ディレクターの阿部が日々の気づきをつぶやくコーナーです

ブログ:2014年9月

スタッフの阿部が日々の気づきをつぶやくコーナーアベログ

以下のような状況、皆さんならどう感じますか?


数年ぶりに友人と食事をした。
いろいろ話したいと思っていたら、友人の携帯に電話。
友人は席を外したまま、しばらく戻らない。
食事が運ばれてきて、どんどん冷めていく。


「戻ってこないなあ」と思う程度でしょうか。
それとも、
「電話よりこっちを優先すべきでしょ? 私、粗末な扱いを受けてる!」
と感じ、怒るでしょうか。


先週のメルマガでご紹介した『「怒り」がスーッと消える本』によると、
怒りというのは、自分が何らかの形で「被害」に遭っていることを
知らせてくれる感情なのだそうです。
つまり「被害者でない人は怒りを感じない」と言っていいそうです。


友人との食事のシチュエーション。
同じ状況に居合わせても、「戻ってこないなあ」と思う程度なら、
それほど被害はないので、怒りを感じるというほどでもない。
でも、「粗末にされた」のは被害なので、怒りが込み上げてきます。


なぜここで受け止め方に違いがでるのか。
それは、「友人が長電話をして長時間席を外した」という事実以外の、
勝手なストーリーを自分で作り出しているかどうかによるらしいのです。


つまり、怒りを感じる人は、
「友人が長電話をして長時間席を外している」

「戻ってこないなあ」

「そもそも、電話の用件、それほど重要なの?」

「私と食事をすることが本当は嫌だから、電話してるのかも」

「本当は別の約束があったんじゃないの?」

「私って、粗末な扱いを受けてる!」
などと、どんどん頭の中で勝手なストーリーを作ってしまい、
それに対して怒っているらしいのです。


反射的な怒りは動物が本来持っている防御本能なので、
完全に抑えることはできない、と本にはありました。
でも、「怒り続けること」は本能的なものではないので、
「怒り続けるかどうか」は自分で決められるのだそうです。


「怒り続けるのは嫌だ」と思った時の対処法がありました。
「自分が被害に遭った、と断言できるだけの証拠がそろっているかを考える」。


前述の食事のシーンで考えると、
電話の用件が重要じゃない証拠はないし、別の約束があった証拠もない。
そう考えているうちに、怒りは静まっていくものなのだそうです。
「そう簡単に言うけど、そんなこと冷静にできるの?」と思いますが、
怒りを感じる度に、この思考を繰り返す習慣が身につけば、
だんだんとムダな怒りは感じなくなると言います。


先週のメルマガで、私は
「子どもが期待通りの行動をとらないことに怒りを感じる」と言いました。
早速、考えてみました。
で、思いました。
「被害? ないよね」と。


でも、実際に怒りを感じるということはどういうことなのか? 
自分が無意識に作っているかもしれないストーリーを考えてみました。
「子どもが期待通りの行動をとらない」
「子どものことで、私が先生に何か言われるかもしれない」
「そもそも私が言ったようにやらないなんて、
私のことをバカにしてるんじゃない?」


ぎゃー!! うんざりしますね。自分が嫌になってきますね。
「そもそも自分は被害者なのか」を考えるだけでも、怒りはおさまりそうです。
今度は自分自身に怒ったりして? あーあ。

先日読んだ本にこんなことが書いてありました。


「人にはそれぞれのプロセスがあって、本人が変わろうと思う時、
変わる準備ができた時に、変わっていくもの。
人はそれぞれのタイミングでしか変わらない。
人を変えることはできません」


本のタイトルは、『「怒り」がスーッと消える本』。
対人関係療法が専門の精神科医、水島広子さんの本です。


なぜ、この本を手に取ったかというと、
常日頃から、自分は「怒りやすい」と思っているからです。


主に子どものことですが、すぐにカチンとくるわけです。
カチンときても、ニコニコして怒りを表に出さないのは体に悪そうなので、
「最初から怒りを感じない」ということができればどんなにいいだろう、
そう思っているのです。


冒頭でご紹介した内容は、本の中で
改めて「そうだ、そうだ」と納得した部分ですが、
でも、なぜ、「人は変えられない」ということに、自分は強く反応したのか?
考えているうちに気づきました。
どうやら私は、子どもに「変わること」を望んでいて、
私の怒りは、そこに原因があるようなのです。


そう簡単に人は変わらないのはわかっています。
ましてや、人にうるさく言われたら、
変わろうと思っていたとしても、変われないですよね。
わかっているんです。でも、心のどこかで
「○○であってほしい」という期待が常にあるんでしょうね。
だから、期待とずれた行動をとられたときに、カチンとくる。


期待する→期待通りに動いてくれない→フィードバックする
→また期待する→期待通りに動いてくれない
この繰り返しは、お互いかなりストレスがたまります。
職場でもよく起こりますよね。


そこで、「人はそれぞれのタイミングでしか変わらない」です。
はい、わかりました。人は変わらない。
じゃ、どうする?
期待しなきゃいいってこと? 変わるのを待つってこと?
とりあえず今は諦めろってこと?
そんな悠長なことは言っていられないという場合がほとんどだと思います。


本にはこうありました。


「人は基本的に前進する生き物なので、環境さえ整えば変わっていきます。
人を変えることはできませんが、
人が変わりやすい環境を作ることはできるのです」


いやー、反省。
怒られる人の立場で考えてみると、
その人は決して怒られたまま(今のまま)でいいと思っているわけではない。
何とかしなくちゃいけないと思っているが、やり方がわからない。できない。
こういう場合は少なくないだろうなあと思いました。


とりあえず私は「子どもが変わりやすい環境作り」、頑張ってみようと思います。
怒らない生活、やってくるといいのですが。

次男のサッカーのコーチがこんなことを言っていました。


「僕、小学校6年生までドイツにいたんですよ。
日本に帰る事になった時、
日本のチームでは僕が一番上手いんだろうと思ってたんですよ。
だって、ドイツでサッカーやってきたんだから。
でも、チームに入ったらなんと一番下手だったんです。
周りの上手さにびっくりしました」


コーチによると、日本の小学生のテクニックはとても高度なんだそうです。
「練習内容がテクニック重視なんです。たとえば、リフティング100回やって、
なんてドイツで言われたことなかったですから」


へえ、そうなのか、と思っていると、
「でも、中高生になると、ドイツの選手の方が断然上手いです」とコーチ。
「どうしてなんですか?」と尋ねると、
「うーん、単純にドイツの選手のほうが
サッカーが楽しいと思っているからなんじゃないですか?
日本の中高のサッカーは枠にはめられて、窮屈な感じがするっていうか」
すると、他のコーチも横から言いました。
「ですよね。楽しいのは小学生までですね」


と、ここで思い出しました。
先日、全米オープン優勝まであと一歩というところで
惜しくも敗れたテニスの錦織選手。
錦織選手は13歳の時に日本を離れ、アメリカのテニスアカデミーに留学しています。
小学校を卒業したばかりの息子を
アメリカに送ったご両親の思いをある記事で読みました。


「日本では、テクニックはつくかもしれないし、上手くなるかもしれないが、
個性が潰れてしまって、楽しくなくなるのではないかと思った」


その記事には、日本のスポーツ界には、
「枠にはめず、選手の個性を伸ばす指導者は多くない」とありました。
多くの指導者は、選手が自分の理解を超えることをした時、
焦って自分のやり方に引き戻そうとする、と。


これは私の考えですが、こういう場合、
指導者が感じるのは「恐怖」なのではないでしょうか。
上下関係が狂ってしまうのではないか、という恐怖です。
動物の本能なのかもしれません。
立場が脅かされそうになるから、「私が上なんだ」という態度を示したくて、
無意識に自分の枠にはめようとする。
スポーツの現場に限らず、ビジネスでも子育てでも、
同じようなことが起こりますね。


あまり意識したことはありませんでしたが、
「上下」という図式、日常のあらゆるところにあることに気づきます。
ここから外れてみると、いろいろなことが見えてくるのかもしれません。

私のスマートフォンを勝手にいじって、ゲームを始めてしまう次男。
説明も読めないのにどうやって?と思いますが、
教えられたこともないのに、
タップしたり、スワイプしたり、という動作が自然にできるようで、
片っ端からアイコンらしいものをタップしたりしているうちに、
始められてしまうようです。


一方、スマートフォンに変えたら便利そうだ、と思いながらも、
「どこをどうやっていいのかわからない。ボタンもないし、矢印もない」
と言って諦めているのが両親。
一度、私のiPhoneで試したものの、
タップの力加減がわからずに、おかしなことになって、
それ以降、「無理だ」と言っています。


グラフィックデザインの世界では、フラットデザインと呼ばれる
立体的な要素をできるだけ排除したシンプルなデザインに注目が集まっています。
iOS7で採用されているようなデザインです。


一枚の絵として見た時、私個人はフラットデザイン好きです。
シンプルで、フォントもカラーも洗練されていて、カッコイイ。
私がこの業界に入った20数年前にカッコイイとされていた
デザインに近いような気もして、懐かしいような感じもあります。


でも、媒体が紙中心だった昔とは違い、今はネットやスマートフォンがあって、
ユーザーが操作することを前提としたデザインが必要です。
フラットデザインはカッコイイけど、フラットで本当にいいの?
という疑問が湧いてきます。


調べてみると、フラットデザインが注目されているのは、
どうやら制作サイドの事情によるところが大きいようです。


立体的なデザインでは、ユーザーインターフェイス(UI)は、
現実世界にあるものになるべく近づけて作られているため、
例えばメモ用紙のアイコン一つとってみても、本当のメモ用紙に見えるような影、
メモを破った時の紙のちぎれ方が、リアルに作り込まれています。
当然、この作り込みには多くの時間がかかります。
しかも、ユーザーが使用するデバイスが複数になると、
デバイスごとに作り込みが必要となり、制作時間は膨大になっていました。


そのうち、「そもそも2次元で3次元を表現することが本当に必要なのか?」、
「本当に大事なのはUIではなく、コンテンツではないのか?」
という声が上がるようになったようなのです。
シャドウやエンボスなどの立体的なエフェクトを
できるだけ排除したフラットデザインなら、
制作の負担が圧倒的に減り、
デバイスによって見え方が違うという問題に悩まされることも少なくなる。
また、シンプルで洗練されていて、本当の意味でデザインできる
(その分、高いデザインセンスが必要だという声もありますが)
というのも注目が集まる理由の一つみたいです。


もちろん、ユーザーにもメリットはあります。
一つは、画像が多く使用されていないことによるロードの速さ。
また、ガイドがシンプルなので、本来主役であるコンテンツに集中できることも
あげられています。


でも、うちの両親世代は、どこを押せばいいのかますますわからないだろうなあ。
そう思っていたら、ある記事にこんなことが書いてありました。


「フラットデザインはデジタルに慣れている世代には使いやすくなるだろうが、
デジタルに慣れていない世代には注意が必要。
用途やユーザー層を考え、適切なデザインを提供する必要がある」


なるほど。UI のデザインはこれからどんどん進化していくのでしょうね。
立体かフラットかに拘らず、シンプルで誰にとっても使いやすい、
そんな新しいデザインが将来出てくるんだろうなあと思いました。


さて、先週のメルマガでも少しお伝えしましたが、
当社のサイトが新しくなりました。
サイトを訪れてくださる方々に、
私たちのメッセージをよりシンプルにお伝えしたい。
そんな思いからフラットデザインの要素を採用しています。
ぜひご覧くださいませ。

自他ともに認めるモヤモヤ嫌いです。
なので、何かでモヤモヤした気持ちになると、すぐに解消に向かいます。


モヤモヤの多くは、人とのコミュニケーションの中で起きるものなので、
その人と「話す」のが解決方法。
直接会って、話す。どうしても会えないなら、電話。
声のトーンや会話の中の間を確認しながら話を進めていくことが、
とても重要だと思うからです。


メールは便利ですが、モヤモヤの解決には極力使いたくありません。
相手の反応が次のメールまでわからないと、モヤモヤが募るばかりです。
相手のほうに思い切りボールを投げてはみたけれど、
相手がキャッチしたかどうかは確認しないなんて、もっと気持ちが悪くなります。


新卒で入社した会社で、私は情報誌作りに携わりました。
大部分が広告という媒体だったので、見やすい本作りのための工夫が必要でした。
どこに編集記事を入れ、どんなコーナーを設けるか、広告の体裁をどうするか、
といったことです。
広告に関しては、クライアントとしては他の広告よりも目立たせたいわけですから、
こちらの制作規定がしっかりしてないと、好き勝手なことになってしまいます。
私の最初の仕事は、その規定を作り(もちろん一人でではないです)、
しっかり営業担当や制作担当に伝えることでした。


で、必ず規定に納得しない人がいるわけです。
次の媒体はこういう規定でいきます、と会議で説明すると、
終わったとたん、異議がある先輩たちが鼻息を荒くしてやってくる。
規定作りには営業や制作の代表も参加していますが、大きな会社だったので、
一人ひとりの担当者にまで、やりとりが伝わっていなかったのです。


新入社員だった私は、毎日のように先輩から攻撃されて、
嫌な気持ちになっていましたが、
そのうち、これは私個人として受けるものではないと悟り、
「編集サイドの人間として、よい本作りのためにこう決めて、
こうしているんです!」
と、頑張って伝えるようになりました。
すると、理解してもらえるようになりました。
一方的な攻撃と思っていたものが、ちゃんと議論になるようになったのです。


今思うと、営業担当も制作担当も一生懸命だったんですよね。
営業はクライアントのために、制作はよい広告作りのために、必死だったのです。


そこで学んだことは、
「ただの文句になったり、ただの攻撃になったりするのは、
相手を信頼していないから。
一生懸命同士が心を開いて、お互いを理解しようとすれば、
ちゃんとした議論になるし、モヤモヤはほとんど残らない」
ということです。


その後も、私はこの姿勢です。
会社が変わって、上司が変わっても議論してきましたし、
クライアントともモヤモヤ解消議論をしてきました。
もちろん、モヤモヤがすっきり解消されないこともありましたが、
議論しないほうがよかったと思ったことはほとんどありません。


なんて、そう思っているのは私だけだったりして、
という不安は多少ありますが、
過去の勤務先の上司や先輩たちが、20年たってもたまに声をかけてくれるのは、
議論してきたことが大きいのではないかなあと思います。


ところで、数々の議論の末、
グラスルーツの新サイトがついに出来上がりました。
私たちの思いをしっかり語りました。是非、ご覧ください。

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