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『コミュニケーション』カテゴリの記事

 

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リモートワークも日常になり、コミュニケーションのあり方も、

徐々にスタイルが確立されてきたのではないでしょうか。
そんな中で、雑談のあり方は、どんなふうになっていますか?

雑談への捉え方は、コロナ前でも二手に分かれていたような気がします。
一つは、自分のペースを乱されて、集中できない「無駄な時間」という捉え方。
もう一つは、誰かと親しくなったり、刺激を受けたり、化学反応が起きる、
「プラスの時間」という捉え方。
さらに、3つ目を挙げるなら、両方感じるという人もいるでしょう。


私自身は、2つ目の「プラスの時間」という捉え方をしています。
その第1の意味は、部下と関係を育む時間と捉えているのだと思います。
まず、雑談である/ないに関わらず、
話しかけやすいとか、話しかけると聞いてくれるとか、
上に立つ自分はそうありたいので、雑談によって邪魔された
という見方をするような自分でありたくないですし、
言い換えれば、雑談する時間は関係を育む時間だと思っています。

加えて、雑談はクリエイティブの温床であり、
成長の温床だと思っている、というのもあります。
雑談は、余白という意味での「あそび」の部分。
1日が、きっちり息の詰まるような時間ばかりだったら、
新しい発想なんて生まれてこないと思っています。
人って、他の人の発した言葉や取った動作などから、
たくさん学習しています。
出勤している日ほど、たくさん雑談をした方がいい、
そんなふうに考えています。

でも、これは、忙しい時に雑談したら、キラーンと発想が湧いてきた...
という体験があればこそ。そういった体験がなかったら、
やっぱり「この忙しい時に雑談? 意味わかんなーい」と思っているでしょう。

雑談派の私が、雑談のメリットを列挙すると、
なーんか、押しつけがましいですよね。
でも、ひるまずにやってしまいますよ! お付き合いください(笑

あ、でも、その前に、そもそも「職場での雑談」ってなに?
という話があります。
世の中には「目的を設定しないおしゃべり」という捉え方もありますが、
ここでは「無目的に自分らしさを出し、普段着で本音を出し合うおしゃべり」と
捉えることにします。

そうだとして、そのメリットは何か?

自分らしく話し、相手のその人らしさに触れることができる結果、
・距離が縮まり、人間関係が良くなる(知識ひけらかし系でない限り)。
・相手が喜ぶことがわかり、機会があったら、相手のためにできることをしたくなる。
・気軽に思いつきを話せる関係となる結果、実行したいアイデアも話せる。
・自分が知らない相手の知識について「教えて」と言えて、学べる。
・本音を話すことで、自分の中の閉塞感を手放せ、ストレスが減る。
・近い環境にあることから、孤独にならず、仲間意識が持てる。

まあ、そんな感じでしょうか。


当社は、大企業の課とかグループぐらいの人数で、
毎日、定例ミーティングを行っています。
で、始まりは、その日の健康状態と仕事とはまったく関係のない雑談です。
毎回、進行役がお題を出します。
それは、言ってみればどうでもいいことだらけ。たとえば...
・高校時代に戻って、部活をやるなら、何をしたいか?
・子ども時代の自由研究で何をしたか?
・涼しくなってきたらか、始めたいことややりたいことは?
使っている時間は毎回15分ぐらいでしょうか。
日によっては、業務連絡がなく、雑談で盛り上がって終わりという日も(笑

しかし、毎日、一言でもそういう言葉を発すると、
お互いに、その人らしさがわかるようになりますし、
会社でプライベートの話もしていいのだという暗黙の合意が生まれてきます。
と、同時に、一見すると非生産的な時間であっても、
それを大切にする会社なんだという価値観も共有できます。

雑談の良い点ばかり、書いてしまいました。
いつかは雑談の注意点も書かないといけませんね。
なぜなら、私は時々ひんしゅくを買っているから(泣笑

さ、涼しくなってきました。
気温の変化に注意して、元気に参りましょう! ありがとうございました。

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今日のテーマは、「理解」や「思考」の仕方の多様性についてです。
一般的に「多様性」というと、属性的な事柄で述べられることが多いですが、
本当は、そこはメインじゃないですよね。
そんな話題をお届けします。

が、その前に、、、、
パラリンピックが始まりましたね。
以前にも増して、パラ選手に対する「かっこいい」「すごい」というムードが
高まっているのが、今回の大会ではないでしょうか。

選手たちのインタビューを見ていて思ったのは、
自分と違う立場にある人たちに関心を持つことの大切さです。

国際パラリンピック委員会(IPC)は、東京2020パラリンピックを機会に、
「WeThe15」というキャンペーンを始めました。
世界人口の約15%にあたる12億人が何らかの障害を持って暮らしており、
だからこそ、障害者が日常的に直面する障壁と差別に対し、
今後10年間で変化を起こそうと、そんなことが目指されています。

知りませんでした。
15%とは...。6人に一人です。
考えてみれば、法律的な区分はさておき、
色弱/色覚異常の人は男性の5%ですし、発達障害の人の割合も6.5%です。
高齢者の認知症を加えると、15%はむしろ控えめな数字かもしれません。

で、自分は85%の側にいるのかといえば、
見ようによっては、そんなことはありません。
他の人ができるのに、自分にはできないことがたくさんあります。
たとえば、私、日常生活に困るほどではないですけど、
固有名詞を覚えるのは、かなり苦手です(汗)

障害という観点ではなくても(たとえば価値観などでも)、
自分にはマイノリティーの一面がある、というのは、
誰もが当てはまることではないでしょうか。


そして、今日の本題。
1行目に書いた理解の仕方や思考の仕方は、人によってかなり違う...
という話、誰もがお互い認識しておいた方がいいかもしれません。

私自身は、体験的に学んだことです。
たとえば、ブレストして結論を出すような状況で、
私は、自分の思考方法がマイナーだとしばしば感じます。

私は、発散、発散、発散と発散型で考え、最後に一気に収束させたいタイプ。
多くの人は、そこそこ発散させたら、
結論に向けて積み上げる部分をじっくり考えたいと思っているようです。
私と彼ら。
何が違うかというと、まず単純に、自分にとって気持ちのいい、
発散と収束にかける時間配分の感覚が違い、組み立てる思考方法が違います。

私の場合、ブレストでの発散時間は長い方なので、
多くの人は「これ、終わるの?」と不安を感じるようです(笑)
まあ、そりゃ、そうですよね。
発散というのは、出口が見えないトンネルの中にいるようなものですから。

で、ある時ある人から、こんなことを言われました。
寺と教会というのは、建築思想が違っていて、
何からどう組み立てるかも違うらしいが、
私たちはそのくらい思考の組み立て方が違うね、と。

寺と教会の建築思想を例にしても、わかりにくいかもしれませんが、
日本庭園と西洋庭園の比較ならもう少し伝わるかもしれません。
日本庭園では、自然の石や樹木によって、あえて非対称の美を求めますが、
西洋庭園では意図的に幾何学的かつシンメトリーな美を求めます。
生理的に「気持ちのいい」まとめ方、進め方が違うわけです。

これは、日本と西洋の発想の違いの話ですが、
思考の組み立て方が違うというのは、そんなことなのかな。
ということは、自分にとって気持ちのいい、あるいは当たり前の、
思考方法を前提にコミュニケーションしては、いけないということですよね。
まあ、そこが難しいんですが。

考える道筋。
人それぞれ違うのは当たり前ですね。
あなたの周りでは、最近、どんなことがありましたか?

あ、9月です! 年内あと4カ月。
4月が期首の場合は、上期の最後の1カ月ですね。
今月も、元気に行きましょう!

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何だかんだといろんな声がある中で始まったオリンピック。
終わりましたね。
選手たちのがんばりに感動をもらったり、
なぜ、ここでそんなことが起きるのか?と思うようなドラマもありました。
私がショックを受けたのは、体操内村選手の落下と、
男子400mリレーのバトンミスです。

特にリレー。
1走の多田選手のバトンが、2走の 山縣選手に渡らなかったのを観て、
テレビの視聴者も茫然としたと思いますが、
何よりも終わった直後のメンバーの心中は察するに余りあります。

平たく言えば、二人の間で起きてしまった悲劇的なミスです。
下世話な話になりますが、内心お互いをどう思ったのか、
桐生選手は「誰も悪くない」と言いましたが、
お互いに「自分は悪くない、相手が悪い」と思ったりしないものなのか、
気になりました。

けれど、チームスポーツで、他責の人とチームを組むのはツラいですね~
できるものなら組みたくないかも。


自責他責という言葉がありますが、
責任が自分にあるのか、他にあるかという意味だから
「責」という文字が入っているのでしょう。

自分自身で、このミスの原因は自分にあると責任を感じるのはいいですが、
自責の念を抱いている時に、誰かから追い討ちを掛けられるように、
「あなたの責任だ」と言われるのはあまりいい気持ちがしません。


ミスが起きた時、原因を追求し、再発防止に努めるのは組織として当然です。
トヨタの「なぜなぜ5回」などは、原因追求の典型的なアプローチとして、
多くの人がご存知なのではないでしょうか。

しかし、なぜなぜ5回は一歩間違えると「原因探し」ではなく、
「犯人探し」のようになる、とはよく言われること。
うー 気をつけないと... (あ、三点リーダーだ!笑)

誰のミスかが明らかな時に、
人は「なぜ?」と聞かれたら、責められているような気分になって、
反発を感じると言われていますね。
じゃあ、どうするかと言うと、「なぜ?」に代わって登場するのが、
「どうすれば?」。
「どうすれば?」を考えようとすると、
自ずと「なぜ」も考えるからでしょう。

うー これも、知識としてわかっていても、
やってしまいそうです。
「なぜ?」「なぜ?」「なぜ?」


「なぜ?」を「どうすれば?」に変えると同時に、
主語を変えるといい、という話もあります。
「あなた」「私」「ミス(事柄)」を主語に、
「なぜ?」「どうすれば?」の疑問文、読み比べてみましょう。

まず、「なぜ」から。
・なぜ、あなたはこのミスをしてしまったんだろう?
 →確かに、原因探究というより、咎められている気持ちになります。

・なぜ、私は彼がミスしないようにできなかったのか?
 →「そこまで自責にならなくても、いいよ、ドンマイ」と言いたくなりますね

・なぜ、このミスは起きてしまったんだろう?
 →上の2つより、原因探求のニュアンスが強くなります。

今度は、「どうすれば」。
・どうすれば、あなたはこのミスをしなかったと思う?
 →「なぜ」よりはマシですが、「当事者はあなた」と突き放された感じも。

・どうすれば、私は彼のミスを防げたのか?
 →ポジティブな「自責感」が感じられます。

・どうすれば、このミスは防げるだろう?
 →コトを叱って、ヒトを叱らず。こう言われたら前向きに考えられますね。

たかが疑問詞、たかが主語ですが、
伝わるニュアンスはだいぶ違いますね。


さて、、、8月も中盤です。
夏バテの方も多いのではないでしょうか。
暑さも空調も辛いですが、気持ちだけは元気にいきましょう!

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すでに先週23日から始まっている東京オリンピック。
たくさんの感動に直面し、私はもう何度も泣いています。

そして、改めて感じたのは、
アスリートたちは、私たちが思っている以上に
さまざまな「苦しみ」と向き合って、ここに至っているということです。

コロナによる1年延期はもちろんですが、自分自身の好調不調により、
うまく行かない、結果が出せるだろうかなど、苦しさや不安と戦ってきた。
さらに、オリンピック開催への反対ムードは、葛藤に拍車をかけたことでしょう。

私たちは、オリンピックに出るぐらいの選手なら「常に前向き」だろう
というイメージを抱きがちですが、みんな人の子なんですよね。

さらに競技の当日のメンタルが、結果に対していかに大きな影響を与えるか、
改めて痛感します。

たとえば、金メダルを取った柔道男子73キロ級の大野将平選手。
「自分の中でも感じたことのない恐怖の中で戦っていた」と語りましたし、

テニスで残念ながら3回戦敗退した大阪なおみ選手は
「プレッシャーにはもう慣れてもいいはずだけど、休んだ後ではより強く感じた。
少なくとも1回戦負けでなくて良かった」と語りました。


スポーツをやった経験のある人なら、
メンタルがいかに結果に影響を与えるか、体験的に知っていると思います。
メンタルにもいろいろな側面がありますが、その1つが「集中」。

私の自分の体験をシェアすると、
ハンドボールでシュートを打ちながら、
一瞬でも「入るかな?」と思ったら、ほぼ間違いなく入りません。
ゴルフも同じです。

しかも、これはスポーツだけではありません。
先日、私が通っている音楽のレッスンスタジオで、発表会がありました。
私が習っているのはドラムなのですが、
叩きながら「あ、ここ間違えたらイヤだな」と思ったら、その瞬間必ず間違えます(イタ!)
幸い、発表会当日は、全集中で臨み、なんとかミスなく叩けましたが(笑)

つまり、「できるかな」「できないとイヤだな」などの気持ちがある時点で、
集中できていないということなんですよね。
没我の境地でいると、できる。不思議。

そして、「自分はできる」というイメージを持つことも、成功には必須のようです。
きっと、どんなこともイメージできないことはできないからでしょうね。


ところで、卓球の男女ダブルスで、水谷・伊藤ペアが悲願の金メダルを取りました。
何度も絶体絶命のピンチに陥りながらも、まさに粘り勝ちの真骨頂。
その姿に、人の持つ素晴らしい力を感じたのは、私だけではないと思います。


さて、スポーツ選手のこういった粘り勝ちを目の当たりにすると、
「レジリエンス」という言葉を思い出します。

その言葉、直訳は「回復力」「復元力」「弾力性」などですが、
要は、ストレスがかかっても元に戻ることのできる「しなやかな強さ」のことです。

せっかくなので、選手たちの強さにあやかって、
レジリエンス研究、しちゃいますか!?


レジリエンスを成り立たせる要素は、厳密に言えば、
研究者によって見解が違っています。
でも、大筋で集約すると、この5つかな...と思われる要素を紹介しますね。
それぞれの要素に関連するアスリートたちの発言(TOKYO2020以外も含めた)も
併せて取り上げておきます。まるで、読んだよ大特集ですな(笑)


その1:感情・情動コントロール力
自分の感情や行動をコントロールできること。

  • こんなところで泣いてしまっている時点でまだまだ(萱和磨・体操)
  • 卓球以外でも強くなった(伊藤美誠・卓球)
  • 悔しい思いをしたぶん、もっと強い気持ちで練習に取り組める(桃田賢斗・バドミントン)


その2:「自己効力感」
端的に言えば、自信。達成経験やポジティブな自己認識から
「自分なら出来る、きっとうまくいく」と自分の可能性を信じる力

  • 持っている力を100%出し切ることができれば、夢だった決勝進出も現実的になってくる(山懸亮太・陸上)
  • やっていて感じるのは、まだまだ自分は成長できるなということ(羽生結弦・フィギュアスケート)


その3:「自尊感情」
他人と比較することなく、自分自身を価値ある者だ、
自分自身を好きだと感じられること。

  • どんなに打ちのめされても、心底、体操が好き(内村航平・体操)
  • 何回もミスして、何回も成長して。それが自分らしい(小出未来・水球)


その4:「良い人間関係」
人と信頼関係を築ける力

  • 康介さんを手ぶらで帰すわけにはいかない(松田丈志・水泳)
  • 内村さんから電話をもらった。ケガをして3日後くらいにいきなり電話が来て『大丈夫?気持ちを切らさなかったら絶対に戻って来られる』という言葉をもらって頑張ろうと思った(北園丈琉・体操)


その5:「楽観性」
未来に対して絶望せず、どうにかなると思える力。

  • 神様が何か気づかせてくれるタイミングかな、と考えるタイプ。けがとかについては基本ネガティブじゃない(上野由岐子・ソフトボール)
  • 神様は乗り越えられない試練は与えない(池江璃花子・水泳)


最後の「楽観性」で、「神様」という存在を使って、
今直面している苦難を受け入れようとしている人は少なくないようで、これは面白いですね。

私は、仕事がうまく行く/行かない、仕事で成長する/しないも、
結局、「メンタルが9割」なんじゃないかなと思います。
あなたは、どう思いますか?

さ、この夏も、このオリンピックも、もう2度と来ない。
選手たちを応援しながら、残る7月を元気に過ごしましょう!

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桜がきれいですね~ 今週は4月に突入。
新入社員を迎える組織も多いのではないでしょうか。
直近のデータではありませんが、
経団連調査(2018年11月発表)によると、
企業が新卒社員の選考で重視する要素のランキングは
「コミュニケーション能力」が8割で第1位。
2位が「主体性」、3位が「チャレンジ精神」、4位が「協調性」と続きます。
この傾向自体には特に違和感を覚えませんが、
大切なことは、それぞれの言葉をどう定義づけているかですよね。
各社間でも、企業と求職者の間でも幅がありそうな感じがするのが、
「コミュニケーション能力」と「協調性」という言葉です。
そこで、今日はそのうちの「協調性」というものについて考えてみたいと思います。


私が、生まれて初めて「協調性」なる言葉と出会ったのは、
小学校1年生の時でした。
通信簿の通信欄に「協調性があって大変良い」というようなコメントが書かれてあり、
文字は読めないし、これはどういう意味なのか、母に尋ねました。
その時、母がどう答えたのか、うる覚えではありますが、
「お友だちと仲良くやって行けている、ということよ」というように
説明されて納得したような記憶があります。


この機会に改めて「協調性」を辞書で調べてみました。
デジタル大辞泉(小学館)によると、
「協調」とは、「(スル)互いに協力し合うこと。
特に、利害や立場などの異なるものどうしが協力し合うこと。」だそう。
そのような性質を持っている人が、協調性のある人と理解して良さそうです。


ふむふむ。母の説明とはちょっと違いますね。
私自身、調べてみて、そういうニュアンスなんだと知ったのですが、
もしかしたら、割と多くの人が「協調性」の意味を、
私の母の説明のように「人と和する」「人に同調する」「人と足並みを揃える」
と捉えているかもしれません。


では、企業が求める「協調性」のある人材というのは、どんな人材なのでしょう?
特に、これといった確証は見つかりませんでしたが、
デジタル大辞泉の意味に近いのではないでしょうか?
利害や立場が違っても、議論して、収束点を見つけ出し、
最終的には協力し合っていける人材。
つまり、馴れ合いの和ではなく、
切磋琢磨による和をもたらす人材と言えるかもしれません。


仮定に仮定を重ねるのもなんですが(笑
だとしたら、採用面接時や入社後などに、
人と調和して和を乱さないことをアピールをしても、
ダメだということですよね。


さて、「協調性」が重んじられながら、その意味に誤解もあるとしたら、
心配なのは、社会の中で次のような連鎖が起きてしまっているのではないか、
ということです。


「協調性があるのはいいこと」
 ↓
「和を大切にして、波風立てないことがいいこと」
 ↓
「空気を読んで、意見を言う/言わないを判断することがいいこと」
 ↓
「軽々に意見を言うと空気を読まない人と評価されるかもしれないので、
 意見を言って損しないようにすることがいいこと」


これはあくまで仮説ですが、あなたはどう思いますか?


実際、発言することに抵抗がある人はどのくらいいるのでしょうか?
2019年、ニュースサイト「しらべぇ」が
相手を選ばず意見をはっきり言える人の割合を調査しています。
それによると、全体の31.2%が
「相手が誰であろうと自分の意見をはっきりと言う」と回答したそうです。
逆に言うと、7割近い人は、はっきり言わないということですね。
意見は意思表示のひとつだと考えると、
グローバル化が進んでいく中で、意見を言わない人が多い状況は少々心配です。


世代別男女別で見た場合、まず男性は?
「はっきりと言う」割合が高いのは10代で、42.0%。
反対に低いのは、20代で、26.9%です。
10代と20代の間の、このギャップの意味を知りたいものです。
女性で「はっきりと言う」割合が高いのは60代で、40.3%。
低いのは30代で、19.9%です。
30代の女性たちはアッチにもコッチにも気を使っているのでしょうか?


職場で「意見」「発言」を世代や立場に関係なく、
言って良い/悪いは、まさに暗黙知。
企業の価値観と、それによって生まれているカルチャーによりますね。
協調性について、あるいは、
「相手が誰であろうと自分の意見をはっきりと言う」ことについて、
あなたはどう思いますか?

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東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会の
森喜朗前会長の女性蔑視発言に端を発した
後任会長問題は、橋本聖子前五輪相が就任し決着しました。
橋本さんの人柄や実績についてはよく知りませんが、
当初は過去のスキャンダルなどを理由に固辞していたそうです。
にもかかわらず、火中の栗を拾うようなこの状況で、
よく逃げずに引き受けられたと思います。がんばってほしいですね。


さて、今日の本題は「偏見」についてです。


森さんの発言は「失言」と報じられていました。
あの失言の本質は、言葉の表現の問題ではなく、
心の「本音」が出てしまったということだと思います。
だから、本来はあの発言がなければ良しということではなく、
そういう価値観の人物が組織委員会の長にいること自体が、
世界から問題視されたわけですよね。


今回の森さんの、女性は話が長いという発言内容には、
根っこに「偏見」がありました。
女性に対するネガティブで偏った先入観です。
でも、考えてみると、女性への偏見は未だに社会全体にありますよね。


別に森さんの肩を持つつもりはありませんし、
女性は被害者、男性が加害者と言うつもりもありません。
でも、現に日本のジェンダー・ギャップ指数は153カ国中、121位です。
これは、世界経済フォーラムが毎年発表している
経済・教育・保健・政治分野の男女平等度を表す指数のこと。
あまりの低さにびっくりしてしまいますよね。


話を元に戻すと、ある対象に対して、
ネガティブで偏った思い込みを持つというのは、
人間の特性だとも言えます。
思い込みが怖いのは、思い込んでいるがゆえに、
信じて疑わず、気づけなくなることです。


今回、新会長に就任した橋本聖子さんは、
「参院議員に初当選したとき、
『経済がわからないオリンピック選手がなぜ政治家になるのか』と揶揄された」
とご自身のサイトで書いています。
当選は1995年のことですから、最早26年前ですね。


では、今回の会長就任に対する社会の目はどうなのでしょう?
正直に告白しますよ。
私自身、橋本さんのことをあまり良く知らないのに、
橋本さんで務まるんだろうかと一瞬ですが思ってしまいました。
理由は、やっぱり元オリンピック選手の橋本聖子さんの印象の方が強烈で、
政治手腕やリーダーシップに長けているという印象が薄かったからです。
しかし、だからと言って、26年も政治家として活動して来た橋本さんに対し、
「橋本さんで務まるんだろうか?」と考えるのは失礼だし、やっぱり偏見です。


なぜ、こういうネガティブな先入観が出てくるのでしょうか。
理由を思いつくままに出してみました。
・知らないものに対して、人はそれだけで不安を感じてしまうから。
・アスリートと政治家、それぞれに求められる資質に共通点が見つからず、
 そう簡単に天は二物を与えないと思うから。
・客観的な判断材料がない時は、イメージの影響を受けやすいから。
・これまでに知っている限られた情報だけで、イメージを作り上げているから。
まあ、そんなところでしょうか。


こうして見ると、ほぼ全てにおいて誤解を招き寄せていますよね。
小さなことのようですが、
結局はその思い込みが差別意識とどこかでつながって行くのだと思います。
けれど、実際にはアメリカでは、俳優が大統領にも州知事にもなっています。
日本でも俳優だった森田健作さんは千葉県知事ですし、
東国原英夫さんも政治家でした。
アスリートだったから務まらないと思ってしまうのは、
まさに思い込み以外の何物でもありません。
芸能人によるSNSでの政治的社会的発言をバッシングする風潮にも、
同じような偏見を感じます。


私たちはどうしたら、思い込みを減らせるのでしょうか?
名案は浮かびませんが、
「思い込んでいない?」と自問する習慣をつけるしかありませんね。


コロナによって厳しい状況が続いているオリンピック/パラリンピック。
差別や偏見を乗り越えて来た歴史でもあるし、
ここまで大勢の人たちが努力してきたわけだから、
まさかの奇跡や素晴らしいアイデアによって、開催できるといいなぁと思います。
加えて、私は自分が女性なので、これを機にジェンダーギャップの大幅改善が進み、
国際社会での日本のイメージが変わるといいとも思います。
もしかしたら「オリンピックは無理」というのも、思い込みなのかな?


来週はもう3月です。春の足音が聞こえてきますね。
素敵な1週間をお過ごしください。

先日Twitterで「うちの会社は女性の比率が高くて、
『女性が活躍しやすい会社』であることを打ち出して採用活動をしているけれど、
管理職は男性ばかりで、結局ポーズにすぎない」
というような内容のつぶやきを目にしました。


ここでいう「ポーズ」というのは、写真を撮るときのポーズではなく、
見せかけの態度のことですよね。
言い換えると欺瞞的な態度だともいえますし、
自分/自社の行動や態度をよく見えるようにアピールする行為だとも言えます。


そう考えると、「ポーズ」だったとしても、
全部が全部悪いわけではありませんよね。
私も、時には「ポーズ」を取っているような気がします。
特に、アピール系。。。苦笑


で、少しだけ感度を高めて眺めてみると、
ポーズにすぎない振る舞いというのは、しばしば見かけます。
もっとも多いのは「謝罪」の時ではないでしょうか。


春頃、ある教育研修サービスを提供している会社の営業の人に、
私はクレームを言いました。
緊急事態宣言の最中、強引な営業をされたからです。
プログラム自体は良いものだと思っていましたが、
「環境変化の時期なので、こちらの気持ちになってほしい」と。
そうしたら言われたお詫びが、
「不快な気持ちにさせてしまって、申し訳ありませんでした」でした。


このお詫びの言い回し、とてもよく耳にしますし、
正しいお詫びの仕方として、専門家などからも紹介されています。
でも、個人的な感覚で言わせていただくなら、
この言い回しって謝罪にはなっていないと思うんですね。
あなたは、この表現にどう感じますか?


私が感じる違和感がどこにあるかというと、、、


この謝罪の意味は、
そういうつもりではなかったのですが、
私の言葉によって不快に思われたのであればお詫びします、
という意味だと思います。
言い換えると、不快に思われなかったなら、
謝らないよと言っているようなものです。
自分がとった行動とまったく向き合わずに、形式だけお詫びしているような感じ、
つまり「ポーズ」にしか思えなくて、違和感を感じてしまいました。
そうすると、ますます不愉快な気持ちになったりします。


私が言われたかったことは、
「あなたの気持ちを考えず、自分の都合で勧めてしまい、ごめんなさい」とか、
「私はあなたのことを考えて勧めたつもりでしたが、
ご意向に合っていないなら、適切な提案ではなかったと思います」です。
自分の非を認めて謝っていただくか、
謝らないまでも非を認めるというスタンスがあれば、私は納得できました。


さて、政治家を含め、なぜ多くのシーンで
「不快な気持ちにさせてしまって、申し訳ありませんでした」とか、
「誤解を招いたなら、お詫び申し上げます」が
使われているのでしょうか。
正解はわかりませんが、その理由として2つの可能性を感じます。


その1。クレーム対応的な発想で謝罪しているため。
ある教育研修会社のサイトのコラムで、適切な謝罪の仕方として、
こんなことが書かれていました。
「相手に不快な思いをさせたということに対してのみ謝ると良いです。
自分に非があることとないことの区別をしっかりつけることが大切になるからです」
モンスターからのクレームにさらされるうちに、
防衛的な謝り方が標準になってきたのかもしれません。
でも、モンスターではない私のような人間はむしろ不満が増すのですけど...。


その2。「迷惑をかけるな」という教育が影響しているため。
昔は、「悪いことをしてはいけない」という教えの方が強かったと思いますが、
今は「周りに迷惑をかけてはいけない」という教え方なのではないでしょうか。
子どもが公共の場で暴れているときに、
「おじちゃん(側にいた他人)に怒られるよ」と言ってしまい、
「なぜ、これが悪いことか分かるか?」という教え方が
されなくなっているからなんじゃないかなぁ。


まあ、両方ともあくまで推測にすぎませんが。


いずれにしても、ポーズの謝罪って、おもしろいほどにバレバレですよね。
なので、人のフリ見て我がフリを直さなければ。。。。
また、謝罪であれ、謝罪でない場合であれ、
リーダーや広報が、思っていないことをポーズとして語っても、
すぐにバレます。
本当の本音を実直に語るって、やっぱり大事ですよね。


今週も素敵な1週間でありますように!

先週6日、ロックバンド「ヴァン・ヘイレン」を兄と共に率い、
ギタープレーで人々を魅了した、
エドワード・ヴァン・ヘイレン氏が亡くなりました。
彼のことを知らなくても、マイケル・ジャクソンの「Beat It」の
ギターソロを思い出せる人は多いのではないでしょうか。


私自身も、バンド「ヴァン・ヘイレン」については、
ヒット曲「Jump」とか、「You Really Got Me」ぐらいしか知りませんが、
彼らに限らず、ロックをこよなく愛します。
ロックのどこが好きなのかを考えてみたのですが、、、、
多分私は、ロックスピリットのコアにあるものを「意思の強さ」と捉えていて、
音楽的なこともさることながら、そういった精神性が好きなんですね。
だから、「なあなあ」なロックバンドとか、
ぶつかることを恐れてしまうロックバンドってありえない(笑)


さて、今、「意思の強さ」と書きました。
どんな強さかはともかく、あなたは自分に「強さ」を求めますか?
求めるとしたら、どんな「強さ」ですか?
自分が憧れる「強さ」を何かに例えると、どんなものになりますか?


私は、多くの人は、その人なりの価値観から、
何かしらの強さを自分に求めていると思いますし、
実際に何かしらの強さが人にはあるのだと思います。
でも、「強さ」にもいろいろなタイプがあります。
たとえば、、、


何があっても動じないハガネのような強さ
柳のようにしなやかで折れないという強さ
苦しくても9回裏で逆転するような粘れる強さ
謙虚に物を見られる強さ
毎日の小さな努力を積み重ねられる強さ
切れ味の良いナイフのような強さ
懐深い愛情で物事を受け入れる強さ
ネガティブなことをユーモアに変えてしまう強さ などなど....


自分が欲する強さがどんな強さなのか...のその答えの先には、
往々にして自分の強みがあったりするのかもしれません。


実は、私も去年、当社のDNAを探り出そうとして、
同じようなことを考えました。
企業DNAというのは、なぜ今日まで存続できたのか、
存続を可能にしてきた強み的な要素のことです。
企業の判断基準の元にある美意識や価値観だとも言えます。


その時に当社のDNAの一つとして整理されたのが、
「自然体でしなやかな、謙虚に自己変革できる強さ」でした。


もちろんいきなりこうした言葉が出て来たわけではありません。
当社が大切にしたい雑多な事柄が先にありました。たとえば...
 自然体、しなやかな、謙虚、自己変革、前例にとらわれない、品、
 やってみる、面白がる、気づける、発見する、最上志向、遊び、
 損得以外の価値、プロとしての自負、利益主義、雑談、ムダが大事...など。
他にも様々な概念が出された中で、
これらの概念はある種の強さを志向していると考え、
それをまとめたのが「自然体でしなやかな、謙虚に自己変革できる強さ」でした。


反対に強さに関してありたくないワードを出してみると...。
 根性、攻撃的、暴力的、高圧的、乱暴、横柄、批判、不安
 びくびく、おずおず、ネガティブ、依存体質、他人軸、他責
 プライドが高いだけ、プライドがない、評論家...など。


価値観や美意識に、正しいとか、間違っているということはありませんよね。
ただただ自分の価値観や美意識に背くと感じながら、
無理にほかの価値観に合わせようとすると、誰しも心が穏やかではなくなります。


だからこそ、採用活動/求職活動では、事業内容や職種だけでなく、
価値観が合っているかどうかを見極めることが大切ですよね。
なぜなら、心が穏やかではないということは、アンハッピーということだからです。
ってことは、自社の価値観を知るのも大切ですが、
自分の価値観を知るのが先決ということになるのでしょうか。
組織人である以上、1日8時間は働くわけですから、
価値観という切り口で自分の幸福を求めたり、
人と対話したり、社内メディアで話題にしたり、、、
時には必要かもしれませんね。


10月も中旬になってしまいました。
今週も素敵な1週間でありますように。

あなたは人の、あるいは自分の、「OS」について考えたことがありますか?
本来、OSとえば、Windowsの「Windows 10」、Macの「Catalina」のような
コンピュータのオペレーティングシステムですが、
それになぞらえて、今日は、人のOSとそのバージョンアップについて、
ヒントを探ってみたいと思います。


当社では、スタッフに対して成長には「スキル」より「OS」の方が大切だと
伝えています。
スキルというのは、OSの上で動くアプリケーションのようなものだからです。
といっても、では「人のOSとは何か?」と聞かれると、説明は簡単ではありません。


OSはパフォーマンスを左右するものだと考えると、
パフォーマンスを生み出すのは第一に思考と行動です。
思考が行動を作り、行動が思考を作ると言われるように、
パフォーマンスを高めるには、行動はもちろん重要ですが、
思考の質を高めることが必要です。


思考という言葉には「理」のイメージがありますが、
一方で、仕事でパフォーマンスの高い人は、
人間力のようなものを持っていることが多いのではないでしょうか。
これは、どちらかというと「感」のイメージですよね。
相手の気持ちを汲み取ったり、
場に起きていることを感じ取ったり、
人の気持ちに対してだけでなく、自分の気持ちにも素直であったり。。。
これらは、理屈というよりも、五感や感受性に寄るところが大きいですよね。


で、今、「理」と「感」を分けられるかのような書き方をしました。
一般に、しばしばこの二つはあたかも別のことのように扱われることが多いです。
でも、ふとこんな考えが浮かんできました。
本当にそうだろうか?と。
理的なこと、感的なことは確かに別々に存在しているような感じがしますが、
実は、その間はむしろ密接に連携し合っているもので、
明確には分かれていないのなのではないか、
むしろ人間の「理」の力と「感」の力は一体のもので、
1つのシステムとして、インプットとアウトプットを行なっているに違いない、と。


まあ、これ、専門家の誰それによれば...というような根拠もなく書いていますので、
真に受けないでくださいね。


ただ、こう考えると、まんざらウソでもないと思えるような...。
たとえば、目の前の誰かが、大笑いしながら、何かを話していたとします。
笑っているという表情の情報は目から入り、話す内容は耳から入ります。
この人が本当に楽しくて笑っているのか、
お愛想のためにウソっぽく笑っているのか、
あるいは、威圧するために笑っているのかは、
大抵の場合、人間の動物的感覚で何秒もかからずにわかります。
しかも、そこに至る過程の情報を理解していれば、
動物的感覚から得た情報に加え、分析的な思考が働き、笑いの真意がわかります。
「理」の力と「感」の力は一体的なもの...と思ったのは、そういうことからです。


そういう意味で、人のOSのバージョンアップを図るには、
思考の習慣を変える、思考の質を変える、
広い意味で感覚感度を高めるなどが役立ちそうですが、
抽象的にそんなことを言われても、何のヒントにもなりませんよね。


そこで、私の個人的な意見がお役に立つとも思いませんが、
OSを高めるためのアイデアをもう少し具体的に書いてみることにします。
私は「自分が『わかったか』どうかへの感度」を高めることは、
OSの質を高める上で効果があるのではないかと考えています。
自分自身の理解の状況さえ自覚できない時に、
他人のことなどわかるわけがない、というのがその理由です。


あなたは、自分の「わかった」と「わからない」の
その感覚をどのくらい意識していますか?
同じ「わからない」であっても、
経験を積むと、自分の抱く疑問点は明瞭になりますが、
若くて経験の浅い段階では、その感覚がぼんやりしがちです。
自分が、わかっているのか、わかっていないのか、わからないという感覚。
わからないことはわかっても、何がわからないのかわからないという感覚。
そんな状況に陥るのではないでしょうか。


「わかった」が成立する1つの基本パターンに、
こうだから、こうで、だからこう、なので、こう...というように、
前と後ろの関連がわかって、全体がわかるというものがあります。
ここで「わかった」感覚を支えるポイントは2つです。
・前後のつながりがわかる
・そのつながりに基づく全体像がわかる
そのパターンで「わかった」経験を重ねていくと、
段々自分がわかっている/いないに自覚的になれます。


さて、「自分が『わかったか』どうか」にアンテナを張ることも重要ですが、
「『わかったつもり』になっていないか」というアンテナを張ることは、
もっと重要だと思います。


「わかった」と思えた時、人はすっきりしています。
「わからない」と思う時、人はもやもやし、疑問が湧きます。
でも、その中間に「わかったつもり」というやっかいな状態が存在しています。
教育の専門家である西林克彦氏は、
その著書「わかったつもり〜読解力がつかない本当の原因」の中で、
「わかったつもり」というのは、
・わからない点はなかった
・自分のわかり方に、さして不満はない
・それほどはっきりした「よりわかりたいという欲求」はない
...と思っている時に起きると言います。


「わかったつもり」でいる時、その人はその状態に満足しているので、
それ以上に知りたいという欲求が起きません。
そのような状態の人に、さらにわかってもらうように上司として指導する場合、
上手な問いかけが必要ですが、そもそも本人が知りたいと思っていないので、
風穴を開けるのは簡単ではありません。
もちろん、これは上司の立場も同じです。
書いている私だって、「わかったつもり」に陥ることがあります。
でも、「わかった」「わからない」「わかったつもり」があることを、
みんなが知ってさえいれば、もう少しオープンに話せそうです。


2020年もあと3カ月。。。。
今週が素晴らしい1週間でありますように!

あなたは、誰かが自分を待っていると感じることはありますか?


若い頃、実家の両親は私の訪問をいつも待っていたと思いますが、
親の言いなりになるのが嫌だったのか、
期待に添うような行動を取りませんでした。
当時、実家は30分ほどで行ける場所にあり、
帰ろうと思えばいつでも帰れたはずなのに、若気の至りです。
待ってくれる人がいる幸せに気づかなかったんですね。


別の例で、最近、こんなこともありました。
青山で30年以上にわたって、こだわり系の飲み屋さんをやっている人から、
「コロナで営業が大変だから、来てほしい」と電話がありました。
偶然にも同じ世代。口が悪く、個性的なオーナーです。
どうしようか?...と一瞬思ったけれど、結局行きましたよ(笑)
相手が待っているのは、私ではなく、お金を落とすことなのかもしれませんが、
やっぱり、そこには人間関係があります。


「待つ」は「期待」だと理解するようになって、
「待つ」にもいろいろな意味があることを知りました。


ある人の元気な姿を見たくて待っている人。
自分の気持ちや行動に気づいてほしいなと思って、待っている人。
与えた課題を部下がクリアしてくれることを待っている上司側の人。
提出した課題にOKが出るのを待っている部下側の人。


あなたは、誰を待っていますか?
誰が、あなたを待っていますか?


待つ=期待。
そう思うと、その人との関係も見え方が変わってきますよね。


ところで、世の中には「指示待ちはダメ」という考え方があります。
指示待ちが起きる主な要因は、2つあるのではないでしょうか。
1つは、その人の思考行動特性のような、内的要因。
もう1つは、その人と指示を出す側の人との間にある、関係的要因です。
今日のテーマで取り上げたいのは、後者です。


その昔、PR会社に転職した私の若い頃の経験を例に考えてみました。
ある時、制作部からマスコミ対応や取材誘致を行うPR部へと異動になりました。
上司は私が右も左もわからないだろうからと、
「自分の人脈を紹介するので、待ってて」と言いました。
知り合いの記者にアポを取って、連れて行くという意味です。
ところが、その後、何週間かして「記者さんの紹介の件ですが...」と聞いても、
「わかっているから、ちょっと待ってて」と。


私の異動と同じ頃、ある日、経験者が入って来ました。
彼女は、入社の翌日に「プレスを回りたいので、名刺をください」と。
それを聞いた上司の反応は、大絶賛でした。
「え? そういうこと?」
上司の「待ってて」は何だったのだろうと思いながら、
それをきっかけに、私は目的から考えればわかることを一人で始めました。


このことから何がわかるでしょうか?
この時の私の指示待ちの責任は上司にある、と言うつもりはありません。
私と上司との関係や私の認識から生まれたのだと思います。
その認識とは、次のようなものでした。


・自分は上司に心配されている。
・勝手に動いて、変なことをされては困ると思われている。
・上司は、部下の面倒を見るのが自分の仕事だと思っている。


概ね正しいと思いますが、でも、こう申し出ることもできたはずです。
「紹介していただけるのはありがたいので、ぜひお願いします。
でも、自分としては、わからないなりにやってみたいので、
注意事項があれば教えてください」。
そう言われた上司が私を止めたとは思えません。
それなのに、私がそう言わなかったのは、上司を不安にさせないようにとか、
上司を立てないと悪いなど、そんな遠慮があったからでした。


つまり、指示待ちにならないための前提として必要なことは、
あなたはきっとできると信頼され、期待されていると思える関係があること。
そんなふうに考えますが、いかがでしょうか。
自分の体験ばかり書いてしまいました。
読んでくださってありがとうございます。


「待つ」という行為から、あなたと周りの人との関係を考えたら、
何が見えてくるでしょう?
どうぞ素敵な1週間をお過ごしください!

 

ブログを書いている人

小野真由美

グラスルーツの代表。組織をただの集団ではなく、チームにするための組織内コミュニケーションはどうあるべきだろう?…なんていうことを、いつもツラツラ考えています。ブランディングやコミュニケーション、チームやリーダシップ系の話題が7〜8割、その他の話題が2〜3割。そんなブログを目指します。ぜひおつきあいください。

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