ブランディング、コミュニケーション、チームワーク…。週1回の社長ブログです

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社長の脳みそ整理mono-log モノログ

あなたは、もし上司から「何でもやっていいよ、
今までやっていないようなことにチャレンジしてほしい」と言われたら困りますか?
先週、ある企業のトップから、社内に対しては「何でもやって良い」という
メッセージを出していると伺いました。
でも、「何でもやって良い」と言われると戸惑う人もいる...
そんなことに話が及んだので、今日はそこを糸口に考えていきたいと思います。
確かに、戸惑わない人より、戸惑う人の方が多いような気がしますよね。


その方も上場企業の社長でしたが、
おそらく社長やリーダーになっていく人たちは、
「何でもやってよい」と言われて困ることはないと思います。
私も、規模は小さくても一企業の社長をしているわけですが、
若い時から、言われなくても何でもやってきたように思います。
「何でもやってよい」と言われると困る人と困らない人の違いは何なのでしょうか?


あ、誤解があるといけませんね。
ここでは、困らない人の方がエライと言いたいわけではなく、
いろいろな価値観や行動パターンがあることに目を向けたうえで、
私自身にとってもヒントになることを探したくて書いています。


「何でもやってよい」と言われて困るということの本質は何でしょうか?
きっと「そう言われても、何をしていいかわからない」ということですよね。
この状態は、何かをしたいという欲求がない状態とも言えますし、
見方によっては、あまり考えずにいる状態とも言えます。
というのは、欲求というのは好奇心を抱いて初めて湧いてくるものですが、
物事をぼーっと眺めていただけでは好奇心は湧いてこないからです。


こんな状態でチコちゃんに出会ったら、
「ボォーと生きてんじゃねーよ」と叱られてしまうかもしれません(笑)


でも、、、
果たして、好奇心も欲求もないという人は存在するでしょうか?
私は人間である以上、誰もが持っているものだと思います。
ところが、自分の好奇心や欲求に意識を向けて暮らしている人は
意外に少ないのかもしれません。
というのは、考えないことには好奇心が生まれない、
好奇心が生まれないと欲求も生まれないという図式から見ると、
考えるからこそ気持ちが動き出すわけです。
ところが、戦後の学校教育では考えることを疎かにしてきたからか、
多くの人は自分の好奇心や欲求に気づけない、それが私の仮説です。


幸いなことに、私自身は小学校の3〜4年生の時に、
考える楽しさを教えてくれる素晴らしい先生と出会いました。
教え方も含めて、とても大きな影響を受けたと思います。


でも、考えることに慣れていない原因が学校教育にある、
と他責で考えてしまうのは簡単過ぎますよね。
特に、今の時代はAI社会です。
想像や創造など、人間だから持っている本来の能力を眠らせておいたなら、
ロクなことになりません。


では、自分の考えを深めるためのコツはあるのでしょうか?


私は、考えることに慣れていない人は、
考える際の入り口で性急に答えを求めすぎなのではないかと思うことがあります。
たとえば「何でもやってよい。何をするか考えて」と言われたとします。
このときに、考えることに慣れている人は、
「何をすべきか」といきなり考え出しません。
でも慣れていないと、そこから考えようとしてしまうのではないでしょうか。
入り口で、結論的な答えを見つけようとしてしまうと、
考えることなどできないということを知らないために、
うまく考えることができないのではないか、
これが私の仮説です。


では、考える行為の入り口にあるべきものは何でしょうか?
それは、心に湧いてきた「疑問」を
言葉にして自覚できるようにすることです。
「何をすべきか」というのも、一応「問い」の形式にはなっていますが、
この問いは「答えは何か?」と言っているのと同じなので、
考えを深めるように作用する問いではありません。
だから、最初にすべきことは素朴な疑問を言葉にすることだと思います。


しかし、こんな反論もあるかもしれません。
考えることに慣れていない人間にとっては、
その疑問さえ浮かんでこないのだ、と。


確かに、疑問さえ浮かばないという時点で、
考えるのをやめたくなってしまうことはありそうです。
というのは、学校で習うことの大半には正解がありましたが、
疑問に正解はありません。
正解がないのに、正解探しをしたくなるから、
それが私たちにとって大きなストレスになります。
でも、本当は正解がないからこそ、そこを楽しんだらいいのでしょうね。


また直感に対して否定的に感じてしまっていると、
それも考えない方向へと向かわせる気がします。
直感的にはこう思う、けれど理由はよくわからない...というときに、
プライベートはともかく、仕事の場では
なかなかそうは言いにくいのが実情ではないでしょうか。
でも、直感的に思ったことには大抵理由があります。
だからこそ、直感的に思ったことを大切にして理由を探していけば、
立派な考えにたどり着くはずなのですが、
直感的に思ったことはダメなことと決めつけていたり、
直感的に思ったことに理由なんてないと思い込んでいると、
自分の考えを育てられなくなってしまいます。
そうだとしたら、もったいないですね。


さて、、、
私のカンペ的な問いはこちらです。
「そもそも、これは何のため?」
オーソドックスだけど、強力な問いかけの代表選手です。


そして、自分は考えているつもり...という私のようなリーダーが注意すべきなのは、
自分の考えこそ正しいと固執せず、他の人の考えに目を向けることかもしれません。
さらに、若い人に対して考える楽しさを伝えること、ですかね〜?
私に影響を与えてくれた恩師のように。
これも、ここまで書いてきたから気づいたこと。書くって大切ですね。


なんやかんやたくさん書いちゃいましたが、
今日、私が一番伝えたかったことは、
自分の心の動きに対し、自分自身が興味を持つことの大切さです。
心をよぎった疑問や興味、ときめきやザワザワをスルーしないことは、
自分を大切にする基本中の基本ではないでしょうか。


ゴールデンウィーク直前の1週間。
平成最後の1週間です。
お互いに存分に味わいましょう!

今日は、一つのビデオ(上)を紹介します。
O&Oアカデミー創設者プリタジさんのTEDでのスピーチです。
彼女の考えによれば、ストレスや苦しみの意識の中で、幸福を考えても限界があり、
美しい意識状態にあってこそ、幸福に到達できる...そんなプレゼンテーションです。
イェスミとノーミ、二人の登場人物による物語を通じて、
そのメッセージを伝えています。
イェスミとノーミは、誰の中にもいるであろう心の動きを意味しています。


18分ほどの動画ですが、
聞けば聞くほど、あぁ、そうだなと思います。
ストレスの多い現代社会だからこそ、こうした考え方が必要だと感じました。
私たちはノーミになりやすい。
ノーミになっていることさえ気づかず、
自分を正当化する毎日を送っているのかもしれない。
そんな気づきを与えてくれます。
イェスミは、周りの目など気にせずに、自分の信じる通りの生き方をしています。
人にとってストレスになりうるネガティブな感情を超越して生きています。
本当にそれを実現することはたやすいとは思えませんが、
人のあり方としての理想のように思えました。


さて、話は関連するような、しないような。
個人的な話で恐縮ですが、昨日は母の一周忌でした。
命日は5月6日ですが、連休前にということもあって、昨日執り行いました。
母は、すい臓がんで余命宣告をされていましたが、
去年の今頃はすでに宣告よりもずいぶん長生きしていました。
4月初めはギリギリ寝たきりではなく、一緒にお花見をしました。
母はビール党で、大好きなスーパードライをまだ飲めていました。
そして、4月後半から食事もできなくなり、起きられなくなりましたが、
なぜか、母にも私にも悲壮感がなく、
亡くなったその瞬間にさえ一滴の悲しみもありませんでした。
むしろ、誇らしい気持ちで送り出した感じでした。
母の振る舞いや佇まいが私をそういう気持ちにさせたのだと思います。


今思えば、母がプリタジさんの物語のイェスミのように見えたのかもしれません。
何しろ85歳ですし、まだら認知ですから、
どこまで何がわかっていたのか、正確なところはわかりません。


でも、プリタジさんが言う「自分、自分、自分、、、」ということはなく、
自分の人生や過去に執着する様子もなく、
でも、今を大切にして「おいしいね」「きれいね」と言ったり、
施設のスタッフに「ありがとう」「悪いわね」と言ったり。


彼女にも人生に執着する時期はあったと思います。
いえ、ありました。
それなのに、どうしてあんなにあっさり手放せたのか。
もしかしたら、「2度目のがん」だったからかもしれません。
40代の終わりに乳がんになったとき、母はもっと人生に執着していたような。
そりゃそうですよね、しない方が不思議だから。
でも、85歳になって、何か達観したのでしょうか。
答えは謎です。
もしかしたら、ただ単に母を美化しているだけかもしれません。
でも、私にとってはある種の教材を母から与えられた心境です。


私は今を生きるために、いったい何を手放すべきなのか、
そんな問いが浮かんできました。即答できるものは何もありません。
あなたご自身はどうですか?


今週も素敵な1週間をお過ごしください。

桜が花咲き、春が訪れました。
なぜか心がウキウキするのは、季節のせいでしょうか?
今年に入って多忙続きだったのですが、今月はようやく一段落。
新しいことをどんどんやって行こうと思います!
(1月と4月、私を前向きにさせてくれてありがと〜 笑)


さて、、、
そんな心のゆとりもあって、先週は二人の方と夜、会食しました。
一人は男性Aさん。もう一人は女性Bさんです。
どちらもお客さまでも取引先でもなく、
でも、仕事をきっかけに出会った方たちです。
男性Aさんとの食事は私がアポを申し込み、
女性Bさんとの食事は誘っていただいたのがきっかけです。


仕事をきっかけに出会ったからか、
お互いに自分の仕事の話をよくしました。
そもそも私も含めて、仕事とプライベートで線を引かない人種なのかも。
しばらく会わない間に起きたこと、今の状況、感じている課題、
これからチャレンジしたいことなど。
私も話しますし、相手の方も話してくれます。
なんというか、お互いに飾らずに話している実感がある。
これは、心地よい時間以外の何物でもありません。
さらに、カッコつけないでいることは、距離感をぐっと縮めます。


飾らない心地よさというものに加えて、
そこにあるのは「考える場」の楽しさでした。
 話を聞く。
 興味を持つ。
 直感的な感想を言う。
 質問する。
 考えを言う。
 別の視点の新たな考えが返ってくる。
 質問する。
 また考えを言う。


その結果、自分の人生を豊かにするような発見があり、
その人の新たな一面を知ると言う発見がある。
それも受け身で聞いていたのでは起きようがなく、
興味を持って話を聞き、
その話を元に自ら考えるから楽しいのだと思います。
「考える楽しさ」というのは、上辺だけの関係では生まれない、
飾らない関係だから生まれる楽しさですね。


もうひとつ気づいた点があります。
忘れた頃に再会する...という傾向、私の人間関係にはあるようです。
Bさんとはたまたま3カ月ぶりでしたが、
Aさんとは3年ぶりでした。
なのに、久しぶり感からくる「ぎこちなさ」はまったくありませんでした。
Aさんだけではありません。
ここ数カ月の間に何人かの方たちと数年ぶりに会いましたが、
どの相手とも、まったく久しぶり感を感じませんでした。
これ、ほんとうに不思議です。


久しぶりに会って、普通ならぎこちなくなりそうなものなのに、
お互いがそうならないのはなぜなのでしょう?
答えは誰にもわかりませんが、
自己防衛しないで接すると、相手もオープンに接してくれる。
フラットな接し方をすると、相手もそのように接してくれる。
どちらからともなく、そんなことが起きている気がします。
私自身は、それがもう自分らしさなので、
あえて意識しなくてもそうなってしまっている気がします。
お互いがそうであると、最初からオープンでフラットな場になり、
「何を話そう?」「沈黙が怖い」「よく思われたい」という心理に陥ることもなく、
あっというまに自分らしく振る舞い合える場が生まれます。
私のこの仮説が正しいとしたら、
自己防衛しない、オープンかつフラットでいる、
つまりは「飾らない」というのは、
心地よい人間関係を作るもっとも手っ取り早い方法かもしれませんね。


飾らない話、飾らない関係を大切にする人。
自分らしくあることを大切にする人。
そんな人たちが集まった会社。
その先にある社会。
そういう理想を掲げ続けたいな。

4月第2週目です。
素敵な1週間でありますように!

今日、平成に変わる新元号が発表されました。
「令和」
最初はぴんとこなかったのですが、
万葉集の梅の花の歌の序文
「初春の令月(れいげつ)にして、
氣淑(きよ)く風和らぎ、
梅は鏡前(きょうぜん)の粉(こ)を披(ひら)き、
蘭は珮後(はいご)の香(こう)を薫(かお)らす」から引用した...
そう聞くと、とても素敵な元号に思えて来ました。
万葉集は、さまざまな身分の人々が詠んだ歌を集めていますので。
「平成」の発表の際は、昭和天皇崩御の流れからのものでしたので、
あまり明るい気持ちになった記憶がありません。
でも、今回は新しい時代が始まることに自分も含め、
社会が希望を見、ワクワクしているのを感じました。


平成は、あと1カ月で幕を閉じます。
こういう時期だからだと思いますが、
週末、NHKで「天皇 運命の物語 第4話〜皇后 美智子さま」
という番組が放映されていました。
お生れから現在までをなぞったドキュメンタリーです。


憲法で、天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴と定められていますが、
私は子どもの頃、この「象徴」の意味がよくわかりませんでした。
でも、最近はわかります。
テレビ報道などで、天皇皇后両陛下の映像を拝見していると、
素晴らしいお人柄が滲み出ていて、
自分も人としてこうありたい、少しでもこのような徳を持った人間になりたい、
そんな気持ちになります。
だから、今は「象徴」というのは日本人のアイデンティティに根ざした「手本」
を意味するのだと思っています。
けれど、生まれたときから持っていたものだけでは
あそこまでのオーラは出ないのではないでしょうか。
いえ、もちろん生まれ持った品格は当然あると思いますが、
でも、
人として、あるべき理想を描き、毎日求めて生きてこられたからこそ、
仁智溢れる何かが伝わってくるのではないでしょうか。


天皇陛下と歩み、支えてこられた美智子さま。
その人生観に影響を与えた児童文学があります。
幼少期に読んだ新美南吉の「でんでんむしのかなしみ」です。
美智子さまは、1998年に開催された第26回IBBY(国際児童図書評議会)の
ニューデリー大会基調講演において紹介しています。


その物語は、こんな内容です。


ある日、でんでん虫(カタツムリ)は「自分の殻の中には『悲しみ』しか詰まっていない」と気付き、「もう生きていけない」と嘆く。そこで友だちのでんでん虫にその話をすると「自分の殻も悲しみしか詰まっていない」と言われ、また別の友だちからも同じことを言われた。主人公のでんでん虫はやっと「悲しみは誰でも持っている」と気づく。自分の悲しみは自分で堪えていくしかないと嘆くのをやめた。


IBBYにおいて、美智子さまはこの話を次のように紹介しています。
http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/ibby/koen-h10sk-newdelhi.html


その頃、私はまだ大きな悲しみというものを知りませんでした。だからでしょう。最後になげくのをやめた、と知った時、簡単に「ああよかった」と思いました。それだけのことで、特にこのことにつき、じっと思いをめぐらせたということでもなかったのです。
しかし、この話は、その後何度となく、思いがけない時に私の記憶に甦って来ました。殻一杯になる程の悲しみということと、ある日突然そのことに気付き、もう生きていけないと思ったでんでん虫の不安とが、私の記憶に刻みこまれていたのでしょう。少し大きくなると、はじめて聞いた時のように、「ああよかった」だけでは済まされなくなりました。生きていくということは、楽なことではないのだという、何とはない不安を感じることもありました。それでも、私は、この話が決して嫌いではありませんでした。


皇太子妃として皇室に入られてから、皇后になられ、
美智子さまご自身にもさまざまなご心労があったことでしょう。
思い起こせば、バッシングを受けて、失声症となった時期もありました。
もしかしたら、そんな時は「でんでんむしのかなしみ」に
支えられたのかもしれません。


美智子さまから醸し出されているあの慈愛は、
元来お持ちだったものに加えて、
きっとご自身が人としての感情と向き合い、
ご自分を高めて来た中で培われたもののように感じます。
番組では、被災地を訪れて掛けられている言葉自体は
決して特別な言葉ではなく、ごく普通の言葉だったけれど、
その言葉とともに寄り添おうとする気持ちが尋常でなく強いことが相手に伝わる、
と紹介していましたが、本当にそうなのだと思います。


ただただ美智子さまのお人柄に敬服と憧れを抱く、
そんなブログになってしまいました。


新年度が始まりました。
気持ちをリフレッシュして、いいスタートを切りたいですね。
どうぞ素敵な1週間を!

3月21日、マリナーズのイチロー選手が引退しました。
まずは感謝、そしていろいろな思いを込めて、拍手を贈りたいですね。


引退したのに「イチロー選手」と書くのはおかしいのでしょうが、
今日だけはそう書かせてください。
ご存知の通り、引退を表明したのは、東京ドームで行われた
「2019 MGM MLB日本開幕戦」第2戦の試合後です。
1時間20分にわたる記者会見はご覧になりましたか?
私はネットで全部観ました。


印象的だったのは、イチロー選手が誇らしい気持ちで
会見の場に臨んでいるように見えたことでした。
そして、その誇らしさの奥にあるものとは、
他人と自分を比較するのではなく、
また他人の評価を気にするのでもなく、
あくまで自分軸で生きてきたこと、
自分で考え、答えを出し、
努力を重ねてきたことへの誇りではないかと思います。


その誇りは、会見でのイチロー選手のこんな発言にも表れています。


「他人より頑張ったということはとても言えないですけど、
自分なりに頑張ってきたとははっきりと言える。
(努力を)重ねることでしか後悔を生まないことはできない」


「あくまで測りは自分の中にある。それで自分なりにその測りを使いながら、
自分の限界を見ながらちょっと超えていくということを繰り返していく。
そうすると、いつの間にかこんな自分になっているんだという状態になって」


また去年の5月以降、ゲームに出られない状況になり、
おそらく心が折れそうになりながらも、
チームと一緒に練習を続けたイチロー選手ですが、


「あの日々がささやかな誇りを生んだし、
それがなければ今日の日はなかった」
という趣旨のことも語っていました。


天才と呼ばれ、数々の記録を達成したのは事実ですが、
自分の信じるルーティンワークをコツコツと重ねてきたその結果として、
輝かしい記録はあるのかもしれません。
イチロー選手の生き方を見ていると、
自ら考えて自分の哲学を紡ぎ出し、
その土台の上に行動を貫くことの大切さを痛感します。
私にはイチロー選手が野球選手というよりも哲人に見えます。


いくつもの伝説を生み出したイチロー選手ですが、
中でも忘れられないのが、2009年のWBCです。


開幕前からヒットが出ず、打席に立てども立てどもノーヒット。
しかし、同点の大ピンチに陥った韓国との決勝戦で、
6打数4安打、決勝の2点タイムリーを放ち、勝利に貢献しました。
あのときの重圧はどれほどのものだったか、想像を超えています。


会見では、「自分は人望がないから、監督には向かない」と発言。
しかし、イチロー選手の哲学と行動の積み重ねに対し、
尊敬しない人はいないでしょう。


現に、「世界一にならないといけない選手」と名指しした大谷翔平投手は
渡米した1年目のオープン戦で不振が続いたときに、
バットを持って、イチロー選手の自宅を訪ね、助言を求めたそうです。
この出来事自体、人望がある証拠。
普通はそう考えます。


でも、きっとイチロー選手は謙遜で「人望がない」と
言ったわけではないような気がします。
あくまで想像ですが、
イチロー選手は、監督に必要な人間像というのが具体的に描けていて、
そのイメージは想像をはるかに超えるような、
相当高い人間性を持つ人物なのではないでしょうか。
そんな高いイメージから自分を眺めたときに、
自分には人望がないと称しているように思えます。
そうだとしたら、高みを見通す力がすごいですね。


自分軸で生きる、自分を信じて生きるということは、
ただ信念を持つということではなく、その信念を体現するということ。
今回の会見を見て、改めて教えられた気がします。


いよいよ桜のシーズンになってきました。
どうぞ素敵な1週間をお過ごしください。

なんと3ヶ月ぶりぐらいに休みらしい週末でした。
友だちが遊びにきたり、ドラマや映画を観てダラダラと家で過ごしました笑


観た映画は2018年公開の
『ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男』です。
簡単にあらすじを紹介しますと(つまり、ネタバレ気味で書きますよ)、
ヒットラー率いるドイツがヨーロッパ各国に侵攻していた時代、
政権交代したばかりのチャーチルに刻一刻とたくさんの重い決断が迫られます。


ヒットラーとの和平交渉に臨むべきだという意見と、
取引はしない、断固戦うべきだという意見が対立する中、
チャーチルは断じてイギリスは屈してはならないと主張しますが、
意見は平行線のまま対立状況が続きます。
不利な形勢の中で戦いを続けても無駄な命が失われるだけだという主張は
一見すると理にかなっている感じがしますが、
和平交渉は事実上の屈服である、
自分たちの尊厳を守らなければならないという意見もあるわけで。


私も映画を観ながら、いや、やっぱり生きてこそなんぼでしょ、という心の声と、
やっぱり屈してはダメでしょ、という心の声が戦いながら観てしまいました。
どっちもイヤだけど、人権って大事ですからね、
血を流しあうことはイヤだけど、なにしろ相手はヒットラー。
うーん、究極の問いですなー


さて、でも1番の感想はそこではありませんでした。


歴史に名を残したチャーチル、「言葉の力で世界を救った」「言葉の魔術師」
「信念&伝える力のある人物」と表されているんですね。
言葉の会社を経営している私としては、興味を持たずにはいられません。


チャーチルは、連立内閣には反対派が大勢いるにも関わらず、
「イギリスはナチスに屈しない」という演説によって
イギリス議会、イギリス国民の気持ちを一つにします。
ヒットラーに首を垂れ、懇願する...それはありえないだろ!ということを
わかりやすく、心を動かす言葉で主張し、
結果的に他国のようにヒトラーによる侵攻されることなく、イギリスを守りました。


失われたたくさんの命もありますし、
実際にどう判断することが正しかったのかは誰にもわかりませんが、
チャーチルは今でもイギリスで歴史的な英雄であるようです。
国内での形勢が悪かったにも関わらず、言葉の力で大逆転したすごい例ですね。


私が、言葉のスゴさを痛感した日本の政治家といえば、
やっぱり小泉さんでしょうか。郵政解散演説。
あれも形勢逆転劇。スゴかったですね。


ほかにも、人心をつかんだスピーチ例って多々あります。
キング牧師、オバマ大統領、
ゴールデングローブ賞でスピーチしたオプラ・ウィンフリー、
小室淑恵さんの長時間労働をやめるためのTEDでのスピーチなどなど。
例を挙げればきりがないほど、国内外に素晴らしいスピーチがありますね。


さて、、、、
私はもちろん言葉の力を信じている人間です。


でも、、、、
「何を」発言したかも重要ではありますが、
「誰が」発言したかも重要な時代だと、とそんな気がします。
あ、いや、チャーチルがある意味では嫌われ者だったことも承知しています。
でも、人物としてはきっと何かを持っていたのでしょうね。


どんなにいいことを言っても、信頼の基盤がないと共感されませんよね。
信頼の基盤というのは、その発言者のブレない生き方だったり、
その発言者のブレたならブレたなりのそこから逃げない姿勢だったり、
チャーチルは多分逃げない人だったんではないかな。
そんなふうに思います。


そもそも自分を出さない人は、信頼したくてもできませんから。
(信頼しないわけではなくても、信頼できようがない)
だから、「会社では自分を出さない方がいい」なんて思っていると、
とんでもないしっぺ返しが返ってきたりします。
私は、自分を出すのはリスクだという考え方、違うんじゃないかなーと思います。
だって、自分を出さないと、本当のところでは信頼されませんからね。


もうすぐ桜が咲きますね!
今週も素敵な1週間を〜

今日は3月11日、東日本大震災から8年が経ちました。
私は、あの震災の時、寄付など自分にできることはしたのですが、
現地でボランティアなどを行なっている方たちを見て、
自分の無力感を痛切に感じたことを覚えています。
そして、いや、待て、日本経済がズタズタになるときに、
経営をしっかりやり抜くことが私に課せられたことかもしれない、
そんなふうにも思ったことを今でもはっきり覚えています。
あの時の心のザワつき、ふと最近よく思い出します。


私はNHKをよく観るのですが、
ここ最近、東日本大震災当時の振り返り番組をいくつか観ました。
具体的にいい番組だと思ったのは、
・震災を機に日本国籍を取った日本文学者ドナルド・キーンさんの
 インタビュー番組(再放送)
・除染の廃棄物が当初の計画通りに進まず、今なお、福島の皆様の
 住居のそばにあることを取り上げた番組
・震災発生当時、行政、NPOなどの支援団体、自衛隊の連携が機能した
 石巻モデルの紹介番組(再放送)

それらから感じたことはたくさんあるのですが、
欲張ると収拾がつかなくなるので、
今回はドナルド・キーンさんのインタビュー番組から感じたことを書きます。


さて、、、、ドナルド・キーンさんの名前、聞いたことはあるけれど、
具体的なことが思い出せない方のために、要点を紹介します。


ドナルド・キーン氏:
1922年6月18日、ニューヨーク市に生まれる。日本文学者・日本学者。
アーサー・ウェイリー訳『源氏物語』に感動して日本文化に興味を抱く。
文学畑の研究者だが、太平洋戦争中、通訳官として日本人に接する。
戦地で亡くなった日本人の日記に多数触れ、日本人の心に触れる。
日本びいきとして知られ、
東日本大震災を契機に、多くの欧米人が日本を去る中、
日本国籍を取得し日本に永住する意思を表明した。
晩年に書き上げた『正岡子規』『石川啄木』は話題に。
また『百代の過客』『日本人の美意識』など日本語の著作も多い。



先月24日、つまり2019年2月24日に心不全のため都内病院で亡くなられました。
キーンさんは、日本人の素晴らしさについて、
美を感じ取る心、人を思いやる心があることだと思っているようでした。
ちょっとこそばゆいですが、そうなのかもしれません。
そして、震災のときに略奪が起きなかったことや譲り合ったことに対し、
世界が感嘆したことにも言及していました。


確かに、財布を落としても、かなりの確率で戻ってくると言われるように、
今でも日本人は、他の国に比べて正しい行いをする傾向が高いのかもしれません。
そういうDNAは確かに日本人の心にはありますよね。


清く、正しく、美しく。


だけど、最近は「清く、正しく、美しく」は死語になり、
ぴんと来ない人も増えてきているような気がします。
不適切動画が平然とアップされたり、
正義とか美意識とか倫理観とか、そういう観点から発言し、
行動する人が減っているような?
あるいは、正しいと心底思えなくても、周囲に気を使って同意したり、
自己中心的なモンスター発言をしたり...。
判断基準にあるものが美意識ではなくなっている。


ドナルド・キーンさんは震災後、福島の農作物の安全性が検証されてもなお、
「私は九州の野菜を買っている」と自慢げに発言する人々に対して、
どこから買おうと自由だけれど言葉に出す必要はない...と感じたと語っていました。
それが寄り添うことであり、日本人が大切にしてきたことではなかったのか、と。


清く、正しく、美しく。


そんな生き方はカッコいいと思います。
と、同時に番組を見ていて「東北を忘れないで」のメッセージを受け取りました。
その通りだなと思ったので、シェアします。
たかがシェア。されどシェア。
それが何もできない私にとって、ささやかですができることです。
素敵な1週間を!

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1月21日の配信以降、久しぶりの投稿になります。
目下、採用活動などがあり、私自身が多忙を極めていて。。。。←言い訳ですね〜
もし、当社にご興味のありそうな方がいたら、情報を拡散してくださいね!


さて、はやぶさ2、やってくれましたね!
私は、この手のニュースは大好きで、ニュースを見ながら、泣いちゃったり。
特にJAXAメンバーの喜びの姿を見ると、、、感情移入してしまいます。
画像:http://www.jaxa.jp


JAXAのコメントの中で、私が印象深かったのは「チームワーク」という言葉です。
津田雄一プロジェクトマネージャは
「『はやぶさ2』のチーム力を強調したい。
我々は仲良しというより、お互いに磨きあったり、
たたき合ったりして成長していくという形を取ってきた。
だからこそ、今回の着陸を実現できたと思っている」と話しました。
(NHK NEWS WEB 2/22)


お、これは学習する組織を言っている。私はそう感じました。
仲良しチームでは一流のチームにはなれないですからね。

さて、仕事柄か、チームワークとは何だろうと考えてみました。
一般的には、チームとグループの違いというような観点から
チームを定義しグループと区別しますが、でも、名刺交換すると
「〜グループ」「〜グループリーダー」という立場にある方も多いので、
チームとグループという名称によって
大きく意味が変わるわけではないというように私は眺めています。


ある時、ある企業の幹部会議でファシリテーションをしたことがあります。
その時にメンバーの多くから出たのが「当社の強みはチームワークである」でした。
ところが「チームワーク」の定義を確認し合ったら、各自各様でした。
協調、結束、方向感の一致、各自が責任を果たすこと、etc...


一般にはどう受け止められているのかと思って、
ネットで調べてみたところ、まず概ね共通する定義は、
------------------------------
集団に属するメンバーが、お互いの弱点を補完して、強みを高め合うことで
組織としてのパワーを生み出し、組織の目標を達成すること...というもの。
------------------------------


ふむふむ。。。。でも、まだわかったような、わからないような感じ。
そこで、今度は私なりに考えてみました。
私が考えたポイントは、
チーム力というのは構成員の個々の力と
構成員の間に築かれる力から成っている、という点です。
両方を高めないとチーム力は高まりません。


まずは、私が考えたチームワークとは、
------------------------------
各自が100%の力を発揮し、チームとして個人の総和以上の力を発揮するために、
組織としての学習をシステマティックに行うこと
------------------------------
...としてみました。敢えて手段として考えてみたのです。
なぜなら、個人も組織も学習が大事だからです!


で、まず力のイメージ。最初に構成員の力と組織の力を分けてイメージすると...
たとえば、構成員の力だけで考えると、一人が20の力を持っていて、
5人構成員がいたとします。
構成員の力の総和は、20×5=100です。
関係の力(チームの力)はどうなるかというと、
チーム力が高い場合、構成員の20の力をベースに、
メンバー同士の間で関係を築き、
20の力のAさんと20の力のBさんの間で30の力が出るとします。
そうすると、関係の数は5×4÷2=10通り。
それぞれの関係で30の力が出るとなると、30×10=300になります。

190225_team.png

これは、構成員の間に築かれる関係の力を30とした場合の例ですが、
各人が20の力を出していることがその前提になります。
私が上の定義で、「各自が100%の力を発揮し、」としたのは、
お互いが自分の力の100%出し切っているからこそ、
信頼関係が生まれると思うからです。
仮に、あなたはもっとできるのに100%力を出していない...
と思う関係であったらどうなるでしょうか?
本来20出せる個人の力が15だったら?
メンバー間の信頼が損なわれ、関係の力は10になってしまうでしょう。
構成員の力の総和で   15×5=75
メンバー間の力の総和で 10×10=100
ちょっと乱暴なたとえかもしれませんが、そんなカラクリではないかと思います。


だから、チームワークを発揮するには、
まず各自が100%の力を出そうとすることが絶対条件ですね。

そのうえで、学習するための組織の理想はこんな感じです。
各自が
・自分を成長させたいという強い意志を持ち、
・ボス?(育成役)と成長課題を共有し、
・課題から逃げずに立ち向かえたなら100%自分を出し切ったとし、
・自分でPDCAを回しながら、
・フィードバックを受けて、さらに次の課題に向かっていく
組織として
・誰もがヘルプが必要な時にそれを言える組織であり、
・チームとして問題を直視し、課題化し、実行時の弊害をクリアすることを目指し、
・組織でPDCAを回し、オープンな対話を通じて、組織として学習する

難易度高いな。ウチもまだまだやな。。。でも理想、大事ですね!

今週も素敵な1週間をお過ごしください!

お正月に家で、スター・ウォーズ・ストーリーの「ハン・ソロ」を見ました。
その中の1シーンから、ハン・ソロが、
いつ、どうやってチューバッカと出会ったのかがわかるのですが、
それを観ながら、「そうだ、やっぱり、柔軟性だ!」
と思ったので、私の気づきをシェアしますね。


最小限にとどめますが、ネタバレ要素ありなので、ご注意ください。


帝国軍に捕まったハンは猛獣の餌として地下に放り込まれるのですが、
その猛獣というのがチューバッカでした。
襲いかかってくるチューバッカにお互いここから出るために、
「戦っているふりをして、脱出しよう」とハンが提案。
協働して脱出に成功します。


そのエピソードが面白いのはもちろんなのですが、
【猛獣=敵】と思い込まず、
【猛獣=お互いに脱出したい】とフレキシブルに考える、
そんな柔軟な発想をすることが、強く生きるコツなのかも...と感じました。


ところで、そもそも発想が柔軟というのは、
どういうことを意味するのでしょうか?
一つの考え方として、こういうことが言えるかもしれません。
物事を多面的な観点から見ることができること。
言い換えると、豊富な視点から観察したり、
意味を見つけ出したりできること、です。


こんな逸話?(寓話?)を聞いたことはありませんか?
「裸足の国で靴は売れるか?」です。
ある靴メーカーにAさん、Bさんという二人のセールスマンがいて、
二人は市場開拓のために、ある国に派遣されます。
その国の人たちは全員裸足...。
Aさんは「誰も靴を履いていないのだからニーズがない」と考え、
Bさんは「ここには膨大なマーケットが広がっている」と考えた。
この例はセールスやマーケティングでよく語られる話ですが、
どちらか一方が正しいという趣旨で、この例を挙げたわけではありません。


ここではAさんとBさんという別々の人物が登場していますが、
同じものを見たときに、同じ人が二つ以上のことを考えられること、
それが物事を多面的に捉えられているということだと思います。


では、柔らかいアタマはどうやったらつくれるのでしょうか?


何かに取り組む必要性が生まれたときに、
よく「ゼロベースで考えよう」と言われますが、
固定観念に縛られていることに気づいていないのですから、
そうアドバイスされても簡単にできませんよね。
私は、いつも何も考えずに暮らしている人が、
急に柔らかい発想をするなんて無理だと思います。
私の周りの友人知人で、この人は発想が柔らかいな...と感じる人は、
暮らし方や日常の仕事の仕方自体が柔らかい場合が多いです。
ストップをかけていないし、伸びやかな印象というのでしょうか。


忙しくても、いえ、忙しいからこそ、ちゃんと調べるとか、
いつもとは違うテーマや進め方を考えてみるとか、
常に疑問を抱いているとか、
自分がやってみたいことに人を誘っているとか、
行ったことのない店でランチを食べるとか、
人や本、映画やイベントからインプットを得ているとか、、、、
そういう人に発想の柔らかい人が多い。


あ、そうか、こうやって並べてみると、
「主体性」はやわらかアタマをつくるための柔軟剤になりうるのかもしれません。
「主体性」の対義語は、「受動性」「従属性」です。
そっちに行っちゃうと、アタマは固くなっていくのでしょうか?
あ、これらを見ていて、もう一つ気づきました。
同じことを繰り返さない、趣向を変えるというのもポイントかもしれませんね。


私自身は柔軟かどうかはともかく、
「視点発見の旅」というコンセプトでこのメルマガを出すぐらいですから、
視点フェチですね〜笑
でも、私も例外ではなく、人間である以上「思い込み」は避けられません。
一刀両断に言えば、ここに書いたこと自体が、一種の思い込みですから。
思い込みが悪いというより、
思い込みの奴隷にならないことが大切ってことでしょうか。
...ともっともらしいことを書いてこの辺で終わります。照笑


今週も素敵な1週間でありますように!

あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。

我が家の年末年始の大半は、IoT家電やAI家電を買い込んで、実験にいそしむ...
というものになりました。
中心にあったのはアマゾンのALEXA、お掃除ロボットのルンバとブラーバです。
いつか映画「Back to the future」のような未来がやってくるんだろうなと、
そんな気持ちになりました。
そんな時代にあって人間はどうあると幸せなのか、
反対にどうあると幸せにならないのか、
AIの時代だからこそ、人間はクリエイティブに楽しまなくてどうするんだ、など、
漠然とそんなことを考えていました。


そして、ちょっと飛躍しすぎかもしれませんが、最初に降りてきた一つの考えは、
今の時代のキーワードはメンタル面での「タフネス」ではないかというものでした。
「ストレス耐性」と表現してもいいかと思います。

今、世の中はストレスが生み出す負のスパイラル状況にあって、
それが幸せの妨げになっているように見えます。
もっと言えば、ストレスのために仕事を楽しむ人が少なく、
それが創造性を発揮する妨げにもなっていて、だから革新も起こらない。
今の時代、どんなに能力があっても、スキルや経験、知識があっても、
タフネスでなければ幸せを味わいにくい、そんな時代に見えます。
本来、仕事は楽しいものなのに、そんな状況はもったいないことです。
だから今日は「タフネス」をキーワードに、幸せについて考えていこうと思います。


ストレスの原因にはいろいろあるのでしょうが、
中でも「仕事量」と「人間関係」によるものがダントツではないかと想像します。
そう思って調査結果などがないかと調べたところ、いろいろありました。
紹介するのは、厚生労働省の2017年「労働安全衛生調査」です。
強いストレスとなっていると感じる事柄がある労働者の割合は 58.3%。
その原因は「仕事の質・量」が 62.6%と最も多く、
「仕事 の失敗、責任の発生等」が 34.8%、
「対人関係(セクハラ・パワハラを含む)」が 30.6%と続きます。
民間企業で行なっている調査でも、数値に違いこそあれ、
6~7割の人がストレスを感じ、
その原因の上位には必ず仕事量と人間関係が入っているようです。

ちなみに先ほど「タフネス」が時代のキーワードではないかと書きましたが、
かくいう私自身のメンタルのタフネス度は結構高いと思います。
これ、我田引水のように聞こえるかもしれませんが、
私に限らず、長く社長業をやっていれば、自然にそうなります(笑
だから、逆に言えば、タフネス度は高められるということでもある。
なぜなら、20代の頃の私はメンタル面でタフだったとは言えませんから。


さて、ここで、あなたにストレスへの対処法について質問です。
次の2つのアプローチ方法のうち、
あなたが日頃するのは、どちらのアプローチですか?
1)ストレスをどうやって発散するか、発散方法を工夫する
2)同じ状況に直面しても、ストレスと捉えなくてすむように、発想方法を工夫する

もちろん両方とも大切ですが、一般的には1番系の話が多いのではないでしょうか。
ストレスはあるものという前提で、ストレスとどう付き合うかを考えるやり方。
でも、多分、社長の人に多いのは2番目ではないかと思います。
事後対応するようなやり方では、降りかかるストレス量に対処できないからです。


しかし、これまた想像ですが、同じ社長同士だったとしても、
発想法自体は違うような気がします。他の人の意見を聞いてみたいものですね。
僭越ながら、私の方法を紹介します。
ポイントは《「多少のいい加減」で「程よい加減」に》という発想で、
手順はこんな感じです。

1)自分にコントロール可能なことと、そうでないことを区別する
2)前者への「さじ加減」を明確にイメージする

実は1番が意外と大切で、コントロール可能であると思えたことは、
自分次第の問題となり、第三者のせいにする問題ではなくなります。
それによってストレスがなくなるわけではありませんが、質感が変わり、
2番の対策ができるようになります。
反対にコントロール不能なことについては、
悩んでもしょうがないと割り切れるようになります。
注意すべき点があるとしたら、
コントロール不能と思い込んでいるだけの場合があるということです。

2番目の「さじ加減」を明確にイメージするというのは、
自分の目の前にあって対処すべき事柄に対し、どんなふうに対処するのか、
力を入れるところと抜くところのイメージを持つ、ということです。
それは言い換えると、多少いい加減であっても「是とする基準」と、
絶対「譲れない基準」を持つことでもあります。
「譲れない基準」さえ持っていれば、
あとは多少乱暴に言えば、いい加減だってなんとかなるというものです。
《「多少のいい加減」で「程よい加減」に》というのは、そんな意味です。


余談ですが、語感がイマイチの「いい加減」という言葉ですが、
もともとは「よい程度、適度」という意味がありました。
真面目ないい加減さというものが存在するということですね。
新年早々、不謹慎に聞こえるかもしれませんが、
2019年は多少のいい加減さをもって自分を解放し、タフネスになる。
試してみてください、責任は持ちませんが(笑


さて、ここまでの話は私の抱負とは無関係なので、私の今年の抱負を少しだけ。
「ピッチャーなら直球勝負が格好いいでしょ」という思い込みを捨てて、1年後には
「カーブもフォークも投げられるピッチャーが格好いいよね」と思っていること。
がんばります!

2019年が実り多い年でありますように!
今週も素敵な1週間を!

ブログを書いている人

小野真由美

グラスルーツの代表。組織をただの集団ではなく、チームにするための組織内コミュニケーションはどうあるべきだろう?…なんていうことを、いつもツラツラ考えています。ブランディングやコミュニケーション、チームやリーダシップ系の話題が7〜8割、その他の話題が2〜3割。そんなブログを目指します。ぜひおつきあいください。

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