ブランディング、コミュニケーション、チームワーク…。週1回の社長ブログです

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『コミュニケーション』カテゴリの記事

 


週末、伝説のロックバンドQueenとそのリードボーカル/フレディ・マーキュリーの
実話に基づく映画「ボヘミアン・ラプソディ」を観てきました。
ここに書くことは、ネタバレ(というよりもある程度知られている実話バレ)を含みますので、
これから観る予定がある方でストーリーを知りたくない方は読まない方がいいかもしれません。


私がQueenの存在を知ったのは、確か中学生の頃でした。
まだCDさえなく、お年玉でレコードを買い、友達と貸し借りするのが楽しみだった時代です。
音楽情報は雑誌「rockin'on」などからしか入手できませんでしたが、
「ボヘミアン・ラプソディ」のプロモーションビデオ(上の動画)が
テレビで取り上げられていたことは覚えています。
曲は6分と異例の長さ。オペラ的なロックと当時話題になりました。
Queenとフレディに敬意を評し、映画のプロモではなく、原曲のプロモを掲載します。
当時、プロモーションビデオ自体が珍しかったんんじゃないかしら?


この映画のすごさは、本物を見ているようなど迫力です。
姿、動作、歌声、演奏...。
どの演奏にもすべてに魂が込められていて、
それがモノマネとは違う本物感を漂わせたのだと思います。
特にフレディ・マーキュリーがまるで目の前にいるかのように、
このクオリティで再現されたとは! ラミ・マレッタの演技力と歌唱力は圧巻です。
あまりの迫力に、Queenを知らない若い世代も感嘆しているに違いありません。


さて、ここからが本題です。
そういうシーンの一つ一つに感動しましたが、
もう一つ感動もし、考えさせられもしたシーンがありました。
それは、人気絶頂の頃、フレディはソロで活動することを宣言し、
バンドのメンバーと仲違いをしてしまいます。
お互いがお互いを家族のような存在だと思っていただけに、
メンバーにとってそれは一種裏切り行為でした。


でも、フレディにとっては、
自分の力だけで新しいチャレンジをしたくなっただけだったかもしれません。
でも、結論からいうと、それはうまく行きませんでした。
ソロとはいえ、音楽づくりにはミュージシャンと組む必要があります。
でも、言われたことを言われた通りにしかやらないミュージシャンたちを見て、
フレディはいかにQueenの他のメンバーの存在が大きかったか、悟ります。
そして、彼は「謝る」機会をもらい、復帰するのですが、


その時、彼は「自分は、傲慢で、自分勝手で、最低のクズだった」と自ら言います。
フレディは、人生で大切なもの、失いたくないものがわかったから、本気で謝った。
あれだけプライドの高い人が、こうやって本気で謝る姿を見て、私は感動しました。
本気ってすごいパワフルです。
そして、本気の人、真摯に心から謝っている人を、人は見捨てないんですね。


私たちは過ちや失敗を犯した時、ついつい自分を正当化します。
これは自分のせいではなく、○○が原因だ、
自分が最後までやりきれなかったのは、○○がこう言ったからだ、
○○が起きなければ、自分はこう行動しなかった。。。
そして、自分を正当化している間は、
いくら謝っても、大抵は形式的なものにしかなりません。


最近私はある友人との関係を自分から壊してしまったのですが、
最初の1週間は自分を正当化しました。
でも、今は本気で謝ろうと思っています。
そう思ったのは、この映画を観たからではありませんが、
映画の中で響いたところには、私らしい価値観が現れている気がします。
本気で謝るとき、どう受け止められるかを気にしていてはダメですね。
ただただ本気で謝るだけ。
それを今月中にするつもりです。←決意!


いよいよ12月に突入しました。
慌ただしい季節ですが、素敵な1週間をお過ごしください!

今週11月29日、グラスルーツは満34歳、35周年目に突入します。
月並みな表現で恐縮ですが、皆様に支えられて今日があります。
本当にありがとうございます。


だからというわけではありませんが、今日は、「信頼」の話です。
仕事での信頼というよりも、人間関係における信頼です。
あなたは、人との信頼関係を大切にしていますか?
こう聞かれて「していない」と答える人はいないと思います。
では、あなたにとって、信頼関係を大切にするために、
自分が大切にしていることは何ですか?と聞かれたら、
あれ、何だろう?と少し考えてしまいますよね。
では、これまでを振り返って、信頼が損なわれたと感じた経験、
誰でも多少なりともあると思うのですが、それはどんな時でしたか?


こうやって考えてみると、言葉にするとわずか二文字の「信頼」ですが、
信頼を生んだり、失くしたりする原因となる要素は、
とても多岐にわたっていることに気づきます。


信頼に影響を与える要素にはいろいろなものがありますが、
今日は「言行一致」「言行不一致」と信頼関係について考えたいと思います。


人付き合いにおいて意思表示をするときのパターンは、
こんなふうに4つに分類できます。


1.「する」と言って、する
2.「する」と言っておきながら、しない
3.「する」と言わずに、する
4.「する」と言わないし、しない


「する」中身にもいろいろあります。
「〜を引き受けます」「行きます」「また連絡します」
「今度お誘いします」「今度差し上げます」などなど。


以前から人の言行パターンはいろいろあるなと思っていたのですが、
自分が展覧会を開くようになってから、
意思表示系の言行パターンは結局この4つしかないことに気づきました。


展覧会では「行く」と予告して実際に来てくださる方もいますし、
「行く」と言っていても毎回来ない人は来ないですし、
何も言わないけれど、予告なく現れる人も大勢います。


ですが、行くと言っておきながら来ない2番の行動を
一概に悪いと決めつけるつもりはありません。
つまりその裏には当日の事情もあるでしょうし、
そもそも社交辞令ってこともあるでしょうから、
それ自体について何ら咎めようとは思いません。
私自身、どうしても必要があるときは、
土壇場でリスケをお願いすることだってあります。
でも、同じパターンを繰り返す人に対しては、
やがて「それがこの人の行動パターンなのだ」と思い、
そのうちに「あの人はどうせ来ない」と思うようになります。


行く行かない以外にもいろいろありますよね。
クラス会幹事をやると引き受けたのに、やらない、
その人に何かを任せると、大抵話が進まない等。
まあ、そんなことで誰も目くじらは立てませんが、
その人への信頼感は暗黙の中で下がっていきます。


クラス会幹事というような役割が明白なことは別として、
もっと小さなことでも、人は相手の言行が一致しているかどうか、
無意識に感じ取っているのではないでしょうか。


たとえば、別れ際にいう言葉も意外と重要ですよね。
「また機会があったら会いたいですね」はいいとして、
「連絡します」を使う人もいますが、
連絡がないままで終わるということもしばしばあります。
だから私は「連絡します」を軽々しく言いませんし、
言った場合は必ず連絡することを心がけています。


似たような言葉で「近メシ」という言葉もありますね。
「近いうちにメシでも食おう」と言いながら、決して実現しないというアレ。
社交辞令としてしばしば使われる決まり文句です。
こんなことを考えるのは少数派だと思いますが、そんな社交辞令、私はいらないな〜
もし言うのなら本当に実現させたいと思って行動する時だけ言ってほしい(笑
だから、変にサービス精神を発揮するよりも、
するつもりのないことは言わない方が、信頼を損ないませんね。


では、3番の行動に対して、私たちは言行不一致だと思うでしょうか?
3番目は「言わずに、行動する」です。
ある意味、言行不一致なのですが、がっかりさせる要素がないため、
それを言行不一致と思ったり、信頼できないとは思いませんね。
むしろ、言葉がなくても、行動が伴っているので、信頼感は絶大です。


4番の「言わないし、行動しない」に対してはどうですか?
別にこの行動に対しても、何の期待も持たないからか、
信頼感が下がるとは感じませんよね。


だから、結局、信頼に影響があるのは、2番の行動、
「言っておきながら、しない」を繰り返すことです。
おそらく悪気はなく、根っこにあるのはサービス精神。
ですが、周りは期待させられるがゆえに、結局がっかりさせられる。
そうこうするうちに、信頼せず、期待しない関係へとシフトしていきます。
それはもったいないことです。


人のことはわかるのに、自分のことは気づきにくいものです。
私も、していないつもりで2番行動を取っているかも。
そんな戒めで始まる11月最終週です。


どうぞ素敵な1週間でありますように!

あなたはフィードバックされること、好きですか? 嫌いですか?

先日、ある会社の方とフィードバックを切り口に部下指導が話題になりました。
その方曰く、「フィードバックしやすい人と、しにくい人がいる。
しにくい人というのは、最初からバリヤーを張っていて、
フィードバックを歓迎していないことがすぐにわかる。
でも、本人はそういうオーラを自分が出していることに気づいていない」
そんな話でした。
要するに、プライドが高い人へのフィードバックは難しい、という話です。

私も、過去30年以上、部下を見ていて、
フィードバックを歓迎しない部下は一定割合いるので
(というか、多くの人はフィードバックに困惑気味...と思っているので)、
この話を聞いて、そうだろうなと思いました。

で、フィードバックの種類にもいろいろありますよね。
長期的な課題を伝えることもフィードバックですし、
今提出されたドキュメントに対しコメントすることもフィードバックです。
イメージをクリアにして話したいので、
ここでは提出されたドキュメントへのフィードバックを前提に書くことにします。

提出されたドキュメントへのフィードバックが歓迎されない場合、
相手の心の中でこんな反応が起きているような気がします。

「なんでこれでダメなの?」OK水準がわかっていないからくる反発
「それは小野さんの意見ですよね?」上司と違う意見は否定されるという思いからの反発
「そんなに出来が悪いでしょうか...?」自分の力量が否定されて不快
「え、もう時間がないんですけど...」時間が取られ、工程が乱されて不快


こうしたことが起きるのは、
多分、フィードバックは自分のためにあると思えていない上に、
自分一人では気づけないことがあると思えていないからです。
さらに、品質についても、自分ひとりのアウトプットに対して、
上の上のそのまた上があると思えていないからです。

だから、まず「小野さんは自分の成長のために言ってくれている」
思ってもらえる信頼関係を作ることが最初の仕事かもしれません。
そうしないと、フィードバックはまず機能しませんね。
それと高いレベルのアウトプットを要求するなら、
そういう合意を先に作る方が大切で、
私たちは三流ではなく、一流を目指すと合意できていれば、
「なんでこれでダメなの?」という疑問も消えていくような気がします。

そんな合意があってもなお、人は誰でもフィードバックされること、
否定されることがイヤなのだと思います。


で、ここで新たな問いが生まれてきました。
人は、どうしてフィードバックを否定と捉えてしまうのでしょうか?
そもそも、そこに問題があります。

というのは、先に「フィードバックを歓迎しない部下は一定割合いる」と
書きましたが、実はフィードバックを喜ぶ社員も一定割合います。
彼らに確認したわけではありませんが、
おそらくフィードバックを「否定」とは捉えていません。
あくまで「材料」と捉えています。
「否定」と捉える人は、フィードバックについて
「否」を「是」に変えるための「指摘」と捉えています。
でも、「材料」と捉えている人はそうは捉えず、
もっとより良いアウトプットをするための材料、
もっとより良い考え方を身につけるための材料、
もっと自分が成長するための材料、と捉えています。
そこから自分がどう咀嚼するかは自分次第と受け止めているように思います。


さて、かくいう私がフィードバックとどう付き合っているかというと、
私は社長なので、放っておくと、フィードバックされない運命にあります(笑
フィードバックされない社長がどうなるかというと、
みんなが知っているアンデルセンの童話「裸の王様」のようになります。
なので、私はそうならないために、
フィードバックを得られるように努めてきたと思います。
それでもきっと100のうち50ぐらいしか得られていないんだろうな~
そうやって得た貴重なフィードバックからまた思考を深め、行動して、、、と
そんなことをやってきたような気がします。
で、ここで気づいたのですが、裸の王様になる懸念、
社長でなくても誰しもありますね。


最後に、最初の質問と同じ質問です。
あなたはフィードバックされること、好きですか? 嫌いですか?

私は先週風邪で3日間お休みしました。
今週は元気に過ごしたいものです。
風邪、流行っているようなのでお気をつけください。
どうぞ素敵な1週間でありますように!

先日、深夜の「ためしてガッテン」再放送で、
アイコンタクトが認知症の改善に役立つ...というのを観て、すごく納得しました。
認知症の方は視界がとても狭くなるらしく、
普通なら視界に入るであろうと思える場所にいる相手も
実は見えていないことが多いのだそうです。
だから、正面からアイコンタクトをせずに話しかけると、
相手がどこにいるかわからないという不安があって拒絶されたりするそうです。
真正面から目を合わせて話すことで、信頼感や安心感が生まれ、
関係は劇的に変わる、そんな事例が紹介されていました。

興味深かったのは、赤ちゃんの実験。
同じぬいぐるみを2つ見せながら、赤ちゃんがどちらを選ぶかというものでしたが、
手渡す相手が目くばせするだけで、赤ちゃんはその意図通りにぬいぐるみを選びました。
目は口ほどにものをいうと言いますが、
人の動物的な感受性はまだまだ生きているんですね。
私たちは、この言葉以外のノンバーバルコミュニケーションの影響に対し、
もう少し自覚的であるべきかもしれません。


目を合わせることは、ビジネス社会でもとても重要です。
耳だけ向けて「聞いてるよ」という反応をしてしまったり、
ポーズは聞いているようで、実は「今じゃなきゃダメ?」という態度であったり。
心から目を合わせているのといないのとでは、伝わることに雲泥の差が出ます。


さて、前置きが長くなりましたが、
私たちが注目すべきは、「目を合わせる」ことだけではなく、
ボディランゲージの重要性についてではないか、というのが今日のテーマです。

これは、若かりし頃の私の体験からも思うことです。
私が新卒で入社した某上場企業で、私は専務の秘書を務めていました。
その専務は、社内でも一番怖いと評判の方でした。
課長クラスの多くの方は専務室に入るというだけでも、
私から見てもビビっているのがわかりました。
そういう方に対して、専務はよけいにイライラしていたようです。
けれど、そんな専務でも一目置く方が二人いました。
経理部長と財務部長。お二人はまったく臆することなく、専務と接していたのです。
振る舞いも堂々としていて、むしろそんなお作法で大丈夫なの?と思うほどに、
よく言えば自然体で振舞っていました。

そんなことをきっかけに、私は感じ取りました。
話している内容以上に、振る舞い方(ボディランゲージ)によって
人は認められたり、相手をいらだたせたり、
あるいは、周りを不安にさせたり、本音を言いにくくさせているのだ、と。
と同時に、自分自身もボディの構え方によってマインドが変わると気づきました。


世界最高峰ハーバード・ビジネス・スクールの注目教授であり、
著書「〈パワーポーズ〉が最高の自分を創る」で知られる
エイミー・カディがプレゼン番組「TED」で
人が自分に自信を思って力に溢れている時と、
反対に無力だと感じた時とではポーズが違うと話しています。
力に溢れている時は、体を伸ばし広げるが、
無力感を味わっている時は体を縮めている、と。
オリンピックなどでの勝者と敗者のポーズを思い浮かべると、
彼女の言わんとすることがわかります。
彼女は、体を伸ばし広げることを力強いポーズと呼び、
反対に、体を縮めているポーズを力の弱いポーズと呼んでいます。
そして、フリでもいいから力強いポーズを取ることで人生が変わると語っています。
自分はできるという自己暗示が重要なように、
ポーズ(立ち姿勢)という形から入ることによって、
マインドも変化する、だからこそポーズが重要だということのようです。


これらの話から思うことは、
人に自分の力を周囲に認めてもらうためのボディランゲージと、
人に自分に対して安心感や信頼感を持ってもらうためのボディランゲージは、
まったく違う方向性にあるということです。
でも、人間関係をより良くするには、実はどちらも大切ですよね。
それは左右対極にあるのではなく、縦軸と横軸のような関係にあります。


私自身も、どちらも少しはできていて、まだまだ突っ込みどころは満載。
でも、そうやって理想を持ったり、自己チェックの尺度を持ったりしていると、
少しづつ理想に近づいて行くのではないでしょうか。そうありたいなー
今週は11月に突入。今年もあと2カ月です。
私は先週のブログに、自分が今年何ができて、
何をしたいのにまだしていないかと書きました。
お互いに残る2カ月を満喫して、2018年を終えましょう!
まずは今週が素敵な1週間でありますように!

当社がたとえば30年後、どうなっていてほしいのか、
最近、考える機会が増えました。
と同時に、こんな小さな会社がなぜ30数年以上も続いて来たのか、分析してみたり。

で、改めて今日まで存続できた理由を考えてみると、
その一つに「損得は二の次」という考え方があったからではないかと考えています。
いえ、ビジネスですから、損得はどこかで考えますが、
判断基準の上の方にそれがあったかというと、なかったと思うのですね。
判断基準の上にあるのは、あくまで経営としての、人としての、
「理想」とか「美意識」でした。

で、その理想の中心にあった一つの姿が、
オープンに自然体で意見を言い合い、
リスペクトし合う対等な関係の中で仕事をするというものでした。
社内はもちろんですが、お客様やパートナーともです。
そこに損得勘定はありません。それはポリシーでした。

社内で言うなら、ミーティングの場はもちろんですが、
新入社員でも社長の私に意見を言えるように。
もちろん、理想にしていることが必ずできていたかといえば別問題。
素直に聞けず、それが原因で軋轢が生まれたこともありました。
で、どうするかといえば、謝るわけです。
なぜなら自分の非を認めず謝らない社長はカッコ悪いから。
それが、私の「美意識」でした。

で、「意見を言いやすくする」「意見が言えない会社に未来はない」と
という考え方は、実はどの会社の存続にとっても大切だと思います。

ところが、、、、
最近の社会の風潮としては、意見を言わない人が増えていると聞きます。
これについては、阿部が9/9付のメルマガ
「その場、『言う場』?『言わない場』?」でもエピソードを挙げていますが、
いかにもありそうなことだと感じ、だからこそよけい憂うべき日本を感じます。

いったい日本はいつからそうなったのか、
「言わない」「発言しない」の根底に、いったいどんな気持ちや価値観があるのか、
想像してみました。
で、そうなってきたその原因について、3つの仮説を考えてみました。

【意見を言わない理由1】根底にある価値観に「損得」があるのではないか?
発言して、人から「会議を引っ掻き回した」と文句を言われる、
発言して、人からその発言は「的を射てない」「おかしい」とバカにされる、
発言して、人から「お前の発言で会議が長引いた」と文句を言われる、
発言して、想定外の面倒な役目が回って来てしまった。。。
多分、そんな原体験があると、そんな損をしてまで発言するのはバカらしい、
そう思うようになるのかもしれません。
いえ、そんな体験がある人自体は少ないのだけれど、
他人のそういうシーンを目の当たりに見ると、
ああいう立場にはなりたくないと思うのでしょうか。

【意見を言わない理由2】根底にある行動基準に「空気読む」があるのではないか?
今の日本の、空気を読めという空気、私はちょっと異常だと感じているのですが、
仮に周りの誰かから「空気読めよ」と言われたら、普通は萎縮しますよね。
自分が言われていなくても、言われている人を目の当たりにしたら、
同じ目に遭いたくないと思うことでしょう。
直接「空気を読め」と言われていなくても、
「意見を言うな」「否定をするな」というオーラを出す人がいたら、
オーラだけでも行動が変わってしまうかもしれません。
この場合、オーラを出す人と、オーラで忖度する人、
いったいどちらがどう変わると、組織は良くなるのでしょうか?

【意見を言わない理由3】考える習慣がなく、自分の意見が不明瞭なのではないか?
最近聞いた学校教育の話では、
「考える」プロセスなどまったく重んじられていないようです。
考える習慣がないことを学校教育のせいにしていいかどうかはわかりませんが、
実際社会人の中にも「考える」ことに慣れていない人、
考えることを途中でやめてしまう人はとても多いと思います。
学校でも社会でも考えることを要求されない、あるいは
考えることに意味が生まれない環境で暮らしてしまうと、当然そうなりますよね。

もしかしたら、私が思いもつかない第4、第5の理由もあるかもしれません。
でも、この3つに限って言うと、私は原因は一つではなく、
どれも相互に少なからず関係しているのではないか、と思います。
とはいえ、その中でも一番の根っこにあるのは、「損得」なのではないでしょうか。
損得から発言しなくなる。空気を読むのも、損得が判断基準になっているから。
損得から発言しないことを是としたら、考える必要もなくなるから、当然考えない。

でも、損をしないために発言しないという考え方には落とし穴があります
なぜなら、それをやり続けると自分の価値、存在意義を発揮できません。
というのも、多くの人は発言しないわけですから、
同じようにしていたら存在価値を発揮できないわけです。
価値が発揮できないと、精神的にはやりがいが得られない、
経済的には稼げないなどの影響を受けます。
それだけでも十分に損害を受けるわけですが、それだけではありません。
最近では、ロボットに仕事を奪われる可能性さえ出て来ました。
自分を守って損しないように行動してきたつもりが、
結局は経済的にもやりがい的にも損を生み出す。
だから、損しないために発言しないはナンセンスだと思います。

さて、、どんな会社にも文化があり、発言しにくいこともきっとあることでしょう。
でも、あなたの意見が風穴を開けるかもしれません。
意見を言える世界とは、正解が1つという世界とは違います。
意見を言える会社、意見を言う個人。それ自体に意味がある。
そういう存在が増えると、日本は変わっていけると思うのですが。。。
意見を言うことについて、あなたはどう感じ、どう行動していますか?

どうぞ素敵な1週間を!

PS)あ、そうそう、最後に個人的な活動の宣伝をさせてください。
「DENIM AGE(デニムエイジ)~自由であるということ」というテーマで
個展を開きます。ご興味があり、お時間が許せばお運びください。
期間:10/11木~10/17水(11時~19時。最終日は15時まで)
場所:ギャラリー「Concept 21」(表参道徒歩5分)
〒107-0061 東京都港区北青山3-15-16
Tel.&Fax.03-3406-0466(画廊)

今日は、冒頭からちょっと脇道にそれて、お知らせを。
私事ですが、10月11日(木)から17日(水)の7日間、
表参道のギャラリーConcept21で「Denim Age~自由であるということ」
という個展を開きます。
「デニムエイジ 自由であること」で検索してみてください。
ほぼ在廊していますので、お時間が許せば、お気軽にお立ち寄りください。
私は、仕事でやりたいことと個人的にやりたいことが心の中で繋がっていて、
幸せだな、と思います。
どこかで、もう少し詳しく話させてくださいね。


さて、、、今日もそんなことと無関係ではありません。
最近の当社社内の重要な話題、それは、理念やありたい姿についてです。
18日の今日もそんなミーティングを行う予定です。

そんな中、行動面での「謙遜」についても話題になっているので、
今日は、「謙遜」について、真正面から考えてみたいと思います。
というのも、当社の価値観には、不必要にへりくだったり、
不必要に自分で自分を下げることを「非」とする考え方があります。
社内も社外も上も下もなく、対等な関係であることを「是」としているからです。


謙虚、謙遜、卑下。
これらは、本来違うのに、意外にごっちゃになって捉えられている気がします。
特に日本社会では、謙虚謙遜は美徳とされています。
でも、この二つは本質的に違うことです。
いったい、どう違うのでしょうか?

ゆっくり考えてみましょう。
今、謙虚を辞書で調べると、
「自分を偉いものと思わず、すなおに他に学ぶ気持があること」です。
つまり、基本的には学ぶ姿勢や他者との関わり方に関する姿勢を表しています。

一方の謙遜の辞書的な意味は
「へりくだること。控え目なつつましい態度でふるまうこと」です。
「へりくだる」というのは
「他人を敬って自分については控えめな態度をとること」です。
これだけを聞いたら、一概に悪いこととは言えません。
でも、言葉の意味からわかることは、
この言葉は「振る舞い」を示しているということです。

つまり、謙虚=姿勢、謙遜=振る舞い、なので、
謙虚な気持ちがない人が謙遜して振る舞うと、
あるいは単なるお約束として、その振る舞いをすると、
それは単なるポーズにしか映りません。
人の嗅覚は鋭く、それはいとも簡単に見抜かれます。

謙遜表現の中でも、私があまり好感を持たない例を挙げると、
まず身内を悪くいう「愚妻」「愚息」。
褒められた時に返す「いえいえ、私なんて...」。
自分を下げて相手を持ち上げる「私には到底思いつきませんが、さすがですね」。
露悪的にエクスキューズして「自分はおばちゃんだから/太っているから~」。

これらは決して「謙虚」さの表れではありません。
これらは「卑下」、一歩譲ったとして「謙遜」です。
「卑下」とは、「自分を人より劣った者として扱うこと。
へりくだること。謙遜すること」です。

「卑下」は字面も美しくありませんが、
字面から浮かぶ行為も美しくない、と思いませんか。
だって、自分を卑しめ、自ら自分の評価を下げようとするのですから。


謙遜と卑下は、本来的には違うことですが、「振る舞い」であることは同じです。
そして、この振る舞いをされた時に、私たちが感じるのは、、、、

実は「負担」。

「ご謙遜、ご謙遜」というセリフがあります。
あれは、謙遜されたら言い返すお約束のセリフでもあります。
これ、はっきり言って、面倒な慣習ではないでしょうか。
だって、「何をおっしゃいます、そんなことはありません」と
否定しなくてはならない。
内心はポーズとして言っているのだと分かっているのに、
わざわざケアする(これまたポーズで)。
よーく考えてみたときに、これ、本当にお互いやりたいことなのでしょうか。


あー 私、エラそうに書いていますね。でも、私もかつて痛い経験があります。
40歳頃だったでしょうか。
同級生と飲んでいました。で、私がこんな発言をしたのです。
「ごめん、もうおばちゃんだから...」とか
「おばちゃん、もうついていけない...」とか
文脈も言い回しも忘れてしまいましたが、
キーワードが「おばちゃん」だったことだけは今でも覚えています。
それほど深い意味もなく、
多分、ちょっと自虐的に軽く言っただけのつもりでした。
そしたら、その同級生は素晴らしいことを私に教えてくれました。

「実際に、もうおばちゃんなんだから、
こっちが気を遣ってカバーしなくてはならないようなことを
言わないでくれる?」と。

おばちゃんとおじちゃんが飲んでいるのに、
おばちゃんじゃないよと言わせるな、と。
これは、私にとって人生で重要な教えの一つでした。


サッカー、野球、テニスなど、
一流のスポーツ選手は決して謙遜しませんよね。
でも、謙虚です。
謙虚ではあるけれど、謙遜はしない。
その方が単純に美しい。そういう生き方をしたいものですね。

今週も素敵な1週間でありますように。

昭和から平成へ、平成から新元号へと時代が変わって行く中で、
昭和にはなかった言葉(概念)が多数生まれてきました。
ネット用語はもちろんですが、
「ダイバーシティ」「ハラスメント」といった言葉も昭和にはなかったですし、
「アンコンシャス・バイアス」も「ポリティカル・コレクトネス」
といった言葉もありませんでした。
こうしてみると、やっぱりカタカナが多そうですね。
その分、各自各様の解釈があったり、
言葉の辞書的な意味は知っていても、行動と結びついていなかったり...
ということが起きているような気がします。


たとえば、「ダイバーシティ」。
「グローバル化が進んでいるし、女性が働きやすくするためには、
価値観や働き方が多様でなければいけない、ということでしょ?」
という程度の理解で本当に十分でしょうか?
ダイバーシティを上のようにとらえていると、あまり自分ごとにはなりませんが、
本来はどういう意識で日常生活を過ごすかが大切なのだと思います。


子育てしている人が、
「男の子なんだから...」と男のお子さんに言ったり、
「好きな男の子はいるの?」と女のお子さんに聞くシーン、
SNSなどでも時々見かけます。
でも、子どもを性別で決めつけをしている時点で、
ダイバーシティの考え方に反しています。
そして、これを聞いてもなお、
うちの子どもに限ってと思う方もいると思いますが、
それ自体がNGな時代になってきています。


頭で理解しながらも、なかなか行動との間でバランスを取れないのには、
やっぱり理由があります。
私たち人間は、生きている間に良くも悪くも、いろいろな学習をします。
褒められた体験、叱られた体験も学習材料になるし、
何がメジャーで、何がマイナーなことなのかも学び、
それを元に判断基準を作り上げたりします。
このような過去の経験や周りの環境などから、
自分自身では気付かないうちに身についた先入観のことを
「アンコンシャス・バイヤス」と言います。
日本語だと「無意識の偏見」と訳されるようですが、
要は「思い込み」ですね。
思い込みが怖いのは、正しいと思い込んでいるあまり、
自分の考えを疑ってみるきっかけがないこと。


・いまどきの若者は〜
・歳を取ると〜
・女性というのは〜
・外国人は〜


の「〜」の部分に入れてしっくりくると感じるものがあるとすれば、
大抵の場合、思い込みです。


どんな弊害があるかのか、例を挙げるなら、
「子育て中の女性に重要な仕事は任せられない」と上司が思い込んでいると、
その部下は機会が奪われてしまいます。


とはいえ、人間から思い込みをなくすことは不可能です。
でも、少しでもなくそうという発想で取り組めることもあり、
その一つが「ポリティカル・コレクトネス」(PC)といって、
表現に関する考え方を見直す運動です。


トランプ大統領が、「I know it's not PC, but...」
(政治的に公正な表現じゃないことは分かっているんだけど...)との
前置き発言が多いことから、2016年頃に日本でも広まった感じがあります。


Wikipedeaによると、「ポリティカル・コレクトネス」は、
「政治的・社会的に公正・公平・中立的で、
なおかつ差別・偏見が含まれていない言葉や用語のことで、
容姿・身分・職業・性別・文化・人種・民族・信仰・思想・性癖・
健康(障害)・年齢・婚姻状況などに基づく差別・偏見を防ぐ目的の表現を指す。」


割と知られている具体例、言葉が見直された例を挙げます。


ビジネスマン → ビジネスパーソン
Miss(ミス)/Mrs(ミセス) → Ms(ミズ)
看護婦 → 看護師
痴呆症 → 認知症


ああ、そういう見直しのことかと、ピーンと来られたのではないでしょうか。
他にもいろいろあります。
アメリカでは、消防士はファイヤーマンではなく、ファイヤーファイター。
警察官はポリースマンではなく、ポリースオフィサー。
そのうち、スーパーマンもウルトラマンもスーパーパーソン、ウルトラパーソンになるのでしょうか?笑
今現在はキャラクターはキャラクターだとして、その言い換えはなさそうです。
その他にも、、、色の名前としての肌色はNG。
女優、女流棋士、女医などもNG。
ハウスワイフはホームメーカー等、いろいろあります。


単語自体ではなく、言葉の書き方についても同様の視点から議論があります。

子供 → 子ども
(「供」という字が「お供え物」「お供する」などを差別的な連想を与えることを
理由に、新聞などでも「子ども」が多用されているが、賛否両論ある)
障害者 → 障がい者
障害を持つ人が「害」である連想を与えるという配慮から、多くのマスコミは
「障がい者」を使用。NHKは、社会にある障害と向き合う人たちと捉えて「障害者」を使用するなど、
やはり賛否両論ある)


ちなみに、私の個人的理解では、「ポリティカル・コレクトネス」は
もはや政治世界、マスコミ世界のものではなくなっていて、
日常生活とも密接に関わっていると捉えています。
しかも、言葉の表現のみならず、
パンフレットや映像を制作する業務に携わっている人は、
登場する人物の描き方などでも
表現に「アンコンシャス・バイヤス」が含まれていないか、
チェックする姿勢が必要だと解釈しています。


北河内人権啓発推進協議会がまとめたパンフレットが、
とてもわかりやすくて良いと思いました。シェアします。
北河内人権啓発推進協議会パンフレット


その人の意識は言葉に現れます。
また言葉を変えると意識が変わります。
無意識の偏見を持たないように、お互いに気をつけたいものですね。


どうぞ素敵な1週間を!

 今日は、最近私の周りで起きた出来事を入り口に、
「聴く」について考えたいと思います。


まずは出来事から。
出来事その1。
最近、私は仕事ではなく13名の方たちにインタビューをしました。
ちょっと個人的な話になってしまい恐縮ですが、
私の両親は、昨年秋頃から川崎市宮前区の老人ホームでお世話になり、
がんで余命宣告を受けていた母は3カ月ほど前に、
ホームで私たちに見守れて他界しました。
母はかれこれ7カ月の間、施設の皆様にお世話になったわけですが、
母のQOLというものをとても大切に考えてくれたことがありがたく、
私らしい形で感謝や敬意を示したくて、
彼らの仕事への思いをインタビュー記事にし冊子にまとめるという提案をしました。
と、同時に、私の職業柄か、この組織に流れる暖かさの本質を
知りたかったというのもありました。


自分はお礼のつもりでも、無理強いではお礼にはなりません。
ですが、タイトルも7案ほど提案し、投票で「なぜ私たちはここにいるのか」に
決まるなど、ある程度、一緒に作る感覚で楽しんでいただけたような気がします。
その入稿がこの週末に終わりました。


さて、こういう現場的な仕事からからはずいぶんと遠ざかっていた私ですが、
振り返ってみると、客観的に見てインタビューは下手だな、と(笑)
でも、その割にはみなさんがずいぶんオープンに話してくれて、
こんな話まで聞いちゃっていいの?という話をたくさん聞かせてもらえました。
もちろん、書いていいこと悪いことは判断して書きましたが。


出来事その2。
先日、私が大変お世話になったある方からご連絡があり、
ランチをご一緒しました。
電話の段階で聞いてほしい話がありそうなニュアンスだったので、
そのつもりで伺いました。
聞けば、本当に大変なことがこの半年の間に起きていて、
どれだけ辛かったか、想像に難くありませんでした。
しかも、軽々に話せる話ではない内容でした。
私が聴くことで、その方の気持ちが軽くなったなら、
私にとってこんなにうれしいことはありません。


さて、この2つの出来事を考察してみたのですが、
おそらく私は、聴くことについて、何かしらの強みがあるのだと思います。
ここから5行は自慢話に聞こえるかもですが、それを強調したいわけではありません。
いや、ちょっとはしたいけど(笑)


なぜ人が話してくれるのか。あらためて分析してみると、、、
・相手の話に興味や意欲を持って聴ける
・その集中を数時間保てる/時間のかかる話も根気よく聴ける
・私自身がどちらかというと自己開示する方なので相手が身構えない
・私の話し方はテンポが遅いので、急かされている感じにならない
まあ、強いて言うと、そんな感じがします。


さてさて、、、聴くことについては、ウン十年も我流でやってきましたが、
4年ほど前に、CTIのリーダーシップ研修でその奥深さを学びました。
聴くときのリーダーのあり方、
な、なんと! リーダーは3種類も使い分ける必要があるのだ、と。
これは私にとって、カルチャーショックでした。
たとえば、人の話を聴くときは、ちゃんと目を見て聞くとかいうレベルではない話。
リーダーの聴き方は、リーダーのあり方であり、リードの仕方と直結している!


聴き方は、レベル1からレベル3まであります。
文字にすると、わかったようでわからない感じだと思いますが、
まずはそのまま紹介します。


レベル1 内的傾聴   Internal Listening
レベル2 集中的傾聴  Focused Listening
レベル3 全方位的傾聴 Global Listening


CTIはリーダーの養成機関でもあると同時に、
コーチの認定機関でもあるので、
これはコーチングをする場合の基礎知識でもあるようです。


違いを見ていくと、、、
レベル1というのは、一見相手の話を聴いているように見えますが、
実際の意識は自分に向いていて、自問自答しているような状態です。
私たちが人の話を聞くときにやっているのは、多くの場合この聞き方です。
これさえやっていない人(忙しいオーラを出しちゃう人とか)もいますけど(笑


レベル2というのは、相手にトータルに関心を払いながら、聴く状態です。
たとえば、表情が曇った、語気を荒げた、声が震えている、力強さがある、など。
それを評価判断するのではなく、単純にそこにアンテナを向けた聞き方をする、
それがレベル2の聴き方です。


では、レベル3は何に意識を向けて聴くのでしょうか。
それは、「場」とか「空気」「雰囲気」です。
どんよりした場、重苦しい場、熱気のある場、希望のある場。
その場の空気を理解しながら、対話するために聴く。


レベル3が優れていて、レベル1が悪いということではなく、
リーダーは意識を使い分ける必要があるということがキモなんですね。


先ほど、「私には聴くことについて何かしらの強みがある」なんて書きましたけど、
これらを知ってからは、うっひょ〜 そりゃひと筋縄ではできないと理解しました。
「傾聴」という言葉が市民権を得たためか、
「またか」って感じを受ける人も多いかと思いますが、
でも、実は奥が深い言葉、甘く見てはいけない言葉だと思います。


今回は、相手に話しやすくし、なおかつ真の理解をするための「聴き方」について
書きましたが、「聴く」の機能には、相手の考えを整理するという面もあります。
これも、どこかで取り上げたいテーマです。


ありゃー ずいぶん長くなってしまいました。
8月も残るは10日少々。。。今週も素敵な1週間でありますように!

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右脳左脳に始まって、多くの人は「脳」の神秘に対し関心を寄せています。
かくいう私も「脳」ネタは大好き!
今日の話題は、直接的に「脳」の話題ではありませんが、
ビジネス現場での思考のジャンプには、右脳的アプローチが必要で、
それにはどうしたらいいのだろう?という話題です。


問題解決や企画立案をする際に、一般的に重んじられているのは、
分析思考や論理的思考です。
でも、アウトプットするには、想像力やクリエイティビティが不可欠ですよね。
ところが、ビジネスの世界には左脳偏重の空気が流れているのではないでしょうか。
何といっても、左脳的な発言はアタマが良さそうに見えますから(笑
というわけで、右脳的思考の地位が、イマイチ低いのではないか、
もう少しその地位を上げよう、というのが今回の最初の問題提起です。


さて、ビジネスで求められる良いアウトプットとは何でしょうか。
私はこう考えます。
手に入れたインプットを、新しい視点から眺め、創造的にジャンプした具体策にすること。
インプットの一般的な捉え方は、例えば現状、事象、問題、データなど。
アウトプットというのは、何らかの「策」です。


で、一般論として、仕事で起きる問題は、
アウトプットはしていても、いまひとつジャンプ度が足りないということです。
原因は一概には言えませんが、私が注目するのは、次の2点です。


【1】情緒的・感情的なインプットが足りない/ない(必要ないと思われている?)
【2】抽象的なレベルでの思考の拡散が足りない


【1】が起きるのは、問題を事象レベルでしか見ないことが
当然化してしまっているからだと思います。
その対策として、私たちグラスルーツは「感情マッピング」という方法を
セミナーを通じてお伝えしています。


今日考えたいのは、【2】点目についてです。
これは、どういうことかというと、、、
良いアウトプットが、「手に入れたインプットを、新しい視点から眺め、
創造的にジャンプした具体策にすること」であるとすると、
新しい視点とは新しい意味を見出すことでもあります。
ところが、「意味」というのは大抵の場合、とても抽象的で、
同じものを見ても、感じる意味は人それぞれです。


私たち人同士は抽象的なものを取り扱うことを得意としません。
なぜなら見えないものだからです。
希望、夢、絆、共感、満足、高品質、価値、、、、
いずれも目に見えないもの、形のないものです。
だから、会話することがとても難しいわけですね。
それぞれの抽象概念に名付けられた名前(単語)を、
会話する相手がどういう意味で捉えているかさえ、実は分かっているようで分かっていません。
例えば、「希望」という言葉に対して、人が抱くイメージは、
人それぞれですし、その言葉との距離感も人それぞれです。


抽象概念を取り扱うのが苦手な私たちですが、
最近、それを克服するのに良さそうなツールに出会いました。
イスラエルの「Points of you®」のファウンダー、
ヤーロン(Yaron Golan)と エフラット(Efrat Shani)が開発した
写真と言葉を使ったカード型のツールです。
創造力や発想力に刺激を与え、
新しい視点を見出すことを促進させることのできるツールだと言えます。
カードの使い方は自由で、教育シーンなどでも使われていますし
ビジネスでは、Google、IKEA、Intelなどでも導入されているのだとか。


写真や絵を使ってイマジネーションを開発するという方法自体は
教育現場などでも取り入れられていて、それ自体は珍しいわけではありませんが、
このツール、豊富な写真は見ているだけでも楽しいですし、
思考の拡散と収束がしやすく、本音を言う場を設計しやすいのが特長です。


では、なぜこのツールが、抽象的なレベルでの思考の拡散に有効なのでしょうか。


普段私たちは、自分が感じていることを話す場合は、考えをまとめながら、言葉ありきで話します。
そうすると漠然としたことや直感的なことではなく、
どうしても意見らしいことやもっともらしい考えを話す必要があるような気分に陥ります。
つまり、この時点で拡散とは逆方向に向かっています。


ところが、自分が感じていることを言葉にする前に、
例えば写真カードを選ぶことから始めたとします。
そして、なぜこのカードを選んだのかを後から説明する。
すると、情緒的・感情的なことがとても言いやすくなります。
また、写っているものを観察することで、
何かのサインを感じ取ったり、インスパイアされたりもします。


こうしたことが起きるのは、
きっとこのツールが抽象概念を「モノ化」しているからだと思います。


形あるもの、目に見えるものがあると、
・お互いが感じていることを伝えやすくなる
・イメージを共有しやすくなる
・画面の外やこの瞬間の前後にまで、想像をしやすくなる
という作用が生まれます。
きっと、目に見えるものが拠り所となるのでしょうね。


ビジネスシーンでどう活用できるのか、
研究してみたいと思います。


暑い日が続いていますが、どうぞ素敵な1週間を!

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「でしゃばり」という言葉があります。
そのイメージは一般的に悪いですよね。
今日は、「でしゃばり」という言葉を糸口に、
時には「でしゃばり」も必要ではないかということを考えてみようと思います。


「でしゃばる」をWeblio辞書で引くと、
【関係のないことや、求められてもいないことに、
口を出したり、手を出したりする】と出てきます。


でも、これって本当に悪いことなのでしょうか?
別にこれ自体は悪いことではないのではないか...と私は思います。
というのは、この反対の考え方は、「私は私、あなたはあなた」だと思いますが、
こうした世界はとても閉鎖的ですよね。
オープンマインドとは反対の世界です。


「でしゃばる」という言葉の意味が、
【関係のないことや、求められてもいないことに、
口を出したり、手を出したりする】であるとすると、
「でしゃばる」ことは必ずしも悪いことではないのに、
では、なぜこの言葉には良いイメージがないのでしょうか。


その理由を考えてみたところ、推測ですが、その答えがわかりました。


「でしゃばり」の同義語を調べてみました。
どうやらこんな言葉ともイメージ的に繋がっているようです。


・目立ちたがり屋の
・オレがオレがの
・出たがり屋の
・自己顕示欲の強い
・自分大好きの
・エゴイスティックな
・自意識過剰の
・押し付けがましい...


だとしたら、「でしゃばる」「でしゃばり」のイメージは悪くて当然です。


でも、私は、【関係のないことや、求められてもいないことに、
口を出したり、手を出したりする】ことは、
悪いどころか、必要なことではないかと思っています。
なぜなら、人と人の意見が交わるからこそ、
そこから新しい見方が生まれたり、
新たな糸口を生み出せたりすると思うからです。


当社でも、提案する際には、
求められてもいないことを加えますし、
求められたことに答えつつも、
むしろ本質はこっちではないかと提示したり、
そういう「でしゃばり」をやっています。


私自身も頼まれてもいないのに、
友だちにや家族に意見を述べます。
その結果、ありがとうと言われることもあれば、
スルーされることもあります。
残念なことに人間関係が悪くなってしまった相手もいます。


頼まれてもいなくても、意見を言う理由は
大きく分けて3つあります。
1つ目は、心で思ったことや、
こっちの方がベターだと思っていることを隠すことは、
不誠実だと思うからです。
2つ目は、そもそも相手に選択権があるのだから、
選択肢を増えることが嫌な人はいないと信じるからです。
3つ目は、物事を新しい方向に変えるためには、
誰もが思ったことを言えることがとても重要だからです。


どれも同じように重要ですが、3番目は、
オープンマインドでいるということが創造的な社会につながる
...と言う視点です。
オープンマインドの本質は心が自由でとらわれていないこと。
創造性を活性化するための環境を担保するということです。
そこに立つということは、イノベーションの玄関口に立つようなものですよね。


さて、、、


それでもやっぱり「でしゃばり」には悪いイメージがあります。
「でしゃばり」の反対の概念は、「謙虚」「控え目」でしょうか。
謙虚であることは美徳ですし、だから私たちは、
「アイツ、出過ぎている」と周りから言われないように、
自己制限的に行動してしまったりします。


本当は、謙虚に、自己顕示せず、
押し付けがましくなく意見を言うことはできるはずなのに。


さて、あなたはこの「でしゃばり論」、どう思いますか?
今週も素敵な1週間でありますように!

 

ブログを書いている人

小野真由美

グラスルーツの代表。組織をただの集団ではなく、チームにするための組織内コミュニケーションはどうあるべきだろう?…なんていうことを、いつもツラツラ考えています。ブランディングやコミュニケーション、チームやリーダシップ系の話題が7〜8割、その他の話題が2〜3割。そんなブログを目指します。ぜひおつきあいください。

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