『コミュニケーション』カテゴリの記事
2 ページ / 18 ページ
「抗えない」のウソ
昨日の当社の定例ミーティングで、
ズバリ一言ですが、うちのメンバーにこんな話をしました。
仕事での様々な関係の中で、いろいろな会話がされているけれど、
そのとき社会では「目的」が忘れられがち。
もし「目的」
話が複雑になってしまうのは、「目的」
グラスルーツは「目的」思考の会社でありたいので、よろしく!
まあ、これ、正論ではありますが、
正論で解決できないことがあるから、
では、正論で解決できないこととは何でしょうか?
いろいろあるとは思いますが、
その1つに、組織の中で「抗えない」
こんなことを言ったら、周りから何か言われる...
これをやめると言ったら、角が立つ...
これを変えたいが、あちこちから反発を喰らいそう...
一度は婉曲的に伝えたけど、それ以上は言いにくい...
だから「抗えない」。
ある意味、想像に難くないですよね。
実際、三人寄れば公界(くがい)というくらいですから、
人が3人いると社会ができてしまうし、
3人いると銘々が別のことを考えています。
そして、誰もが生存本能から「人から嫌われたくない」
ちょっとしたことを発言する=モノ申した人=波風を立てた人=
そんな図式が生まれてしまうのだと思います。
アドラー心理学などでも、
ましてや組織になり、自分の発言が「所属部門」
そりゃ軽率にモノが言えない気分になるのもわかります。
ですが、こういう体験はありませんか?
「抗えない」と思ったから取った自分の行動で、
実は結果的に自分の評価が下がった、みたいな。
私はありますよ、若い時に。
まあ、正確に言えば「抗えない」というほど
突き詰めて考えて取った行動ではありませんでしたが、
「この人の言葉に従うべきだろう」
「この人の判断通りに行動していたら問題ないだろう」
自分が非難されたり、スベったりした経験。
2つ例を挙げますね。
1つ目は、ある上場企業の秘書室で業務を引き継いだ時、
前任の先輩から言われた通りにやったのに、
「○○さんなら、そんなやり方はしなかった」と
担当していた役員からお叱りを受けました。しかも、2度も!
自分で判断して行動したならまだしもでしたが、
納得できない気持ちが残りました。
2つ目は、PR会社に転職し、
上司は「連れて行くから、待っていてね」と、
よく言えば直々に教育指導してくださるつもりだったのでしょうけ
上司が動いてくれないと動けない状況に、
でも、同じ頃、隣の部に入社した新人が、
「プレスコンタクトに行ってきます」
「この新人はスゴイ!」と発言。
その時は「おいおい、あなたが私をステイさせたんだよね」
この体験には、いろいろな示唆が含まれています。
上の人から言われたことは、忠実に守らなくてはいけない...。
私は、そう思っていましたが、実はこれはウソだということです。
もう少し正確に言うと、忠実に守ろうとするのも、
その結果には誰も責任を持ってくれないし、
「自分は言うことを聞いただけです」
そう気づいてから以降、私は仕事であれ、恋愛であれ、
「自分が選択した」
「抗えない」「言われたことはやるしかない」と思うのは、
自分の思い込みであると。
その結果何が起きるかというと、「自己責任」
でも、それって潔くて快適です。
というわけで、今日のテーマは本当に抗えないのか、でした。
あなたはどう思いますか?
今週末は30年ぶりにスキーに行きます。
ケガなどせずに帰ってこられるよう、祈ってくださいまし。
コンフリクトはあなたの活力!?
仕事において、できることなら「コンフリクト」は避けたい。
大勢の人がそう思っているのではないでしょうか。
やっぱり直訳すると、論争、衝突、争いですから、
悪いイメージを持つ人が多いような気がします。でも、
コンフリクト(conflict ) =活性剤(activator)
と、解釈することもできますよね。
実際、「コンフリクト・マネジメント」といって、
「コンフリクト」を抑え込むのではなく、
積極的に受け入れて問題解決を図ろうとする考え方もあります。
会議のファシリテーションを委託される私たちも、
「コンフリクト」を恐れない姿勢、
つまり対立を回避しようとしたり、
本音で話し合えてこそ、
面白い調査結果があります。
「コンフリクト・マネジメント調査/コンフリクトと多様性」(
まず事前の予備知識として、「コンフリクト」
一つは仕事内容に関する意見やアイデアの衝突を意味する「
もう一つは人間関係がこじれて生じる衝突「リレーションシップ・
調査によると、タスク・
仕事への活力や熱意、
反対に、衝突を嫌がって意見を表明しない人、できない人は、
では、リレーションシップ・
タスク・コンフリクトの経験とは反対に、
また皆さんも心当たりがあるかもしれませんが、
コンフリクトが生じている時に、
対立している者同士が、
どちらかが強権的でどちらかが服従的になると、
調査では、「協調的文化」「強制的文化」「回避的文化」
エンゲージメントにどのような影響を与えているか調べています。
ここでいう文化とは、
それぞれの文化の特徴を整理すると;
(1)協調的文化:
(2)強制的文化:
(3)回避的文化:
(2)番はマウンティングし合うのでしょうか。
(3)番は「まぁまぁまぁ~」と誰かが間を取り持ったり、
お互いに意見を飲み込み合うというシーンが浮かんできます。
で、結果はというと、協調的文化の企業で働く社員ほど、
エンゲージメントも高いことがわかりました。
強制的文化は、上司・同僚に対する満足度を下げる一方で、
そりゃあ、社内は常にギスギスしているでしょうから、
また、回避的文化は上司・
一見すると対立の少ない働きやすい職場のように見えますが、
では、
絶対的な解決策ではありませんが、いくつかヒントはあります。
自分の備忘録のためにも書いておきますね。
1. コンフリクトは有益だというポジティブな共通認識をつくる
2. 一致点と相違点を整理する
3. 共通の目的を見出し、一致点を探す
4. 感情を語っても良いが、感情的にはならない
5. オープンかつフラットに意見を言える場をつくる
まあ、言うは易く、行うは難しですが。。。
1番をお互いに認識して出発するのが、何より大切な気がします。
来週月曜日は体育の日でお休みです。
水木金を元気に過ごしましょう!
Whyは最高の思考エンジン
1カ月ほど前に「仏教」と「日本酒」
観光に行けば、単なる寺巡りをするものの、
仏教や仏像への知識は乏しく、ただ「へ~」「ほ~」
でも、今回の旅では、ずっと疑問に思っていたことを書き出して、
入念に予習をして行きました。
たとえば、釈迦が仏像になるのはわかるけど、
なぜあんなにもたくさんの種類があるのか?
○○如来と○○菩薩はどう違うのか?
不動明王とか、帝釈天も仏なのか?など。
予習ノートは一緒に行った仲間にも大好評でした。
人というのは興味があることには「Why」が出てくるし、
そうするとInputにも身が入る。
「Why」は最高の思考エンジンだと痛感しました。
しかし、
多くの人は質問することを恐れているのではないか、と
4月7日のメルマガで書きましたが、
「こんなことを聞いたらアホと思われる」
「みんなの時間を奪っていると思われる」
疑問を発することを難しくしているように思います。
上司と部下の関係も然り。
「なぜ、これをするのか」と問う部下よりも、
「承知しました」と答える部下の方がラクだと思っている上司も
少なくない気がします。
私自身、若いときにこんな体験をしました。
当時パブリシティ業務を担う部署に異動になったばかり。
外出時の電車の中で、私は上司にたくさん質問しました。
会社に戻った時に言われたのは、「小野さんといると疲れる」
20代前半。正直、傷つきました!
まあ、「なぜ、なぜ、なぜ」
頭でっかちにならずにやってみなさいと言いたかったのかもしれま
今、歳も取り、自分が上司という立場になって思うのは、
やっぱり「なぜ」
成長が早いだけでなく、
どういうことでしょう?
「なぜ」と考えることは、原因や理由、
一方、「なぜ」と考えないということは、
言われたことや今ある情報をそのまま受け入れて対処することです
すると、今回はこうやるという記憶だけが残る。
こういう目的の場合はこうするというのが頭に残らない。
その結果、応用が効かなくなります。
自立して仕事ができるようになるというのは、
応用で対応できることが増えるということでもあるので、
「なぜ」と考えることで応用力がつき、
ところで、ネットの書き込みを見ていると、
疑問が湧いてこない、質問は?と聞かれると困る...
と悩んでいる人も多いようです。
若いときは、
そんな悩みも不思議ではありません。
また、質問をしたときに、親や先生、上司などから
否定的な反応をされた経験があると、
疑問を表明するのは良くないこと、
嫌な思いをしないためには表明しない方が良い、
と刷り込まれてしまうのかもしれません。
疑問を聞くとき(質問を受けるとき)は、
自分の態度が相手に悪い影響を与えないように気をつけたいもので
そして、興味がないと疑問も湧かないのは本当でしょうけれど、
仕事では興味の有無に関わらず、
私自身は、「なぜ~?」「~とは?」「どうしたら~?」の
3つの疑問文だけで思考の7割ぐらいをカバーしているような気が
本質的云々なんて難しい話ではなく、
子どものように素直に疑問を口にすることが大切のではないでしょ
ゴールデンウィークがすぐそこまでやってきました。
素敵な連休をお過ごしください。
「質問」はかっこいい
今週、
何がかっこいいかというと、ミーティング終盤での「質問」が、
どんなミーティングもアジェンダに添って説明や議論が行われたあ
収束段階では疑問点をクリアにしたり、宿題を明確にしたり...
その段階は次のアクションに向けて
理解レベルを一致させる段階でもあるわけですが、
仮にその場がヒアリング/オリエンテーションである場合、
大抵は説明を聞いた側が理解したことについて意思表示します。
その時にどういう意思表示をするか、人それぞれなので、
ある人は、「わかりました。問題ありません」と言います。
別のある人は「わかりました。こういうことですね」
さらに、別のある人は「この点はどうなんですか?」と尋ねます。
今回の例では、クリエイティブのジャンプの幅について、
「この点はどうですか?」という問いかけが出され、
その質問の仕方がとても素敵でした。
さて、ここでこんな問いが湧いてきます。
わかりました VS 質問。
一体どっちがかっこいいと思いますか?
なぜこれを疑問として投げかけるかというと、、、
人は質問することにどれだけ恐れを抱いているのか、いないのか、
私は知りませんが、多くの人は質問することよりも、
わかりましたと言うことの方が良い選択だと思っている気がするか
でも、もし私が説明する側にいて、
「わかりました、問題ありません」とか
「わかりました、OKです」という反応は、
パッと見は安心のような感じですが、
コミュニケーションのキメが荒いように感じてしまうかもしれませ
「本当にわかってくれたの? 大丈夫?」と。
なぜかといえば、そんなに簡単に他人の気持ちや考えなんて
わかるわけがないという前提に立っているからです。
(いや、もちろん、本当にわかってくれての「わかりました」
だからこそ私は、質問が鋭い人を見ると、目が星になりがち(笑)
かっこいいな~と。
では、反対に質問が出ない場では、何が起きているのでしょうか?
質問が出ない主な理由はいくつか考えられますが、
1つは「こんなことを言ったらおかしいと思われるのでは?」
という恐れがあって、そのために質問しないというケース。
もう1つは、そもそも疑問が浮かんでこないケースです。
前者は、心理的安全性を担保できるかが重要で、
これだけでもメルマガ1本書けますが、
今回は後者の方に注目してみました。
なぜ、
これは、なぜ疑問が湧くのか?を考えてみると、理解できます。
人は、自分の想像や直感に反することが起きた時/
疑問が湧いてきます。「え? なんで?」と。
また、人は、
「もし、こうして、ああして、こうなったら、
だから、
ある話を聞いた時、「That's all、ピリオド」で、
それ以上のことを想像しなければ、疑問の湧きようがありません。
なので、「わかりました」で終わってしまうことは、
もしかしたら、聞いたことを理解したことに間違いはないけれど、
それ以上を想像しての理解には至っていないと考えることもできま
ってことは、キーワードは「想像力」ですね。
おや? どこからか「ボーっと生きてんじゃねーよ」という
チコちゃんのお叱りが聞こえてきた(笑)
「いまさら当たり前のことを言ってんじゃねーよ」とも。
はい、ごめんなさーい!
さて、、、
ウクライナ情勢、毎日気にして見ています。
在日ウクライナ人が家族を呼び寄せたくても、
言葉の支援を含む就業の支援や、
断念したケースをニュースで見ました。
自分に何ができるのかを考えても、寄付ぐらいしか思いつかず、
無力感を感じますが、一刻も早い終結を心から祈ります。
国内経済の行方も心配ですが、まずは一人一人が
今日をしっかりと生きることが案外大事なのだと思います。
まずは、今週を精一杯乗り切りましょう!
「紹介」の不思議
世の中を見て教わったことがたくさんあります。
その一つが「紹介」の不思議。
人に、誰かを紹介し、繋ぐことありますか?
反対に、人から誰かを紹介されることは?
公私問わず、もちろん、ありますよね。
いったいどうして「紹介」が起きるのでしょう?
私は、今でこそ紹介する・されるのどちらもありますが、
20代の頃は、紹介されることの方が圧倒的に多かったです。
ありがたいことに、人だけではなく、
仕事で出会った方が、私のことを思い出して、
ほかの人に紹介してくれる。
何かしら気に入られたからなのだろうとは思いますが、
何をモチベーションに紹介してくれるのか、
しかも、若い時は勝手がわからず、
特別なお返しをしなくていいのか、気になったものです。
ですが、今思えば、それは失礼なものの見方でした。
なぜなら、皆さん、
時は進み、今から17年ほど前。。。
当時、私は40代になっていましたが、
当社の20周年のパーティーに集まってくれた方たちの
相関図は実に興味深いものでした。
知り合いを6人辿れば誰とでもつながれると言いますが、
100人ほどの出席者が何らかの形でつながっていました。
しかも、その繋がりは直列的なものばかりではなく、
HUBのような形で繋がっている人もいました。
まさに縁送りとはこのことだと思ったものです。
そんなこともあって、いつのまにか自分も
人と人を繋げる動きをするようになりました。
縁送りは恩送りでもあるのかもしれません。
「人を紹介する・される」
「人脈づくり」と聞くと、なぜか少し心がザラっとします。
なぜでしょう? 多分、その言葉には、
損得勘定のようなものが見え隠れするからかもしれませんね。
いろいろな人生観があっていいと思いますが、
個人的には人脈というのは打算的に「作る」というよりも、
「信頼の結果」なのではないかと思います。
さて、「紹介」という行為。その本質は何なのでしょうか?
少なくても、Give & Takeで行うものではない気がします。
レバレッジシリーズを書いている本田直之さんは、
著書「レバレッジ人脈術」の中で人脈の本質はギブではなく、
コントリビューション(貢献)だと書いているようですが、
貢献欲求もあるでしょうけれど、
繋がりのシェアという感覚の方が近いような気がします。
そう思う理由は、自分自身が誰かを誰かに紹介しようと思うとき、
次のような条件が重なることが多いからです。
第1に、あの人にこの人を引き合わせたら、
それは双方にとって良いことなのではないかと思えること。
第2に、その人の夢や志を知っていて、応援したいと思えること。
第3に、人として、信頼できると思っていること。
反対に、頼まれても絶対紹介しないと思う人もいます。
第1は、損得勘定でしか人と付き合わな人。
第2は、自分の話しかしない人。
第3は、いい加減な人。(ほかにもありそう笑)
こう考えてみると、紹介する・されるというのは、
縁をもらい、縁を繋ぎ、また縁をもらい、また縁を繋ぐ。
縁をいただくには、自分のことしか考えないようではダメですね。
縁をいただきたいから、こうすると考えるのもきっとダメですね。
英語でも「Pay it forward」という表現があるくらいだから、
縁は、グローバルでも大切な考え方なのかもしれません。
花粉が悩ましい季節の変わり目。
体調を整えて乗り切りましょう! 素敵な1日を!
私たちはヒツジ?
ビジネスシーンでは「怒り」はネガティブなものだし、
怒りを出すのは絶対的にいけないこと...
多くの人はそんな考えを持っているのではないでしょうか。
たとえば、怒りの悪いイメージの最たるものがパワハラです。
でも、怒りを、無自覚な負の感情の発散と捉えず、
ただの負の感情と見ると、怒りのイメージが変わってきます。
というわけで、今日の話題は、「
という疑問を感じたことがきっかけです。
日本は今、怒らずに従順であることを是とする「ヒツジ社会」
このままでは民主主義国家の対面を保てなくなるのではないか、
まあ、ちょっとオーバーに書くと、
でも、「今の日本はヤバイなー」と感じているのは、
ついでに言いますと、今週、阿部と
日本の教育の現状について嘆き合ったことも今日のテーマに関係し
その現状というのは、、、
生徒は、先生のお気に召す行動を取らないと、
それが、今の現実です。だとしたら、親は子どもに
「内申書に響くから、真面目に授業を受けろ」と言いますよね。
そこまでならまだしも、
「内申書に響くから、先生の言ったことに納得できなくても、
ちゃんと目を合わせて頷かないとダメよ」とか、
さらにエスカレートして「先生のことは、おだてておきなさい」
親が子どもに言ったとしたら、どんな人間に育つでしょうか?
この親の一言は、人から支配されること、人に媚びることを
是としてしまうわけです。
本当なら言ってはいけない言葉ですが、
でも、進学システムが現在のようであったなら、
親だけを責めるのも筋違いでしょう。
つまり、この進学システムを維持したら、
忖度する人間、意見を持たず迎合する人間、
従順でいるよう刷り込まれたヒツジ型人間を量産することになりま
それが、何を意味するのか、言わずもがなですよね。
さて、、、
怒りや反発を否定した社会は、
教育は、社会に返ってきます。
今、あなたの社内で、「これは、おかしいのでは?」
意見として言える人はどのくらいいるでしょうか?
意見でなくても、疑問を口にするだけでも良いとして、
言って良い雰囲気はありますか?
人が何かについて「おかしい」と思う時、
で、そんな怒りの根っこには、「正義感」がある。
その正義が独りよがりの場合はあると思いますが、
本来「怒り」イコール「悪いこと」ではないはずです。
それなのに、私たちは怒りを悪いことと思うがあまり、
あるいは、怒りは和を乱す元凶だと思うがあまり、
ついつい怒りの感情にフタをし、おかしいと思っても、
「おかしい」と言わなくなっている...
そんな状況を目にすることはないでしょうか。
話は少し飛ぶようですが、
この2年間、コロナ禍で、いろいろな「政策」を経験しました。
最初は、「みんなで頑張って耐え凌ごう」と、
とても日本的な暗黙の合意があったように思いました。
でも、今となっては、そんなに美しいものではなく、
ただ、お互いに同調圧力を感じ、
人から後ろ指を指されないように周囲に合わせておこう...
というだけになっているのかもしれません。
その結果、何の因果関係も説明されないまま、
飲食店はまたしても営業を制限されてしまい、
それでも、誰も「怒り」の声をあげません。
いえ、グローバルダイニングの社長が声を出し、
立派だと思います。
でも、結局、怒りのムーブメントは起きませんでした。
2歳児マスクの着用についても、同様です。
結果的に「2歳児」
子どもの発育状況に応じて「可能な範囲でマスク着用を推奨する」
という表現は盛り込まれました。
方針は「推奨」なわけで、それに対し、猛反発は起きていません。
大人の都合で、
私だけでしょうか?
この従順な反応は、
私たちは、ヒツジ?
と、言ったら、ヒツジに失礼かもしれません(笑)
閑話休題。
今、NHKプラスで「今ここにある危機とぼくの好感度について」
ドラマの再放送が見られます。
当たり障りのない、
大学の広報マンの物語で、
ユーモアたっぷりに風刺していて、最高におもしろいです!
今週の関東地方は雪という予報もあります。
では、ご意見ご感想、お待ちしています!
プリンシプルの時代...?
先日のNHKクローズアップ現代で、
少女は自殺してしまったのに、学校も市の教育委員会も、
いじめがあったことをなかなか認めません。
あまりの腐り方に、怒りが湧いてたまりませんでしたが、
でも、これは日本社会の写し鏡なのかもしれません。
話は飛びますが、田村由美さんの人気コミック「
私は大好きなのですが、超インテリの主人公「久能整(
毎回「僕は常々思ってるんですが...」という言い回しで、
とつとつと持論を語るシーンがあります。
で、ある回でいじめについてこんなことを言うんですね。
~ 僕は常々思ってるんですが...
どうして
いじめられてる方が
逃げなきゃならないんでしょう?
欧米の一部では
いじめてる方を
病んでると判断するそうです
いじめなきゃいられないほど
病んでいる
だから
隔離してカウンセリングを
受けさせて
癒すべきと考える
日本では逆です
いじめられてる子を
なんとかケアしよう
カウンセリングを受けさせよう ~
ね、いいこと言うんですよ、彼!
日本の教育関係者が、いじめている側に目を向けないのは、
NHKクローズアップ現代で取り上げられた学校側の言い分もそう
「いじめている子どもにも未来がある」という理屈です。
彼らの未来を台無しにできない、と。
でも、それは言葉の綾であって、誰が聞いてもただの保身。
で、私は常々思ってるんですが...笑
結局、是と非を曖昧にしてきたツケが
日本社会のいろんなところに出ているんじゃないかな、と。
いろいろな場で、大人が、是は是、非は非という態度を取らず、
事を荒立てないことを第一に考えて行動するから、
いじめもなくならない。
コロナも説明されず総括もされない。
大人の代表には、政治家や教育関係者、マスコミがいますが、
彼らが悪いと叫ぶのは簡単で、
日本人が物事を曖昧にする傾向は、
正解がわかりません。
ただ、ふと白洲次郎が書いた「プリンシプルのない日本」という
本のタイトルが思い出されました。
ということは、少なくてもGHQと交渉していた時代に、
すでに自分の主義を表明しようとしない国民性であったのかもしれ
当時のエピソードとして、
サンフランシスコ講和会議に出向いた吉田茂のスピーチ原稿に、
白洲次郎が激怒し、書き直させた話は有名です。
~ 受諾演説の原稿を外務省の役人がGHQの了解を得た上で
GHQに対する美辞麗句を並べかつ英語で書いたことに白洲が激怒、
「講和会議というものは、戦勝国の代表と同等の資格で出席できるはず。
その晴れの日の原稿を、相手方と相談した上に、
相手側の言葉で書く馬鹿がどこにいるか!」と一喝、急遽日本語に書き直した。~
とあります。
「プリンシプルのない日本」の中で、白洲次郎は、
「他力本願」「八方美人」「イエスマン」
あのカッコいいおじさんに言われると、耳が痛いですね。
でも、
なぜかといえば、先日の衆議院選挙で、「是々非々」を打ち出した
日本維新の会と国民民主党が躍進しましたからね。
いや、まずは他力本願にならず、私たち自身が
仕事でもプライベートでも、是と非を明確にしたいものです。
ふんわり派? パッキリ派?
今日は、仕事の進め方や人との接触の仕方によって、
「ふんわり派」と「パッキリ派」がいる...と仮定して、
人の価値観や、
「ふんわり派」というのは、関係者との間で、
少し遊び(曖昧さ)を持たせることで、
「パッキリ派」というのは、取り決めを含め、
差が生じてきたら、その差を協議することで、
こう捉えた時、あなたはどちらのタイプになるでしょう?
私自身は、多分パッキリ派です。
今、これを話題にしているのは、
どちらが良いとか、悪いとかではなく、
どちらも他方から学べると思うからです。
たとえば進行表(案件スケジュール)の作り方。
期間を示すことを大切にする人と、
期間を示すというのは、ここからここの期間で、
期日を示すというのは、
実際には、その掛け合わせもありますが、
どちらの思考がより強いか、そこにその人らしさが出ます。
以前、期間でスケジュール表を作るある人とこの話をしていたら、
なぜ期間を示す方が好きなのか、理由を話してくれました。
それは、この期間のどこで終わらせるか、
なのだそうです。
相手がいて、頼み事をする場合も、日付を明瞭にするよりも、
「この辺りまでにお願いしたい」と頼む方が言いやすいそうです。
事実上、その期間の最終日が締め切り日なわけですが、
そこにフォーカスしないのは、
お互いのために、
私自身は期間ではなく、日付のみならず時間まで決めたい方です(
たとえば、時間的余裕が少ない案件で、
10時にいただくのと、17時にいただくのとでは、
フレキシビリティは必要ですが、調整をし直すためにも、
なるべく時間の情報は明確にしたいです。
まあ、そうは言っても、いただく時は明瞭にし、
などということも、時にはありますが(汗)
つまり、話を戻すと、
期日を示す人はパッキリ派ということになります。
では、「ふんわり派」と「パッキリ派」
私の推測では、「強引さ」や「思いやり」
言い換えると、「こうするのは強引だ」「
目盛りが両者の間では異なっているのではないか、
だから、誰かに急ぎのお願いをする時に、
ふんわり派は時間を提示することは一方的で強引だと思い、
「なるべく急いでお願いしたいのですが、
パッキリ派は時間がはっきりする方がお互いに気を揉まなくて良い
「急いでいるので、可能なら◯
と言う。
つまり、ふんわり派は下手に出て事を運ぶ方が、
パッキリ派は明快かつ対等な関係で事を運ぶ方が、
あくまで推測ですが、そんなような思考・
パッキリ派の私は、パッキリしている方が好きですが、
でも、ふんわりにはパッキリにはない効能があります。
なので、ふんわりスキルも身につけられたらいいなと思います。
ふんわり派のスキルといえば、下手に出ること。
実は、こちらから下手に出るという行動は、
たとえば、お願いごとを巡って、ハーバード大学のエレン・
こんな面白い実験結果を得ています。
コピー機に並ぶ列に割り込むために、
第1は、理由を述べず「すみません、5枚なんですけど、
とだけ言うもの。
割り込める確率は60%でした。
第2は、「すみません、5枚なんですけど、
先に取らせてください」と、
成功率は、94%でした。 興味深いのは、第3の反応です。「すみません、
コピーをしないといけないので、先に取らせてください」と、
理由とも言えない理由らしきものを言ったら、どうなったか。
なんと93%が割り込ませてもらえたそうです。
英語だから、第2、第3は「Because...」
人は、その理由が何であれ、
下手に出たものと受け止め、
「それなら聞いてやろう」と本能的に反応するもののようです。
反対に、理由を述べられないと、
やりすぎない方がいいというのが私の考えです。
「お忙しいのに、ご迷惑をおかけして申し訳ありません」
これでは、
「重要な事だから協力してほしい、ぜひ貢献してください」
と言われた方が気分がいいですよね。
ついに11月に突入し、コロナ、落ち着いてきましたね。
まだ気を抜かず、でも元気に大らかに過ごしましょう!
社内で雑談してますか?
リモートワークも日常になり、コミュニケーションのあり方も、
徐々にスタイルが確立されてきたのではないでしょうか。
そんな中で、雑談のあり方は、どんなふうになっていますか?
雑談への捉え方は、
一つは、自分のペースを乱されて、集中できない「無駄な時間」
もう一つは、誰かと親しくなったり、刺激を受けたり、
「プラスの時間」という捉え方。
さらに、3つ目を挙げるなら、
私自身は、2つ目の「プラスの時間」という捉え方をしています。
その第1の意味は、
まず、雑談である/ないに関わらず、
話しかけやすいとか、話しかけると聞いてくれるとか、
上に立つ自分はそうありたいので、雑談によって邪魔された
という見方をするような自分でありたくないですし、
言い換えれば、雑談する時間は関係を育む時間だと思っています。
加えて、雑談はクリエイティブの温床であり、
成長の温床だと思っている、というのもあります。
雑談は、余白という意味での「あそび」の部分。
1日が、きっちり息の詰まるような時間ばかりだったら、
新しい発想なんて生まれてこないと思っています。
人って、他の人の発した言葉や取った動作などから、
たくさん学習しています。
出勤している日ほど、たくさん雑談をした方がいい、
そんなふうに考えています。
でも、これは、忙しい時に雑談したら、
という体験があればこそ。そういった体験がなかったら、
やっぱり「この忙しい時に雑談? 意味わかんなーい」と思っているでしょう。
雑談派の私が、雑談のメリットを列挙すると、
なーんか、押しつけがましいですよね。
でも、ひるまずにやってしまいますよ! お付き合いください(笑
あ、でも、その前に、そもそも「職場での雑談」ってなに?
という話があります。
世の中には「目的を設定しないおしゃべり」
ここでは「無目的に自分らしさを出し、
捉えることにします。
そうだとして、そのメリットは何か?
自分らしく話し、相手のその人らしさに触れることができる結果、
・距離が縮まり、人間関係が良くなる(
・相手が喜ぶことがわかり、機会があったら、
・気軽に思いつきを話せる関係となる結果、
・自分が知らない相手の知識について「教えて」と言えて、
・本音を話すことで、自分の中の閉塞感を手放せ、
・近い環境にあることから、孤独にならず、仲間意識が持てる。
まあ、そんな感じでしょうか。
当社は、大企業の課とかグループぐらいの人数で、
毎日、定例ミーティングを行っています。
で、始まりは、
毎回、進行役がお題を出します。
それは、言ってみればどうでもいいことだらけ。たとえば...
・高校時代に戻って、部活をやるなら、何をしたいか?
・子ども時代の自由研究で何をしたか?
・涼しくなってきたらか、始めたいことややりたいことは?
使っている時間は毎回15分ぐらいでしょうか。
日によっては、業務連絡がなく、
しかし、毎日、一言でもそういう言葉を発すると、
お互いに、その人らしさがわかるようになりますし、
会社でプライベートの話もしていいのだという暗黙の合意が生まれ
と、同時に、一見すると非生産的な時間であっても、
それを大切にする会社なんだという価値観も共有できます。
雑談の良い点ばかり、書いてしまいました。
いつかは雑談の注意点も書かないといけませんね。
なぜなら、私は時々ひんしゅくを買っているから(泣笑
さ、涼しくなってきました。
気温の変化に注意して、元気に参りましょう! ありがとうございました。
考える道筋は、人それぞれ!
今日のテーマは、「理解」や「思考」
一般的に「多様性」というと、
本当は、そこはメインじゃないですよね。
そんな話題をお届けします。
が、その前に、、、、
パラリンピックが始まりましたね。
以前にも増して、パラ選手に対する「かっこいい」「すごい」
高まっているのが、今回の大会ではないでしょうか。
選手たちのインタビューを見ていて思ったのは、
自分と違う立場にある人たちに関心を持つことの大切さです。
国際パラリンピック委員会(IPC)は、
「WeThe15」というキャンペーンを始めました。
世界人口の約15%
だからこそ、障害者が日常的に直面する障壁と差別に対し、
今後10年間で変化を起こそうと、
知りませんでした。
15%とは...。6人に一人です。
考えてみれば、法律的な区分はさておき、
色弱/色覚異常の人は男性の5%ですし、
高齢者の認知症を加えると、15%
で、自分は85%の側にいるのかといえば、
見ようによっては、そんなことはありません。
他の人ができるのに、自分にはできないことがたくさんあります。
たとえば、私、日常生活に困るほどではないですけど、
固有名詞を覚えるのは、かなり苦手です(汗)
障害という観点ではなくても(たとえば価値観などでも)、
自分にはマイノリティーの一面がある、というのは、
誰もが当てはまることではないでしょうか。
そして、今日の本題。
1行目に書いた理解の仕方や思考の仕方は、
という話、誰もがお互い認識しておいた方がいいかもしれません。
私自身は、体験的に学んだことです。
たとえば、ブレストして結論を出すような状況で、
私は、自分の思考方法がマイナーだとしばしば感じます。
私は、発散、発散、発散と発散型で考え、
多くの人は、そこそこ発散させたら、
結論に向けて積み上げる部分をじっくり考えたいと思っているよう
私と彼ら。
何が違うかというと、まず単純に、自分にとって気持ちのいい、
発散と収束にかける時間配分の感覚が違い、
私の場合、ブレストでの発散時間は長い方なので、
多くの人は「これ、終わるの?」と不安を感じるようです(笑)
まあ、そりゃ、そうですよね。
発散というのは、
で、ある時ある人から、こんなことを言われました。
寺と教会というのは、建築思想が違っていて、
何からどう組み立てるかも違うらしいが、
私たちはそのくらい思考の組み立て方が違うね、と。
寺と教会の建築思想を例にしても、
日本庭園と西洋庭園の比較ならもう少し伝わるかもしれません。
日本庭園では、自然の石や樹木によって、
西洋庭園では意図的に幾何学的かつシンメトリーな美を求めます。
生理的に「気持ちのいい」まとめ方、進め方が違うわけです。
これは、日本と西洋の発想の違いの話ですが、
思考の組み立て方が違うというのは、そんなことなのかな。
ということは、自分にとって気持ちのいい、あるいは当たり前の、
思考方法を前提にコミュニケーションしては、
まあ、そこが難しいんですが。
考える道筋。
人それぞれ違うのは当たり前ですね。
あなたの周りでは、最近、どんなことがありましたか?
あ、9月です! 年内あと4カ月。
4月が期首の場合は、上期の最後の1カ月ですね。
今月も、元気に行きましょう!
2 ページ / 18 ページ