ブランディング、コミュニケーション、チームワーク…。週1回の社長ブログです

ブログ

社長の脳みそ整理mono-log モノログ

『コミュニケーション』カテゴリの記事

 

個人的な話で恐縮ですが、私は去年から今年にかけて、
自分のマンションの管理組合の理事として、
2カ月に1度ぐらいの頻度で開催される理事会に出席しています。
マンションに住んだことのない方には、
そのしくみがイメージできないかもしれませんので、
簡単に紹介しますね。
基本、マンション(集合住宅)は住民の自治で成り立っています。
実際には、管理会社がかなりの面でサポートしてくれているので、
住民がゼロから考えるシーンは多くありませんが、
それでも「自治」という原則に基づいて、管理会社が出してくれた情報を判断し、
決断するのは住民...という構図です。


最高決定機関は、全住民が出席する「総会」で、
「理事会」は住民代表の執行機関のようなもの。
その人数はマンションの規模によって異なりますが、
私の住む今のマンションは73世帯あり、
6人が役員(理事5名、監事1名)として選出されるしくみになっています。
そして、理事5名の中から、理事長1名、副理事長1名、理事3名を選びます。
役員は立候補が優先されますが、
一般に多くのマンションでは輪番制で
みんなで交代交代で役割を担うというパターンが多いのではないでしょうか。


この週末、新旧交代の場、つまり現在の役員と
次の役員が集う場が設けられました。
本来は次の役員の役割を決める場、という意味もありました。


新しく輪番制で回ってきた6名のメンバーのうち、
参加は4名、欠席は2名です。
参加4名のうち、女性3名はマンション自治の原則について理解しており、
男性1名はこのようなことが初めてのようでした。


さて、このような状況で、役員を決めるということについて、
人がどう動くのか、私は興味深く観察しました。
その過程で感じることは多々あったのですが、中でも一番、
「ああ、人それぞれ違うものだなー」と思ったエピソードを
1つ紹介します。


それは、欠席している人を巡っての反応です。
いない場で、役割を決めてしまっていいかどうか。
仮にもし全員がここにいたら、なんらかの方法、すなわち
・話し合い
・じゃんけん/あみだくじ等
のいずれかによって、役割を決めただろうと思います。


しかし、欠席している人がいるという事態に直面し、
見方は別れました。
「いない場で決めるのはどうか」
「欠席裁判のようになるのは感じが悪いであろう」
これらの意見は、役割を決めるなら全員同席した上で決めるべきだ、
という考え方です。


ですが、、、私がどう感じたかというと、
出席していない人がいるからといって、決めないのではなく、
「理事会に一任」という委任状が形骸化されないためにも、
出席していない人の分も含めてアミダくじで決めるのもアリだと思いました。


...というのは、、、、
実は昨年、私自身が理事になる年、同様の会があったとき、
私も都合が悪くて欠席しました。
その際に、「理事会の選任の重要な時期に欠席してすみません、
結論はお任せします」というようなことを委任状に記して、
欠席表明した記憶があります。
これを書いた時、一応それなりに覚悟をしています。
どんな役割が回ってきても、受け入れよう、と。
で、そう書いたのに、欠席者がいたからもう一度会を設けると言われたら、
「二度手間にならないために、委任状を出したのに...
私が欠席したからまた場が設けられたのかな、申し訳ないな...」
と私は思うからです。


そもそも輪番制のメンバーは、全員がなにがしかの役割になります。
「私が理事長をやりますよ」という人が現れない限り、理事長は決まりません。
反対に理事長をやりたい人は、おそらくこの日に欠席しないでしょう。
だから、私の意見では、適任かどうかは別として、アミダくじで決めて、
万が一、適任に見えない、頼りなさそうな人が理事長になってしまったとしても、
それを周りが支える...それが現実的にあるべき姿なのではないか、
私はそんなふうに考えていました。


ですが、今回は「いない場で決めるのはどうか」が判断基準となり、
結論は持ち越されました。
私の考え方とは違うなーと感じましたが、
そのほかの無言の意見や、声ある意見にも、
謙虚に耳を傾けることの大切さを痛感しました。
そして、自分とは違ういろいろな考え方があること、
認識すべきですね。

先日、宣伝会議様主催の「企業のための定期勉強会 広報コース」で
「インナー広報」をテーマに約3時間、レクチャーとワークを提供してきました。
「他部門からの協力が得にくい」という共通の悩みがあることを、
事前に伺っていたので、
冒頭で、自分の部門や自分自身の意義を自分が理解せず、
プレゼンスが低いと、協力も得にくい...
と、ちょっと耳障りの悪い話をし、
でも、プレゼンス、つまり存在感は簡単に上げられます、という話をしました。


プレゼンスに一番関係があるのは、「情報発信」の「量と頻度」です。
原因のすべてが情報発信にあると断定するつもりはありませんが、
関係すると言われて、違和感を感じる方は少ないのではないでしょうか。


情報発信は、別の視点から見ると「接触」です。
人は、触れる回数が多いほど好感を抱きやすくなる傾向があると言われ、
その作用は「ザイオンス効果」(あるいは「単純接触効果」)と呼ばれています。
営業やマーケティングではもちろん、恋愛などでも当てはまるようです笑
メルマガなどは送ったからといって「接触」にはならず、
読んでいただいて初めて「接触」が成立します。


また、情報発信には「自己開示」という側面もあります。
一般に「開示度」が高い人は信頼されやすいく、
低い人は何を考えているかわからない人と受け止められる、
これも社会でよく言われることですよね。


「自己開示」と聞くと、
とかくオープンマインドであるべきという話に聞こえるかと思いますが、
そこまで大袈裟な話でなくても、簡単にできることは多々あります。
要は、まず単純に相手から「コンタクトしやすくしておく」ことです。


メールの文章に署名(社名、部署名、住所、電話)があるだけで、
相手は電話をかけたり、郵便を送るのが簡単です。
「コンタクトはお気軽に!」とあるだけで、ハードルが下がります。
企業に所属している場合は社内ルールもあるかと思いますが、
個人でビジネスをしている方を見ていると、署名欄をつかって信条を書いたり、
短い自己紹介を書いたり、工夫をしている例を多数見かけます。
「好きなことば:○○○○○、好きな映画:○○○○○」とか、
「最近おもしろかった1冊:○○○○○」とあるだけで、
話しかけたくなりますよね。

SNSが発達し、個人が誰でも簡単に発信できるようになった今の時代だからこそ、
仕事でもプライベートでも、誰がどんなことに興味を持っているか、
どんなふうに人とつながろうとしているか/していないかが、
お互いに簡単に察せられるようになりました。


当社も、このメルマガやブログ、facebookやセミナーなどを通じて、
情報を発信しています。
こうした活動は2007年頃から少しづつ積み上げてきたものですが、
それを行う以前と今とでは、情報の流れやコンタクトの流れが変わりました。
不思議なことに、情報を発信していると、情報が入ってきます。


いっしょにメルマガを書いている阿部貢己(あべつぐみ)は、
6年間書き続けてきた結果、今や私に次いで対外的に有名で、
新しくお会いする方から、「あなたが阿部さんですか。初対面の気がしません」
と言われることもしばしば。
あなどれませんね、情報発信。

あ、そうそう、先日、私は自分個人のfacebookに
「ゴルフ始めました」と新品のクラブの写真をアップしました。
実際には、初めてではなく、挫折を続けての3度目です。
まだクラブを買っただけで、練習も何も始めていないのですが、
目にした方たちから、「いっしょにやろう」というお誘いを多数いただきました。
練習が苦手なので、それだけでモチベーションが上がりました。
facebookは時々派の私ですが、「始めます宣言」という情報発信で、
自分のやる気がこんなに上がるとは!

信頼関係や存在感、人との繋がりやモチベーション等、いろいろな観点で、
改めて情報を発することの意義を感じる6月第1週。


今週も素敵な1週間をお過ごしください。

私事ですが、なぜか今月は「還暦イベント月間」です。
11日は還暦を祝う高校の同期会、
17日から小学校時代の友人たちとの九州旅行、
本日21日から新卒で入った会社の同期の仲間たちと伊勢参り...。


さて、そんなこともあって、いつもより1日遅れで、
火曜日配信となったこのメルマガですが、
テーマは話すスピードについてです。


あなたは、話すのが速い方ですか、遅い方ですか?


これを取り上げるきっかけは、、、
高校の還暦を祝う同期会で、MC(司会役)を頼まれたことでした。


頼まれた時点で、私が企画運営メンバーに言ったことは、
私は話すスピードが遅いし、スラスラ話すのは苦手だし、
瞬発力が必要な掛け合いのようなことを求められてもできません、
それでもよければ、精一杯やります、、、ということでした。
謙遜ではなく、私の特徴を知っている人は、
その意味がきっとわかると思います。


で、170名の前で話してみてうれしかったことは、
私のMCも結構受け入れてもらえたな、ということです。
ま、お世辞であったとしても、それを真に受けるのが私の良いところです。
結果、いろいろな人から良かったと言われました。具体的には、
「淀みなくスラスラと話さないとことろが良かった」
「アナウンサーみたいじゃなくて良かった」
「自分の気持ちを素直に話したところが良かった」と。


私の場合は、誰から教えられたわけではなく、
性質として「ゆっくり」話すことしかできません(泣笑。
セリフを暗記して演じることも大の苦手です!
でも、話し方専門家の西任暁子さんが「流暢に話してはいけない」と言うように、
「ゆっくり」話すことには、何かしらいい面があるようです。


「速く」話すことができない私が経営者になって、
プレゼンテーション役や講師役、指導役を務める立場になり、
「速く」話す人と「ゆっくり」話す人の傾向についてずっと観察してきました。


「速く」話す人は、おもしろい言葉を瞬間的に発することが得意で、
持っている情報も多く、情報をテンポ良く伝えるのが魅力です。
一方で「ゆっくり」話す人は、周りをお待たせ気味になりますが、
考えを整理しながら話す傾向があり、その考え自体がおもしろい場合が多いです。


「速く」話す人は、考えたことよりも、情報や出来事を話そうとし、
考えたことを話す場合は、考えを整理する前に言葉を発しようとする傾向がある。
「ゆっくり」話す人は、情報よりも、考えたことを話そうとし、
考えや意味を突き詰めていこうとする傾向がある。
...というような気がするのですが、どう思いますか?


そんな二人が対話すると、
「ゆっくり」話す人は、「速く」話す人の話を聞いて、
「それで、いったいどう思ったの?」と感じ、
「速く」話す人は、「ゆっくり」話す人の話を聞いて、
「それで、おもしろかったのはどこ?」と感じたりするのかもしれません。


私の場合、ゆっくり話してしまうその理由は、
多分、意味が曖昧な状態に身を置くことが生理的に嫌いだからです。
意味を掴み、疑問のないクリアな状態でいたいという願望があり、
整理しようとして話すので、時間がかかるのだと思います。


「速く」話す人が、なぜ速く話すのか、私にはわかりませんが、
強みで「速く」話す人と、強みではないのに「速く」話す人がいて、
だいぶ印象が違います。
強みではないのに、「速く」話そうとしている人を見ていると、
会話が途切れることへの恐れを抱いているのかな?とか、
自信がないのかな、と感じることがあります。
そうだとしたら、その恐れの根っこには何があるのでしょうか?


話が少し逸れますが、当社の社内で私が説明を受ける際に、
説明の言葉数は多いのだけど、聞けば聞くほど、
考えが整理できていないと感じることがあります。
言葉数が多くなるのは、上司にはちゃんと説明できないといけない...
という使命感や責任感からだと思いますが、
でも、言葉数が多いというのは、考えを整理できていない証拠でもあるので、
説明の場では、むしろ逆効果だと思います。
そして、なぜか、そういうシーンでは早口で説明されることが多いです(笑


あ、これ、外部の営業の方と初対面でお会いするときにも
感じることがあります。
営業の方が早口で話すのは、元気よく見られたいからだと思いますが、
むしろ自信がなさそうに感じるのは私だけでしょうか。


あなたが、もし強みとしてではなく、
何かの思い込みから「速く話そう」としがちなら、
「ゆっくり話す」ことを試すのも悪くないかもしれません。
もしご興味があったら、「ゆっくり話す」「効用」で検索してみてください。
私自身の課題は、緩急の急を使えるようになることかな。がんばります!


どうぞ素敵な1週間を!

桜が花咲き、春が訪れました。
なぜか心がウキウキするのは、季節のせいでしょうか?
今年に入って多忙続きだったのですが、今月はようやく一段落。
新しいことをどんどんやって行こうと思います!
(1月と4月、私を前向きにさせてくれてありがと〜 笑)


さて、、、
そんな心のゆとりもあって、先週は二人の方と夜、会食しました。
一人は男性Aさん。もう一人は女性Bさんです。
どちらもお客さまでも取引先でもなく、
でも、仕事をきっかけに出会った方たちです。
男性Aさんとの食事は私がアポを申し込み、
女性Bさんとの食事は誘っていただいたのがきっかけです。


仕事をきっかけに出会ったからか、
お互いに自分の仕事の話をよくしました。
そもそも私も含めて、仕事とプライベートで線を引かない人種なのかも。
しばらく会わない間に起きたこと、今の状況、感じている課題、
これからチャレンジしたいことなど。
私も話しますし、相手の方も話してくれます。
なんというか、お互いに飾らずに話している実感がある。
これは、心地よい時間以外の何物でもありません。
さらに、カッコつけないでいることは、距離感をぐっと縮めます。


飾らない心地よさというものに加えて、
そこにあるのは「考える場」の楽しさでした。
 話を聞く。
 興味を持つ。
 直感的な感想を言う。
 質問する。
 考えを言う。
 別の視点の新たな考えが返ってくる。
 質問する。
 また考えを言う。


その結果、自分の人生を豊かにするような発見があり、
その人の新たな一面を知ると言う発見がある。
それも受け身で聞いていたのでは起きようがなく、
興味を持って話を聞き、
その話を元に自ら考えるから楽しいのだと思います。
「考える楽しさ」というのは、上辺だけの関係では生まれない、
飾らない関係だから生まれる楽しさですね。


もうひとつ気づいた点があります。
忘れた頃に再会する...という傾向、私の人間関係にはあるようです。
Bさんとはたまたま3カ月ぶりでしたが、
Aさんとは3年ぶりでした。
なのに、久しぶり感からくる「ぎこちなさ」はまったくありませんでした。
Aさんだけではありません。
ここ数カ月の間に何人かの方たちと数年ぶりに会いましたが、
どの相手とも、まったく久しぶり感を感じませんでした。
これ、ほんとうに不思議です。


久しぶりに会って、普通ならぎこちなくなりそうなものなのに、
お互いがそうならないのはなぜなのでしょう?
答えは誰にもわかりませんが、
自己防衛しないで接すると、相手もオープンに接してくれる。
フラットな接し方をすると、相手もそのように接してくれる。
どちらからともなく、そんなことが起きている気がします。
私自身は、それがもう自分らしさなので、
あえて意識しなくてもそうなってしまっている気がします。
お互いがそうであると、最初からオープンでフラットな場になり、
「何を話そう?」「沈黙が怖い」「よく思われたい」という心理に陥ることもなく、
あっというまに自分らしく振る舞い合える場が生まれます。
私のこの仮説が正しいとしたら、
自己防衛しない、オープンかつフラットでいる、
つまりは「飾らない」というのは、
心地よい人間関係を作るもっとも手っ取り早い方法かもしれませんね。


飾らない話、飾らない関係を大切にする人。
自分らしくあることを大切にする人。
そんな人たちが集まった会社。
その先にある社会。
そういう理想を掲げ続けたいな。

4月第2週目です。
素敵な1週間でありますように!


週末、伝説のロックバンドQueenとそのリードボーカル/フレディ・マーキュリーの
実話に基づく映画「ボヘミアン・ラプソディ」を観てきました。
ここに書くことは、ネタバレ(というよりもある程度知られている実話バレ)を含みますので、
これから観る予定がある方でストーリーを知りたくない方は読まない方がいいかもしれません。


私がQueenの存在を知ったのは、確か中学生の頃でした。
まだCDさえなく、お年玉でレコードを買い、友達と貸し借りするのが楽しみだった時代です。
音楽情報は雑誌「rockin'on」などからしか入手できませんでしたが、
「ボヘミアン・ラプソディ」のプロモーションビデオ(上の動画)が
テレビで取り上げられていたことは覚えています。
曲は6分と異例の長さ。オペラ的なロックと当時話題になりました。
Queenとフレディに敬意を評し、映画のプロモではなく、原曲のプロモを掲載します。
当時、プロモーションビデオ自体が珍しかったんんじゃないかしら?


この映画のすごさは、本物を見ているようなど迫力です。
姿、動作、歌声、演奏...。
どの演奏にもすべてに魂が込められていて、
それがモノマネとは違う本物感を漂わせたのだと思います。
特にフレディ・マーキュリーがまるで目の前にいるかのように、
このクオリティで再現されたとは! ラミ・マレッタの演技力と歌唱力は圧巻です。
あまりの迫力に、Queenを知らない若い世代も感嘆しているに違いありません。


さて、ここからが本題です。
そういうシーンの一つ一つに感動しましたが、
もう一つ感動もし、考えさせられもしたシーンがありました。
それは、人気絶頂の頃、フレディはソロで活動することを宣言し、
バンドのメンバーと仲違いをしてしまいます。
お互いがお互いを家族のような存在だと思っていただけに、
メンバーにとってそれは一種裏切り行為でした。


でも、フレディにとっては、
自分の力だけで新しいチャレンジをしたくなっただけだったかもしれません。
でも、結論からいうと、それはうまく行きませんでした。
ソロとはいえ、音楽づくりにはミュージシャンと組む必要があります。
でも、言われたことを言われた通りにしかやらないミュージシャンたちを見て、
フレディはいかにQueenの他のメンバーの存在が大きかったか、悟ります。
そして、彼は「謝る」機会をもらい、復帰するのですが、


その時、彼は「自分は、傲慢で、自分勝手で、最低のクズだった」と自ら言います。
フレディは、人生で大切なもの、失いたくないものがわかったから、本気で謝った。
あれだけプライドの高い人が、こうやって本気で謝る姿を見て、私は感動しました。
本気ってすごいパワフルです。
そして、本気の人、真摯に心から謝っている人を、人は見捨てないんですね。


私たちは過ちや失敗を犯した時、ついつい自分を正当化します。
これは自分のせいではなく、○○が原因だ、
自分が最後までやりきれなかったのは、○○がこう言ったからだ、
○○が起きなければ、自分はこう行動しなかった。。。
そして、自分を正当化している間は、
いくら謝っても、大抵は形式的なものにしかなりません。


最近私はある友人との関係を自分から壊してしまったのですが、
最初の1週間は自分を正当化しました。
でも、今は本気で謝ろうと思っています。
そう思ったのは、この映画を観たからではありませんが、
映画の中で響いたところには、私らしい価値観が現れている気がします。
本気で謝るとき、どう受け止められるかを気にしていてはダメですね。
ただただ本気で謝るだけ。
それを今月中にするつもりです。←決意!


いよいよ12月に突入しました。
慌ただしい季節ですが、素敵な1週間をお過ごしください!

今週11月29日、グラスルーツは満34歳、35周年目に突入します。
月並みな表現で恐縮ですが、皆様に支えられて今日があります。
本当にありがとうございます。


だからというわけではありませんが、今日は、「信頼」の話です。
仕事での信頼というよりも、人間関係における信頼です。
あなたは、人との信頼関係を大切にしていますか?
こう聞かれて「していない」と答える人はいないと思います。
では、あなたにとって、信頼関係を大切にするために、
自分が大切にしていることは何ですか?と聞かれたら、
あれ、何だろう?と少し考えてしまいますよね。
では、これまでを振り返って、信頼が損なわれたと感じた経験、
誰でも多少なりともあると思うのですが、それはどんな時でしたか?


こうやって考えてみると、言葉にするとわずか二文字の「信頼」ですが、
信頼を生んだり、失くしたりする原因となる要素は、
とても多岐にわたっていることに気づきます。


信頼に影響を与える要素にはいろいろなものがありますが、
今日は「言行一致」「言行不一致」と信頼関係について考えたいと思います。


人付き合いにおいて意思表示をするときのパターンは、
こんなふうに4つに分類できます。


1.「する」と言って、する
2.「する」と言っておきながら、しない
3.「する」と言わずに、する
4.「する」と言わないし、しない


「する」中身にもいろいろあります。
「〜を引き受けます」「行きます」「また連絡します」
「今度お誘いします」「今度差し上げます」などなど。


以前から人の言行パターンはいろいろあるなと思っていたのですが、
自分が展覧会を開くようになってから、
意思表示系の言行パターンは結局この4つしかないことに気づきました。


展覧会では「行く」と予告して実際に来てくださる方もいますし、
「行く」と言っていても毎回来ない人は来ないですし、
何も言わないけれど、予告なく現れる人も大勢います。


ですが、行くと言っておきながら来ない2番の行動を
一概に悪いと決めつけるつもりはありません。
つまりその裏には当日の事情もあるでしょうし、
そもそも社交辞令ってこともあるでしょうから、
それ自体について何ら咎めようとは思いません。
私自身、どうしても必要があるときは、
土壇場でリスケをお願いすることだってあります。
でも、同じパターンを繰り返す人に対しては、
やがて「それがこの人の行動パターンなのだ」と思い、
そのうちに「あの人はどうせ来ない」と思うようになります。


行く行かない以外にもいろいろありますよね。
クラス会幹事をやると引き受けたのに、やらない、
その人に何かを任せると、大抵話が進まない等。
まあ、そんなことで誰も目くじらは立てませんが、
その人への信頼感は暗黙の中で下がっていきます。


クラス会幹事というような役割が明白なことは別として、
もっと小さなことでも、人は相手の言行が一致しているかどうか、
無意識に感じ取っているのではないでしょうか。


たとえば、別れ際にいう言葉も意外と重要ですよね。
「また機会があったら会いたいですね」はいいとして、
「連絡します」を使う人もいますが、
連絡がないままで終わるということもしばしばあります。
だから私は「連絡します」を軽々しく言いませんし、
言った場合は必ず連絡することを心がけています。


似たような言葉で「近メシ」という言葉もありますね。
「近いうちにメシでも食おう」と言いながら、決して実現しないというアレ。
社交辞令としてしばしば使われる決まり文句です。
こんなことを考えるのは少数派だと思いますが、そんな社交辞令、私はいらないな〜
もし言うのなら本当に実現させたいと思って行動する時だけ言ってほしい(笑
だから、変にサービス精神を発揮するよりも、
するつもりのないことは言わない方が、信頼を損ないませんね。


では、3番の行動に対して、私たちは言行不一致だと思うでしょうか?
3番目は「言わずに、行動する」です。
ある意味、言行不一致なのですが、がっかりさせる要素がないため、
それを言行不一致と思ったり、信頼できないとは思いませんね。
むしろ、言葉がなくても、行動が伴っているので、信頼感は絶大です。


4番の「言わないし、行動しない」に対してはどうですか?
別にこの行動に対しても、何の期待も持たないからか、
信頼感が下がるとは感じませんよね。


だから、結局、信頼に影響があるのは、2番の行動、
「言っておきながら、しない」を繰り返すことです。
おそらく悪気はなく、根っこにあるのはサービス精神。
ですが、周りは期待させられるがゆえに、結局がっかりさせられる。
そうこうするうちに、信頼せず、期待しない関係へとシフトしていきます。
それはもったいないことです。


人のことはわかるのに、自分のことは気づきにくいものです。
私も、していないつもりで2番行動を取っているかも。
そんな戒めで始まる11月最終週です。


どうぞ素敵な1週間でありますように!

あなたはフィードバックされること、好きですか? 嫌いですか?

先日、ある会社の方とフィードバックを切り口に部下指導が話題になりました。
その方曰く、「フィードバックしやすい人と、しにくい人がいる。
しにくい人というのは、最初からバリヤーを張っていて、
フィードバックを歓迎していないことがすぐにわかる。
でも、本人はそういうオーラを自分が出していることに気づいていない」
そんな話でした。
要するに、プライドが高い人へのフィードバックは難しい、という話です。

私も、過去30年以上、部下を見ていて、
フィードバックを歓迎しない部下は一定割合いるので
(というか、多くの人はフィードバックに困惑気味...と思っているので)、
この話を聞いて、そうだろうなと思いました。

で、フィードバックの種類にもいろいろありますよね。
長期的な課題を伝えることもフィードバックですし、
今提出されたドキュメントに対しコメントすることもフィードバックです。
イメージをクリアにして話したいので、
ここでは提出されたドキュメントへのフィードバックを前提に書くことにします。

提出されたドキュメントへのフィードバックが歓迎されない場合、
相手の心の中でこんな反応が起きているような気がします。

「なんでこれでダメなの?」OK水準がわかっていないからくる反発
「それは小野さんの意見ですよね?」上司と違う意見は否定されるという思いからの反発
「そんなに出来が悪いでしょうか...?」自分の力量が否定されて不快
「え、もう時間がないんですけど...」時間が取られ、工程が乱されて不快


こうしたことが起きるのは、
多分、フィードバックは自分のためにあると思えていない上に、
自分一人では気づけないことがあると思えていないからです。
さらに、品質についても、自分ひとりのアウトプットに対して、
上の上のそのまた上があると思えていないからです。

だから、まず「小野さんは自分の成長のために言ってくれている」
思ってもらえる信頼関係を作ることが最初の仕事かもしれません。
そうしないと、フィードバックはまず機能しませんね。
それと高いレベルのアウトプットを要求するなら、
そういう合意を先に作る方が大切で、
私たちは三流ではなく、一流を目指すと合意できていれば、
「なんでこれでダメなの?」という疑問も消えていくような気がします。

そんな合意があってもなお、人は誰でもフィードバックされること、
否定されることがイヤなのだと思います。


で、ここで新たな問いが生まれてきました。
人は、どうしてフィードバックを否定と捉えてしまうのでしょうか?
そもそも、そこに問題があります。

というのは、先に「フィードバックを歓迎しない部下は一定割合いる」と
書きましたが、実はフィードバックを喜ぶ社員も一定割合います。
彼らに確認したわけではありませんが、
おそらくフィードバックを「否定」とは捉えていません。
あくまで「材料」と捉えています。
「否定」と捉える人は、フィードバックについて
「否」を「是」に変えるための「指摘」と捉えています。
でも、「材料」と捉えている人はそうは捉えず、
もっとより良いアウトプットをするための材料、
もっとより良い考え方を身につけるための材料、
もっと自分が成長するための材料、と捉えています。
そこから自分がどう咀嚼するかは自分次第と受け止めているように思います。


さて、かくいう私がフィードバックとどう付き合っているかというと、
私は社長なので、放っておくと、フィードバックされない運命にあります(笑
フィードバックされない社長がどうなるかというと、
みんなが知っているアンデルセンの童話「裸の王様」のようになります。
なので、私はそうならないために、
フィードバックを得られるように努めてきたと思います。
それでもきっと100のうち50ぐらいしか得られていないんだろうな~
そうやって得た貴重なフィードバックからまた思考を深め、行動して、、、と
そんなことをやってきたような気がします。
で、ここで気づいたのですが、裸の王様になる懸念、
社長でなくても誰しもありますね。


最後に、最初の質問と同じ質問です。
あなたはフィードバックされること、好きですか? 嫌いですか?

私は先週風邪で3日間お休みしました。
今週は元気に過ごしたいものです。
風邪、流行っているようなのでお気をつけください。
どうぞ素敵な1週間でありますように!

先日、深夜の「ためしてガッテン」再放送で、
アイコンタクトが認知症の改善に役立つ...というのを観て、すごく納得しました。
認知症の方は視界がとても狭くなるらしく、
普通なら視界に入るであろうと思える場所にいる相手も
実は見えていないことが多いのだそうです。
だから、正面からアイコンタクトをせずに話しかけると、
相手がどこにいるかわからないという不安があって拒絶されたりするそうです。
真正面から目を合わせて話すことで、信頼感や安心感が生まれ、
関係は劇的に変わる、そんな事例が紹介されていました。

興味深かったのは、赤ちゃんの実験。
同じぬいぐるみを2つ見せながら、赤ちゃんがどちらを選ぶかというものでしたが、
手渡す相手が目くばせするだけで、赤ちゃんはその意図通りにぬいぐるみを選びました。
目は口ほどにものをいうと言いますが、
人の動物的な感受性はまだまだ生きているんですね。
私たちは、この言葉以外のノンバーバルコミュニケーションの影響に対し、
もう少し自覚的であるべきかもしれません。


目を合わせることは、ビジネス社会でもとても重要です。
耳だけ向けて「聞いてるよ」という反応をしてしまったり、
ポーズは聞いているようで、実は「今じゃなきゃダメ?」という態度であったり。
心から目を合わせているのといないのとでは、伝わることに雲泥の差が出ます。


さて、前置きが長くなりましたが、
私たちが注目すべきは、「目を合わせる」ことだけではなく、
ボディランゲージの重要性についてではないか、というのが今日のテーマです。

これは、若かりし頃の私の体験からも思うことです。
私が新卒で入社した某上場企業で、私は専務の秘書を務めていました。
その専務は、社内でも一番怖いと評判の方でした。
課長クラスの多くの方は専務室に入るというだけでも、
私から見てもビビっているのがわかりました。
そういう方に対して、専務はよけいにイライラしていたようです。
けれど、そんな専務でも一目置く方が二人いました。
経理部長と財務部長。お二人はまったく臆することなく、専務と接していたのです。
振る舞いも堂々としていて、むしろそんなお作法で大丈夫なの?と思うほどに、
よく言えば自然体で振舞っていました。

そんなことをきっかけに、私は感じ取りました。
話している内容以上に、振る舞い方(ボディランゲージ)によって
人は認められたり、相手をいらだたせたり、
あるいは、周りを不安にさせたり、本音を言いにくくさせているのだ、と。
と同時に、自分自身もボディの構え方によってマインドが変わると気づきました。


世界最高峰ハーバード・ビジネス・スクールの注目教授であり、
著書「〈パワーポーズ〉が最高の自分を創る」で知られる
エイミー・カディがプレゼン番組「TED」で
人が自分に自信を思って力に溢れている時と、
反対に無力だと感じた時とではポーズが違うと話しています。
力に溢れている時は、体を伸ばし広げるが、
無力感を味わっている時は体を縮めている、と。
オリンピックなどでの勝者と敗者のポーズを思い浮かべると、
彼女の言わんとすることがわかります。
彼女は、体を伸ばし広げることを力強いポーズと呼び、
反対に、体を縮めているポーズを力の弱いポーズと呼んでいます。
そして、フリでもいいから力強いポーズを取ることで人生が変わると語っています。
自分はできるという自己暗示が重要なように、
ポーズ(立ち姿勢)という形から入ることによって、
マインドも変化する、だからこそポーズが重要だということのようです。


これらの話から思うことは、
人に自分の力を周囲に認めてもらうためのボディランゲージと、
人に自分に対して安心感や信頼感を持ってもらうためのボディランゲージは、
まったく違う方向性にあるということです。
でも、人間関係をより良くするには、実はどちらも大切ですよね。
それは左右対極にあるのではなく、縦軸と横軸のような関係にあります。


私自身も、どちらも少しはできていて、まだまだ突っ込みどころは満載。
でも、そうやって理想を持ったり、自己チェックの尺度を持ったりしていると、
少しづつ理想に近づいて行くのではないでしょうか。そうありたいなー
今週は11月に突入。今年もあと2カ月です。
私は先週のブログに、自分が今年何ができて、
何をしたいのにまだしていないかと書きました。
お互いに残る2カ月を満喫して、2018年を終えましょう!
まずは今週が素敵な1週間でありますように!

当社がたとえば30年後、どうなっていてほしいのか、
最近、考える機会が増えました。
と同時に、こんな小さな会社がなぜ30数年以上も続いて来たのか、分析してみたり。

で、改めて今日まで存続できた理由を考えてみると、
その一つに「損得は二の次」という考え方があったからではないかと考えています。
いえ、ビジネスですから、損得はどこかで考えますが、
判断基準の上の方にそれがあったかというと、なかったと思うのですね。
判断基準の上にあるのは、あくまで経営としての、人としての、
「理想」とか「美意識」でした。

で、その理想の中心にあった一つの姿が、
オープンに自然体で意見を言い合い、
リスペクトし合う対等な関係の中で仕事をするというものでした。
社内はもちろんですが、お客様やパートナーともです。
そこに損得勘定はありません。それはポリシーでした。

社内で言うなら、ミーティングの場はもちろんですが、
新入社員でも社長の私に意見を言えるように。
もちろん、理想にしていることが必ずできていたかといえば別問題。
素直に聞けず、それが原因で軋轢が生まれたこともありました。
で、どうするかといえば、謝るわけです。
なぜなら自分の非を認めず謝らない社長はカッコ悪いから。
それが、私の「美意識」でした。

で、「意見を言いやすくする」「意見が言えない会社に未来はない」と
という考え方は、実はどの会社の存続にとっても大切だと思います。

ところが、、、、
最近の社会の風潮としては、意見を言わない人が増えていると聞きます。
これについては、阿部が9/9付のメルマガ
「その場、『言う場』?『言わない場』?」でもエピソードを挙げていますが、
いかにもありそうなことだと感じ、だからこそよけい憂うべき日本を感じます。

いったい日本はいつからそうなったのか、
「言わない」「発言しない」の根底に、いったいどんな気持ちや価値観があるのか、
想像してみました。
で、そうなってきたその原因について、3つの仮説を考えてみました。

【意見を言わない理由1】根底にある価値観に「損得」があるのではないか?
発言して、人から「会議を引っ掻き回した」と文句を言われる、
発言して、人からその発言は「的を射てない」「おかしい」とバカにされる、
発言して、人から「お前の発言で会議が長引いた」と文句を言われる、
発言して、想定外の面倒な役目が回って来てしまった。。。
多分、そんな原体験があると、そんな損をしてまで発言するのはバカらしい、
そう思うようになるのかもしれません。
いえ、そんな体験がある人自体は少ないのだけれど、
他人のそういうシーンを目の当たりに見ると、
ああいう立場にはなりたくないと思うのでしょうか。

【意見を言わない理由2】根底にある行動基準に「空気読む」があるのではないか?
今の日本の、空気を読めという空気、私はちょっと異常だと感じているのですが、
仮に周りの誰かから「空気読めよ」と言われたら、普通は萎縮しますよね。
自分が言われていなくても、言われている人を目の当たりにしたら、
同じ目に遭いたくないと思うことでしょう。
直接「空気を読め」と言われていなくても、
「意見を言うな」「否定をするな」というオーラを出す人がいたら、
オーラだけでも行動が変わってしまうかもしれません。
この場合、オーラを出す人と、オーラで忖度する人、
いったいどちらがどう変わると、組織は良くなるのでしょうか?

【意見を言わない理由3】考える習慣がなく、自分の意見が不明瞭なのではないか?
最近聞いた学校教育の話では、
「考える」プロセスなどまったく重んじられていないようです。
考える習慣がないことを学校教育のせいにしていいかどうかはわかりませんが、
実際社会人の中にも「考える」ことに慣れていない人、
考えることを途中でやめてしまう人はとても多いと思います。
学校でも社会でも考えることを要求されない、あるいは
考えることに意味が生まれない環境で暮らしてしまうと、当然そうなりますよね。

もしかしたら、私が思いもつかない第4、第5の理由もあるかもしれません。
でも、この3つに限って言うと、私は原因は一つではなく、
どれも相互に少なからず関係しているのではないか、と思います。
とはいえ、その中でも一番の根っこにあるのは、「損得」なのではないでしょうか。
損得から発言しなくなる。空気を読むのも、損得が判断基準になっているから。
損得から発言しないことを是としたら、考える必要もなくなるから、当然考えない。

でも、損をしないために発言しないという考え方には落とし穴があります
なぜなら、それをやり続けると自分の価値、存在意義を発揮できません。
というのも、多くの人は発言しないわけですから、
同じようにしていたら存在価値を発揮できないわけです。
価値が発揮できないと、精神的にはやりがいが得られない、
経済的には稼げないなどの影響を受けます。
それだけでも十分に損害を受けるわけですが、それだけではありません。
最近では、ロボットに仕事を奪われる可能性さえ出て来ました。
自分を守って損しないように行動してきたつもりが、
結局は経済的にもやりがい的にも損を生み出す。
だから、損しないために発言しないはナンセンスだと思います。

さて、、どんな会社にも文化があり、発言しにくいこともきっとあることでしょう。
でも、あなたの意見が風穴を開けるかもしれません。
意見を言える世界とは、正解が1つという世界とは違います。
意見を言える会社、意見を言う個人。それ自体に意味がある。
そういう存在が増えると、日本は変わっていけると思うのですが。。。
意見を言うことについて、あなたはどう感じ、どう行動していますか?

どうぞ素敵な1週間を!

PS)あ、そうそう、最後に個人的な活動の宣伝をさせてください。
「DENIM AGE(デニムエイジ)~自由であるということ」というテーマで
個展を開きます。ご興味があり、お時間が許せばお運びください。
期間:10/11木~10/17水(11時~19時。最終日は15時まで)
場所:ギャラリー「Concept 21」(表参道徒歩5分)
〒107-0061 東京都港区北青山3-15-16
Tel.&Fax.03-3406-0466(画廊)

今日は、冒頭からちょっと脇道にそれて、お知らせを。
私事ですが、10月11日(木)から17日(水)の7日間、
表参道のギャラリーConcept21で「Denim Age~自由であるということ」
という個展を開きます。
「デニムエイジ 自由であること」で検索してみてください。
ほぼ在廊していますので、お時間が許せば、お気軽にお立ち寄りください。
私は、仕事でやりたいことと個人的にやりたいことが心の中で繋がっていて、
幸せだな、と思います。
どこかで、もう少し詳しく話させてくださいね。


さて、、、今日もそんなことと無関係ではありません。
最近の当社社内の重要な話題、それは、理念やありたい姿についてです。
18日の今日もそんなミーティングを行う予定です。

そんな中、行動面での「謙遜」についても話題になっているので、
今日は、「謙遜」について、真正面から考えてみたいと思います。
というのも、当社の価値観には、不必要にへりくだったり、
不必要に自分で自分を下げることを「非」とする考え方があります。
社内も社外も上も下もなく、対等な関係であることを「是」としているからです。


謙虚、謙遜、卑下。
これらは、本来違うのに、意外にごっちゃになって捉えられている気がします。
特に日本社会では、謙虚謙遜は美徳とされています。
でも、この二つは本質的に違うことです。
いったい、どう違うのでしょうか?

ゆっくり考えてみましょう。
今、謙虚を辞書で調べると、
「自分を偉いものと思わず、すなおに他に学ぶ気持があること」です。
つまり、基本的には学ぶ姿勢や他者との関わり方に関する姿勢を表しています。

一方の謙遜の辞書的な意味は
「へりくだること。控え目なつつましい態度でふるまうこと」です。
「へりくだる」というのは
「他人を敬って自分については控えめな態度をとること」です。
これだけを聞いたら、一概に悪いこととは言えません。
でも、言葉の意味からわかることは、
この言葉は「振る舞い」を示しているということです。

つまり、謙虚=姿勢、謙遜=振る舞い、なので、
謙虚な気持ちがない人が謙遜して振る舞うと、
あるいは単なるお約束として、その振る舞いをすると、
それは単なるポーズにしか映りません。
人の嗅覚は鋭く、それはいとも簡単に見抜かれます。

謙遜表現の中でも、私があまり好感を持たない例を挙げると、
まず身内を悪くいう「愚妻」「愚息」。
褒められた時に返す「いえいえ、私なんて...」。
自分を下げて相手を持ち上げる「私には到底思いつきませんが、さすがですね」。
露悪的にエクスキューズして「自分はおばちゃんだから/太っているから~」。

これらは決して「謙虚」さの表れではありません。
これらは「卑下」、一歩譲ったとして「謙遜」です。
「卑下」とは、「自分を人より劣った者として扱うこと。
へりくだること。謙遜すること」です。

「卑下」は字面も美しくありませんが、
字面から浮かぶ行為も美しくない、と思いませんか。
だって、自分を卑しめ、自ら自分の評価を下げようとするのですから。


謙遜と卑下は、本来的には違うことですが、「振る舞い」であることは同じです。
そして、この振る舞いをされた時に、私たちが感じるのは、、、、

実は「負担」。

「ご謙遜、ご謙遜」というセリフがあります。
あれは、謙遜されたら言い返すお約束のセリフでもあります。
これ、はっきり言って、面倒な慣習ではないでしょうか。
だって、「何をおっしゃいます、そんなことはありません」と
否定しなくてはならない。
内心はポーズとして言っているのだと分かっているのに、
わざわざケアする(これまたポーズで)。
よーく考えてみたときに、これ、本当にお互いやりたいことなのでしょうか。


あー 私、エラそうに書いていますね。でも、私もかつて痛い経験があります。
40歳頃だったでしょうか。
同級生と飲んでいました。で、私がこんな発言をしたのです。
「ごめん、もうおばちゃんだから...」とか
「おばちゃん、もうついていけない...」とか
文脈も言い回しも忘れてしまいましたが、
キーワードが「おばちゃん」だったことだけは今でも覚えています。
それほど深い意味もなく、
多分、ちょっと自虐的に軽く言っただけのつもりでした。
そしたら、その同級生は素晴らしいことを私に教えてくれました。

「実際に、もうおばちゃんなんだから、
こっちが気を遣ってカバーしなくてはならないようなことを
言わないでくれる?」と。

おばちゃんとおじちゃんが飲んでいるのに、
おばちゃんじゃないよと言わせるな、と。
これは、私にとって人生で重要な教えの一つでした。


サッカー、野球、テニスなど、
一流のスポーツ選手は決して謙遜しませんよね。
でも、謙虚です。
謙虚ではあるけれど、謙遜はしない。
その方が単純に美しい。そういう生き方をしたいものですね。

今週も素敵な1週間でありますように。

 

ブログを書いている人

小野真由美

グラスルーツの代表。組織をただの集団ではなく、チームにするための組織内コミュニケーションはどうあるべきだろう?…なんていうことを、いつもツラツラ考えています。ブランディングやコミュニケーション、チームやリーダシップ系の話題が7〜8割、その他の話題が2〜3割。そんなブログを目指します。ぜひおつきあいください。

社長メッセージを見る >>

これまでの記事

視点発見の旅
メルマガ【開-CAY】お申し込み

ご一緒に「視点発見の旅」へ!
メルマガは「開-CAY」で届きます

詳細を見る >>

「個人情報の取り扱いについて」

このページのトップへ