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『言葉・意味・表現』カテゴリの記事

 

200210_fukan.jpg今日のテーマは鳥の目「俯瞰力」です。


年が明け、あっという間に1カ月半が過ぎようとしています。
実は、正月休みは「AI」をテーマにインプットしていました。
その結果、感じたのは、当社の仕事にもAIが関わってくるであろう、
ということでした。
たとえば、私たちの仕事では「文章を書く」ことが多々あります。
文章生成ツールはもう存在していますし、
ある法則で文章をまとめるなどはAIの得意とするところです。


AIの影響を良くも悪くも受けるのは、10年後ぐらいかなと思っていましたが、
5年後ぐらいに迫っている、そういう感覚を抱きました。
人がAIと違う存在感を発揮するには、
どんな力があるといいのか、考える良い機会になりました。
あなたは、ご自分の仕事とAIの関係、どう見ていますか?


ここから先は素人の私の考えです。真に受けないでくださいね。

ネットで検索するとわかりますが、現時点でAIがあまり得意でないことのひとつに、
「意味の解釈」というのがあります。
「言葉の解釈」「事実の解釈」「態度の解釈」などなど。。。


AIと違って、人は、同じ出来事に対して様々な解釈をします。
たとえば、お客様とのミーティングに当社から2名で参加していたとして、
終わった時の解釈が異なっているということが時々起こります。
だからこそ、2名で参加することに意味があるわけです。


銘々のメンバーがそこで話された内容について、
辞書的意味はわかっていますが、
そこでの言葉に託された言外の意味について、
各自各様の解釈をしていることは少なくありません。


たとえば「チームワーク」という言葉があります。
「チームワークを大切に」と言われたら、
何を意味していると思いますか?
チームの「和」? 「結束力」?
「協力」?「責任遂行」でしょうか?


私たちはこんなふうに曖昧な解釈に基づいて、
コミュニケーションを取っています。
曖昧な解釈でも問題が起きない場合もあれば、
とても重要な点で解釈を間違えていたために、
大きな問題になる場合もあります。


では、そもそも解釈とは何をすることでしょう?
私なりの言葉で表現してみました。


まず、誰かの言葉や態度を解釈するのであれば、
発した人の意図や背景、真意を汲み取ること。
事実や出来事を解釈するのであれば、
その周辺の情報や状況、関係者の思いなど様々なことを踏まえて、
その事実に対し意味づけをすること。
...なのかな?


さて、、、
誰かの言葉や態度を解釈する場合、
そこには正解/不正解があります。
正解を知っているのは、言葉を発したその相手ですよね。


一方、事実や出来事を解釈する場合は、
正解/不正解はなく、
利の多い解釈か、利の少ない解釈かがあります。
たとえば、有意義な気づきや学びのある解釈、
その出来事を巡る関係者の気持ちに近づけた解釈、
自分や関係者の気持ちがポジティブになれる解釈などは、
利のある解釈だと言えるかもしれません。


このように、正解はあったり、なかったりしますが、
どう解釈するかによって、その解釈の効力には違いがあるのではないでしょうか。
幅広い解釈の中から、効力の高い解釈を選択するために不可欠なのが、
1行目に書いた「俯瞰力」ではないかと思います。


「俯瞰して見る力」


要するに、物を見る視点をたくさん持っていて、
いろいろなアングルから全体を見渡して考える力です。
「〜という視点からこれを見ると、〜と解釈できる」を
なるべくたくさん考えられる人が、俯瞰力がある人なのだと思います。


だとしたら、ある事に対して、自分が1つの見方をしたときに、
他の見方はないかなと疑ってみることが大切なのかもしれませんね。
あなたは、ご自分の仕事とAIの関係、どう見ていますか?


どうぞ素敵な1週間をお過ごしください!

NHKでは、今、複数の番組で
「発達障害」を取り上げるプロジェクトが行われています。
「発達障害」への理解を広め、
偏見をなくそうという取り組みのようです。
社会に対し、問題提起しようとするNHKの試みは拍手に値しますね。


一方で、私は、ちょっとした違和感のようなものも感じます。
それは、NHKに対してというよりも、社会の動きに対してでしょうか。
そのザラつき感、どんなことなのか、胸に手を当てて考えてみました。


思ったのは、こういうことです。
「発達障害」という概念で人を一括りにすることに対して、
私は微妙に抵抗感を抱きます。


それに加えて、「障害」という言葉のイメージからか、
「病気」だと受け止めがちですが、
厚生省のホームページには、こう書かれています。


ーーーーーーーーーーーーーーーーー
生まれつきの特性で、「病気」とは異なります。
発達障害はいくつかのタイプに分類されており、
自閉症、アスペルガー症候群、注意欠如・多動性障害(ADHD)、
学習障害、チック障害、吃音(症)などが含まれます。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー


とはいえ、ネットで検索すると、
「病気」だとする専門家もいれば、
「特性」だとする専門家もいます。


どっちだったとしても、
言葉の選び方がイマイチな気がするんですけど...。


ところで、NHKの番組の中で、
「発達障害だとわかってむしろ安心した」という親御さんの声や、
「自分が人に馴染めない理由がそこにあると知って、
もっと早く知っていたなら、気持ちが楽だった」との声を聞きました。


彼らは、人と違うがために、
「努力が足りない」「なぜできないのか」と
人からも責められ、結果自分のことも責めてしまうようです。
そんな状況を知ると、
「発達障害」と名付けることも必要かもしれない
と思えてくるのですが...。


でも、、、
誰でも多かれ少なかれ「人と違う変わったところ」がある。
それが人間だと思います。


私自身は発達障害だと言われたことはありませんが、
他の人から見ると、結構「変わったところ」があると自覚しています。


具体的には、、、
集中するがあまり、他の人は気づけることに、
私だけ気づかないとか、
目から入る情報に弱いのか、
なかなか人の顔が覚えられないとか。
「小野さんほどデコボコの激しい人はいない」
と部下からも言われて来ました(笑)
それでも、生きるのに困るほどではない。


一方で、世の中には、自分の特徴によって
生きるのが苦しいと感じている人たちがいるんですよね。
人との「違い」を社会が
ポジティブに認められるようにするには、
「発達障害」という呼称を変えてはどうかと思います。


たとえば、「ユニーク(unique)」という言葉を生かして、
「UC(unique capability)」「UB(unique brain)」
「US(unique sense)」なんてどうでしょう?
イマイチかしら?
あなたは言葉の問題、どう思いますか?


今週も素敵な1週間でありますように!


PS:
こんな情報をお寄せいただきました。
「脳の個性を才能にかえる 子供の発達障害との向き合い方」(NHK出版、トーマス・アームストロング著、中尾ゆかり訳)は私が発した内容と合致するように感じたので、参考までに紹介したい、と。ありがとうございます! 参考情報として、紹介します(まだ読んでいませんが)。

https://www.amazon.co.jp/dp/4140816082/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_U_ZZcZDbV7W8E1M

ラグビーワールドカップ 、
日本は敗れてしまいましたが、
日本を破った南アフリカが決勝に
進出しましたね。
決勝戦も目が離せません。


さて、ラグビーW杯で日本が
快進撃をしたのはとても
うれしかったのですが、
選手たちが発した言葉の中に、
ちょっとだけしっくりこない
言葉がありました。


「すべてを犠牲にしてきた」
という言葉です。


私は、言葉に過敏すぎるきらいがあるので、
今日の内容は賛同できない!と
叱られるかもしれません。


もちろん選手の皆さんが、そこまで
言葉を吟味していないのは承知の上。
決して批判するつもりがないことを
ご理解いただいた上で
今日は「犠牲」という言葉について
考えたいと思います。


実は「犠牲にした」という表現は
スポーツ選手が成果を出した際の
インタビューでよく出てきます。


その意味は、家族との時間がない、
自分の時間もない、
勝利のため、
ファンの期待に応えるためだけに、
時間を過ごしてきた...
という意味だと思います。


その努力は疑いようもないこと。
でも、、、犠牲という言葉の意味は:


「ある目的のために損失となることを
いとわず、大切なものをささげること」
「自分を顧みず他者を優先させること」


私が、スポーツ選手の発言で
この言葉に違和感を覚えるのは、
自分を殺しての結果だと言っている
感じがするからです。


忍耐し乗り越えたのは本当だとして、
損失だと思いながら努力するって?
自分のためにならないのに
忍耐するって?
...と。


自分のために、
自分が意志を持って選択したなら、
犠牲にしたという言葉を使う必要は
あるでしょうか。


あ、いえ、 選手たちはそこまで言葉を吟味して
話していないですよね。
でも、その言葉をもし変えたら
どうなるだろう?と思ったりします。
同じ忍耐でも、少しは
辛さが減るのではないかな、と。


大阪なおみ選手が、今年の初めに
コーチとの契約を解消した際に、
こういう発言をしています。


「サーシャには感謝しているが、
幸せを犠牲にしてまで
成功を収めたくないんです」


私はその通りだと思います。
人は自分の幸せのために、
何かを犠牲にする必要はない、と。


忍耐を選ぶのであれば、
それは自ら選択しただけ。
選択したと思ったら、
犠牲にしたとは思いません。


為末大さんがtwitterで
こんな発言をしています。


「会社から給与をもらっているのは
犠牲を払っているからだ
と思っている人は案外と多い。
(中略)
犠牲で対価をもらうという
考えの根底には、辛さや苦しさと
成果は比例するという思い込みがある。
でも、価値を生む事は
実は辛さとは関係がない」


私たちの人生観は
使う言葉に現れます。
またどんな言葉を使うかで、
私たちの人生も変わります。
あなたは「犠牲」という言葉を
どう受け止めますか?


今回のラグビーW杯で決勝に進んだ
南アフリカ。
ネルソン・マンデラ大統領と
ラグビーW杯での南アの優勝を描いた
映画「インビクタス」では、
決して自分は「犠牲者」にはならない、
自分の人生は自分が握っている...
そんなマンデラ氏の生き様が描かれ、
とても感動したのを覚えています。


まもなく11月突入です。
今週も素敵な1週間を!

なんと3ヶ月ぶりぐらいに休みらしい週末でした。
友だちが遊びにきたり、ドラマや映画を観てダラダラと家で過ごしました笑


観た映画は2018年公開の
『ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男』です。
簡単にあらすじを紹介しますと(つまり、ネタバレ気味で書きますよ)、
ヒットラー率いるドイツがヨーロッパ各国に侵攻していた時代、
政権交代したばかりのチャーチルに刻一刻とたくさんの重い決断が迫られます。


ヒットラーとの和平交渉に臨むべきだという意見と、
取引はしない、断固戦うべきだという意見が対立する中、
チャーチルは断じてイギリスは屈してはならないと主張しますが、
意見は平行線のまま対立状況が続きます。
不利な形勢の中で戦いを続けても無駄な命が失われるだけだという主張は
一見すると理にかなっている感じがしますが、
和平交渉は事実上の屈服である、
自分たちの尊厳を守らなければならないという意見もあるわけで。


私も映画を観ながら、いや、やっぱり生きてこそなんぼでしょ、という心の声と、
やっぱり屈してはダメでしょ、という心の声が戦いながら観てしまいました。
どっちもイヤだけど、人権って大事ですからね、
血を流しあうことはイヤだけど、なにしろ相手はヒットラー。
うーん、究極の問いですなー


さて、でも1番の感想はそこではありませんでした。


歴史に名を残したチャーチル、「言葉の力で世界を救った」「言葉の魔術師」
「信念&伝える力のある人物」と表されているんですね。
言葉の会社を経営している私としては、興味を持たずにはいられません。


チャーチルは、連立内閣には反対派が大勢いるにも関わらず、
「イギリスはナチスに屈しない」という演説によって
イギリス議会、イギリス国民の気持ちを一つにします。
ヒットラーに首を垂れ、懇願する...それはありえないだろ!ということを
わかりやすく、心を動かす言葉で主張し、
結果的に他国のようにヒトラーによる侵攻されることなく、イギリスを守りました。


失われたたくさんの命もありますし、
実際にどう判断することが正しかったのかは誰にもわかりませんが、
チャーチルは今でもイギリスで歴史的な英雄であるようです。
国内での形勢が悪かったにも関わらず、言葉の力で大逆転したすごい例ですね。


私が、言葉のスゴさを痛感した日本の政治家といえば、
やっぱり小泉さんでしょうか。郵政解散演説。
あれも形勢逆転劇。スゴかったですね。


ほかにも、人心をつかんだスピーチ例って多々あります。
キング牧師、オバマ大統領、
ゴールデングローブ賞でスピーチしたオプラ・ウィンフリー、
小室淑恵さんの長時間労働をやめるためのTEDでのスピーチなどなど。
例を挙げればきりがないほど、国内外に素晴らしいスピーチがありますね。


さて、、、、
私はもちろん言葉の力を信じている人間です。


でも、、、、
「何を」発言したかも重要ではありますが、
「誰が」発言したかも重要な時代だと、とそんな気がします。
あ、いや、チャーチルがある意味では嫌われ者だったことも承知しています。
でも、人物としてはきっと何かを持っていたのでしょうね。


どんなにいいことを言っても、信頼の基盤がないと共感されませんよね。
信頼の基盤というのは、その発言者のブレない生き方だったり、
その発言者のブレたならブレたなりのそこから逃げない姿勢だったり、
チャーチルは多分逃げない人だったんではないかな。
そんなふうに思います。


そもそも自分を出さない人は、信頼したくてもできませんから。
(信頼しないわけではなくても、信頼できようがない)
だから、「会社では自分を出さない方がいい」なんて思っていると、
とんでもないしっぺ返しが返ってきたりします。
私は、自分を出すのはリスクだという考え方、違うんじゃないかなーと思います。
だって、自分を出さないと、本当のところでは信頼されませんからね。


もうすぐ桜が咲きますね!
今週も素敵な1週間を〜

今日は、冒頭からちょっと脇道にそれて、お知らせを。
私事ですが、10月11日(木)から17日(水)の7日間、
表参道のギャラリーConcept21で「Denim Age~自由であるということ」
という個展を開きます。
「デニムエイジ 自由であること」で検索してみてください。
ほぼ在廊していますので、お時間が許せば、お気軽にお立ち寄りください。
私は、仕事でやりたいことと個人的にやりたいことが心の中で繋がっていて、
幸せだな、と思います。
どこかで、もう少し詳しく話させてくださいね。


さて、、、今日もそんなことと無関係ではありません。
最近の当社社内の重要な話題、それは、理念やありたい姿についてです。
18日の今日もそんなミーティングを行う予定です。

そんな中、行動面での「謙遜」についても話題になっているので、
今日は、「謙遜」について、真正面から考えてみたいと思います。
というのも、当社の価値観には、不必要にへりくだったり、
不必要に自分で自分を下げることを「非」とする考え方があります。
社内も社外も上も下もなく、対等な関係であることを「是」としているからです。


謙虚、謙遜、卑下。
これらは、本来違うのに、意外にごっちゃになって捉えられている気がします。
特に日本社会では、謙虚謙遜は美徳とされています。
でも、この二つは本質的に違うことです。
いったい、どう違うのでしょうか?

ゆっくり考えてみましょう。
今、謙虚を辞書で調べると、
「自分を偉いものと思わず、すなおに他に学ぶ気持があること」です。
つまり、基本的には学ぶ姿勢や他者との関わり方に関する姿勢を表しています。

一方の謙遜の辞書的な意味は
「へりくだること。控え目なつつましい態度でふるまうこと」です。
「へりくだる」というのは
「他人を敬って自分については控えめな態度をとること」です。
これだけを聞いたら、一概に悪いこととは言えません。
でも、言葉の意味からわかることは、
この言葉は「振る舞い」を示しているということです。

つまり、謙虚=姿勢、謙遜=振る舞い、なので、
謙虚な気持ちがない人が謙遜して振る舞うと、
あるいは単なるお約束として、その振る舞いをすると、
それは単なるポーズにしか映りません。
人の嗅覚は鋭く、それはいとも簡単に見抜かれます。

謙遜表現の中でも、私があまり好感を持たない例を挙げると、
まず身内を悪くいう「愚妻」「愚息」。
褒められた時に返す「いえいえ、私なんて...」。
自分を下げて相手を持ち上げる「私には到底思いつきませんが、さすがですね」。
露悪的にエクスキューズして「自分はおばちゃんだから/太っているから~」。

これらは決して「謙虚」さの表れではありません。
これらは「卑下」、一歩譲ったとして「謙遜」です。
「卑下」とは、「自分を人より劣った者として扱うこと。
へりくだること。謙遜すること」です。

「卑下」は字面も美しくありませんが、
字面から浮かぶ行為も美しくない、と思いませんか。
だって、自分を卑しめ、自ら自分の評価を下げようとするのですから。


謙遜と卑下は、本来的には違うことですが、「振る舞い」であることは同じです。
そして、この振る舞いをされた時に、私たちが感じるのは、、、、

実は「負担」。

「ご謙遜、ご謙遜」というセリフがあります。
あれは、謙遜されたら言い返すお約束のセリフでもあります。
これ、はっきり言って、面倒な慣習ではないでしょうか。
だって、「何をおっしゃいます、そんなことはありません」と
否定しなくてはならない。
内心はポーズとして言っているのだと分かっているのに、
わざわざケアする(これまたポーズで)。
よーく考えてみたときに、これ、本当にお互いやりたいことなのでしょうか。


あー 私、エラそうに書いていますね。でも、私もかつて痛い経験があります。
40歳頃だったでしょうか。
同級生と飲んでいました。で、私がこんな発言をしたのです。
「ごめん、もうおばちゃんだから...」とか
「おばちゃん、もうついていけない...」とか
文脈も言い回しも忘れてしまいましたが、
キーワードが「おばちゃん」だったことだけは今でも覚えています。
それほど深い意味もなく、
多分、ちょっと自虐的に軽く言っただけのつもりでした。
そしたら、その同級生は素晴らしいことを私に教えてくれました。

「実際に、もうおばちゃんなんだから、
こっちが気を遣ってカバーしなくてはならないようなことを
言わないでくれる?」と。

おばちゃんとおじちゃんが飲んでいるのに、
おばちゃんじゃないよと言わせるな、と。
これは、私にとって人生で重要な教えの一つでした。


サッカー、野球、テニスなど、
一流のスポーツ選手は決して謙遜しませんよね。
でも、謙虚です。
謙虚ではあるけれど、謙遜はしない。
その方が単純に美しい。そういう生き方をしたいものですね。

今週も素敵な1週間でありますように。

180903_wakaru.jpg

当社では、仕事で分からないことを分からないと言わないと、
叱られます。
何が分からないかが分からない時にも、
何が分からないかが分からないと言えと、教えられます。
でも、世の中ではそうではない会社もたくさんあるようです。
私のパーソナルトレーナーはコンサル出身ですが、
調べれば分かることを調べずに聞くのはNGだったのだとか。
そんなことに上司の人件費と使うなという考え方だったそうです。
そういうことならまだ分かります。
でも、採用活動などをしていると、
たとえ目的さえよく分からない時でも、質問できる雰囲気にない...
そんな組織も多々あるようです。
分からないまま進めて、出戻りが増えるくらいなら、
分かった状態で進めて、そのアウトプットにフィードバックする方が、
効率的だし、成長スピードも上がるはずなのに。


さて、今日のテーマは「分かる」と「言葉」の関係です。
この記事で考えたい「分かる」の対象は、
・自分について
・接触する相手について
・自分を取り囲む物事について
です。


それぞれについて、自分が今何が分かっていて、
何が分かっていないのか、
そこにアンテナを立てることは、
コミュニケーション上も、重要ですよね。


たとえば「自分について」。
心理学で使われるフレームワーク「ジョハリの窓」の中に、
「盲点の窓」というのがあります。
自分について、他人は気づいているのに、
自分は気づいていない自己のことです。
そこに興味を持ち、分かろうとすることは、
コミュニケーションのズレを減らすために重要だとされています。


友人知人を含め、私の周りにいる人たちを観察すると、
「分かる」ことにこだわる人とこだわらない人がいるようです。
「こだわる」という言葉を使うと、まるで価値観のようですが、
私は、ただ行動習慣に違いがあるだけであって、
価値観でもなければ、能力的な違いでもないと考えています。
両者は「分かる」の捉え方も違います。
前者にとって、体系的かつ論理的に話せる状態が「分かる」であり、
後者にとって、ピンと来ていたら「分かる」です。
でも、、、そんな二人が会話をすると、
噛み合わないという事態に陥りがちなのも事実。。。


体系的かつ論理的に「分かる」ことにこだわる人が、
そこにこだわる理由は、分かることに意欲的だからというよりも、
分からない状態を放置しておくことが気持ち悪いと感じるからのようです。
この人たちに共通する特徴は、自分との対話を頻繁にしている点。
内省とか、内観と言ってもいいかもしれません。
その時、駆使しているのが「言葉」です。
自問し、言語化しながら自分の考えを整理していく、そんなやり方。
「〜ついて考えたのですが...」「ふと疑問に思ったのですが...」などと
話し出すことが多く、意見が明瞭で、説明も上手です。


一方、体系的かつ論理的に「分かる」ことにあまりこだわらない人は、
考えることや意見を持つことが苦手な人でもあります。
共通するのは、言語化して分かろうとせず、
イメージや感覚で分かろうとすること。
直感的に何が正しいかを感じ取ることに長けていて、
いきなり答えを口にしたりします。
その反面、説明も感覚的になりやすいので、
分かっているのは自分だけという状況になりがちです。


私自身は、「分かる」ことにこだわりますが、
直感が先に働くことも多いので、後者の人の気持ちはよく分かります。


で、先ほども書いたように、前者と後者の二人が会話をすると、
大抵の場合、なかなか話が噛み合いません。


さて、人が誰かに分かってほしいことを分かってもらうための
重要なツールが「言葉」です。
おそらくこれに異論がある人はいないのではないでしょうか。
では、こっちの2つはどうでしょうか?


「言葉」は、
・自分の考えや自分自身について理解を深めるためのツールでもある。
・相手について理解を深めるためのツールでもある。


私たちグラスルーツの理念は、「『言葉』で未来をつくる」ですが、
言葉にこだわるのは、分かり合う努力をし続ける世の中でありたいからです。
だからこそ言葉をそのための重要なツールとして、大切に扱いたい。

自分を、相手を、物事を、私は分かろうとしているだろうか?
言葉というツールを駆使しているだろうか?
そんな自分との対話で始めたい9月第1週です。


今年も残るは4カ月。
どうぞ素敵な1週間をお過ごしください。

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右脳左脳に始まって、多くの人は「脳」の神秘に対し関心を寄せています。
かくいう私も「脳」ネタは大好き!
今日の話題は、直接的に「脳」の話題ではありませんが、
ビジネス現場での思考のジャンプには、右脳的アプローチが必要で、
それにはどうしたらいいのだろう?という話題です。


問題解決や企画立案をする際に、一般的に重んじられているのは、
分析思考や論理的思考です。
でも、アウトプットするには、想像力やクリエイティビティが不可欠ですよね。
ところが、ビジネスの世界には左脳偏重の空気が流れているのではないでしょうか。
何といっても、左脳的な発言はアタマが良さそうに見えますから(笑
というわけで、右脳的思考の地位が、イマイチ低いのではないか、
もう少しその地位を上げよう、というのが今回の最初の問題提起です。


さて、ビジネスで求められる良いアウトプットとは何でしょうか。
私はこう考えます。
手に入れたインプットを、新しい視点から眺め、創造的にジャンプした具体策にすること。
インプットの一般的な捉え方は、例えば現状、事象、問題、データなど。
アウトプットというのは、何らかの「策」です。


で、一般論として、仕事で起きる問題は、
アウトプットはしていても、いまひとつジャンプ度が足りないということです。
原因は一概には言えませんが、私が注目するのは、次の2点です。


【1】情緒的・感情的なインプットが足りない/ない(必要ないと思われている?)
【2】抽象的なレベルでの思考の拡散が足りない


【1】が起きるのは、問題を事象レベルでしか見ないことが
当然化してしまっているからだと思います。
その対策として、私たちグラスルーツは「感情マッピング」という方法を
セミナーを通じてお伝えしています。


今日考えたいのは、【2】点目についてです。
これは、どういうことかというと、、、
良いアウトプットが、「手に入れたインプットを、新しい視点から眺め、
創造的にジャンプした具体策にすること」であるとすると、
新しい視点とは新しい意味を見出すことでもあります。
ところが、「意味」というのは大抵の場合、とても抽象的で、
同じものを見ても、感じる意味は人それぞれです。


私たち人同士は抽象的なものを取り扱うことを得意としません。
なぜなら見えないものだからです。
希望、夢、絆、共感、満足、高品質、価値、、、、
いずれも目に見えないもの、形のないものです。
だから、会話することがとても難しいわけですね。
それぞれの抽象概念に名付けられた名前(単語)を、
会話する相手がどういう意味で捉えているかさえ、実は分かっているようで分かっていません。
例えば、「希望」という言葉に対して、人が抱くイメージは、
人それぞれですし、その言葉との距離感も人それぞれです。


抽象概念を取り扱うのが苦手な私たちですが、
最近、それを克服するのに良さそうなツールに出会いました。
イスラエルの「Points of you®」のファウンダー、
ヤーロン(Yaron Golan)と エフラット(Efrat Shani)が開発した
写真と言葉を使ったカード型のツールです。
創造力や発想力に刺激を与え、
新しい視点を見出すことを促進させることのできるツールだと言えます。
カードの使い方は自由で、教育シーンなどでも使われていますし
ビジネスでは、Google、IKEA、Intelなどでも導入されているのだとか。


写真や絵を使ってイマジネーションを開発するという方法自体は
教育現場などでも取り入れられていて、それ自体は珍しいわけではありませんが、
このツール、豊富な写真は見ているだけでも楽しいですし、
思考の拡散と収束がしやすく、本音を言う場を設計しやすいのが特長です。


では、なぜこのツールが、抽象的なレベルでの思考の拡散に有効なのでしょうか。


普段私たちは、自分が感じていることを話す場合は、考えをまとめながら、言葉ありきで話します。
そうすると漠然としたことや直感的なことではなく、
どうしても意見らしいことやもっともらしい考えを話す必要があるような気分に陥ります。
つまり、この時点で拡散とは逆方向に向かっています。


ところが、自分が感じていることを言葉にする前に、
例えば写真カードを選ぶことから始めたとします。
そして、なぜこのカードを選んだのかを後から説明する。
すると、情緒的・感情的なことがとても言いやすくなります。
また、写っているものを観察することで、
何かのサインを感じ取ったり、インスパイアされたりもします。


こうしたことが起きるのは、
きっとこのツールが抽象概念を「モノ化」しているからだと思います。


形あるもの、目に見えるものがあると、
・お互いが感じていることを伝えやすくなる
・イメージを共有しやすくなる
・画面の外やこの瞬間の前後にまで、想像をしやすくなる
という作用が生まれます。
きっと、目に見えるものが拠り所となるのでしょうね。


ビジネスシーンでどう活用できるのか、
研究してみたいと思います。


暑い日が続いていますが、どうぞ素敵な1週間を!

一緒にメルマガを書いている阿部が
「スウェーデン式アイデア・ブック」という本を手にしていたので、
貸してもらいました。(フレドリック・ヘレーン著、ダイヤモンド社)
本の帯には「ひらめきが生まれる小さなヒントが満載!」とあり、
短いエッセイ30本で構成された気軽に読める本です。


例えば一番目のエッセイのタイトルは「針を探す」です。
アインシュタインの逸話を盛り込みながら、
答えは一つではないのだから、誰かが問題の解決案を提示した時、
別の方法はないかと聞くよう勧めています。
他人のアイデアを認めない偏屈な人物だと思われたとしても、
もう少し粘ることによって、もっといいアイデアが生まれてくるのだ、と。


そうかと思えば、「『イエス』より『ノー!』」というエッセイでは、
批判がアイデアを磨くとして、
アイデアを思いついた時はむしろ批判してくれる人を探して、
批評を得よと語っています。
アイデアにはタフネスが必要だと言わんばかりです。


この本で、私が面白いなと思ったのは、
「ノー」という概念をポジティブに扱っていることでした。


一般的に、アイデアはポジティブに取り扱う方が
膨らんでいくので良いと言われています。
人は否定されたくないし、
否定はモチベーションを下げるというのが通説です。
研修などでイエスアンド話法を教わったりするのも、
そういう前提があるからではないでしょうか。


ま、これ、ある意味正しいかと思いますが...


でも、その考え方にはちょっとした落とし穴もある、
ということをこの本は気づかせてくれました。
というのは、私たちはついつい「イエス」は善玉で、
「ノー」は悪玉と考えてしまいがちです。
擬人化して例えるなら、
背中を押して応援するのが「イエス」君で、
目の前に立ちはだかり妨害するのが「ノー」君です。
キャラクター的に言えば、
「イエス」はキラキラ輝くヒーローのような存在、
「ノー」はダークサイドの悪者というイメージでしょうか。


しかし、もし私たちが「良いアイデアを生み出す人」でありたいなら、
「ノー」とも仲良くしないといけないのですね。
考えてみれば、本当に良いアイデアは
その辺にゴロゴロと転がっているものではなく、
たくさんの「ノー」を克服したその先にある。
ごもっともです。


でも、私たちの心の中にある嫌われ者の「ノー」のイメージは
ちょっとやそっとで良くなりそうにありません。
どうしたら「ノー」と仲良くなれるのか...?
「ノー」と言われることにも、言うことにも恐れがなくなり、
「ノー」を違うイメージで見ることができるのか...?


「スウェーデン式アイデア・ブック」には
メタファーで表現することで視点が変わるとありましたので、
早速やってみました。
「ノー」をダークサイドの悪者ではない
別のキャラクターにできないか、と考えてみたのです。
以下、私がしてみた連想ゲームです。

 ノー
  ↓
 難しい問いかけ
  ↓
 禅問答
  ↓
 禅僧
  ↓
 達磨大師
  ↓
 ヨーダ


なるほど。
「ノー」のイメージのネガティブな側面が、
「スター・ウォーズ」に登場するヨーダのイメージになり、
深い知恵を持つ導師のように思えてきました。


私たちの頭の中から浮かんでは消えていくたくさんのアイデア。
「イエス」も「ノー」も味方につけて
アイデアの育て上手になりたいものですね。


どうぞ素敵な1週間をお過ごしください。

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ちょうど今、私は「未来は言葉でつくられる」(著:細田高広、ダイヤモンド社)という本を読んでいるのですが、
あなたは言葉の力を信じますか?

こう聞かれたら、多くの人は「イエス」と答えることでしょう。おそらく過去に感銘を受ける言葉と出会った経験があるからです。
それは、人から言われた言葉かもしれませんし、何かで読んだ言葉かもしれません。

つまり、誰しも言葉には人の気持ちを動かす「力」があることをなんとなく知っています。


でも、結局のところ、言葉の地位は、それ以上でもそれ以下でもない。
少なくてもビジネスにおいて言葉を大切にする経営を行なっている企業は、あまり多くないと感じます。

多くの場合、言葉がどう捉えられているかというと、説明して理解してもらうためのもの、なのではないでしょうか。それはそれで大切ですが、本当にそれだけかといえば疑問です。


私自身は、言葉こそが、自分の人生を変えたり、自分の仕事を変えたり、世の中をより良い方向に変えたりするのだと思っています。何かの始まりには常に向かう先を描く言葉があるのだ、と。


そんな私にとって、言葉は未来をつくるためのものだと語るこの本は、
まさに我が意を得たり!です。


この本では、ソニーやアップル、ディズニーやシャネルなどを例に挙げ、
革新的なことを成し遂げる出発点には
常に「ビジョナリーワード」と呼ぶべき1行の戦略ワードがあったことを紹介。
さらに、どのようにしたらその言葉が作れるのか、
アプローチ方法を紹介しています。


この本には共感することがいろいろと書かれていますが、
中でも一番強く「その通り!」だと思ったのは、
つくりたい未来の入り口を探すには、現状を疑うことが不可欠だという指摘です。


つまり、未来をつくる言葉をいきなり生み出そうとしてもできるものではなく、
現状を疑うことが先である、ということですね。
著者は、そのために有効なのは「本当にそう?」という自問だとしています。


以下の引用は、各社の出発点にあったであろう自問です。
ーーーー
ビジネスは、自然環境の敵である。本当にそう?(パタゴニア)
コンピューターは便利ならそれでいい。本当にそう?(アップル)
クルマは家計と環境の負担になる。本当にそう?(ジップカー)
ーーーー


そうなんですよね。


「疑ってみよ」というのは、身近なことでも言われますよね。
日々の仕事で当たり前のようにやっていることを疑ってみよ、とか。

ところが、疑ってみること自体、結構難しい。
人間は思い込みをする動物だからです。
これはこういうものである、という思い込みで
私たちはがんじがらめになっています。
これでは、未来を変えるどころではありませんね。


しかも、社会常識に対して思い込みを持つだけでなく、
自分自身に対しても思い込みを持っています。
・私は〜が苦手。
・私に〜する時間はない。
・私は〜をしなくてはならない。
思い込みは、言葉の負の力だということもできますね。

だから、仮に目の前のことについて「本当にそう?」と自問して、
「違うかもしれない」と思えても、
今度は「自分の手で現状を変えるなんてムリ。できるわけがない」
という思い込みが働き...などということになりかねません。


でも、、、、
そもそも人間が思い込む習性のある動物であるなら、
常に「本当にそう?」と自問するクセをつけるしかありませんね。
自分の思い込みワードを打ち消し、
自分の未来、社会の未来をより良くするための魔法の言葉、
それが「本当にそう?」なのかもしれません。


さて、10月がスタートし、2017年も最終コーナーです。
どうぞ素敵な1週間を!

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先月のことになりますが、
私たちグラスルーツは伝える仕事の面白さを届けたいという思いから
2つの小学校のサマースクールにエントリーし、
「お友だちをプロデュースしよう!」
「いろいろな題をつけて遊ぼう!」という子ども向け特別授業を開講しました。
当社のスタッフの子どもさんたちが通う小学校での開催です。
先生役は当社のスタッフ、子どもさんたちから見ればお父さん・お母さんです。
詳細は、こちらをご覧ください


参加した小学生たちの反応は上々で、友だちに質問するのが楽しかった、とか、
ほかの人は自分とは全然違うことを感じていることがわかって面白かった、など、
何かしら楽しい発見をしてくれたようです。


さて、先生役を担った二人との会話で、
普段、家で自分の仕事をどう子どもに説明しているか
ということが話題に登りました。
一人はわかりやすさ優先で「本を作っている」と語っているそうで、
もう一人は「働く人が元気になるための仕事をしている」と言っているそうです。
子どもにとって、前者は働く姿が目に浮かび、後者は大切な仕事なんだなと感じる、
そんな違いがある気がします。
いずれにしても、良くはわからないなりに、
子どもたちはちょっと誇らしいかもしれませんね(笑


私が小学生の頃、働く父親の姿を絵に描くという授業がありました。
ところが、どんな仕事をしているのか、父に聞けども聞けどもわからず。。。
当時、父は、国の地質系研究所のようなところに勤めていましたが、
何のための仕事なのかも、何をする仕事なのかも私にはわからず、
それでは絵が描けないので、
結局「周りにはこんなキカイがたくさんある」という絵を父に描いてもらって、
それを書き写したような記憶があります。
見たこともないので、私にはただの箱にしか見えませんでしたが(笑


自分の子どもに自分の仕事をどう説明するのかは、とても重要だと思いますが、
それは子どもに対してだけではありませんよね。
特に、自分自身のアイデンティティにとって最も重要である気がします。


その有名な例えが、レンガ職人の話ですよね。
「ここで何をしているのか」と問われて、
「レンガを積んでいる」と答えるのか、
「人々のために教会を作っている」と答えるのか。


では、実際の私たちは、自分の仕事をどんなふうに人に伝えているのでしょうか?
話す相手と状況によって、いやむしろ多くの場合、
「〜のために」の部分は語らなかったりしますよね。
たとえば学生時代の友だちから、「どんな仕事をしてるのか?」と聞かれたら、
「○○○の営業をやっている」とか、
「○○○会社の人事部にいる」と答えることの方が多いのではないでしょうか。
なぜならこの手の質問で相手が期待する答えはWhatであって、
Whyではないと思っているからです。
あるいは、下手にWhyを語ると、面倒くさいヤツだと思われる...と思っていたり(笑


でも、、、、ふとこんなことを思いました。
それは、自分の仕事へのこだわりをシンプルに語る言葉の準備が
不十分だということかもしれない、と。
たくさんの言葉を尽くせばWhatもWhyも話せますが、
シンプルに、子どもにもわかるような平易な言葉で、
ズバリ語ることは結構難しいものです。
そもそも自分の考えをそぎ落とすのが難しい上に、それができたとしても、
次は相手側の言葉で表現する必要があり、これまた難しいからです。


自分の仕事を人に(子どもにも!)わかりやすく、説明できるようになること。
それは、きっと自分の思考整理にもつながるのでしょうね。
あなたは、自分の仕事を子ども向けに説明するなら、どう説明しますか?


涼しくなってきましたね。どうぞ素敵な1週間を!

 

ブログを書いている人

小野真由美

グラスルーツの代表。組織をただの集団ではなく、チームにするための組織内コミュニケーションはどうあるべきだろう?…なんていうことを、いつもツラツラ考えています。ブランディングやコミュニケーション、チームやリーダシップ系の話題が7〜8割、その他の話題が2〜3割。そんなブログを目指します。ぜひおつきあいください。

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