ところが、自分の好奇心や欲求に意識を向けて暮らしている人は
意外に少ないのかもしれません。
というのは、考えないことには好奇心が生まれない、
好奇心が生まれないと欲求も生まれないという図式から見ると、
考えるからこそ気持ちが動き出すわけです。
ところが、戦後の学校教育では考えることを疎かにしてきたからか、
多くの人は自分の好奇心や欲求に気づけない、それが私の仮説です。


幸いなことに、私自身は小学校の3〜4年生の時に、
考える楽しさを教えてくれる素晴らしい先生と出会いました。
教え方も含めて、とても大きな影響を受けたと思います。


でも、考えることに慣れていない原因が学校教育にある、
と他責で考えてしまうのは簡単過ぎますよね。
特に、今の時代はAI社会です。
想像や創造など、人間だから持っている本来の能力を眠らせておいたなら、
ロクなことになりません。


では、自分の考えを深めるためのコツはあるのでしょうか?


私は、考えることに慣れていない人は、
考える際の入り口で性急に答えを求めすぎなのではないかと思うことがあります。
たとえば「何でもやってよい。何をするか考えて」と言われたとします。
このときに、考えることに慣れている人は、
「何をすべきか」といきなり考え出しません。
でも慣れていないと、そこから考えようとしてしまうのではないでしょうか。
入り口で、結論的な答えを見つけようとしてしまうと、
考えることなどできないということを知らないために、
うまく考えることができないのではないか、
これが私の仮説です。


では、考える行為の入り口にあるべきものは何でしょうか?
それは、心に湧いてきた「疑問」を
言葉にして自覚できるようにすることです。
「何をすべきか」というのも、一応「問い」の形式にはなっていますが、
この問いは「答えは何か?」と言っているのと同じなので、
考えを深めるように作用する問いではありません。
だから、最初にすべきことは素朴な疑問を言葉にすることだと思います。


しかし、こんな反論もあるかもしれません。
考えることに慣れていない人間にとっては、
その疑問さえ浮かんでこないのだ、と。


確かに、疑問さえ浮かばないという時点で、
考えるのをやめたくなってしまうことはありそうです。
というのは、学校で習うことの大半には正解がありましたが、
疑問に正解はありません。
正解がないのに、正解探しをしたくなるから、
それが私たちにとって大きなストレスになります。
でも、本当は正解がないからこそ、そこを楽しんだらいいのでしょうね。


また直感に対して否定的に感じてしまっていると、
それも考えない方向へと向かわせる気がします。
直感的にはこう思う、けれど理由はよくわからない...というときに、
プライベートはともかく、仕事の場では
なかなかそうは言いにくいのが実情ではないでしょうか。
でも、直感的に思ったことには大抵理由があります。
だからこそ、直感的に思ったことを大切にして理由を探していけば、
立派な考えにたどり着くはずなのですが、
直感的に思ったことはダメなことと決めつけていたり、
直感的に思ったことに理由なんてないと思い込んでいると、
自分の考えを育てられなくなってしまいます。
そうだとしたら、もったいないですね。


さて、、、
私のカンペ的な問いはこちらです。
「そもそも、これは何のため?」
オーソドックスだけど、強力な問いかけの代表選手です。


そして、自分は考えているつもり...という私のようなリーダーが注意すべきなのは、
自分の考えこそ正しいと固執せず、他の人の考えに目を向けることかもしれません。
さらに、若い人に対して考える楽しさを伝えること、ですかね〜?
私に影響を与えてくれた恩師のように。
これも、ここまで書いてきたから気づいたこと。書くって大切ですね。


なんやかんやたくさん書いちゃいましたが、
今日、私が一番伝えたかったことは、
自分の心の動きに対し、自分自身が興味を持つことの大切さです。
心をよぎった疑問や興味、ときめきやザワザワをスルーしないことは、
自分を大切にする基本中の基本ではないでしょうか。


ゴールデンウィーク直前の1週間。
平成最後の1週間です。
お互いに存分に味わいましょう!

今日は、一つのビデオ(上)を紹介します。
O&Oアカデミー創設者プリタジさんのTEDでのスピーチです。
彼女の考えによれば、ストレスや苦しみの意識の中で、幸福を考えても限界があり、
美しい意識状態にあってこそ、幸福に到達できる...そんなプレゼンテーションです。
イェスミとノーミ、二人の登場人物による物語を通じて、
そのメッセージを伝えています。
イェスミとノーミは、誰の中にもいるであろう心の動きを意味しています。


18分ほどの動画ですが、
聞けば聞くほど、あぁ、そうだなと思います。
ストレスの多い現代社会だからこそ、こうした考え方が必要だと感じました。
私たちはノーミになりやすい。
ノーミになっていることさえ気づかず、
自分を正当化する毎日を送っているのかもしれない。
そんな気づきを与えてくれます。
イェスミは、周りの目など気にせずに、自分の信じる通りの生き方をしています。
人にとってストレスになりうるネガティブな感情を超越して生きています。
本当にそれを実現することはたやすいとは思えませんが、
人のあり方としての理想のように思えました。


さて、話は関連するような、しないような。
個人的な話で恐縮ですが、昨日は母の一周忌でした。
命日は5月6日ですが、連休前にということもあって、昨日執り行いました。
母は、すい臓がんで余命宣告をされていましたが、
去年の今頃はすでに宣告よりもずいぶん長生きしていました。
4月初めはギリギリ寝たきりではなく、一緒にお花見をしました。
母はビール党で、大好きなスーパードライをまだ飲めていました。
そして、4月後半から食事もできなくなり、起きられなくなりましたが、
なぜか、母にも私にも悲壮感がなく、
亡くなったその瞬間にさえ一滴の悲しみもありませんでした。
むしろ、誇らしい気持ちで送り出した感じでした。
母の振る舞いや佇まいが私をそういう気持ちにさせたのだと思います。


今思えば、母がプリタジさんの物語のイェスミのように見えたのかもしれません。
何しろ85歳ですし、まだら認知ですから、
どこまで何がわかっていたのか、正確なところはわかりません。


でも、プリタジさんが言う「自分、自分、自分、、、」ということはなく、
自分の人生や過去に執着する様子もなく、
でも、今を大切にして「おいしいね」「きれいね」と言ったり、
施設のスタッフに「ありがとう」「悪いわね」と言ったり。


彼女にも人生に執着する時期はあったと思います。
いえ、ありました。
それなのに、どうしてあんなにあっさり手放せたのか。
もしかしたら、「2度目のがん」だったからかもしれません。
40代の終わりに乳がんになったとき、母はもっと人生に執着していたような。
そりゃそうですよね、しない方が不思議だから。
でも、85歳になって、何か達観したのでしょうか。
答えは謎です。
もしかしたら、ただ単に母を美化しているだけかもしれません。
でも、私にとってはある種の教材を母から与えられた心境です。


私は今を生きるために、いったい何を手放すべきなのか、
そんな問いが浮かんできました。即答できるものは何もありません。
あなたご自身はどうですか?


今週も素敵な1週間をお過ごしください。

桜が花咲き、春が訪れました。
なぜか心がウキウキするのは、季節のせいでしょうか?
今年に入って多忙続きだったのですが、今月はようやく一段落。
新しいことをどんどんやって行こうと思います!
(1月と4月、私を前向きにさせてくれてありがと〜 笑)


さて、、、
そんな心のゆとりもあって、先週は二人の方と夜、会食しました。
一人は男性Aさん。もう一人は女性Bさんです。
どちらもお客さまでも取引先でもなく、
でも、仕事をきっかけに出会った方たちです。
男性Aさんとの食事は私がアポを申し込み、
女性Bさんとの食事は誘っていただいたのがきっかけです。


仕事をきっかけに出会ったからか、
お互いに自分の仕事の話をよくしました。
そもそも私も含めて、仕事とプライベートで線を引かない人種なのかも。
しばらく会わない間に起きたこと、今の状況、感じている課題、
これからチャレンジしたいことなど。
私も話しますし、相手の方も話してくれます。
なんというか、お互いに飾らずに話している実感がある。
これは、心地よい時間以外の何物でもありません。
さらに、カッコつけないでいることは、距離感をぐっと縮めます。


飾らない心地よさというものに加えて、
そこにあるのは「考える場」の楽しさでした。
 話を聞く。
 興味を持つ。
 直感的な感想を言う。
 質問する。
 考えを言う。
 別の視点の新たな考えが返ってくる。
 質問する。
 また考えを言う。


その結果、自分の人生を豊かにするような発見があり、
その人の新たな一面を知ると言う発見がある。
それも受け身で聞いていたのでは起きようがなく、
興味を持って話を聞き、
その話を元に自ら考えるから楽しいのだと思います。
「考える楽しさ」というのは、上辺だけの関係では生まれない、
飾らない関係だから生まれる楽しさですね。


もうひとつ気づいた点があります。
忘れた頃に再会する...という傾向、私の人間関係にはあるようです。
Bさんとはたまたま3カ月ぶりでしたが、
Aさんとは3年ぶりでした。
なのに、久しぶり感からくる「ぎこちなさ」はまったくありませんでした。
Aさんだけではありません。
ここ数カ月の間に何人かの方たちと数年ぶりに会いましたが、
どの相手とも、まったく久しぶり感を感じませんでした。
これ、ほんとうに不思議です。


久しぶりに会って、普通ならぎこちなくなりそうなものなのに、
お互いがそうならないのはなぜなのでしょう?
答えは誰にもわかりませんが、
自己防衛しないで接すると、相手もオープンに接してくれる。
フラットな接し方をすると、相手もそのように接してくれる。
どちらからともなく、そんなことが起きている気がします。
私自身は、それがもう自分らしさなので、
あえて意識しなくてもそうなってしまっている気がします。
お互いがそうであると、最初からオープンでフラットな場になり、
「何を話そう?」「沈黙が怖い」「よく思われたい」という心理に陥ることもなく、
あっというまに自分らしく振る舞い合える場が生まれます。
私のこの仮説が正しいとしたら、
自己防衛しない、オープンかつフラットでいる、
つまりは「飾らない」というのは、
心地よい人間関係を作るもっとも手っ取り早い方法かもしれませんね。


飾らない話、飾らない関係を大切にする人。
自分らしくあることを大切にする人。
そんな人たちが集まった会社。
その先にある社会。
そういう理想を掲げ続けたいな。

4月第2週目です。
素敵な1週間でありますように!

今日、平成に変わる新元号が発表されました。
「令和」
最初はぴんとこなかったのですが、
万葉集の梅の花の歌の序文
「初春の令月(れいげつ)にして、
氣淑(きよ)く風和らぎ、
梅は鏡前(きょうぜん)の粉(こ)を披(ひら)き、
蘭は珮後(はいご)の香(こう)を薫(かお)らす」から引用した...
そう聞くと、とても素敵な元号に思えて来ました。
万葉集は、さまざまな身分の人々が詠んだ歌を集めていますので。
「平成」の発表の際は、昭和天皇崩御の流れからのものでしたので、
あまり明るい気持ちになった記憶がありません。
でも、今回は新しい時代が始まることに自分も含め、
社会が希望を見、ワクワクしているのを感じました。


平成は、あと1カ月で幕を閉じます。
こういう時期だからだと思いますが、
週末、NHKで「天皇 運命の物語 第4話〜皇后 美智子さま」
という番組が放映されていました。
お生れから現在までをなぞったドキュメンタリーです。


憲法で、天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴と定められていますが、
私は子どもの頃、この「象徴」の意味がよくわかりませんでした。
でも、最近はわかります。
テレビ報道などで、天皇皇后両陛下の映像を拝見していると、
素晴らしいお人柄が滲み出ていて、
自分も人としてこうありたい、少しでもこのような徳を持った人間になりたい、
そんな気持ちになります。
だから、今は「象徴」というのは日本人のアイデンティティに根ざした「手本」
を意味するのだと思っています。
けれど、生まれたときから持っていたものだけでは
あそこまでのオーラは出ないのではないでしょうか。
いえ、もちろん生まれ持った品格は当然あると思いますが、
でも、
人として、あるべき理想を描き、毎日求めて生きてこられたからこそ、
仁智溢れる何かが伝わってくるのではないでしょうか。


天皇陛下と歩み、支えてこられた美智子さま。
その人生観に影響を与えた児童文学があります。
幼少期に読んだ新美南吉の「でんでんむしのかなしみ」です。
美智子さまは、1998年に開催された第26回IBBY(国際児童図書評議会)の
ニューデリー大会基調講演において紹介しています。


その物語は、こんな内容です。


ある日、でんでん虫(カタツムリ)は「自分の殻の中には『悲しみ』しか詰まっていない」と気付き、「もう生きていけない」と嘆く。そこで友だちのでんでん虫にその話をすると「自分の殻も悲しみしか詰まっていない」と言われ、また別の友だちからも同じことを言われた。主人公のでんでん虫はやっと「悲しみは誰でも持っている」と気づく。自分の悲しみは自分で堪えていくしかないと嘆くのをやめた。


IBBYにおいて、美智子さまはこの話を次のように紹介しています。
http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/ibby/koen-h10sk-newdelhi.html


その頃、私はまだ大きな悲しみというものを知りませんでした。だからでしょう。最後になげくのをやめた、と知った時、簡単に「ああよかった」と思いました。それだけのことで、特にこのことにつき、じっと思いをめぐらせたということでもなかったのです。
しかし、この話は、その後何度となく、思いがけない時に私の記憶に甦って来ました。殻一杯になる程の悲しみということと、ある日突然そのことに気付き、もう生きていけないと思ったでんでん虫の不安とが、私の記憶に刻みこまれていたのでしょう。少し大きくなると、はじめて聞いた時のように、「ああよかった」だけでは済まされなくなりました。生きていくということは、楽なことではないのだという、何とはない不安を感じることもありました。それでも、私は、この話が決して嫌いではありませんでした。


皇太子妃として皇室に入られてから、皇后になられ、
美智子さまご自身にもさまざまなご心労があったことでしょう。
思い起こせば、バッシングを受けて、失声症となった時期もありました。
もしかしたら、そんな時は「でんでんむしのかなしみ」に
支えられたのかもしれません。


美智子さまから醸し出されているあの慈愛は、
元来お持ちだったものに加えて、
きっとご自身が人としての感情と向き合い、
ご自分を高めて来た中で培われたもののように感じます。
番組では、被災地を訪れて掛けられている言葉自体は
決して特別な言葉ではなく、ごく普通の言葉だったけれど、
その言葉とともに寄り添おうとする気持ちが尋常でなく強いことが相手に伝わる、
と紹介していましたが、本当にそうなのだと思います。


ただただ美智子さまのお人柄に敬服と憧れを抱く、
そんなブログになってしまいました。


新年度が始まりました。
気持ちをリフレッシュして、いいスタートを切りたいですね。
どうぞ素敵な1週間を!

3月21日、マリナーズのイチロー選手が引退しました。
まずは感謝、そしていろいろな思いを込めて、拍手を贈りたいですね。


引退したのに「イチロー選手」と書くのはおかしいのでしょうが、
今日だけはそう書かせてください。
ご存知の通り、引退を表明したのは、東京ドームで行われた
「2019 MGM MLB日本開幕戦」第2戦の試合後です。
1時間20分にわたる記者会見はご覧になりましたか?
私はネットで全部観ました。


印象的だったのは、イチロー選手が誇らしい気持ちで
会見の場に臨んでいるように見えたことでした。
そして、その誇らしさの奥にあるものとは、
他人と自分を比較するのではなく、
また他人の評価を気にするのでもなく、
あくまで自分軸で生きてきたこと、
自分で考え、答えを出し、
努力を重ねてきたことへの誇りではないかと思います。


その誇りは、会見でのイチロー選手のこんな発言にも表れています。


「他人より頑張ったということはとても言えないですけど、
自分なりに頑張ってきたとははっきりと言える。
(努力を)重ねることでしか後悔を生まないことはできない」


「あくまで測りは自分の中にある。それで自分なりにその測りを使いながら、
自分の限界を見ながらちょっと超えていくということを繰り返していく。
そうすると、いつの間にかこんな自分になっているんだという状態になって」


また去年の5月以降、ゲームに出られない状況になり、
おそらく心が折れそうになりながらも、
チームと一緒に練習を続けたイチロー選手ですが、


「あの日々がささやかな誇りを生んだし、
それがなければ今日の日はなかった」
という趣旨のことも語っていました。


天才と呼ばれ、数々の記録を達成したのは事実ですが、
自分の信じるルーティンワークをコツコツと重ねてきたその結果として、
輝かしい記録はあるのかもしれません。
イチロー選手の生き方を見ていると、
自ら考えて自分の哲学を紡ぎ出し、
その土台の上に行動を貫くことの大切さを痛感します。
私にはイチロー選手が野球選手というよりも哲人に見えます。


いくつもの伝説を生み出したイチロー選手ですが、
中でも忘れられないのが、2009年のWBCです。


開幕前からヒットが出ず、打席に立てども立てどもノーヒット。
しかし、同点の大ピンチに陥った韓国との決勝戦で、
6打数4安打、決勝の2点タイムリーを放ち、勝利に貢献しました。
あのときの重圧はどれほどのものだったか、想像を超えています。


会見では、「自分は人望がないから、監督には向かない」と発言。
しかし、イチロー選手の哲学と行動の積み重ねに対し、
尊敬しない人はいないでしょう。


現に、「世界一にならないといけない選手」と名指しした大谷翔平投手は
渡米した1年目のオープン戦で不振が続いたときに、
バットを持って、イチロー選手の自宅を訪ね、助言を求めたそうです。
この出来事自体、人望がある証拠。
普通はそう考えます。


でも、きっとイチロー選手は謙遜で「人望がない」と
言ったわけではないような気がします。
あくまで想像ですが、
イチロー選手は、監督に必要な人間像というのが具体的に描けていて、
そのイメージは想像をはるかに超えるような、
相当高い人間性を持つ人物なのではないでしょうか。
そんな高いイメージから自分を眺めたときに、
自分には人望がないと称しているように思えます。
そうだとしたら、高みを見通す力がすごいですね。


自分軸で生きる、自分を信じて生きるということは、
ただ信念を持つということではなく、その信念を体現するということ。
今回の会見を見て、改めて教えられた気がします。


いよいよ桜のシーズンになってきました。
どうぞ素敵な1週間をお過ごしください。

なんと3ヶ月ぶりぐらいに休みらしい週末でした。
友だちが遊びにきたり、ドラマや映画を観てダラダラと家で過ごしました笑


観た映画は2018年公開の
『ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男』です。
簡単にあらすじを紹介しますと(つまり、ネタバレ気味で書きますよ)、
ヒットラー率いるドイツがヨーロッパ各国に侵攻していた時代、
政権交代したばかりのチャーチルに刻一刻とたくさんの重い決断が迫られます。


ヒットラーとの和平交渉に臨むべきだという意見と、
取引はしない、断固戦うべきだという意見が対立する中、
チャーチルは断じてイギリスは屈してはならないと主張しますが、
意見は平行線のまま対立状況が続きます。
不利な形勢の中で戦いを続けても無駄な命が失われるだけだという主張は
一見すると理にかなっている感じがしますが、
和平交渉は事実上の屈服である、
自分たちの尊厳を守らなければならないという意見もあるわけで。


私も映画を観ながら、いや、やっぱり生きてこそなんぼでしょ、という心の声と、
やっぱり屈してはダメでしょ、という心の声が戦いながら観てしまいました。
どっちもイヤだけど、人権って大事ですからね、
血を流しあうことはイヤだけど、なにしろ相手はヒットラー。
うーん、究極の問いですなー


さて、でも1番の感想はそこではありませんでした。


歴史に名を残したチャーチル、「言葉の力で世界を救った」「言葉の魔術師」
「信念&伝える力のある人物」と表されているんですね。
言葉の会社を経営している私としては、興味を持たずにはいられません。


チャーチルは、連立内閣には反対派が大勢いるにも関わらず、
「イギリスはナチスに屈しない」という演説によって
イギリス議会、イギリス国民の気持ちを一つにします。
ヒットラーに首を垂れ、懇願する...それはありえないだろ!ということを
わかりやすく、心を動かす言葉で主張し、
結果的に他国のようにヒトラーによる侵攻されることなく、イギリスを守りました。


失われたたくさんの命もありますし、
実際にどう判断することが正しかったのかは誰にもわかりませんが、
チャーチルは今でもイギリスで歴史的な英雄であるようです。
国内での形勢が悪かったにも関わらず、言葉の力で大逆転したすごい例ですね。


私が、言葉のスゴさを痛感した日本の政治家といえば、
やっぱり小泉さんでしょうか。郵政解散演説。
あれも形勢逆転劇。スゴかったですね。


ほかにも、人心をつかんだスピーチ例って多々あります。
キング牧師、オバマ大統領、
ゴールデングローブ賞でスピーチしたオプラ・ウィンフリー、
小室淑恵さんの長時間労働をやめるためのTEDでのスピーチなどなど。
例を挙げればきりがないほど、国内外に素晴らしいスピーチがありますね。


さて、、、、
私はもちろん言葉の力を信じている人間です。


でも、、、、
「何を」発言したかも重要ではありますが、
「誰が」発言したかも重要な時代だと、とそんな気がします。
あ、いや、チャーチルがある意味では嫌われ者だったことも承知しています。
でも、人物としてはきっと何かを持っていたのでしょうね。


どんなにいいことを言っても、信頼の基盤がないと共感されませんよね。
信頼の基盤というのは、その発言者のブレない生き方だったり、
その発言者のブレたならブレたなりのそこから逃げない姿勢だったり、
チャーチルは多分逃げない人だったんではないかな。
そんなふうに思います。


そもそも自分を出さない人は、信頼したくてもできませんから。
(信頼しないわけではなくても、信頼できようがない)
だから、「会社では自分を出さない方がいい」なんて思っていると、
とんでもないしっぺ返しが返ってきたりします。
私は、自分を出すのはリスクだという考え方、違うんじゃないかなーと思います。
だって、自分を出さないと、本当のところでは信頼されませんからね。


もうすぐ桜が咲きますね!
今週も素敵な1週間を〜

ブログを書いている人

小野真由美

グラスルーツの代表。組織をただの集団ではなく、チームにするための組織内コミュニケーションはどうあるべきだろう?…なんていうことを、いつもツラツラ考えています。ブランディングやコミュニケーション、チームやリーダシップ系の話題が7〜8割、その他の話題が2〜3割。そんなブログを目指します。ぜひおつきあいください。

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