ブランディング、コミュニケーション、チームワーク…。週1回の社長ブログです

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『コミュニケーション』カテゴリの記事

 

当社がたとえば30年後、どうなっていてほしいのか、
最近、考える機会が増えました。
と同時に、こんな小さな会社がなぜ30数年以上も続いて来たのか、分析してみたり。

で、改めて今日まで存続できた理由を考えてみると、
その一つに「損得は二の次」という考え方があったからではないかと考えています。
いえ、ビジネスですから、損得はどこかで考えますが、
判断基準の上の方にそれがあったかというと、なかったと思うのですね。
判断基準の上にあるのは、あくまで経営としての、人としての、
「理想」とか「美意識」でした。

で、その理想の中心にあった一つの姿が、
オープンに自然体で意見を言い合い、
リスペクトし合う対等な関係の中で仕事をするというものでした。
社内はもちろんですが、お客様やパートナーともです。
そこに損得勘定はありません。それはポリシーでした。

社内で言うなら、ミーティングの場はもちろんですが、
新入社員でも社長の私に意見を言えるように。
もちろん、理想にしていることが必ずできていたかといえば別問題。
素直に聞けず、それが原因で軋轢が生まれたこともありました。
で、どうするかといえば、謝るわけです。
なぜなら自分の非を認めず謝らない社長はカッコ悪いから。
それが、私の「美意識」でした。

で、「意見を言いやすくする」「意見が言えない会社に未来はない」と
という考え方は、実はどの会社の存続にとっても大切だと思います。

ところが、、、、
最近の社会の風潮としては、意見を言わない人が増えていると聞きます。
これについては、阿部が9/9付のメルマガ
「その場、『言う場』?『言わない場』?」でもエピソードを挙げていますが、
いかにもありそうなことだと感じ、だからこそよけい憂うべき日本を感じます。

いったい日本はいつからそうなったのか、
「言わない」「発言しない」の根底に、いったいどんな気持ちや価値観があるのか、
想像してみました。
で、そうなってきたその原因について、3つの仮説を考えてみました。

【意見を言わない理由1】根底にある価値観に「損得」があるのではないか?
発言して、人から「会議を引っ掻き回した」と文句を言われる、
発言して、人からその発言は「的を射てない」「おかしい」とバカにされる、
発言して、人から「お前の発言で会議が長引いた」と文句を言われる、
発言して、想定外の面倒な役目が回って来てしまった。。。
多分、そんな原体験があると、そんな損をしてまで発言するのはバカらしい、
そう思うようになるのかもしれません。
いえ、そんな体験がある人自体は少ないのだけれど、
他人のそういうシーンを目の当たりに見ると、
ああいう立場にはなりたくないと思うのでしょうか。

【意見を言わない理由2】根底にある行動基準に「空気読む」があるのではないか?
今の日本の、空気を読めという空気、私はちょっと異常だと感じているのですが、
仮に周りの誰かから「空気読めよ」と言われたら、普通は萎縮しますよね。
自分が言われていなくても、言われている人を目の当たりにしたら、
同じ目に遭いたくないと思うことでしょう。
直接「空気を読め」と言われていなくても、
「意見を言うな」「否定をするな」というオーラを出す人がいたら、
オーラだけでも行動が変わってしまうかもしれません。
この場合、オーラを出す人と、オーラで忖度する人、
いったいどちらがどう変わると、組織は良くなるのでしょうか?

【意見を言わない理由3】考える習慣がなく、自分の意見が不明瞭なのではないか?
最近聞いた学校教育の話では、
「考える」プロセスなどまったく重んじられていないようです。
考える習慣がないことを学校教育のせいにしていいかどうかはわかりませんが、
実際社会人の中にも「考える」ことに慣れていない人、
考えることを途中でやめてしまう人はとても多いと思います。
学校でも社会でも考えることを要求されない、あるいは
考えることに意味が生まれない環境で暮らしてしまうと、当然そうなりますよね。

もしかしたら、私が思いもつかない第4、第5の理由もあるかもしれません。
でも、この3つに限って言うと、私は原因は一つではなく、
どれも相互に少なからず関係しているのではないか、と思います。
とはいえ、その中でも一番の根っこにあるのは、「損得」なのではないでしょうか。
損得から発言しなくなる。空気を読むのも、損得が判断基準になっているから。
損得から発言しないことを是としたら、考える必要もなくなるから、当然考えない。

でも、損をしないために発言しないという考え方には落とし穴があります
なぜなら、それをやり続けると自分の価値、存在意義を発揮できません。
というのも、多くの人は発言しないわけですから、
同じようにしていたら存在価値を発揮できないわけです。
価値が発揮できないと、精神的にはやりがいが得られない、
経済的には稼げないなどの影響を受けます。
それだけでも十分に損害を受けるわけですが、それだけではありません。
最近では、ロボットに仕事を奪われる可能性さえ出て来ました。
自分を守って損しないように行動してきたつもりが、
結局は経済的にもやりがい的にも損を生み出す。
だから、損しないために発言しないはナンセンスだと思います。

さて、、どんな会社にも文化があり、発言しにくいこともきっとあることでしょう。
でも、あなたの意見が風穴を開けるかもしれません。
意見を言える世界とは、正解が1つという世界とは違います。
意見を言える会社、意見を言う個人。それ自体に意味がある。
そういう存在が増えると、日本は変わっていけると思うのですが。。。
意見を言うことについて、あなたはどう感じ、どう行動していますか?

どうぞ素敵な1週間を!

PS)あ、そうそう、最後に個人的な活動の宣伝をさせてください。
「DENIM AGE(デニムエイジ)~自由であるということ」というテーマで
個展を開きます。ご興味があり、お時間が許せばお運びください。
期間:10/11木~10/17水(11時~19時。最終日は15時まで)
場所:ギャラリー「Concept 21」(表参道徒歩5分)
〒107-0061 東京都港区北青山3-15-16
Tel.&Fax.03-3406-0466(画廊)

今日は、冒頭からちょっと脇道にそれて、お知らせを。
私事ですが、10月11日(木)から17日(水)の7日間、
表参道のギャラリーConcept21で「Denim Age~自由であるということ」
という個展を開きます。
「デニムエイジ 自由であること」で検索してみてください。
ほぼ在廊していますので、お時間が許せば、お気軽にお立ち寄りください。
私は、仕事でやりたいことと個人的にやりたいことが心の中で繋がっていて、
幸せだな、と思います。
どこかで、もう少し詳しく話させてくださいね。


さて、、、今日もそんなことと無関係ではありません。
最近の当社社内の重要な話題、それは、理念やありたい姿についてです。
18日の今日もそんなミーティングを行う予定です。

そんな中、行動面での「謙遜」についても話題になっているので、
今日は、「謙遜」について、真正面から考えてみたいと思います。
というのも、当社の価値観には、不必要にへりくだったり、
不必要に自分で自分を下げることを「非」とする考え方があります。
社内も社外も上も下もなく、対等な関係であることを「是」としているからです。


謙虚、謙遜、卑下。
これらは、本来違うのに、意外にごっちゃになって捉えられている気がします。
特に日本社会では、謙虚謙遜は美徳とされています。
でも、この二つは本質的に違うことです。
いったい、どう違うのでしょうか?

ゆっくり考えてみましょう。
今、謙虚を辞書で調べると、
「自分を偉いものと思わず、すなおに他に学ぶ気持があること」です。
つまり、基本的には学ぶ姿勢や他者との関わり方に関する姿勢を表しています。

一方の謙遜の辞書的な意味は
「へりくだること。控え目なつつましい態度でふるまうこと」です。
「へりくだる」というのは
「他人を敬って自分については控えめな態度をとること」です。
これだけを聞いたら、一概に悪いこととは言えません。
でも、言葉の意味からわかることは、
この言葉は「振る舞い」を示しているということです。

つまり、謙虚=姿勢、謙遜=振る舞い、なので、
謙虚な気持ちがない人が謙遜して振る舞うと、
あるいは単なるお約束として、その振る舞いをすると、
それは単なるポーズにしか映りません。
人の嗅覚は鋭く、それはいとも簡単に見抜かれます。

謙遜表現の中でも、私があまり好感を持たない例を挙げると、
まず身内を悪くいう「愚妻」「愚息」。
褒められた時に返す「いえいえ、私なんて...」。
自分を下げて相手を持ち上げる「私には到底思いつきませんが、さすがですね」。
露悪的にエクスキューズして「自分はおばちゃんだから/太っているから~」。

これらは決して「謙虚」さの表れではありません。
これらは「卑下」、一歩譲ったとして「謙遜」です。
「卑下」とは、「自分を人より劣った者として扱うこと。
へりくだること。謙遜すること」です。

「卑下」は字面も美しくありませんが、
字面から浮かぶ行為も美しくない、と思いませんか。
だって、自分を卑しめ、自ら自分の評価を下げようとするのですから。


謙遜と卑下は、本来的には違うことですが、「振る舞い」であることは同じです。
そして、この振る舞いをされた時に、私たちが感じるのは、、、、

実は「負担」。

「ご謙遜、ご謙遜」というセリフがあります。
あれは、謙遜されたら言い返すお約束のセリフでもあります。
これ、はっきり言って、面倒な慣習ではないでしょうか。
だって、「何をおっしゃいます、そんなことはありません」と
否定しなくてはならない。
内心はポーズとして言っているのだと分かっているのに、
わざわざケアする(これまたポーズで)。
よーく考えてみたときに、これ、本当にお互いやりたいことなのでしょうか。


あー 私、エラそうに書いていますね。でも、私もかつて痛い経験があります。
40歳頃だったでしょうか。
同級生と飲んでいました。で、私がこんな発言をしたのです。
「ごめん、もうおばちゃんだから...」とか
「おばちゃん、もうついていけない...」とか
文脈も言い回しも忘れてしまいましたが、
キーワードが「おばちゃん」だったことだけは今でも覚えています。
それほど深い意味もなく、
多分、ちょっと自虐的に軽く言っただけのつもりでした。
そしたら、その同級生は素晴らしいことを私に教えてくれました。

「実際に、もうおばちゃんなんだから、
こっちが気を遣ってカバーしなくてはならないようなことを
言わないでくれる?」と。

おばちゃんとおじちゃんが飲んでいるのに、
おばちゃんじゃないよと言わせるな、と。
これは、私にとって人生で重要な教えの一つでした。


サッカー、野球、テニスなど、
一流のスポーツ選手は決して謙遜しませんよね。
でも、謙虚です。
謙虚ではあるけれど、謙遜はしない。
その方が単純に美しい。そういう生き方をしたいものですね。

今週も素敵な1週間でありますように。

昭和から平成へ、平成から新元号へと時代が変わって行く中で、
昭和にはなかった言葉(概念)が多数生まれてきました。
ネット用語はもちろんですが、
「ダイバーシティ」「ハラスメント」といった言葉も昭和にはなかったですし、
「アンコンシャス・バイアス」も「ポリティカル・コレクトネス」
といった言葉もありませんでした。
こうしてみると、やっぱりカタカナが多そうですね。
その分、各自各様の解釈があったり、
言葉の辞書的な意味は知っていても、行動と結びついていなかったり...
ということが起きているような気がします。


たとえば、「ダイバーシティ」。
「グローバル化が進んでいるし、女性が働きやすくするためには、
価値観や働き方が多様でなければいけない、ということでしょ?」
という程度の理解で本当に十分でしょうか?
ダイバーシティを上のようにとらえていると、あまり自分ごとにはなりませんが、
本来はどういう意識で日常生活を過ごすかが大切なのだと思います。


子育てしている人が、
「男の子なんだから...」と男のお子さんに言ったり、
「好きな男の子はいるの?」と女のお子さんに聞くシーン、
SNSなどでも時々見かけます。
でも、子どもを性別で決めつけをしている時点で、
ダイバーシティの考え方に反しています。
そして、これを聞いてもなお、
うちの子どもに限ってと思う方もいると思いますが、
それ自体がNGな時代になってきています。


頭で理解しながらも、なかなか行動との間でバランスを取れないのには、
やっぱり理由があります。
私たち人間は、生きている間に良くも悪くも、いろいろな学習をします。
褒められた体験、叱られた体験も学習材料になるし、
何がメジャーで、何がマイナーなことなのかも学び、
それを元に判断基準を作り上げたりします。
このような過去の経験や周りの環境などから、
自分自身では気付かないうちに身についた先入観のことを
「アンコンシャス・バイヤス」と言います。
日本語だと「無意識の偏見」と訳されるようですが、
要は「思い込み」ですね。
思い込みが怖いのは、正しいと思い込んでいるあまり、
自分の考えを疑ってみるきっかけがないこと。


・いまどきの若者は〜
・歳を取ると〜
・女性というのは〜
・外国人は〜


の「〜」の部分に入れてしっくりくると感じるものがあるとすれば、
大抵の場合、思い込みです。


どんな弊害があるかのか、例を挙げるなら、
「子育て中の女性に重要な仕事は任せられない」と上司が思い込んでいると、
その部下は機会が奪われてしまいます。


とはいえ、人間から思い込みをなくすことは不可能です。
でも、少しでもなくそうという発想で取り組めることもあり、
その一つが「ポリティカル・コレクトネス」(PC)といって、
表現に関する考え方を見直す運動です。


トランプ大統領が、「I know it's not PC, but...」
(政治的に公正な表現じゃないことは分かっているんだけど...)との
前置き発言が多いことから、2016年頃に日本でも広まった感じがあります。


Wikipedeaによると、「ポリティカル・コレクトネス」は、
「政治的・社会的に公正・公平・中立的で、
なおかつ差別・偏見が含まれていない言葉や用語のことで、
容姿・身分・職業・性別・文化・人種・民族・信仰・思想・性癖・
健康(障害)・年齢・婚姻状況などに基づく差別・偏見を防ぐ目的の表現を指す。」


割と知られている具体例、言葉が見直された例を挙げます。


ビジネスマン → ビジネスパーソン
Miss(ミス)/Mrs(ミセス) → Ms(ミズ)
看護婦 → 看護師
痴呆症 → 認知症


ああ、そういう見直しのことかと、ピーンと来られたのではないでしょうか。
他にもいろいろあります。
アメリカでは、消防士はファイヤーマンではなく、ファイヤーファイター。
警察官はポリースマンではなく、ポリースオフィサー。
そのうち、スーパーマンもウルトラマンもスーパーパーソン、ウルトラパーソンになるのでしょうか?笑
今現在はキャラクターはキャラクターだとして、その言い換えはなさそうです。
その他にも、、、色の名前としての肌色はNG。
女優、女流棋士、女医などもNG。
ハウスワイフはホームメーカー等、いろいろあります。


単語自体ではなく、言葉の書き方についても同様の視点から議論があります。

子供 → 子ども
(「供」という字が「お供え物」「お供する」などを差別的な連想を与えることを
理由に、新聞などでも「子ども」が多用されているが、賛否両論ある)
障害者 → 障がい者
障害を持つ人が「害」である連想を与えるという配慮から、多くのマスコミは
「障がい者」を使用。NHKは、社会にある障害と向き合う人たちと捉えて「障害者」を使用するなど、
やはり賛否両論ある)


ちなみに、私の個人的理解では、「ポリティカル・コレクトネス」は
もはや政治世界、マスコミ世界のものではなくなっていて、
日常生活とも密接に関わっていると捉えています。
しかも、言葉の表現のみならず、
パンフレットや映像を制作する業務に携わっている人は、
登場する人物の描き方などでも
表現に「アンコンシャス・バイヤス」が含まれていないか、
チェックする姿勢が必要だと解釈しています。


北河内人権啓発推進協議会がまとめたパンフレットが、
とてもわかりやすくて良いと思いました。シェアします。
北河内人権啓発推進協議会パンフレット


その人の意識は言葉に現れます。
また言葉を変えると意識が変わります。
無意識の偏見を持たないように、お互いに気をつけたいものですね。


どうぞ素敵な1週間を!

 今日は、最近私の周りで起きた出来事を入り口に、
「聴く」について考えたいと思います。


まずは出来事から。
出来事その1。
最近、私は仕事ではなく13名の方たちにインタビューをしました。
ちょっと個人的な話になってしまい恐縮ですが、
私の両親は、昨年秋頃から川崎市宮前区の老人ホームでお世話になり、
がんで余命宣告を受けていた母は3カ月ほど前に、
ホームで私たちに見守れて他界しました。
母はかれこれ7カ月の間、施設の皆様にお世話になったわけですが、
母のQOLというものをとても大切に考えてくれたことがありがたく、
私らしい形で感謝や敬意を示したくて、
彼らの仕事への思いをインタビュー記事にし冊子にまとめるという提案をしました。
と、同時に、私の職業柄か、この組織に流れる暖かさの本質を
知りたかったというのもありました。


自分はお礼のつもりでも、無理強いではお礼にはなりません。
ですが、タイトルも7案ほど提案し、投票で「なぜ私たちはここにいるのか」に
決まるなど、ある程度、一緒に作る感覚で楽しんでいただけたような気がします。
その入稿がこの週末に終わりました。


さて、こういう現場的な仕事からからはずいぶんと遠ざかっていた私ですが、
振り返ってみると、客観的に見てインタビューは下手だな、と(笑)
でも、その割にはみなさんがずいぶんオープンに話してくれて、
こんな話まで聞いちゃっていいの?という話をたくさん聞かせてもらえました。
もちろん、書いていいこと悪いことは判断して書きましたが。


出来事その2。
先日、私が大変お世話になったある方からご連絡があり、
ランチをご一緒しました。
電話の段階で聞いてほしい話がありそうなニュアンスだったので、
そのつもりで伺いました。
聞けば、本当に大変なことがこの半年の間に起きていて、
どれだけ辛かったか、想像に難くありませんでした。
しかも、軽々に話せる話ではない内容でした。
私が聴くことで、その方の気持ちが軽くなったなら、
私にとってこんなにうれしいことはありません。


さて、この2つの出来事を考察してみたのですが、
おそらく私は、聴くことについて、何かしらの強みがあるのだと思います。
ここから5行は自慢話に聞こえるかもですが、それを強調したいわけではありません。
いや、ちょっとはしたいけど(笑)


なぜ人が話してくれるのか。あらためて分析してみると、、、
・相手の話に興味や意欲を持って聴ける
・その集中を数時間保てる/時間のかかる話も根気よく聴ける
・私自身がどちらかというと自己開示する方なので相手が身構えない
・私の話し方はテンポが遅いので、急かされている感じにならない
まあ、強いて言うと、そんな感じがします。


さてさて、、、聴くことについては、ウン十年も我流でやってきましたが、
4年ほど前に、CTIのリーダーシップ研修でその奥深さを学びました。
聴くときのリーダーのあり方、
な、なんと! リーダーは3種類も使い分ける必要があるのだ、と。
これは私にとって、カルチャーショックでした。
たとえば、人の話を聴くときは、ちゃんと目を見て聞くとかいうレベルではない話。
リーダーの聴き方は、リーダーのあり方であり、リードの仕方と直結している!


聴き方は、レベル1からレベル3まであります。
文字にすると、わかったようでわからない感じだと思いますが、
まずはそのまま紹介します。


レベル1 内的傾聴   Internal Listening
レベル2 集中的傾聴  Focused Listening
レベル3 全方位的傾聴 Global Listening


CTIはリーダーの養成機関でもあると同時に、
コーチの認定機関でもあるので、
これはコーチングをする場合の基礎知識でもあるようです。


違いを見ていくと、、、
レベル1というのは、一見相手の話を聴いているように見えますが、
実際の意識は自分に向いていて、自問自答しているような状態です。
私たちが人の話を聞くときにやっているのは、多くの場合この聞き方です。
これさえやっていない人(忙しいオーラを出しちゃう人とか)もいますけど(笑


レベル2というのは、相手にトータルに関心を払いながら、聴く状態です。
たとえば、表情が曇った、語気を荒げた、声が震えている、力強さがある、など。
それを評価判断するのではなく、単純にそこにアンテナを向けた聞き方をする、
それがレベル2の聴き方です。


では、レベル3は何に意識を向けて聴くのでしょうか。
それは、「場」とか「空気」「雰囲気」です。
どんよりした場、重苦しい場、熱気のある場、希望のある場。
その場の空気を理解しながら、対話するために聴く。


レベル3が優れていて、レベル1が悪いということではなく、
リーダーは意識を使い分ける必要があるということがキモなんですね。


先ほど、「私には聴くことについて何かしらの強みがある」なんて書きましたけど、
これらを知ってからは、うっひょ〜 そりゃひと筋縄ではできないと理解しました。
「傾聴」という言葉が市民権を得たためか、
「またか」って感じを受ける人も多いかと思いますが、
でも、実は奥が深い言葉、甘く見てはいけない言葉だと思います。


今回は、相手に話しやすくし、なおかつ真の理解をするための「聴き方」について
書きましたが、「聴く」の機能には、相手の考えを整理するという面もあります。
これも、どこかで取り上げたいテーマです。


ありゃー ずいぶん長くなってしまいました。
8月も残るは10日少々。。。今週も素敵な1週間でありますように!

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右脳左脳に始まって、多くの人は「脳」の神秘に対し関心を寄せています。
かくいう私も「脳」ネタは大好き!
今日の話題は、直接的に「脳」の話題ではありませんが、
ビジネス現場での思考のジャンプには、右脳的アプローチが必要で、
それにはどうしたらいいのだろう?という話題です。


問題解決や企画立案をする際に、一般的に重んじられているのは、
分析思考や論理的思考です。
でも、アウトプットするには、想像力やクリエイティビティが不可欠ですよね。
ところが、ビジネスの世界には左脳偏重の空気が流れているのではないでしょうか。
何といっても、左脳的な発言はアタマが良さそうに見えますから(笑
というわけで、右脳的思考の地位が、イマイチ低いのではないか、
もう少しその地位を上げよう、というのが今回の最初の問題提起です。


さて、ビジネスで求められる良いアウトプットとは何でしょうか。
私はこう考えます。
手に入れたインプットを、新しい視点から眺め、創造的にジャンプした具体策にすること。
インプットの一般的な捉え方は、例えば現状、事象、問題、データなど。
アウトプットというのは、何らかの「策」です。


で、一般論として、仕事で起きる問題は、
アウトプットはしていても、いまひとつジャンプ度が足りないということです。
原因は一概には言えませんが、私が注目するのは、次の2点です。


【1】情緒的・感情的なインプットが足りない/ない(必要ないと思われている?)
【2】抽象的なレベルでの思考の拡散が足りない


【1】が起きるのは、問題を事象レベルでしか見ないことが
当然化してしまっているからだと思います。
その対策として、私たちグラスルーツは「感情マッピング」という方法を
セミナーを通じてお伝えしています。


今日考えたいのは、【2】点目についてです。
これは、どういうことかというと、、、
良いアウトプットが、「手に入れたインプットを、新しい視点から眺め、
創造的にジャンプした具体策にすること」であるとすると、
新しい視点とは新しい意味を見出すことでもあります。
ところが、「意味」というのは大抵の場合、とても抽象的で、
同じものを見ても、感じる意味は人それぞれです。


私たち人同士は抽象的なものを取り扱うことを得意としません。
なぜなら見えないものだからです。
希望、夢、絆、共感、満足、高品質、価値、、、、
いずれも目に見えないもの、形のないものです。
だから、会話することがとても難しいわけですね。
それぞれの抽象概念に名付けられた名前(単語)を、
会話する相手がどういう意味で捉えているかさえ、実は分かっているようで分かっていません。
例えば、「希望」という言葉に対して、人が抱くイメージは、
人それぞれですし、その言葉との距離感も人それぞれです。


抽象概念を取り扱うのが苦手な私たちですが、
最近、それを克服するのに良さそうなツールに出会いました。
イスラエルの「Points of you®」のファウンダー、
ヤーロン(Yaron Golan)と エフラット(Efrat Shani)が開発した
写真と言葉を使ったカード型のツールです。
創造力や発想力に刺激を与え、
新しい視点を見出すことを促進させることのできるツールだと言えます。
カードの使い方は自由で、教育シーンなどでも使われていますし
ビジネスでは、Google、IKEA、Intelなどでも導入されているのだとか。


写真や絵を使ってイマジネーションを開発するという方法自体は
教育現場などでも取り入れられていて、それ自体は珍しいわけではありませんが、
このツール、豊富な写真は見ているだけでも楽しいですし、
思考の拡散と収束がしやすく、本音を言う場を設計しやすいのが特長です。


では、なぜこのツールが、抽象的なレベルでの思考の拡散に有効なのでしょうか。


普段私たちは、自分が感じていることを話す場合は、考えをまとめながら、言葉ありきで話します。
そうすると漠然としたことや直感的なことではなく、
どうしても意見らしいことやもっともらしい考えを話す必要があるような気分に陥ります。
つまり、この時点で拡散とは逆方向に向かっています。


ところが、自分が感じていることを言葉にする前に、
例えば写真カードを選ぶことから始めたとします。
そして、なぜこのカードを選んだのかを後から説明する。
すると、情緒的・感情的なことがとても言いやすくなります。
また、写っているものを観察することで、
何かのサインを感じ取ったり、インスパイアされたりもします。


こうしたことが起きるのは、
きっとこのツールが抽象概念を「モノ化」しているからだと思います。


形あるもの、目に見えるものがあると、
・お互いが感じていることを伝えやすくなる
・イメージを共有しやすくなる
・画面の外やこの瞬間の前後にまで、想像をしやすくなる
という作用が生まれます。
きっと、目に見えるものが拠り所となるのでしょうね。


ビジネスシーンでどう活用できるのか、
研究してみたいと思います。


暑い日が続いていますが、どうぞ素敵な1週間を!

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「でしゃばり」という言葉があります。
そのイメージは一般的に悪いですよね。
今日は、「でしゃばり」という言葉を糸口に、
時には「でしゃばり」も必要ではないかということを考えてみようと思います。


「でしゃばる」をWeblio辞書で引くと、
【関係のないことや、求められてもいないことに、
口を出したり、手を出したりする】と出てきます。


でも、これって本当に悪いことなのでしょうか?
別にこれ自体は悪いことではないのではないか...と私は思います。
というのは、この反対の考え方は、「私は私、あなたはあなた」だと思いますが、
こうした世界はとても閉鎖的ですよね。
オープンマインドとは反対の世界です。


「でしゃばる」という言葉の意味が、
【関係のないことや、求められてもいないことに、
口を出したり、手を出したりする】であるとすると、
「でしゃばる」ことは必ずしも悪いことではないのに、
では、なぜこの言葉には良いイメージがないのでしょうか。


その理由を考えてみたところ、推測ですが、その答えがわかりました。


「でしゃばり」の同義語を調べてみました。
どうやらこんな言葉ともイメージ的に繋がっているようです。


・目立ちたがり屋の
・オレがオレがの
・出たがり屋の
・自己顕示欲の強い
・自分大好きの
・エゴイスティックな
・自意識過剰の
・押し付けがましい...


だとしたら、「でしゃばる」「でしゃばり」のイメージは悪くて当然です。


でも、私は、【関係のないことや、求められてもいないことに、
口を出したり、手を出したりする】ことは、
悪いどころか、必要なことではないかと思っています。
なぜなら、人と人の意見が交わるからこそ、
そこから新しい見方が生まれたり、
新たな糸口を生み出せたりすると思うからです。


当社でも、提案する際には、
求められてもいないことを加えますし、
求められたことに答えつつも、
むしろ本質はこっちではないかと提示したり、
そういう「でしゃばり」をやっています。


私自身も頼まれてもいないのに、
友だちにや家族に意見を述べます。
その結果、ありがとうと言われることもあれば、
スルーされることもあります。
残念なことに人間関係が悪くなってしまった相手もいます。


頼まれてもいなくても、意見を言う理由は
大きく分けて3つあります。
1つ目は、心で思ったことや、
こっちの方がベターだと思っていることを隠すことは、
不誠実だと思うからです。
2つ目は、そもそも相手に選択権があるのだから、
選択肢を増えることが嫌な人はいないと信じるからです。
3つ目は、物事を新しい方向に変えるためには、
誰もが思ったことを言えることがとても重要だからです。


どれも同じように重要ですが、3番目は、
オープンマインドでいるということが創造的な社会につながる
...と言う視点です。
オープンマインドの本質は心が自由でとらわれていないこと。
創造性を活性化するための環境を担保するということです。
そこに立つということは、イノベーションの玄関口に立つようなものですよね。


さて、、、


それでもやっぱり「でしゃばり」には悪いイメージがあります。
「でしゃばり」の反対の概念は、「謙虚」「控え目」でしょうか。
謙虚であることは美徳ですし、だから私たちは、
「アイツ、出過ぎている」と周りから言われないように、
自己制限的に行動してしまったりします。


本当は、謙虚に、自己顕示せず、
押し付けがましくなく意見を言うことはできるはずなのに。


さて、あなたはこの「でしゃばり論」、どう思いますか?
今週も素敵な1週間でありますように!

昨日5日(月)に配信するはずだったメルマガ、
悲しいことに、記事を書いて保存しようとするとクラッシュしてしまい、
それを2日間繰り返したので、配信を諦めました。


日の目を見なかった原稿には、テレビに出ていた高梨沙羅選手を見ていて、
気づいたことや学んだことを書いたのですが、
今、もう一度それを書く気になれないので、今回は別の話題でお届けします!


さて、、、、
「マイクロアグレッション」という言葉をご存知ですか?
最近は「ダイバーシティ(多様性)」を重んじよう...という流れに乗って、
時々目にしたり、耳にしたりしたことがある方も多いのではないでしょうか。
その意味は、端的に言えば「自覚も悪意もないのに、
差別的と感じさせてしまう言動や行動」のことです。
覚えやすくするために、私は「自覚なき差別」と覚えています。


今回、なぜ、これを取り上げようと思ったかというと、
昨晩、NHKがニュースで取り上げていた豊洲市場の話題の中で、
アナウンサーが読み上げた原稿の中に「業者」という言葉が入っていたからです。
自覚なき差別の一種だと私には思えました。


私の感覚では、
「業者」「下請け」「出入り業者」という言葉は、
何かしらの見下しが感じられる表現だと思っていたので、
NHKが躊躇なく使っていることに、不愉快とは言わないまでも違和感がありました。
「業者」とは言わず、「協力会社」「パートナー」「取引先」と言う。
この感覚は、良識ある企業の間では既にかなり一般的になっていると思います。
私たちも自社の取引先に対しては、そのような感覚で言葉を選ぶようにしています。
あなたが「え、そうなの?」と思われたなら、
「業者という言葉の是非」「業者 言い換え」「業者 差別用語」などの
ワードで検索してみてください。
いろいろな体験や意見が出てきて、興味深いですよ。


これは私の記憶ですが、もう20〜30年も前のこと、
あるクライアントの会議に、複数の協力会社が集まっていました。
そこである印刷会社の方が抗議をしたそうです。
「印刷業者ではなく、印刷会社の方と言ってほしい」と。
私自身はそれを目の当たりに見ていないのですが、
それを聞いてから、より一層言葉の重みに対しての認識を改めました。


さて、、、、
私は、今、ここで「業者」という呼称はけしからん...ということを
書きたいわけではありません。


私たちの中にある、無自覚・無意識の差別...ということに対して、
私たちはどう向き合ったらいいのか、が今日のテーマです。


そもそもなぜ無自覚・無意識になるのか?
私はこう考えました。
人の言動や行動というのは、少なからず知識と結びついています。
例えば、
「業者」という言葉は見下されていると感じる人が多い言葉であると知ったら、
「使わない方がいいな」と意識する人が増えると思います。
でも、知らないと、何の意図もなく使ってしまいますよね。
つまり、知識がないと行動を変えられません。


例えば、次のような言葉もマイクロアグレッションになりかねませんが、
あなたに、そのような認識はありますか?


・(外国の方に対し)日本語がお上手ですね
・(外国の方に対し)お箸の使い方がお上手ですね
・(容姿と国籍の違いから)ご出身はどちらですか?
・アジアの方の割に、すごく背が高いですね
・女手一つで、よくここまでやって来ましたね
・女性なのに、男性並みの決断力ですね
・男性とは思えない、繊細さを感じます
・あなたには、いつか結婚して幸せになってほしいです
・彼/彼女はいるの?
(ストレートであっても不愉快。まして同性愛の人はダブルで不愉快)
・私には、そっちの気(け)はないから。
(ストレートでない人は、自分の存在が否定されたようで不愉快)
・そんなに真面目にやってないで、もっと人生楽しもうよ!
(楽しんでいないと決めつけられたら不愉快)
・お子さんは何人?
(不妊症の人にとってはいるのが当たり前とされたくない)


えーっと、私の場合なら、「女手一つで、よくここまでやって来ましたね」とか
「女性なのに、男性並みの決断力ですね」と言われた経験はあります。
別に目くじら立ててどうこう思いはしませんでした。
理由は、素直に褒めようとしてくれたか、
あるいは多少のお世辞か、好意的な表現だと受け止めたからです。
でも、それを語った人の女性への目線としては、
「弱き者」という目線なんだなーと感じたような気がします。
はるか昔の記憶ですが。


また、30代の頃かな、ある友だちが私にシェアしてくれたこと。
「あなたには、いつか結婚して幸せになってほしい」と人に言われて、
ムカついた、と。別に自分は今、幸せなのに、と。
そう言われて不愉快に思うシングルは、今どきはもっと多いでしょうね。


当然ながら、上の例は、あくまで例でしかありません。
大切なのは、多様性が重んじられる社会で、
画一的な価値観を前提としたコミュニケーションを図ろうとしては、
うまくいかないということです。


では、発言する際の原理原則はあるのでしょうか?


...考えてみましたが、ありそうでない。
というのは、結局相手がどう思うか、どう感じるかだから、です。
これは、ハラスメントとほぼ同じですね。
嫌がらせのつもりがあったかどうかは問題ではありません。


としたら、常に意識を広く敏感に持つしかありません。
まずは、自分とは別の立場や価値観の人たちに対する知識をいかに仕入れるか。
そして、その人たちは、どう思うだろうか?、と。
グローバルも、ダイバーシティも、マイクロアグレッションも、
どのキーワードについても私たちに必要なのは、きっと他人に対する想像力ですね。


「他人への想像力」。
まずはそっちに意識を向けてみますか。。。


珍しく火曜日発信のメルマガです。
どうぞ今週の残る日が良い日々でありますように!

年賀状シーズンがやってきました。
メールやメッセンジャーが発達しても、
今のところ年賀状を止めるという話は、
私の周りでは聞きません。
世代的なものもあるかもしれませんが...。

社員や元社員に年賀状を出すとき、
毎回、ふと自問することがあります。
それは、社内結婚した人たちに出すときです。
一般的には二人に1通出すのが普通だと思いますが、
私は一人ひとり別々に出しています。
自問の内容は、うざいと思われちゃうかな...?
銘々に返信しなくてはいけないような
負担な気持ちにさせちゃうかな...?
です。


といっても、それほど深く考えているわけではありません。
ただ、子どもの頃に両親二人の名前で届いた年賀はがきが、
父宛の年賀はがきに分類されているのを見て、
ちょっとした違和感があったこと。
ウチの母は自分一人の名前で(夫婦連名ではなく)
自分の年賀状を出していたことなどの
影響を受けているような気がします。

つまり、深くは考えていないなりに、
私は「個人」というものを尊重したくて、
夫婦であっても別々に年賀状を出してきたのだと思います。

そんなことを考えていたら、
いったい「個人」を尊重するとは、どういうことなのか、
ぐるぐると考え出してしまいました。


英単語の【individual】(個人)は、
もはやそれ以上【divide】(分割する)ことができない
ことに由来するそうです。
平野啓一郎さんの著作「私とは何か」では、
「個人」は分けられるという概念として
「分人」という言葉も出てきていますが、
物理的に分割できないという意味で、
個人はやっぱり最小単位だと思います。

そんな個人は、個人として存在しながら、
いろいろな役割を背負っていますよね。
たとえば、赤ちゃんは「オギャー」と生まれた瞬間は、
純粋な個人として存在できます。
なんの責任も抑圧もなく、
なんと自由な状態であることでしょう。
しかし、やがて親から「お兄ちゃん/お姉ちゃんなんだから...」と言われて、
役割を持たされます。

社長、部長、課長...
父親、母親...
長男、長女...
地域の委員、マンションの理事...
宴会の幹事、介護する役割...
話の聞き役、ムードメーカー...


役割は、モチベーションを生むこともあれば、
抑圧を生むこともあります。
個人の上に乗っけられた役割なのに、
個人が役割に負けてしまうと、
人生の主人公が誰なのか、わからなくなりますよね。
だから、
まず自分自身が個人としての自分を尊重することが大切だと思います。


では、自分自身が個人であることを尊重するとは、
いったいどういうことなのでしょう?

それは、「オギャー」と生まれた瞬間の状態、
つまりそこに存在している自分自身をただそれだけで尊いものと思うこと、
自分の心を自分自身で束縛せず、
命を与えられたことに感謝することなのではないか...。
私は、そんなふうに受け止めています。


なので、最初の問題に立ち返って、
私が元社員の夫婦宛に個々に年賀状を書くのも、
そこに存在してくれていること自体への感謝を示したい、
役割に飲み込まれずに、個人の幸せを追求してほしい、
きっとそのような願いからなんだろうな...。

個人の人生の上に、役割の人生があるのだから、
役割の人生がすべてになってしまってはいけないんだろうな...。
年賀状からそんなことに考えが及びました。

今年もあとわずかです。
素敵な1週間をお過ごしください。

171113_tamcoc.jpg11月の3日から6日間ほど一人でベトナム/ハノイを旅行してきました。
一人旅の面白さを語れるほど、私は一人旅に慣れているわけではありません。
ですが、急にスケジュールが見通せて、行けそうだと思う時、
パッと行くことを決めるので、結局一人で行くしかないことがあります。

で、一人旅だからこそ得られるインプットというのがやっぱりある。
今日は、今回の旅行で得たたくさんのインプットの中から、
一つを拾い上げて紹介しますね。

それは、「フレンドリー」であることについてです。


ハノイは面白い街でしたが、信号もない中、
車とバイクが激しく行き交う道を体を張って横断するのに疲れてしまい、
現地滞在の正味4日のうち、2日は自然を求めて日帰りで遠出をしました。
具体的には、ガイドさん付きの現地ツアーに参加するという形でです。
1日はハロン湾へ、もう1日はホアルー&タムコックへ。
いずれも世界遺産です。


タムコックのツアーは現地ホテルで申し込んだためなのか、日本人の参加は私だけ。
20数名の参加者のほとんどは欧米から来ている人たちでした。
フランス人、カナダ人、オーストラリア人、スウェーデン人、etc.
男女2人組もいれば、男性3人組もいるし、
女性3人組もいれば、夫婦とその友達の3人組もいました。
もちろん一人旅の人たちも。

バスで移動し、古都ホアルー観光や、
ツアーにありがちなお土産屋さんでの休憩、
最後のタムコック観光を通じて、20数名が少しづつ打ち解けあっていくのですが、
その時にフレンドリーな人とそうでない人がいることに気づきます

しかし、一見フレンドリーでないように見える人
(言い換えると自分からは話そうとしない人)も、
話しかけられれば、話すんですよね。
人間観察的にいうと、まずこの感じが面白い。

私自身は一人だったので、心理的な孤立感を恐れていたからでしょうか、
どちらかというと自分から話しかけた方だと思います。
恥ずかしいほどのブロークンな英語で(笑泣)


そんな中、私に最も大きな刺激を与えてくれた人物は、
インドネシア/バリ島から一人で来ていた28歳の女性です。
彼女はいろいろな人にどんどん話しかけていき、
二人だけの世界にドップリ浸かっているように見えたカップルさえ
彼女が話しかけると、楽しそうに会話に参加していました。

敢えて表現を選ばずにいうなら、
日本ではきっとこれを「オバチャン力」というのかもしれません。
相手がどう思うかなんて、彼女は気にせず、
自分が思うままにどんどん話す。。。
でも、美しくチャーミングなバリニーズがこれをやっていると、
「オバチャン」どころか、
「素晴らしくフレンドリーな人」と表現したくなります。
私は、彼女のフレンドリーさに感化され、見習いたいと思いました。


さて、ツアーから戻ってハノイで一人で夕飯を食べていたら、
隣のテーブルの人たちから突然話しかけられました。
マレーシアからの旅行者で、きれいな英語を話す4人家族でした。
一言、二言話した後、言われた一言がショックでした。
「日本人は話したがらないからね...」と。
言葉の裏側で「あなたは違うね」と言われたと感じたので、
「いや、私だって英語で話すのは得意じゃないですよ」と言ったら、
「それは問題じゃないよ」と言い返され、これまた別の意味でガ~ン。

どうやら私は「フレンドリー」な方に分類されている!?
私なんて、あのバリニーズに比べたら、遠く及ばないのに。
とても低い次元で、なのに褒められている。。。
複雑な心境になりました。


彼らと別れてから湧いてきた疑問、
それは、なぜ「日本人は話したがらない」と彼らは思ったのか、です。
ある時、日本人に話しかけたのに、そっけない対応をされたという経験があるのか?
そもそも「話しかけないでくれ」というオーラを日本人が発していると感じるのか?

私の頭をよぎったのは、オリンピックのプレゼンです。
あれだけ「お・も・て・な・し」をアピールしちゃっているのに、
なんかこれヤバクない?と思いました。
「話したがらない日本人」であることは
「おもてなしする日本人」であることと矛盾している。
国際的にはそう映ると思いました。
日本人としては、それとこれは別なんだよと弁明したいけど、
多分、それは通用しない。。。


結局「フレンドリー」の本質って何なのでしょうか?

当社の社員に、やたら外国人に話しかけられやすいY君がいます。
私は、「フレンドリー」についてある仮説を持って、彼に聞きました。
「Y君は、外国人に微笑まれたら、微笑みを返すんじゃない?」と。
彼の答えは「イエス」でした。

私の感覚でのフレンドリーの基本は、
・まず目を合わせることを厭わないこと、
・そして目が合ったなら、微笑みを送ること、
...ではないかなと思っています。
私はベトナムで無意識のうちにそれをやっていたので、
あのマレーシア人の家族にフレンドリーだと思われたのだと思います。


実は、目を合わせたり、微笑みを送るというのは、
社内でも大切なことですよね。
ですが、これ、私も含めて意外にやれていないのではないでしょうか。

で、これを社内から始めようとすると、むしろやりにくい面もあったり(笑
トレーニング的な意味での私のオススメは、
コンビニで買い物をする時に意識を持つことです。

店員さんとちゃんと目を合わせて、目が合ったなら微笑みを送ること。
そして、「ありがとう」とちゃんと言うこと。
店員さんも目を合わせる人が意外に少ないということに気づくかもしれません。
相手が目を合わせてくれないその時に感じる「フレンドリーでない感じ」を
しっかり感じると、「フレンドリー」の意味をより強く感じ取ることができる思います。
私は、これを意識的にやっています。
そして、本当は、名札を見て名前を覚え、「ありがとう、○○さん」と言いたい。
でも、やっぱり気恥ずかしくて、いまだにできていません。
よし、明日こそ、いや今日こそやってみます!

さて、、、
あなたのフレンドリー度は何点ぐらいですか?
私のフレンドリー度を10点満点で表すと、
多分6点ぐらいですね。
あのバリニーズが私の中での10点モデルです。
楽観的な私は、これ、自分の伸びしろだと思うことにします!

11月ももう後半。
どうぞ今週が素敵な1週間でありますように!

ランチを食べながら、隣の席にいた見知らぬ二人が、こんな会話をしていました。
「仕事を頼んでも、彼女はまったく自分で考えようとしない」
「細いことまで指示しないと、やってくれない」
男性と女性の二人の会話、聞き耳を立てていたわけではないのですが、
すみません、耳に入ってきてしまいました。


主体的に考えない人が組織内にいて、
それに対して悩みや不満を言う先輩/上司。
どんな組織にもありがちなことですよね。
そして大抵の場合、不満を述べている先輩/上司は、
自分たちは主体的に考えていると自認しているだけに、
考えないなんてありえない、理解できないと思っています。


さて、あるあるのこのシーン、
私たちは何をどう考えるべきなのでしょうか。
私はこの会話を聞きながら、何か違和感がありました。
なんとなく上から目線な批判に思えたからです。
気になったことをシェアさせてくださいね。


1つ目は、主体的に自分の考えを述べない人がいたからといって、
必ずしも考えを持っていないとは言えないと言うことです。
ただ単に、考えを言いにくい雰囲気だと感じているから、
考えを発しないだけかもしれません。


聞かれてもいないのに、自分の考えを発言できる人と言うのは、
むしろ少数ではないでしょうか。
多くの人は、水を向けられてもなお、
こんなことを言っておかしくないだろうか...と気にしてしまいます。
あるいは、考えをまとめてからでないと、発言すべきではないと
行動をセーブしてしまったりします。


大抵の場合、過去に嫌な体験があるからです。
笑われたとか、
否定されたとか、
無視されたとか。。。


勇気を出して発言したのに、傷つくような体験があると、
おそらく二度と同じ思いをしたくないと思うのが、
普通の感覚なのではないでしょうか。


どんな意見でも歓迎されると言う前提があるのと、ないのとでは、
当然言いやすさも違いますよね。
言いやすい雰囲気や安心安全の場を作ることは、
リーダーやファシリテーターの重要な役割だと思います。
これが、簡単ではないのですが。


もう1つ気になったことというのは、、、、
筋道立てて考えたり、物事の本質を理解しながら考えるというのは、
実はとても高度で難しいことです。
ですから、これをスラスラできる人というのも、実はとても少数だと思います。
できている風に振る舞う人は大勢いますが、
そういう人に限って、物事の奥深さを甘く見ていたり、
謙虚に考えることをしていないように見えます。
私も、考えることが仕事ですが、
この「考える」行為は、何年やっていても侮れないと感じます。


ということは、逆にいうと、
ただ単に「考えろ」という上司では部下は困ると思うのです。
ただ考えろというだけなら、これほど簡単なことはありませんからね。


で、実際、上司にとって、考えることを部下に教えるのはとても難しい。
教えるスキルを学ぶ機会もあまりありません。
さらにいうと、自分自身が常日頃どのようなプロセスで考えて、
どのように物事を進めているかさえ、上司は整理できていないと思います。
暗黙知だからです。
だから「彼女はまったく自分で考えようとしない」と
批判するだけの上司にはなりたくないなと思いました。


ロジカルシンキングなどのようなコンサル系アプローチとは違う方法で、
考えるコツや考えることを教える方法があるといいですよね。
私のライフワークにしようかな〜笑 ←ちょっと本気。

 

ブログを書いている人

小野真由美

グラスルーツの代表。組織をただの集団ではなく、チームにするための組織内コミュニケーションはどうあるべきだろう?…なんていうことを、いつもツラツラ考えています。ブランディングやコミュニケーション、チームやリーダシップ系の話題が7〜8割、その他の話題が2〜3割。そんなブログを目指します。ぜひおつきあいください。

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