ブランディング、コミュニケーション、チームワーク…。週1回の社長ブログです

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社長の脳みそ整理mono-log モノログ

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一昨日、私が兄と慕っている(でもだいぶ年下の)Xさんが来社されました。
なんと「一見さんはお断り」、かつ「1年待ち」で知られる
村上開新堂のクッキーを届けてくださるためにです!
村上開新堂は、クラフトマンシップを追求していることで知られる、
明治7年創業の洋菓子専門店です。
箱を開けるのに、動画を撮ったくらい、味もさることながら、
そのレアさを堪能しました。

このXさん、とってもエネルギッシュな方です。
上場企業の役員でありながら、グループ企業の社長も務める。
詳しいことは知りませんが、ベンチャーにも関わっているし、
いったいいつ休んでいるのだろうと思うぐらい
ある一面から見ると仕事大好き人間です。

しかし、仕事一辺倒でないから、なおさらスゴイ。
今週は京都に遊びに行くと言っていたし、
ベイスターズの応援にわざわざ北海道まで行ったりも。
AIの話や株式投資の話など、お互いに先端的なことに興味があるので、
話は尽きませんでした。


60代にはまだ手が届いていないとはいえ、
年齢的には決してヤングなわけではないのに、
なぜこの人はこんなにも若々しいのだろう?
(実際、オシャレな方でもある)
と、考えてみました。
その理由はいくつかあるのでしょうが、
まずは、まったく守りに入っていないこと、
加えて好奇心が旺盛で、興味に従って行動していることでしょうか。


こう考えて見ると、「若さ」というのは
一概に年齢と比例するわけではないと痛感します。
年齢的には若くても、守りに入っていて、
行動する熱量が低い人は大勢います。


Xさんが来社された前日、当社のある人と、
実は「若さは前頭葉による」という話をしていました。
というのは、彼女は脳科学者・中野信子さんの本を読んでいて、
前頭葉が大切だと再認識したそうです。
タイトルは聞いたのですが、忘れてしまいました。

多分この本だと思われる本を本の要約サービス「flier」で調べてみると、
確かに最終章辺りに前頭葉が若さにどう関わっているか、
どうしたら脳が老けないのかが書かれていました。


前頭前野は思考、やる気や感情、性格、理性などを司っている場所ですね。
分析的思考や客観的思考を行っている場所とも言え、
前頭前野がうまく働いていれば、固定観念を持たず、
自分を客観視できるのだそうです。

しかし、一般的には加齢によって前頭前野の働きは衰えます。
「老けない脳」をつくるには、

・慣れていることをやめて新しい体験をする
・あえて不安定・過酷な環境に身を置く
・安易なカテゴライズ、レッテル貼りに逃げない
・余裕を大切にする

...といったことが大切ならしいです。
でもね、この話は
 筋肉が衰えてきたから、階段を登らない
 階段を登らないから、筋肉が衰える
というのと、ロジック的には同じで、
鶏と卵の関係にありますね。


それでも、慣れていることばかりに安住していると、
前頭葉が衰える(=若さを失う)とわかっていれば、
自分の行動パターンに意識も向くから予防にはなるのかもしれません。
おや、待ってください。
自分の行動パターンを意識できるというのは、
メタ認知が働くということですから、
前頭葉が衰えると、それもできなくなるんですよね。


私自身は野生的直感から笑、
運動によるメタ認知の向上や言葉への感度の開発が、
若さに関係しているような気がしています。

さて、明日はお休みをいただいて軽井沢に行ってきます。
涼しいといいなー
皆さんもどうぞ良い週末を!

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パリ・パラオリンピックが始まりました。
日本選手の皆さんにはがんばってほしいですね! 応援しています!

ところで、あなたはスポーツに真剣に取り組んだことはありますか?
「真剣に」と言われると少しひるみますが、私は一応あります。
体格は小柄ですが、若い頃はスポーツウーマンでした。
中学生の時は、陸上部に所属。しかし、全くの「才能なし」。
(まあ、苦節の3年間でもやり続けたことが自信にはなったのかなー)
その後、チームスポーツがやりたくてハンドボールをやりました。
進学校でしたが、高校時代は神奈川県で優勝したこともありました。


スポーツをやって良かった理由の1つは、勝負と向き合う経験ができたことです。
「勝ち」と「負け」。
勝負の相手は、対戦する誰かである前に、大抵は自分です。

私がスポーツを通じて学んだことは、たくさんあるのですが、
その中でも絞り込んで3つ言えと言われたら、次の3点を挙げます。
1・全員が自分の持ち場に「責任」を負ってこそチームが機能すること
2・自分を信じる「メンタル」があってこそ勝てること
3・「頭脳的ながんばり方」をしても、闇雲にやっても負けること


まず「責任」について。
陸上競技は個人競技なので、先輩から叱られることはあまりありません。
でも、チームスポーツであるハンドボールでは、キャッチをミスすると叱られます。
入部して初めて三角パスという練習をしたときの記憶です。
キャッチを何度もしくじって、先輩たちから「キャッチ!」と怒鳴られました。
「ちゃんとキャッチせよ」という意味です。陸上部の時にはなかった経験でした。
チームワークというと、仲良くやっているイメージもありますが、
実はそうではなく、責任の果たし合いの上に成り立っているのだと知りました。

次に「メンタル」について。
いやー これ、説明は要りますまい。
できるかな? 勝てるかな?なんて思って勝てることは絶対にないということです。
入らなかったらどうしようと思って打ったシュートは絶対に入らないです。
シュートは「入れてやる!」と思って打たなければならない。
そのメンタルを養わないと、どんなに練習しても、シュートは入らないのです。

最後に「頭脳的ながんばり方」について。
とかく多くのスポーツは肉体的要素や練習量が勝ち負けに影響しそうに思えます。
でも、それだけが勝負の要因なのかというと、そんなことはありませんよね。
相撲でも、昭和で言えば舞の海、令和で言えば炎鵬は小柄な力士の代表格です。
肉体的にも練習量でもハンデがあるとき、考えなければ必ず負けます。
「頭を使って勝て」という先生や先輩たちの教えには一理ありました。


私が学んだ3つ以外にも、勝負で重要なことはあります。
たとえば、「運」と「勘」。
どちらも、とても非科学的な印象がありますが、
私は、ビジネスでもこの2要素はとても重要だと考えています。

そして、「運」も「勘」も、心の「鍛練」の先にあるものではないでしょうか。
「鍛練」というのは、しっかり練習し、自らを鍛えること。
「鍛練」なくして、「運」も「勘」も手に入らないであろう...
という人生観です。

こういうと昭和っぽいですが、「スターウォーズ」のヨーダ的な考え方と言ったら、
少しは自然思想な感じや、禅的なものが伝わるでしょうか?
実際、「スターウォーズ」は仏教的な教訓で溢れています。
仏教では徳を積むことが、自己の成長や他者の幸福につながると考えられています。
私は、「徳」と「運」「勘」は無関係ではないと思っています。
利己的ではなく、他人のことを思う人には勘が開かれるし、
運も与えられるのではないかなー、と。


さて、話を勝負事に戻すと、先日、施設で暮らす96歳になった父に
こんなことを言われました。

「勝負事や賭け事は好きなぐらいでちょうどいい。所詮、人生は勝負事だから」と。

話の発端は、次回来る時に何かしらのゲームを持ってこようと思って、
どんなゲームがいいか、聞いていたときでした。
というのは、父は本来、囲碁が好きなのですが、囲碁は結構時間がかかります。
私自身の時間的負担を減らした上で、父が楽しめることを探りたかったのです。

「対戦ゲームはどう?」と聞いたら、
「勝ち負けは、もうどうでも良いから、そんなに興味はない」と。
でも、その後に言ったのが、上に紹介した台詞だったのです。

父いわく、「人生は『勝負事』とは他人を打ち負かすということではなく、
自分の思うような結果を得るということ。
勝負事が好きな人は、思い通りに行かない時には悔しいと思い、
自分のどこに問題があったのか、次はどうすればいいのかを考える。
勝負事が好きなら、それは苦にならない。
でも、勝負事が嫌いな人は負けは苦だし、負けたときに他人のせいにする。
他人のせいにしている人は、負け癖がつく」。
ちょっと意訳ですが、そういう意味でした。

100%同意ではないけど、自分の人生を他人のせいにはしたくない。
...というところ、私もその血を受け継いでいるなと思いました。

「運」も「勘」も「勝負事」も
結局はどれだけ心を鍛え、心が整っているかに掛かっている気がします。
パリ五輪に出場する選手の皆さんも、
そして、もちろん選手を応援しながら日常に励む私たちも、
自分に負けないように心を整えたいものですね。

はぁ~ でも暑さには負けそうになる...。
今週はもう8月です。
お互いに暑さにめげず、がんばりましょう!

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東京都知事選が終わりました。
感想はいろいろありますが、今日のテーマは政治の話ではありません。
今回は、過去最多の立候補者数だったこともあり、
出馬会見や政見放送、街頭演説動画など、
知事を目指す人たちの声を聞く機会がたくさんありました。
それらを通じて、言葉として違和感があったことがひとつあります。
「立候補させていただく」に代表されるように、
「させていただく」という謙譲表現です。


もちろん尊敬語、謙譲語は難しいし、
私自身も含めて誰でも多少おかしな言葉を使っているので、
完璧であらねばならぬ...などと思ってはいません。

なのですが、「させていただく」という謙譲表現、
政治家の皆さんがやたらに多用するという印象、ありませんか?
そして、その傾向が私たち一般人にも蔓延してきているなーと感じます。


では、なぜ「立候補させていただく」に違和感を覚えたのかと考えてみました。

早速、Google先生に「させていただく 謙譲語」で尋ねてみたところ、
マイナビさんのコンテンツから次のような説明がトップに上がってきました。

ーー以下引用ーー
「させていただく」は「させてもらう」の謙譲語であり、
「相手からの許可」「恩恵を受ける」という意味が含まれます。
相手の許可を得ていない、得る必要がない、恩恵を受けていない場合には
使用しません。
ーーーーーーーー

なるほどと合点がいきました。
立候補は自分の意思で決めることであり、許可をもらうことではないから、
「立候補させていただく」に違和感を感じたのだと思います。

では、「させていただく」の正しい使い方例には
どのようなものがあるのでしょうか?
以下の5例は、許可と恩恵という観点から正しいと言えそうです。

「〇日の〇時に訪問させていただきます」
「日程の変更をさせていただきます」
「この忘れ物は1カ月後に処分させていただきます」
「(イベント会場で)荷物の中身を点検させていただきます」
「ご提供いただいた写真を使わせていただきます」


しかし、実際に世の中では許可と恩恵とは無関係に
「させていただきます」が使われています。たとえば...

「資料は当日、配布させていただきます」
「(パートナー企業に)明日はお休みさせていただきます」
「報告書は予定通り明日提出させていただきます」
「写真を添付させていただきます」
「私が担当させていただきます」

いやー 使っていますよね。
これは多分、許可・恩恵以外に、意思表示を丁寧に伝える場合に、
「します」→「させてもらいます」→「させていただきます」
になっているのでしょうね。
だとしたら、言葉は生き物だし、
それはそれで別にいいんじゃないのという気にもなってきます(笑


話を戻して、政治家のスピーチの違和感の本質。
許可・恩恵でないことで使われているという以外に、
実はもう一つあって、それは「多用されすぎ」であることと関係あります。
多用されるがあまり、大臣が「指示させていただいた」
「お示しさせていただきます」と言ったりするのも、おかしなことです。


「させていただきます」を多用している人にとっては、
「丁寧に、謙虚に...」という気持ちからなのかもしれませんが、
少し皮肉な見方をすると(すみません、天邪鬼で)、
「丁寧な言葉を使っておく方が、突っ込まれないだろう」とか、
「へりくだっておけば、人は信用してくれるだろう」などと
思っているようにも見えます。
何となく受ける印象として、言葉は上辺だけのもので、
実際には尊大であったり不誠実なのではないか?とか
防衛的な面が現れているだけなのではないか?などと思ったりもします。

「検討させていただく」がその典型ですよね。
そう言ったなら、検討結果を報告する責任があると思うのは私だけでしょうか。

「させていただく」という表現を、必要以上に乱用することを揶揄して、
「させていただく症候群」というのだそうです。

夏休みシーズンを迎えます。
「お休みさせていただく」ではなく、
「休みます」と言うのが普通なことになってほしいですね。

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ヤフー知恵袋にこんな書き込みがあるのを見つけました。
ーーー
皆さんが常識を疑うことって、どんなことですか?
夏休みの宿題で「常識を疑う」というテーマで作文を書かないといけないのですが、
このお題が私には難しすぎて全然わかりません。
だから普段、皆さんがどんなことに常識を疑っているのかを知りたいです!
ぜひ、協力お願いします!!
ーーー

「夏休み」と書かれているので、多分学生さんが書いたのでしょう。
これを読んで、最初は、「常識を疑う」がまったくわからない人がいることに、
愕然としたものの、よくよく考えてみると、
むしろその感覚の方が健全なのかもしれないなと思い直しました。


というのは、「常識を疑う」の実践はとても難しいことだからです。

たとえば今週、私の中で1つの常識が覆されました。
何だと思いますか?

実は、私、日本という国は「極東アジアの小さな国」だと思っていました。
国土面積が小さい国という意味です。ところが...

日本は意外にも大きかったのです。
知ったきっかけは、「The True Size.com」というサイトを訪れたことでした。
これは、私たちが目にするメルカトル図法によって書かれた地図ではわからない
実際の面積を体感できるサイトです。
たとえば、「Japan」で検索してみてください。
日本がアクティブになり、動かして他国の近くに持っていくことで、
日本の国土サイズが感覚的にわかります。


私が最初に驚いたのは、
日本がイギリスやイタリアよりだいぶ大きいのはもちろん、
ドイツよりも大きそうだったこと。
えー!びっくり!という感じでした。
で、さらに調べてみると...

日本の国土面積は377,945,210平方kmです。
東南アジアの中では、
中国     9,600,000
インドネシア 1,910,931
タイ      513,140
に次いで第4位。(単位はいずれも平方kmです)

それどころか、ヨーロッパのこれらの国々よりも大きい。
イギリス   242,495
イタリア   302,068
ノルウェー  323,772
ドイツ    357,581
フィンランド 336,884

ヨーロッパの国は国土面積が狭い国が多いんですね。


では、なぜ私は(もしかしたら、皆さんも)
日本はちっぽけな国だと思い込んでいたのでしょうか?
ここからは推測です。理由は2つあります。

その1。私たちの目にする地図はメルカトル図法によるものが多く、
この地図の特徴は高緯度に向かうにつれ距離や面積が拡大されることにあります。
日本は、赤道直下ではないにしろ、中緯度にあるので、その歪みの影響を受けて、
地図上の形は実際よりも小さく表示されます。
それが「ちっぽけ日本」という意識を生んだ原因の一つとして考えられます。

その2。考えられるもう一つの原因は、「日本は小さい島国」という見方が
幕末に国内で定着したこと。
どこからどうして定着したのかはわかりませんが、
黒船到来で軍事力のギャップをまざまざと認識させられ、
以来、自国を卑下する意味もあり、ちっぽけな国と認識していったと推測できます。
つまり黒船あたりから、「日本は小さい島国」という萎縮した国家観が生まれ、
そのような言語的表現は定着し、国家的自意識になったということも考えられます。


そして、もっともアタマにくることは、(←これ、自分にです)
「日本は小さい島国」という気持ちで生きていなければ、
もっと気持ちも大きくなったような気がすること!

今回、改めて常識は疑わないと、見えてくるものも、見えないなと思いました。
来週は6月も最終週。今年も半分が終わってしまいますね。
暑さに負けずに元気に過ごしましょう!

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例えば、「~について取り上げよう」から始まるコンテンツの企画会議。
あるいは、会議のアジェンダに書かれた「~について」の項目。
日常業務のいろいろなところで、
「~について」という言葉を使って会話がされています。
会議もコンテンツの一種であると考えた場合、
コンテンツの質はコンテンツを作る人のイニシアチブにかかってきます。

多くの物事で「~について」という発想が起点になっている気がしますが、
本当にそれでいいのかな?とも思います。
というのは、1つの仮説として、この「ついて型」アプローチが、
アウトプットの質や生産性、効率性に関わっているのではないかと思うからです。

そこで、今日は、私が「ついて型」と呼んでいるアプローチについて紹介しつつ、
その「ついて型」にはどんな問題があるのか、
問題があるなら、どうしたらいいのか、考えてみたいと思います。

実際、「~について取り上げよう」という発想でコンテンツを企画しても、
コンテンツは作れますし、会議のアジェンダに「~について」と書かれていても、
それなりに会議は成立してしまうものです。
それらのコンテンツでは何かしら言葉的なものが成果物になるので
「はい、これが本日のアウトプットです」とまとめることはできます。
でも、そうやってなんとなく生まれてきたものを人が読みたいと思うでしょうか?
会議の成果に対し、参加者の納得感はあるでしょうか?


もう一度、たとえば「企画会議」。
当社が提供している企画力養成講座では、
ついて型でもコンテンツは作れるが、ついて型の企画だとこういう流れになる、
とお伝えしています。
ーーーーーーーーー
~について取り上げよう

だとしたら、誰に出てもらおうかな?

どんなことを聞こうかな?

聞いた話をうまく原稿にまとめなきゃ...
ーーーーーーーーー

確かに、この流れでもコンテンツらしきものは完成しますよね。
ですが、このアプローチはただ「聞いた話をまとめる」というものにすぎません。
「~について取り上げよう」から始まる企画プロセスでは、
大抵の場合、何をメッセージとするのか、とか、
読み終わった時に、どう感じてもらったら成功なのかなどを設計せずに進みます。


なので「~について取り上げよう」から始まるアプローチがダメとは思いませんが、
「伝えたいこと→伝わること」に執着するなら、
気をつけないといけないなと思います。


会議のあり方もそうです。
日常的に行われる会議こそ、質や生産性、効率性という意味で重要なはずです。
でも、もしその会議のリーダーがアジェンダを考えるときに、
「1.○○について 2.○○について」というような感じで出していたとします。

そうしたら、その場では何をどういう観点から話すことが求められているのか、
誰にもわかりませんよね。
もちろん、アジェンダと会議設計は別物ですから、
場のリーダーの頭の中に会議設計があるなら、
アジェンダ自体は「1.○○について 2.○○について」で済む場合もあります。


でも、私が一番おすすめしたいことは何かというと、
疑問文でアジェンダを組み立てることです。
(これは企画を立てる時もほぼ同じです)


ところが、多くの会議では問いを立てずに行われているのではないでしょうか
つまり、何を議論する必要があるのか、
場の作り手が「問い」を明確に示さないケースがあるように思います。


ですが、慣れていないと、この疑問文を出すのは簡単ではありません。
え? ほんと?と思うかもしれませんが、
考える必要のあることを漏れなく「問い」の形で出せる人は
実はそれほど多くないと思います。
私自身も「問いを立てる」を意識していますが、「漏れなく」出せているかは
はなはだ心許ないです。
なので、「疑問文として書いてみる」は自分トレーニング的におすすめです。


さて、今年もあっというまに6月。
終われば2024年も半分過ぎてしまいます。トホホ...
と、一瞬背中が丸まってしまいましたが、背筋を伸ばして頑張りましょう。
その前に、今週を乗り切らないとですね!

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昨日、届いたコンサル向けメルマガで「謙虚という罠」という
タイトルを目にしました。
謙虚さというのは、心の中の問題ではなく、
態度の問題だというのがその内容でしたが、
内容よりもタイトルにインスパイアされて、今日のこのメルマガを書いています。

私も含め、多くの人は「謙虚」は美徳だと思っています。
今の自分に奢ることなく、控えめでいる、素直に学ぼうとする、
偉そうに振る舞わない...。
美徳であり、善であることに間違いありません。

でも、「謙虚という罠」という文字を読んで、
どんな罠があるのか考えてみました。

謙虚は善だという価値観を持っていると、
聞かれてもいないのに、自分の考えを述べるのはでしゃばりに思える、
誉められても、「いえいえ、滅相もない」と応えたくなる、
自分が悪いわけではなくても、謝ってしまう...。
こんなことが起きたなら、それは確かに「謙虚という罠だな」と思いました。

そして、そう考えてみると、一般に美徳であったり、善とされる概念は、
捉われすぎて歪んでくると、善ではなくなりますね。たとえば...

「協調性」が度を越すと → 主体性がなくなる
「真面目」が度を越すと → 融通がきかなくなる
「責任感」が度を越すと → ルール偏重になる 等

ちなみに、今年9月に映画化される辻村深月による恋愛小説『傲慢と善良』。
私自身は読んでいませんが、代官山蔦屋書店コンシェルジュである
間室道子さんはブログで「傲慢と善良は表裏一体」だとして、
主人公の真美について次のように書いています。

ーーー
なぜなら、どちらも根底にあるのは「未熟」と「無知」だからだ。
たとえば厳格な母親にひたすら「いい子」に育てられた真実は
新卒採用の面接で「この会社は第一志望ではありません」と答えた。
嘘がつけない彼女は善良。
しかしこんなことを言われた相手はどう思うかまったく想像しないのは傲慢。
就職試験でこうなのだから、真実のさまざまはうまくいかない。
ーーー



善 VS 悪
もちろん善であるべきなのはその通りなのですが、
人は自分が絶対視していることに対し、疑問を抱かなくなるところが罠です。


「協調性」が「善」という考え方も、日本人のかなり多くが持っていますよね。
その結果、会議では(たとえ疑問があっても)大勢のムードに同調しようとします。
これが、災害時などに作用して、判断を間違えると、
大変なことになったりする場合もありますから、気をつけたいものです。


人が善だと思っていることは、その人にとっては「その人らしさ」でもあります。
自分らしいことを選んでいる方が、誰にとっても心地よい。
けれど、自分が絶対視していることに縛られすぎないようにするためには、
もしかしたら「自分らしくない」と思い込んでいることの方へ、
気持ちをストレッチしてみるのもいいかもしれません。

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私事で恐縮ですが、ここ最近、ゴルフレッスンや筋力トレーニングを受けながらも、

なかなかコツが習得できません。いえ、別に運動が苦手ではないつもりです。
進捗感や成長実感は仕事でも大切ですよね。
今回、真剣に考えてみたら、原因らしきものが浮かんできました。

そこで、今日のテーマはコツを身につけるコツはあるのか?です。


●コツというのは「やり方」か?
今さらですが、コツ(骨)の辞書的意味は「 物事をうまく処理する要領」のこと。
骨は、体の中心で体を支えていることから、物事の本質を見抜き、
技能として体得することを「コツをつかむ」と言うようになったようです。

さて、コツと聞いて、ぱっと浮かんでくるのは「やり方」ではないでしょうか?
似た言葉に「ノウハウ」がありますが、その違いは何でしょう?

私独自の整理だと、コツは体得を前提にした暗黙知ですが、
ノウハウは、やり方に関する暗黙知を体系的に整理した形式知。
なので、ノウハウを知っているからといって、うまくできるとは限りません。

共通認識に立つために、ここでの暗黙知とは?を書いておきます。
暗黙知:言葉で説明するのが難しい経験的な知識(考え方や理論など)のことで、
経験知と身体知の両方を含む概念。

ということは、コツを掴むには、
①知識(考え方や理論など)を知っていること
②経験・体験が不可欠で、体で覚え、感じること
③上の2項目の間を行き来しながら、考え方通りの技能を身につけること
...が、重要だということになります。

考えてみれば、当然ですよね。
でも「先生についてやり方を教えてもらえばコツは身に付くもの」
といった感覚で取り組んできた今の私は、考え方を言葉にできません。


●実践の「量」か「質」か?
経験知・身体知を高めるために、運動ではトレーニングを反復したり、
仕事では業務経験を重ねることが重要になるわけですが、
では、その経験の「量」と「質」なら、どちらがより重要なのでしょうか?

両論あるようですが、ここではまず
「質が変化するまで量をこなすことが重要」という考え方を紹介します。
こんな書籍があります。
『アーティストのためのハンドブック~制作につきまとう不安との付き合い方』
(デイヴィッド・ベイルズ、テッド・オーランド著)

その中で陶芸の授業における実験的なエピソードが語られています
教室の左半分の学生は作品の「量」によって、教室の右半分の学生には作品の「質」によって、それぞれ成績がつけられることが言い渡されました。
量のグループは、制作した作品の総重量で評価され、
質のグループは、自分で最高だと思う作品を一つ提出し、それを評価されます。
最後に全体を「質」で比較すると、「質」が高いと評価された作品は、
どれも「量」によって評価されるグループによるものでした。

なぜ、こうした結果になったのでしょう?
量のグループは、試行錯誤を重ねながら作品を作ったことで、
粘土の扱いもうまくなっていきましたが、
質のグループの方は、完璧な作品を作ろうとするあまり、手を動かすよりも、
考えることに時間をかけすぎてしまったからのようです。
経験知と身体知は、実践しないことには身につかないわけですね。


●実践における「質」で大切なことは?
コツを掴むには実践の「量」が大切だとはいえ、実践の「質」ももちろん大切です。
ジョンズ・ホプキンズ大学の研究に関する記事(Jeff Haden/「Inc.」)によると、
同じことを反復練習するよりも、練習内容に小さな変更を加えながら、
トレーニングを繰り返す方が習得が早いと分かったそうです。

例えば、新しいプレゼンテーションをマスターしたいなら、
最初の数回は全体を同じ方法で練習し、次は速度を上げたり下げたり、
あるセクションに集中したり、プロジェクターを変えたり...という具合です。
そして、結果を評価し、機能しないものを破棄し、
機能するものに改良を加えるということを繰り返します。
注意点は、条件を変えすぎてはいけないということ。

この方法で習得が早くなる原因の詳細は書かれていませんでしたが
既存記憶が蘇りやすい上、新しい小さな体験から記憶に修正をかけやすいため、
2つの記憶が再統合され、定着しやすいということのようです。
つまり、反復練習では練習方法の「質」(工夫)が重要だということですね。


●オノがトレーニングでコツが掴めなかったワケ
私がコツを習得できなかった原因は、こんなことだと思います。
・(コツ=やり方という思い込みから)そもそも考え方を学ぼうとしていなかった
・(結果から検証していただけで)考え方からやり方を検証していなかった
・圧倒的に量が足りない
・教われば何とかなるという他力本願(笑 ←多分1番の原因はこれ!


新しいことが始まる機会の多い4月です。
コツを身につける際の参考になれば幸いです。
よい週末をお過ごしください!

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今日は「お久しぶり!」という関係についての話です。
というのも、ここ最近、そのような出来事が多かったからです。

ですが、人との関係や間合いの作り方について、
私の考え方は少数派すぎてあまり参考にならないかも...と思いつつ書きます。
たとえば、ある人と初めて会ってからもう何年も経っていて、
しかもご無沙汰している場合、多くの人はそれだけでコンタクトしませんよね。
私はあまり気にせずにコンタクトする方なのですが、
ある時ようやく、それは多くの人はしない行為なのだと気づきました。

そう気づいたのは、ある人からこんなことを言われたからです。
具体的には30年ぐらい前、相手は某大新聞の文化部にいた記者のFさん。
意気投合したので1度飲みに行き。。。で、その後しばらくはそれっきり。
何年かしたある時、ふとFさんはどうしているかなと思ってご連絡し、また飲みに行きました。
楽しく飲んだその日、Fさんがこう言いました。
「あなたは変わってるね。普通はこれだけ時間があいたら連絡してこないよ」と。
そう言われて初めて、自分が「時間経過」に対して無頓着であると気づきました。


この経験から私は「人を久しぶりに誘うと相手は困惑する」という当たり前のことを
遅ればせながら学んだ次第です。
ここでいう「困惑」とは「意外なことに出会った驚き」のこと。
本来の「困って、どうしてよいかわからないこと」ではありません。
「困惑」の「困」の反応は、ある程度関係が築けているせいか、ほぼ起きません。
ましてSNSの時代ではなおさらだと思います。


さて、最近の私の「お久しぶり!」の例を挙げると...

3月1日付の本メルマガ「出張シェフの一言に脱帽!」という記事で、
「私以外の3人は全員お互いが『はじめまして』の関係だった」と書きましたが、
あの時のメンバーの1人Yさんも実は10年以上前に当社にいた元社員の方で、ご無沙汰歴も8~9年? 

一方、今月は別の元社員の方からも「お久しぶりです」とコンタクトがありました。
自分から連絡した場合も、された場合も、「お久しぶり」はうれしいものです。
会いたいから会う、どうしているだろうと思うからコンタクトする。
考えてみれば、自然なことですよね。


昔よりも「お久しぶり!」がしやすくなったのは、SNSのお陰もあります。
だけど、、、
いくらSNSがあったとしても、やっぱり抵抗感を抱く人は多い気がします。
久々だとコンタクトしにくい理由。心の中には何があるのでしょうか?

「相手は自分を覚えているか?」
「誰?と反応されるのではないか?」
そう思うと怖いですよね。
「会いに行くもっともらしい理由が見つからない」
と思ったら、自己制限がかかりますよね。

話がズレますが、このメルマガに感想をお寄せいただく時もそうかもしれません。
「書いたらどう思われるかな?」と心配になる方は少なからずいると思いますが、
時々いただく感想やご意見、ほんの数行のメッセージ...
これらはうれしい以外の何物でもありません!
(いえ、まるで催促しているようですが笑)、本当にうれしくて「やる気スイッチ」が入ります!


話を戻します。
「お久しぶり! お元気ですか?」と意思表示するだけなのに、
なぜか必要だったりする小さな勇気。
そんな時、役立つのは「覚えていないかもしれませんが...」というダメ元精神です。
実際にそのように言葉にして接すれば、相手が自分を思い出せない時も、
お互いに気まずさがなくなります。

「覚えていないかもしれませんが...」と言って
「ごめんなさい、思い出せないのですが...」と言われたら
「ですよね~」と言えば済みますもの笑

人と人の関係にはいろいろな局面があります。
最近は「人間関係の断捨離」という言葉もあるそうですし、
今の人間関係を手放さないと、新しい出会いは生まれないという主張も耳にします。
そういう考え方もあってもいいし、
今はそう考える時期と判断するのもあっていいと思います。

だけど、しばらくコンタクトしていなかった相手に、
ちょっとだけ勇気を出してコンタクトしてみると、
新しい関係が始まるかもしれませんよ。
最近私が思い出した人は、うふふ... ヒミツ。

春ですし、思い出したあの人にちょっと勇気を出してコンタクトしてみる。
いかがでしょうか? 笑

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うちの会社では、毎週木曜日に持ち回りで勉強会を行っています。
発表者が好きなテーマで30分程度説明し、意見交換するというような流れです。
毎回、終了まで40~50分程度でしょうか。
たとえば、私が扱ってきたテーマの例を挙げてみますね。

・論点コンシャスになろう
・「Fast Worker」になるための秘訣
・今日は心理学、です!
・自分主導の説明と意思表示
・カテゴライズのすすめ
・自分ブランディング

そのほかこれまで、NISA、防災、リーダーシップ、図解、知的財産、デザイン、
オープン社内報など、飽きることのないテーマで開催されてきました。


さて、昨日は、たまたま私の番で、今回は題して「意味付けの話」をしました。
ここでの「意味付け」とはアドラーがいうような心理学的な概念を含むもので、
いろいろな事柄に対して、意義や価値、理由や教訓などの形で、
人が自分なりにしている「解釈」のことです。

たとえば、人が最も頻繁に行なっている意味付けは、
他人を評価判断することではないでしょうか。

あの人は、~だ。
あの人には、~なところがある。
あの人は、いつも~する。

自分の解釈で人を決めつけると、その人物像が頭の中で膨れ上がっていきます。
人と人は、お互いに相手の人柄や性格、能力や行動様式などについて解釈し、
その解釈があたかも本当の姿であるかのように決めつけをし合っています。
しかも、その評価判断はポジティブなことばかりではなく、
むしろネガティブなことの方が記憶に刷り込まれやすいと言えるかもしれません。


ネガティブな評価判断をしてしまう顕著な例は、苦手な人についてのものです。
誰にでも苦手な人の一人や二人はいるもの。
私はどちらかといえば、人の好き嫌いは激しくない方だと思いますが、それでもやはり苦手な人はいます。
たとえば、自分の話ばかり機関銃のような速さでする人、
しかも、声が大きく、感情の起伏が激しい相手は、ちょっと苦手です。
そのような人と話していると、30分を超えたあたりから、
気が遠のくような感じになって、まったく集中できなくなります。

実際に、一回り近く年上の方で、そのような人がいました。
前記の「自分の話ばかり機関銃のような速さでする」は意味付けというより
事実と言っても良いと思いますが、
私はその人を「幼稚な人」「子どもっぽく、わがままな人」と捉えていたので、
こちらは明らかに私の解釈です。


前置きが長くなりましたが、実はここからが今日の本題です。
この人との間で、あるとき不思議なことが起きました。
人が人に抱く気持ちに「好意、好感」というポジティブな感情、
「反感、悪意、敵意」などのネガティブな感情、
さらに「普通、どちらとも言えない」という感情があるとすると、
この人の私に対する気持ちに「好意」を感じる出来事があったのです。


そうしたら、何とあれだけ苦手意識があったその人に対し、
この人の良いところを見つけようという気持ちが湧いてきました。
おそらく、「子どもっぽく、わがままな人」という意味付けをしていた頃は、
心の中で被害に遭いたくないという深層心理が働いていたのですが
「好意」を感じ取ったことで、(敵対する相手ではないのだから)
寛大に捉えても大丈夫だと無意識ながらに思ったのだと思います。

ロバート・チャルディーニの著書「影響力の武器」の中で、
「好意の返報性」について書かれていますが、まさにそれだったのでしょう。


職場での悩みとして、各種調査でしばしば「人間関係」が上がっています。
「あの人は~だ」は必ずしも事実ではなく、解釈であるかもしれないと思えば、
見え方が変わるような気もします。
さらに必ず関係が変わるとは言えないまでも、「好意」を表現することで
関係が変わる場合もあることは、試してみる価値があるかもしれません。


桜の便りが楽しみになってきました。
どうぞ良い週末をお過ごしください。

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先日の3連休の最後の日、我が家で友人を呼んで食事会をしたのですが、
その際に出張シェフを利用しました。
実は、この会、私以外の3人は全員お互いが「はじめまして」の関係。
私が出張シェフを利用するのも初めてで、いろいろな意味でドキドキワクワクの機会となりました。


Sharedineというサービスを利用したのですが、このしくみでは、
調理器具や調味料は依頼主が用意し、材料はどちらが用意してもOK。
今回、私は買い物も含めてお願いしました。
結論からいうと、味、量、価格とも大満足です。

さて、そのようなしくみなので、あると思っていたものが行ってみたらない、ということも考えられます。
今回のシェフRyuさんにそんな時はどうするのかを尋ねたところ
「自分は、自分の方を状況に合わせます」と迷いのない回答が。

以前は、たとえば包丁を10本ぐらい持ち歩いたこともあったそうですが、
所詮、レストランの厨房に家庭の厨房はかなわないので、
その環境でのベストを尽くせば良いと考えるようになったそうです
包丁の切れ味が悪いなと思ったら、たとえ砥石がなくても、
その場でできる工夫をしてしのぐのだとか。

この割り切りは簡単そうで簡単ではありませんよね。
「なんだ、○○○も揃っていないのか」
「思った料理ができないのは相手のせいだ」と
心の中で相手を責めることもできます。
こう思ってしまうのは、条件が整わないとベストの結果は得られないと思っているからなわけで、
人生言い訳が多くなりそうですね。

それに対して、Ryuさんのこの潔い考え方は素敵です。
だけど、、、一歩間違えると自分に甘くなってしまいそうでもある。
たとえば、私の場合、筋トレでバーベルを持ってスクワットをしているとき、
限界の一歩手前で手を抜き、
「ベストを尽くした風」にやってしまうことがありますから。


心理学用語に「アカウンタビリティ」という言葉があります。
ビジネスでは説明責任の意ですが、心理学では「責任の概念」と捉えるそうです。
自分に起きたことは自分自身の責任の結果である、という考え方で、
ちょっと聞くと厳しそうに感じますが、実は自由に解放される道なのだとか。

なぜでしょう?
ほかの人のせいや何かのせいにしていると、心の中に罪悪感が生まれるからだろうというのが、私の解釈です。
先ほどの私の筋トレの例でも、手を抜いたことは自分が一番よく分かります。
だから、そんなときは潔くベストを尽くせなかったと思えばいいのだと思います。

昨年のウィンターシーズン、スキーを卒業するために滑り納めをしました。
しかも、ゲレンデに立つのは何十年かぶりのこと。
最後の最後の私のチャレンジは、しっかり前傾し、大きな弧を描いて滑ること。
スピードが出てしまうと怖いのですが、ベストを尽くしたと胸を張れます。
そのときに得たのは、爽快感、満足感、達成感、充足感。。。。


Ryuさんの言葉をきっかけに考えてみたら、今できる最善を目指すことは、
結果の良し悪し以上に重要な気がしてきました。
私たちは、思いもかけない不運や想定外の出来事に見舞われると、
ついそのことを悔やんで、前を向けなくなります。
自分はベストを尽くしたか?
それを基準にすると、清々しい日常に繋がっていくのかもしれません。

今日から弥生です。桜も早そうですね! そして花粉も...
元気に参りましょう!

ブログを書いている人

小野真由美

グラスルーツの代表。組織をただの集団ではなく、チームにするための組織内コミュニケーションはどうあるべきだろう?…なんていうことを、いつもツラツラ考えています。ブランディングやコミュニケーション、チームやリーダシップ系の話題が7〜8割、その他の話題が2〜3割。そんなブログを目指します。ぜひおつきあいください。

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