ブランディング、コミュニケーション、チームワーク…。週1回の社長ブログです

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今日のテーマは先日(7/22)に続き「ネガティブ・ケイパビリティ」です。


この言葉を知ったのは最近ですが、私の意識の中にずっとモヤモヤあり、
初めてこの言葉に触れた時、「なるほど、そういうことか!」とスッキリしました。
「ネガティブ・ケイパビリティ」という能力は、
もしかしたら問題解決力より重要かもしれないと思う今日この頃です。


私の中に、どんなモヤモヤがあったかというと、、、、
たとえば、何か結論を出す必要があることに直面した場合、
当然、答えを出そうと思いますよね。
特に仕事では、早く結論を出せる人/早く解決できる人が優秀、と見なされがちです。
それは、ある面では正しいし、異論はありません。
私自身、どちらかというと決断は早い方だと自負しています。
それでも、こんな視点から違和感がありました。
それを端的に言うと、みんな「答えを得ることを急ぎすぎではないか?」です。


あるいは、こういう言い方もできるかもしれません。
みんな、答えを出すまでの時間に対して、忍耐がなさすぎるのではないか?
早く答えがほしいから、みんな、急いで答えを出そうとする。
そして、忍耐できないでいる自分に気づかず、
早く答えを出すことが良いことだという理由の元に、
急いで答えを出しているのではないか?
そんなふうに思うことがあり、モヤモヤや違和感を感じていました。


なぜそう思うのかと聞かれても、ただの直感としか言えません。
いろいろなシーンで、「この答えを出すのは、そんなに簡単なことではないな...」
と私は直感的に感じるのですが、
簡単に答えを出そうとするアプローチによく出くわします。


おやおや、、、すみません!
今日のテーマに対する問題意識、事前説明が長すぎました。
話を今日のキーワード「ネガティブ・ケイパビリティ」に戻しますね。


「ネガティブ・ケイパビリティ」とは何か?
私は、この言葉とどこで出会ったのか?
まずはそんな話をさせてください。


出会ったのは、こちらの書籍です。最近読みました。
「ネガティブ・ケイパビリティ〜答えの出ない事態に耐える力」
(著:帚木蓬生、刊:朝日選書)
著者は小説家であり、精神科医です。
(ペンネームの読み方が難しいですが、ははきぎ ほうせいと読むようです)
https://www.amazon.co.jp/dp/4022630582/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_U_AIewDb01XAGYQ


「ネガティブ・ケイパビリティとは?」については、
たくさんの説明が成り立ちますが、著者による端的な表現が、
本書の本文1行目に出てきます。
「どうにも答えの出ない、どうにも対処しようのない事態に耐える能力」あるいは
「性急に証明や理由を求めずに、不確実さや不思議さ、
懐疑の中にいることができる能力」です。
「ネガティブ・ケイパビリティ」で検索すると、
「ネガティブ思考」を肯定するような説明に出会いますが、
私の理解では、そういうことではないと思います。


私がこの言葉の概念に「ほぉー」と思うのは、
一般常識とはちょっと違ったことを言っているからです。
一般的に問題を解決する能力は高い方がいい...という常識があります。
でも、この「ネガティブ・ケイパビリティ」はそうではありません。
即座に解決するよりも、その訳のわからない状況に身を置いて、
佇むことの必要性を言っています。


なぜこの力が必要だと著者は言うのでしょうか。
著者によると、ヒトの脳には「分かろう」とする特性が備わっているので、
分からないものや不可思議なものが放置されていると、
脳は落ち着かなくなり、なんとか分かろうとするのだそうです。
ところが、そこに落とし穴があり、
〈「分かった」つもりの理解が、ごく低い次元にとどまってしまい、
より高次元まで発展しないのです〉と著者は言います。
なるほど! これだと私は思いました。


今日、これを取り上げたかったのは、
この力は、「考えを深める」という行為において、
必要不可欠だと思ったからです。


なので、私なりに、
「どうにも答えの出ない、どうにも対処しようのない事態に耐える能力」
というものを、別の言葉で、言い換えてみました。


その1:たとえ不安にかられたとしても、決して焦らずに時間をかけて問題を見極め、
最後の最後にじっくりと答えを出す、そんな能力。
その2:考えるべきことに向き合いながら、頭がパンパンになったとしても、
「もうムリ!」と諦めず、他の答えの可能性がないか、追求し続ける能力。


そんな力と言い換えられます。
簡単にわかったつもりにならずに、考え続ける。
「ネガティブ・ケイパビリティ」という視点で自分を育てていく。
この本はそんな視座を与えてくれました。


お盆明けで今日が初日という方もいらっしゃるかと思います。
今週も素敵な1週間でありますように!

190813_drum.JPG今日のタイトルを読んで、多くの人は疑問を感じたのではないでしょうか?
「考える」を「運動」の一つと言われたら、誰だって疑問に思いますよね。
でも、こう思ったのには理由があります。
多少無謀な説明にはなりますが、聞いてやってください。
「考える」ことに役立ちそうな原理原則、まとめてみましたので!


さて、発端。最近、私はドラムを始めました。(写真はレッスンスタジオ)
きっかけは、6月の誕生日に社員のみんなからもらった体験ギフトです。
マッサージ、ヨガ、エステ、いろいろな体験メニューがあります。
でも、私は、どうせなら今までやったことがないことで、
やりたかったことを選ぼうと決めて、それが楽器の「ドラム」だったのです。
初めは、「一生に一度やってみたかっただけ」だったのに、
体験したら、楽しくて楽しくて、ハマってしまい、
この週末に3度目のレッスンを受けてきました。


ドラムというのは、右手右足、左手左足と、異なることをやります。
考えながらでは追いつかないですし、
スポーツに似ていて、アクロバティックでもあります。
そして、生まれた初めて体験した初日、何かひらめきました!
私は、この体験から何かしら人生に役立つ原理のようなものを得られそうだ、と。
体が。あるいは脳が。


オーバーに言えば、ここに生きる知恵、生きるコツがありそうな気がする!と。


最初の体験の日の私は、こんな感じでした。。。
取り組むべきリズムフレーズがわかる。
頭ではわかっても、簡単に体がついていかないことがわかる。
わかると、できるの違いがわかる。
叩きたいリズムフレーズを分解して、体ができそうなことをやってみる。
すぐにはできないが、まもなく「これならできる」の手がかりをつかむ。
一つ上の複雑さをやってみて、前の体験とつなぎ合わせていく。
これも、徐々にできるようになる。


最初の体験を言葉にすると、そんな感じです。
しかも、心がワクワクしているときは、難しいことに取り組んでいても、
難しいって思わないんですね。ただただ、やりたい、できたいと思います。
人のやる気スイッチの本質は、ここにあるんですね〜


そうやって私は体験初日に、何かグッとくることを体験できました。
それは「感覚の扉を開けることができた」ということです。
では「感覚の扉」とは何か? 
それは「コツを体得する入り口に立つ」ということ。
「コツとは、脳の使い方、体の使い方の要点が感覚的にわかる」ということです。
こういうときには、こういうふうに脳みそを使う、
こういうふうに体を使う...ということが、感覚的にわかる。


しかし、問題は「コツ」はどうやったら体得できるか、です。


ドラムを例に言うと、「叩きたいリズムフレーズを分解して、
体ができそうなことをやってみる」もその一つですが、
先生から勧められたことがあります。
それは、「クチドラム」と呼ばれるもので、
叩きたいドラムのフレーズを声にして歌います。
私がこの週末に学んだのは、8ビートの「ドチタチ、ドドタチ」というリズムで、
「ド」はバスドラム ...というように、太鼓別にカタカナを当ててあります。
それをイメージして声に出すわけです。


え、そんなことが有効なの?と思いますよね。
私も最初はそう思ったのですが、、、
おそらくたくさんの太鼓を叩くのにも順番があり、しかもリズムがあります。
それがイメージできないと叩けません。
クチドラムはそのイメージを脳に覚えさせるのに有効。私はそう理解しました。
そして、脳に染み込むと、無意識にスムーズにその運動ができるようになります。
これは、スポーツを行なった体験がある人なら、
感覚としてわかるのではないでしょうか。
自転車を乗る感覚です。


さて、今日の本題。「考える」ことは「運動」のひとつなのか。
どう思いますか?
私は、今回の運動を習得するコツ、イメージを脳に定着させる方法は、
「考える」コツの習得に生かせるかもしれないと思い、
その仮説を今から披露します! ちょい、恥かし!


考える際に、「ドチタチ、ドドタチ」のように機能することは何だろう?
考えを進める方法をイメージ的につかむには何が重要なのだろう?
そう考えてみたのです。


最初に思ったことは、「8ビート」の動作をクチで表現したように、
「考える」の動作を言葉にし直したらどうなるか? そう考えました。


考える = 「トコトコ、トコトコ」です。
問い→答え→問い→答え→問い→答え→問い→答え


もちろん、答えは1つではないかもしれませんし、
直列的につながらない場合もありますが、


「考える」の動作を分解すると、「問いを持つ」+「答えを出す」です。
私が感じるのは、考えることに慣れていない人の場合、
漠然と考えることに向かって行って、
「問い→答え」をしていないように見えます。
どうなっているかというと、
「トコトコ、トコトコ」ではなく、「ココココ、ココココ」です。
問いがないのに、答えがある(不思議)。
きっと本当は心の中に問いがあったのだと思いますが、
その部分を言葉にしていないので、答えがなんの答えなのか、
ふんわりしてしまいます。


次に、クチドラムの「歌う」に代わることは何でしょうか?
それは、きっと「書く」です。
振り返ってみたら、私自身、考えるときにこれをやっていました。
「問い」を書き、「答え」を書くということをです。
そう、書くことは「見える化」する意味でとても重要なのに、
書かずに、頭の中だけで考える人、多いように感じます。
また心によぎったことは、何でも書けばいいのに、
考えがまとまるまで書かない人もいます。
でも! もし考えたいなら、むしろ何でも書いた方がいいと思います。


さて、、、、考えることに慣れていないと、「問い」が出せません。
でも、ここにもコツがあります。
クチドラム的に言うと、「トナドホ」です(笑  ←笑ってますが、マジです。


細かいことを言うと、もっといろいろな「問い」がありますが、
基本パターンは4つです。
 (1)〜はナニ?
 (2)ぜ〜?
 (3)うすると〜?
 (4)ント?


1番2番は目前の状況を理解したり、目的を明確にする上で有効です。
3番は対策を考える上で有効です。
4番は、自分の考えの浅さを暴くための、自分ツッコミ質問です。


「トナドホ」よりも、英単語の方が覚えやすいなら、What? Why? How? Really? 。


世の中にはたくさんのフレームワークが存在していますが、
考えてみると、それらはクチドラムと同じです。


「考える」という行為も、結局は動作の一つだと見ると、
トレーニング方法も浮かんできます。
あ〜 もっと話したいこと、あるんですけど〜 すでに長すぎ!


8月も半ばに入って、私は冷房にやられて、コンディションがイマイチです。
みなさんも、体調管理を万全に夏を乗り切ってください!

このブログは、2007年7月に始めたので、もう12年以上続けています。
メルマガを継続的に開始したのは、2013年7月。こちらも6年が経ちました。
メルマガの平均開封率は25%強と驚異的。もしよろしければ、登録してみてください!


この二つは、ある程度、覚悟をもって始めたので、
だから続いているのだと思います。
覚悟といっても、そのニュアンスはとても微妙です。
・原則「毎週」更新する。
・でもどうしても無理な時はパスもあり。
何が微妙かというと、どういう時にパスしていいか、
その線引きについては文言化していないからです。
結局は自分次第ということになります。


で、いったい私は何を基準に判断してきたのかを振り返ってみたのですが、
それはおそらく「継続性の担保」を基準にしてきたような気がします。
たとえば、毎週1回が原則なのに、2週に1回「今回は無理!」と判断してしまったら、
実質的には「毎週1回が達成できていない状況」になります。
でも、ほぼほぼ毎週1回書いていて、ああ、でも今週はどうしても無理...という場合、
毎週1回という継続性は担保されていると見なせます。


「継続性の担保」に明快なルールはありません。
結局、自分に対して何をOKするか、何をNGとするかに尽きます。
あ、でも今、これを書きながら、もう一つ重んじてきたことがあると気づきました。
「継続性の担保」の別の側面。
読者から見てではなく、自分が継続性を保とうという意識を持ち続けられるようにすること。
つまり、できているという感覚を保つための頻度はどの程度か、です。
それはやっぱり、「たまに休む」はOK、「時々休む」はナシ、と
本能的に思っている。
なぜなら、時々休むが定着すると、まず継続できないからです。
一方で、休むのは「罪悪」であると感じたら、これも苦しくて続かない。
その意識のバランスが継続に繋がってきたと思います。


さて、継続は力なりというように、継続はある面でとても重要です。
でも、それが好奇心のブレーキになってはいけませんよね。
先ほど、私は、ブログとメルマガについて、
「この二つは、ある程度、覚悟をもって始めた」と書きましたが、
何かを始める時に、いつもいつも同じようなスタンスかと言われると、
そんなことはありません。


たとえば、この半年の間に、人から見たら、
アレコレちょっと手を出しすぎでは?と思われるくらい、
いろんなことに手を出しています。
仕事のことは脇に置いておくとして、具体的には...


・ゴルフ
・俳句
・ドラム
・アウトドア
・寺社巡り


でも、これ、どれも興味があるから首を突っ込みたくなっただけです。
好奇心の赴くままにいたら、そうなった、という。
で、始めたらからといって、何かを極めなくたっていいし、
途中で飽きたらやめればいいと思っています。
始めるにあたって、継続できるかどうかなどまったく考えていません。


ここ、重要だと思うのです。
なんとなくですが、私たちの心の中に、何かを始めたら、やり抜かねばならん!とか、
軽い気持ちで始めてはいけないという思い込み、ありませんか? 
私自身、10年前はそう思っていたかもしれません。
でも、年齢が上がって、人生は一度切りなんだから、そんな必要はないなと思いました。
継続はもちろんいいことだし、重要なことですが、
「継続できるかな?」という気持ちが起きて、
それを理由にセーブしてしまうのはもったいないですよね。


セーブしないとこんなことが起きます。
実は、私、つい数カ月前まで、「山登り」に憧れていました。
そして、実際に山に詳しい友人に連れられて、初心者コースに登ってみたのですが、
やってみて、自分はこれをやりたいわけではなかった...。
そうわかったのです。すごく重要な気づきでした。


一方、俳句はまだ初めてから2カ月ですが、
これは一生やっていきたいなと思い始めています。
なぜなら単純に楽しいし、いつでもどこでもできるからです。


さて、、、
では、あなたは「気軽に」始めること、
「覚悟して」始めること、区別していますか?
仕事でない限り、覚悟して始める必要なんてないと思います。
人生は短いのだし、興味が湧いたら、気軽に始める心意気! 
いいのではないでしょうか!?


8月になりました!
暑くてイヤだなという気持ちもありますが、
同じ夏でも2019年の夏は1回だけ。楽しみましょう!

週末は、父や妹と3人で箱根に行ってきました。
1泊とはいえ、荷造りをしたり、着ていくものを考えていたら、
私は、自分が黒のTシャツを10枚以上持っていること、
同じ黒のTシャツでも、無印良品のものが肌触りが良くて好きだと
感じていることに気づきました。
「これも『メタ認知』の一種?」と思ったりしながら、
このメルマガを書いています(笑)


実は、先週、まったく違う場面なのに、2人の方との会話で
『メタ認知』という言葉が出てきました。
1週間に2回も。ちょっとびっくりです!
もしかして『メタ認知』という言葉、今、世間で流行ってるのでしょうか?
いや、私が誘導しちゃったのかもしれないので(つもりはないですが)、
流行っている?は取り消します。
社会的にこの『メタ認知』という言葉がどう捉えられているか、
正直わかりません。
でも、人の成長に関わる重要なキーワードだと私は理解しています。


そうです。
今日は、人の成長とこのワード『メタ認知』について考えていこうと思います。


この『メタ認知』という言葉、しばしば耳にするけど、
「メタ認知とは?」と問われると、答えにくい言葉の一つですよね。
往々にして、メタ認知=メタ認知能力という意味で使われているようです。
ネットで調べても、端的にわかりやすい紹介がなかなか見つかりませんでした。
なので、勇気を出して、私なりの理解に基づき、説明したいと思います。
(間違っていたらごめんなさい)、
『メタ認知』を「メタ」×「認知」という形に分解して考えてみましょう。
メタ=高次元、超
認知=自己認識について客観的に分析する能力
です。


ですが、そんなことを言われても、わかりませんよね。
懲りずに、敢えて端的な言葉でメタ認知能力を表現してみます。
それは「自分が自分をどう見ているか、客観視する能力」です。
「超」なんていう言葉をつける必要もなく、
ただ単に、「自分や自分が絡んだ出来事を、一生懸命に観察した上で、
振り返ってより良くしていく能力」だとも言えるかと思います。
それが、私の翻訳です。


だからこそ、自分が黒のTシャツを10枚以上持っていると気づき、なおかつ、
同じ黒のTシャツでも、無印良品のものが肌触りが良くて好きだ、
と思っていることに気づく、
そこからさらに、自分というものを考えていく、
そんな自己観察も『メタ認知』の一種だと思った次第です。


『メタ認知』で自分の何を観察するかというと、
知覚、記憶、学習、言語、思考、行動などです。
自己観察というのは、イメージ的には、もう一人の自分がいて、
自分のことを自分の外から俯瞰的に観察するという感じでしょうか。
その時に、特に「クセ」を把握するのは結構重要です。
私は、『メタ認知』ではこの「自己観察」が一番大切なキーワードだと思っています。
難しい言葉で言う必要もなく、ただ自分を見つめるというだけですが。


私はこれまで、『メタ認知』能力について、独自の表現をしていて、
「自分伸びる力」(ジブンノビルリョク)という言葉で社員に伝えてきました。
自分で自分を伸ばせる人が強い、そういうメッセージです。
でも、自分を知らないと自分を伸ばせません。
自分を知ることが、自分で自分を伸ばす力を持つ第一歩です。
だからこそ、自分を客観視したり、振り返ってみたり、
自分のいいところ、悪いところ、思考のクセや行動のクセ、
大切にしたいこと、自分の心踊ること、他にもたくさん、、、
まずは自分が自分を知る必要があるのではないかな、と思います。


『メタ認知』において、自己観察はすべてではありませんが、
入り口にそれがあることは間違いありません。
では、そのためにどんなことが有効なのでしょうか。
観察結果を文章や図などにして言語化する、
気づきを人に話すことによって整理する、
人からたくさんフィードバックをもらう、、、
ほかにもあるかもしれませんが、そんなことが浮かんできます。


『メタ認知』という能力開発に自ら取り組むかどうかは別としても、
まずは押さえておきたいですよね。
7月も最終週です。素敵な1週間をお過ごしください!

190722_NegativeCapavility.jpg

おすすめの本の話題です。


あなたは、物事に直面して、答えを出そうとする時、どんな気持ちが湧きますか?
あるいは、どんな気持ちが起きて、どんな葛藤をしますか?
私は、早く答えを出したいという気持ちと葛藤しながら、
焦らずにまずはきっちりインプットしようと自分に言い聞かせているような気がします。
「答えを出す」は言ってみればアウトプットなのですが、
いきなりアウトプットに向かってはいけないという感覚的な信念がありました。
でも、その時に湧いてくる気持ちは「早く答えを出したい」という気持ちです。
しかし、それではいかんと思ってきました。
でも、この感覚について人に説明するのは、結構難しかったです。
おそらくそれをやっても、大したレベルの答えが出ないと思っていたからだと思います。


そこを、うまく言語化してくれている本と出会いました。
「ネガティブ・ケイパビリティ〜答えの出ない事態に耐える力」(著:帚木蓬生、刊:朝日選書)です。
著者は小説家であり、精神科医です。
実は、まだ読み終わっていません。
でも、出だしの15%を読んで、これは自分が考えていたことを整理してくれる本だと、すぐにわかりました。


「ネガティブ・ケイパビリティ」とは、「どうにも答えの出ない、どうにも対処しようのない事態に耐える能力」を指します。
私が、この考えに惹かれるのは、一般常識とはちょっと違ったことを言っているからです。
一般的に「能力」といえば、困った物事に対面した際に対処する能力...というイメージがあります。
そのこと自体には異論はないのですが、そう言ってしまうと、早い方が優れている、
そんなイメージになります。
でも、対処に至った考えの深さはどう考えるべきなのでしょう?
早く対処できた方が能力が高いのか、いや違うだろう?とそんな気持ちがありました。


精神科医が書いているだけあって、脳の話や医療の話なども出てきますが、
反対に小説家でもあるので、キーツやシェークスピア、紫式部の話なども書かれています。
今から読み進めるのがとても楽しみです。
ご興味があったら、ぜひ読んでみてください。
どこかで、もう少し深く、これについて一緒に考えて行きましょう。


少し暑くなってきましたね。
梅雨はいったいいつ明けるのでしょうか?


素敵な1週間をお過ごしください。

グラスルーツは今年満35歳になりますが、
大分前から私が社員に向かって言い続けてきたことがあります。
それは、「自分で伸びていける力」を持っている人が強い、ということ。
言い換えば、一つの体験をした時に、
その経験を他に応用できるように吸収していける人が強いということです。


だから、私自身も、物事をマニュアル的に覚えるのは好きではありませんし、
マニュアル的に教えることも好きではありません。
ですが、マニュアルを作る発想で仕事をすることは、重要だと思っています。
微妙な表現ですが、これらは明確に違います。
マニュアル的に仕事を覚えるというのは、ただ「形」を覚えるだけになりがちですが、
その仕事の「本質」がわからないと良いマニュアルは作れません。
マニュアルを作る発想で仕事をすること、すなわち
本質的な視点で仕事を体得していくこと、
それが応用力を身につけるには不可欠なのではないでしょうか。


さて、これを読んでくださっているあなたご自身は、
応用力というものを意識したことがありますか?


私は、応用力があるのとないのとでは、人生がまったく変わると思います。
応用力がないと、どの体験も人生初体験になり、
毎度、「わからない」という不安な気持ちを味わうことになります。
でも、応用力があると、前にやったあの体験を応用すればできそうだ、
と思えるので、不安感が大幅に下がります。
ポジティブに言えば、自信を持って臨むことができます。
効率も生産性もまったく違います。
ということは、経済活動における自分自身の価値も変わってきます。


さて、その応用力というものを考えて行くときに必要だと思えてくるのが、
やっぱり、考えを深めるという日々のプロセスです。
考えることなくして、本質はわからない、
事柄の本質がわからないと応用はできないので、考えを深めるプロセスが重要です。
これは、1日1回あるというようなことではなく、1日何度も生じます。
つまり習慣化できるかどうかが鍵となっています。


ところが、世の中、考えを深めることが習慣でない人は多いと感じます。
当社でも、最初は慣れていない状態で入ってくる人が少なくありません。
入った会社にもよるかもしれませんが、社会人になると、考えることが求められ、
その結果、考えることに慣れて行く人もいれば、
なかなか徹底できず、習慣にならない人もいます。


でも、先ほどの話に立ち戻ると、
会社から求められるから考えることが必要なのではなく、
自分が過去の経験に基づいて応用力を効かせられるようになることが
不安をなくし、自分の成長に繋がるから、考える習慣が大切。
これが私の意見です。


私は、考えることに慣れていない人たちには、共通点があると思います。
特に重要なのは次の2つです。

(1)自分がわかっているのかどうか、見極めようとしていない。
(2)「自分で考えるよりも、教わる方が早い」と思っている。


この2点について、もう少し詳しく見て行きましょう。
ですが、これは、私の想像であって、断定する根拠は何もありません。
強いて言うなら、35年間の人間観察の結果でしょうか?笑


(1)自分がわかっているのかどうか、見極めようとしていない。
   (ので、疑問が湧いてこない)
  その理由はおそらく:
  ①「自分は今、本当に理解できているか」と自問する習慣がなく、
   「感覚的にわかったつもり」で済ましているから。
   自問する習慣がない理由はおそらく:
   ・「そんなことをしていたら、間に合わない」と焦っているから。
   ・「そこまで深く考えなくても、できるだろう」と思っているから。
    そして、実際、価値の高さにこだわらなければ、そこまで深く考えなくても、
    何かしらできてしまうので、その大切さに気づけない。


  ②仮に「自分は今、本当に理解できているか」と自問したとして、
   何をもってわかったと言えるのか判断基準を考えることをしないので、判断できない。
   判断できないことは、見極めようがないと思っている。
   判断基準を考えられない理由はおそらく:
   ・目的思考で考える習慣がないから(目的から考えたら、わかるはずだが、そこに立ち戻る習慣がない)


(2)「自分で考えるよりも、教わる方が早い」と思っている。
   一見早い面はありますが、疑問も持たずに教わろうとしたなら、
   結果的には遅くなります。なぜなら伸びないからです。
   こう考えてしまう理由はおそらく:
   ①わからない状態で考えた結果、間違えるなら、それはムダだと思っている。
   ②自分の今の力量で結論を出すのには時間が足りないので、精度の低い結論になる。
    それは、非効率なので、教わった方が効率的だと思っている。
   ③実は焦りから、思考停止状態に陥っている。


...と、いろいろ書きましたが、
端的に言えば、「急がば回れ」と思えていないことが一因ではないでしょうか。
誰もが、できれば合理的で効率的に仕事をしたいと思っています。
それは間違いない。
しかし、考える習慣のない人は、省力化にこそ考えることが必要...
とわかっていないために、
考えることを省力化しようとして、結果的に非効率を招いているように見えます。
急がば回れなんですけどねぇ〜 ホントですよ、考えるスパイラルに入れれば、
あとは体験のすべてが貯金になるのですから。


また「考えるプロセス」を持つことが自分の仕事の価値につながる。
そこに、こだわるかどうかは、価値観の問題ですよね。
これは、むしろ生き方とか、美意識にも通じますので、
このブログで、私がどうこういうのは筋違いかな。
もちろん、グラスルーツの社員にはそうしたこだわりを持ってほしいですけどね。


長くなりました。ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
7月も後半。夏風邪に気をつけて、良い1週間を!

この週末は、2泊3日で山梨県北杜市白州町の友人宅に滞在し、
長野県の入笠山に登ってきました。
入笠山の標高は1,955メートルと結構高いのですが、
1,780メートルまでゴンドラで登れるので、
山登りといってもゴンドラを降りて山頂までは約1時間ほど。
初心者向けの山です。


山に登ることになったきっかけは、2カ月ほど前 。。。
今年5月に開催された高校の還暦同期会です。
私はその企画や運営に携わっていたのですが、
繋がり直すというコンセプトで、いろいろな人を巻き込んで、
各種サークルを立ち上げました。(いえ、私一人でではなく、みんなで)
今回の集いもその一環。
山梨県は白州の別荘地に住む友人がリーダーとなっている会で、
その名も「白州会」。白州を拠点に自然を楽しむサークルです。
同期会では、俳句を楽しむ「一句会」という会も同時に誕生していて、
今回は、両方に入っている人が多かったことから、
吟行しながら、山に登る楽しい会になりました。
ほにゃららの、ほにゃららほにゃら、せみしぐれ
...みたいなことを言い合いながら。
全然蝉の声は聞こえなかったのに(笑)


さて、確かに楽しかったに違いないのですが、
やってみてわかったことがあります。
私は、山登りはそれほど好きじゃなさそうだ、ということ。
いえ、実際、今回楽しかったけど、本当の山登りは4時間とか登るわけで、
私にはそうやって山頂を極めたいという願望がないことがわかりました。
野歩き、沢歩き、湿原歩きは多分好きだと思いますが、
山登り願望は低い...。
で、心が疼かないなら無理してやることはないなと思いました。


さて、前置きが長くなりましたが、今回の白州会でこんな話題が出ました。
歳を取ると柔軟性がなくなると言われているし、
実際自分たちの親を見ていると、悲しいかな、そうなっていくのは間違いない。
そこから逃げることはできないとしても、
どうしたら少しでも長く柔軟性を保てるのだろうか、と。


その時、ひとつの答えとして出てきたのは、
新しいことをやってみる気持ち、
新しいことでも楽しんでみようという気持ちを持ち続けることが
大切だよね、ということでした。


というのは、、、
周りにいる人で、この人は柔軟性がないなと思う人、
つまり、どちらかというと思考が硬直しているように感じる人の特徴として、
多いのは「まずやってみて、それから判断するということをしない」こと。
たとえば、やってみないとわからないことでも、
やってみる前にやらない方がいい理由を述べたり。


だから、やったことがないことでも、
まずやってみようと思うことが大切だよね、と。
そんな結論になりました。


この結論、それほどロジカルに出てきたものではありませんし、
今、ここでその正当性を論じようとも思いません。
でも、私はまんざら間違っていないのではないか、と思います。
あなたは、どう思いますか?


やってみる前に「やらない」を選択する理由はよくわかりませんが、
失敗はイヤ、恥ずかしい思いをしたくない、わからない状況でやるのがイヤ。。。
人間だから、多かれ少なかれ、そういう気持ちはあって当然です。
それでも、それと折り合いをつけてやってみようと思う人もいれば、
そうでない人もいます。


その判断自体を正しい、間違っていると決めつけることはできませんが、
体験しないとわかないことがある...これは言えることではないでしょうか。
たとえば、今回私が体験した山登り。
やってみたから、それほど好きではないとわかりました。
やらなかったなら、わからなかったでしょうね。


反対に、最近、私は誕生日祝いに社員から体験ギフトをもらったのですが、
「ドラムレッスン」を選んで、2週間ほど前に体験しました。
マッサージとか、エステとか、いろいろ選べたのですが、
一生に一度だけでいいからやってみたいことを選ぼうと思って、
私は楽器のドラム叩き70分レッスンを選びました。
本当は1度だけ経験すればいいつもりだったのに、
体験したら本当に心が躍ったのがわかりました。
それで、チケットを買って、今月21日にまた教えてもらうことにしました(笑
これは、やってみたからわかったことです。


よく若い人たちの間には「やりたいこと探し」の風潮があると言われますが、
やりたいことって、やってみた経験のその先にあるものですよね。
で、やってみると、実はやりたくないとわかったり、
反対に次から次にやりたいことが出てきたり。
そこで、どれもこれもやりたいと思った時、今度は、
「いや、待て、人生は短いぞ。いったい何に絞るんかい」と自問したり。


だから、まずは「やってみるが先」だなとつくづく思いました。
ま、生き方に正しい答えなんてないけれど(笑)
素敵な1週間をお過ごしください!

オリンピックのチケット、あなたは申し込みましたか?
私は、当初、申し込むのを忘れていて、
最初の締め切りだった5月28日23時59分を過ぎてしまい、
締め切りが29日午前11時59分まで延長されたからこそ、
申し込みができ、なおかつ当選することができました!!


当選したのは、「女子サッカー」ばかり、なんと3日間!
・7/28 1次ラウンド
・7/31 準々決勝
・8/03 準決勝
周りからは「3つも当たったの?」と驚かれ、
妹からは「もう一生分の運を使い切っちゃったね」と言われました。


確かに当たらないだろうなと思って、開会式、パラリンピック、テニス、、、
ざと20万円分ぐらい申し込みました。
でも、同じように20万円ぐらい購入しても、全ハズレの人はいたようなので、
やっぱり「一生分の運」で当ててしまったのかもしれません。
結果としては、3種6枚のチケットで36,000円。
「女子サッカー祭り」になりました!


さて、、、
私は、当選したら誰と行くかを決めずに申し込んだわけですが、
今回のオリンピック、ダフ屋排除という目的からでしょうか、
購入手続きをする際に、行く相手の名前を入力させられます。(途中変更は可能)
ですので購入手続きで、私も誰と行くのかを検討し調整しました。


誰を誘うかを考えるにあたって、
私は「熱量の高い人」と行きたいと思い、それを基準にお誘いした感じです。
なぜかというと、熱の低い人と行くより、高い人と行く方が、
思う存分楽しめそうな気がするからです。
で、熱量の高い人を探し求めていくと、
結局は発信とリンクしているのだと感じました。
「発信=熱量」。今日はそれをお伝えしたくて書いています。


「当たったんだけど、行かない?」。
女子サッカー準決勝について、最初に誘った相手は、
当社で一緒にメルマガを書いている阿部貢己です。
彼女は、大のサッカー好き。
なので、熱量の高さから迷わずに誘いました。
しかし、もし彼女が職場でそんな個人的な話は言わない方がいい、
と思っていて、サッカーファンと表明していなければ、
誘いようがありません。
でも、自分の興味を他者に発していると、
やっぱり、その文脈での存在感は高まりますよね。


次に、お誘いしたのは、
facebookでの私の「当たった!」という書き込みを見て、
「羨ましすぎるー 私は全滅でした。」というコメントをくれた
小学校の同級生と、
「私、お供しまーす!」と書いてくれた20年来の友人。
私から見ると、それらの反応から、熱の高さを感じ取りました。
自らチケットを申し込んで、はずれて残念がっているほど行きたかった人、
ダメ元を承知で一緒に行きたいという意思表示をしてきた人、、、
二人とも普段、そんなに発信していない人です。
なのに、コメントがあっただけに、熱を感じました。


今回、チケット当選から人の「熱量」について考えさせられたのですが、
意外と熱を出さない人(出さないのか、ないのかはわかりませんが)が、
多いような気がします。
別に出したくないなら、出す必要もないのですが、、、


ですが、先日、あるセミナーでこういう話をしました。
それは社内広報を担う方たちが集まったセミナーだったのですが、
多くの人に共通する悩みが「なかなか取材を受けてもらえない」とか
「なかなか情報提供で協力してもらえない」というものでした。


そのとき私が尋ねたことは、
「もしかして、遠慮しいしい、お願いしていませんか?」でした。
お願いする際に、
「ご迷惑をおかけして、申し訳ありませんが」とか言ってませんか、と。
というのは、協力を得られない人は、そんなアプローチをしている気がしたのです。
いえ、忙しい相手を立てること自体は正しいのですが、
「遠慮している人」というのは、相手から見ると熱量が低く見えます。
相手は、遠慮しているなと思った時点で、
あまり面白いことに巻き込まれているとは思わず、
むしろ規定演技を義務的にすることが求められていると感じます。
その時点で断りたくなる。。。相手の気持ちを想像するとわかりますよね。


でも!
仮にその話が「おもしろそうな話」に思えたとしたらどうでしょう?
あるいは、「とても有意義なこと」と思えたとしたらどうでしょう?
誇りを持って参加したくなりますよね。


頼みにくく、遠慮が働く気持ちはわかります。
でも、相手はむしろ「いかに重要なことか」を
聞かせてほしいと思っているかもしれませんよ。
だから、まずは自分がその意義を語れる熱量を持っているか、ですかね。
アツけりゃいいというわけではありませんが、
自分が持っている本当の「熱量」と依頼などの振る舞い方での「熱量」、
比較してみると客観視できるかもしれませんね。


素敵な1週間を!

個人的な話で恐縮ですが、私は去年から今年にかけて、
自分のマンションの管理組合の理事として、
2カ月に1度ぐらいの頻度で開催される理事会に出席しています。
マンションに住んだことのない方には、
そのしくみがイメージできないかもしれませんので、
簡単に紹介しますね。
基本、マンション(集合住宅)は住民の自治で成り立っています。
実際には、管理会社がかなりの面でサポートしてくれているので、
住民がゼロから考えるシーンは多くありませんが、
それでも「自治」という原則に基づいて、管理会社が出してくれた情報を判断し、
決断するのは住民...という構図です。


最高決定機関は、全住民が出席する「総会」で、
「理事会」は住民代表の執行機関のようなもの。
その人数はマンションの規模によって異なりますが、
私の住む今のマンションは73世帯あり、
6人が役員(理事5名、監事1名)として選出されるしくみになっています。
そして、理事5名の中から、理事長1名、副理事長1名、理事3名を選びます。
役員は立候補が優先されますが、
一般に多くのマンションでは輪番制で
みんなで交代交代で役割を担うというパターンが多いのではないでしょうか。


この週末、新旧交代の場、つまり現在の役員と
次の役員が集う場が設けられました。
本来は次の役員の役割を決める場、という意味もありました。


新しく輪番制で回ってきた6名のメンバーのうち、
参加は4名、欠席は2名です。
参加4名のうち、女性3名はマンション自治の原則について理解しており、
男性1名はこのようなことが初めてのようでした。


さて、このような状況で、役員を決めるということについて、
人がどう動くのか、私は興味深く観察しました。
その過程で感じることは多々あったのですが、中でも一番、
「ああ、人それぞれ違うものだなー」と思ったエピソードを
1つ紹介します。


それは、欠席している人を巡っての反応です。
いない場で、役割を決めてしまっていいかどうか。
仮にもし全員がここにいたら、なんらかの方法、すなわち
・話し合い
・じゃんけん/あみだくじ等
のいずれかによって、役割を決めただろうと思います。


しかし、欠席している人がいるという事態に直面し、
見方は別れました。
「いない場で決めるのはどうか」
「欠席裁判のようになるのは感じが悪いであろう」
これらの意見は、役割を決めるなら全員同席した上で決めるべきだ、
という考え方です。


ですが、、、私がどう感じたかというと、
出席していない人がいるからといって、決めないのではなく、
「理事会に一任」という委任状が形骸化されないためにも、
出席していない人の分も含めてアミダくじで決めるのもアリだと思いました。


...というのは、、、、
実は昨年、私自身が理事になる年、同様の会があったとき、
私も都合が悪くて欠席しました。
その際に、「理事会の選任の重要な時期に欠席してすみません、
結論はお任せします」というようなことを委任状に記して、
欠席表明した記憶があります。
これを書いた時、一応それなりに覚悟をしています。
どんな役割が回ってきても、受け入れよう、と。
で、そう書いたのに、欠席者がいたからもう一度会を設けると言われたら、
「二度手間にならないために、委任状を出したのに...
私が欠席したからまた場が設けられたのかな、申し訳ないな...」
と私は思うからです。


そもそも輪番制のメンバーは、全員がなにがしかの役割になります。
「私が理事長をやりますよ」という人が現れない限り、理事長は決まりません。
反対に理事長をやりたい人は、おそらくこの日に欠席しないでしょう。
だから、私の意見では、適任かどうかは別として、アミダくじで決めて、
万が一、適任に見えない、頼りなさそうな人が理事長になってしまったとしても、
それを周りが支える...それが現実的にあるべき姿なのではないか、
私はそんなふうに考えていました。


ですが、今回は「いない場で決めるのはどうか」が判断基準となり、
結論は持ち越されました。
私の考え方とは違うなーと感じましたが、
そのほかの無言の意見や、声ある意見にも、
謙虚に耳を傾けることの大切さを痛感しました。
そして、自分とは違ういろいろな考え方があること、
認識すべきですね。

先日、宣伝会議様主催の「企業のための定期勉強会 広報コース」で
「インナー広報」をテーマに約3時間、レクチャーとワークを提供してきました。
「他部門からの協力が得にくい」という共通の悩みがあることを、
事前に伺っていたので、
冒頭で、自分の部門や自分自身の意義を自分が理解せず、
プレゼンスが低いと、協力も得にくい...
と、ちょっと耳障りの悪い話をし、
でも、プレゼンス、つまり存在感は簡単に上げられます、という話をしました。


プレゼンスに一番関係があるのは、「情報発信」の「量と頻度」です。
原因のすべてが情報発信にあると断定するつもりはありませんが、
関係すると言われて、違和感を感じる方は少ないのではないでしょうか。


情報発信は、別の視点から見ると「接触」です。
人は、触れる回数が多いほど好感を抱きやすくなる傾向があると言われ、
その作用は「ザイオンス効果」(あるいは「単純接触効果」)と呼ばれています。
営業やマーケティングではもちろん、恋愛などでも当てはまるようです笑
メルマガなどは送ったからといって「接触」にはならず、
読んでいただいて初めて「接触」が成立します。


また、情報発信には「自己開示」という側面もあります。
一般に「開示度」が高い人は信頼されやすいく、
低い人は何を考えているかわからない人と受け止められる、
これも社会でよく言われることですよね。


「自己開示」と聞くと、
とかくオープンマインドであるべきという話に聞こえるかと思いますが、
そこまで大袈裟な話でなくても、簡単にできることは多々あります。
要は、まず単純に相手から「コンタクトしやすくしておく」ことです。


メールの文章に署名(社名、部署名、住所、電話)があるだけで、
相手は電話をかけたり、郵便を送るのが簡単です。
「コンタクトはお気軽に!」とあるだけで、ハードルが下がります。
企業に所属している場合は社内ルールもあるかと思いますが、
個人でビジネスをしている方を見ていると、署名欄をつかって信条を書いたり、
短い自己紹介を書いたり、工夫をしている例を多数見かけます。
「好きなことば:○○○○○、好きな映画:○○○○○」とか、
「最近おもしろかった1冊:○○○○○」とあるだけで、
話しかけたくなりますよね。

SNSが発達し、個人が誰でも簡単に発信できるようになった今の時代だからこそ、
仕事でもプライベートでも、誰がどんなことに興味を持っているか、
どんなふうに人とつながろうとしているか/していないかが、
お互いに簡単に察せられるようになりました。


当社も、このメルマガやブログ、facebookやセミナーなどを通じて、
情報を発信しています。
こうした活動は2007年頃から少しづつ積み上げてきたものですが、
それを行う以前と今とでは、情報の流れやコンタクトの流れが変わりました。
不思議なことに、情報を発信していると、情報が入ってきます。


いっしょにメルマガを書いている阿部貢己(あべつぐみ)は、
6年間書き続けてきた結果、今や私に次いで対外的に有名で、
新しくお会いする方から、「あなたが阿部さんですか。初対面の気がしません」
と言われることもしばしば。
あなどれませんね、情報発信。

あ、そうそう、先日、私は自分個人のfacebookに
「ゴルフ始めました」と新品のクラブの写真をアップしました。
実際には、初めてではなく、挫折を続けての3度目です。
まだクラブを買っただけで、練習も何も始めていないのですが、
目にした方たちから、「いっしょにやろう」というお誘いを多数いただきました。
練習が苦手なので、それだけでモチベーションが上がりました。
facebookは時々派の私ですが、「始めます宣言」という情報発信で、
自分のやる気がこんなに上がるとは!

信頼関係や存在感、人との繋がりやモチベーション等、いろいろな観点で、
改めて情報を発することの意義を感じる6月第1週。


今週も素敵な1週間をお過ごしください。

ブログを書いている人

小野真由美

グラスルーツの代表。組織をただの集団ではなく、チームにするための組織内コミュニケーションはどうあるべきだろう?…なんていうことを、いつもツラツラ考えています。ブランディングやコミュニケーション、チームやリーダシップ系の話題が7〜8割、その他の話題が2〜3割。そんなブログを目指します。ぜひおつきあいください。

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