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『大切にしたい姿勢』カテゴリの記事

 

今週の水曜日まで表参道のギャラリー「Concept21」で、個展を開いています。
テーマは「自由であるということ」。言葉とデニムのコラージュ作品です。
そこで、今日は自由と個人、自由と組織について少し考えたいと思います。

あなたにとって自由とは何ですか?
自由と聞いて、どんなことを思い浮かべますか?
好きなように、奔放に、振る舞うイメージですか?

デジタル大辞泉によると、こんなふうに出てきます。
1.自分の意のままに振る舞うことができること。または、そのさま。
2.勝手気儘なこと。わがまま。
3.哲学で、消極的には他から強制・拘束・妨害などを受けないことをいい、
 積極的には自主的、主体的に自己自身の本性に従うことをいう。

今回の個展での私の捉え方とは少し違いますが、
一般的にはそういうことなのでしょう。

英語の「freedom」「liberty」の訳はどちらも「自由」ですが、
実はどちらも、元々は高貴な階層が特権を有している状態をさしていたそうです。
福沢諭吉が「自由」という語を訳書に用いたあたりから、
言葉として定着したというのが通説です。


また「自由」は仏教用語でもあるようです。
「自らをよりどころとし、他のものをよりどころとせずにあれ」
という教えに基づくもので、
「自由」=「自らに由(よ)る」「自らを由(よし:根拠)とする」です。


私の考えた自由は、仏教からくる概念に近いかもしれません。
自分らしく、ありたいままにあること、
他人からどう思われるかを気にして自己制限をかけることがない心持ち
...と捉えました。
その反対は、心が抑圧されている状態です。
自由も不自由も自分の心が生み出すものであり、 自律していることなくして、自由は得られない。
そんな解釈に立っています。


実は、このように考えるようになったのには、きっかけがあります。
私は、30代中頃にうつ病的な気分に陥り、カウンセリングを受けたことがあります。
10回も受けないうちに、これを続けても治りそうにないと思い、
結果的には自分で自分を戻しました。
その時の原因にあったのが、こうあらねばならないという意識です。
特に社長らしくあらねばならない、という気持ちが強すぎたのでしょう。
それが周りの期待に応えることだと思い込んでいました。
結果、自分らしさを失い、息苦しくて不自由でした。
その経験を通じて、ふと気付きました。
自由も、不自由も、自分の心が生み出しているのだ、と。


さて、自由と不自由についてこう解釈すると、
実は自由を得るのは簡単ではなく、奥が深いことに気づきます。
人は、自分を拠り所にすることに慣れていません。
子どもは親や先生を拠り所にして育ちます。
就職すれば、上司や先輩を拠り所にして成長します。
私たちは、評価されるためにがんばる...という様式に慣れ切っているので、
自分よりも他人を拠り所にするパターンに陥りやすいのではないでしょうか。
要するに、その方がラク...ということかもしれません。

たとえば、「あなたを雇うから、何をするかは自由に考えて」と言われるよりも、
「あなたの仕事はこれこれで、こういうことを期待する」と
言われた方が、よっぽど気分的にラクではないでしょうか。

これを個人の視点から見るとどうでしょう?
他人の目を気にしない人はいませんが、
他人の目が自分の基準のすべてになってしまい、
自分らしさが失われていくと、心の病にかかります。

組織の視点から見た場合はどうでしょう?
他人の目や人の評価ばかりを気にする組織は、
決して自らに由る力が強いはずはありません。
自分らしくありたいようにあることが許され、
自律することが評価される組織の方が、
組織としては強いように思います。

あなたはどう思いますか?
私は、たった一度の人生だからこそ、
自由に在りたいという思いを強くする今日この頃です。
今週も素敵な1週間をお過ごしください。

当社がたとえば30年後、どうなっていてほしいのか、
最近、考える機会が増えました。
と同時に、こんな小さな会社がなぜ30数年以上も続いて来たのか、分析してみたり。

で、改めて今日まで存続できた理由を考えてみると、
その一つに「損得は二の次」という考え方があったからではないかと考えています。
いえ、ビジネスですから、損得はどこかで考えますが、
判断基準の上の方にそれがあったかというと、なかったと思うのですね。
判断基準の上にあるのは、あくまで経営としての、人としての、
「理想」とか「美意識」でした。

で、その理想の中心にあった一つの姿が、
オープンに自然体で意見を言い合い、
リスペクトし合う対等な関係の中で仕事をするというものでした。
社内はもちろんですが、お客様やパートナーともです。
そこに損得勘定はありません。それはポリシーでした。

社内で言うなら、ミーティングの場はもちろんですが、
新入社員でも社長の私に意見を言えるように。
もちろん、理想にしていることが必ずできていたかといえば別問題。
素直に聞けず、それが原因で軋轢が生まれたこともありました。
で、どうするかといえば、謝るわけです。
なぜなら自分の非を認めず謝らない社長はカッコ悪いから。
それが、私の「美意識」でした。

で、「意見を言いやすくする」「意見が言えない会社に未来はない」と
という考え方は、実はどの会社の存続にとっても大切だと思います。

ところが、、、、
最近の社会の風潮としては、意見を言わない人が増えていると聞きます。
これについては、阿部が9/9付のメルマガ
「その場、『言う場』?『言わない場』?」でもエピソードを挙げていますが、
いかにもありそうなことだと感じ、だからこそよけい憂うべき日本を感じます。

いったい日本はいつからそうなったのか、
「言わない」「発言しない」の根底に、いったいどんな気持ちや価値観があるのか、
想像してみました。
で、そうなってきたその原因について、3つの仮説を考えてみました。

【意見を言わない理由1】根底にある価値観に「損得」があるのではないか?
発言して、人から「会議を引っ掻き回した」と文句を言われる、
発言して、人からその発言は「的を射てない」「おかしい」とバカにされる、
発言して、人から「お前の発言で会議が長引いた」と文句を言われる、
発言して、想定外の面倒な役目が回って来てしまった。。。
多分、そんな原体験があると、そんな損をしてまで発言するのはバカらしい、
そう思うようになるのかもしれません。
いえ、そんな体験がある人自体は少ないのだけれど、
他人のそういうシーンを目の当たりに見ると、
ああいう立場にはなりたくないと思うのでしょうか。

【意見を言わない理由2】根底にある行動基準に「空気読む」があるのではないか?
今の日本の、空気を読めという空気、私はちょっと異常だと感じているのですが、
仮に周りの誰かから「空気読めよ」と言われたら、普通は萎縮しますよね。
自分が言われていなくても、言われている人を目の当たりにしたら、
同じ目に遭いたくないと思うことでしょう。
直接「空気を読め」と言われていなくても、
「意見を言うな」「否定をするな」というオーラを出す人がいたら、
オーラだけでも行動が変わってしまうかもしれません。
この場合、オーラを出す人と、オーラで忖度する人、
いったいどちらがどう変わると、組織は良くなるのでしょうか?

【意見を言わない理由3】考える習慣がなく、自分の意見が不明瞭なのではないか?
最近聞いた学校教育の話では、
「考える」プロセスなどまったく重んじられていないようです。
考える習慣がないことを学校教育のせいにしていいかどうかはわかりませんが、
実際社会人の中にも「考える」ことに慣れていない人、
考えることを途中でやめてしまう人はとても多いと思います。
学校でも社会でも考えることを要求されない、あるいは
考えることに意味が生まれない環境で暮らしてしまうと、当然そうなりますよね。

もしかしたら、私が思いもつかない第4、第5の理由もあるかもしれません。
でも、この3つに限って言うと、私は原因は一つではなく、
どれも相互に少なからず関係しているのではないか、と思います。
とはいえ、その中でも一番の根っこにあるのは、「損得」なのではないでしょうか。
損得から発言しなくなる。空気を読むのも、損得が判断基準になっているから。
損得から発言しないことを是としたら、考える必要もなくなるから、当然考えない。

でも、損をしないために発言しないという考え方には落とし穴があります
なぜなら、それをやり続けると自分の価値、存在意義を発揮できません。
というのも、多くの人は発言しないわけですから、
同じようにしていたら存在価値を発揮できないわけです。
価値が発揮できないと、精神的にはやりがいが得られない、
経済的には稼げないなどの影響を受けます。
それだけでも十分に損害を受けるわけですが、それだけではありません。
最近では、ロボットに仕事を奪われる可能性さえ出て来ました。
自分を守って損しないように行動してきたつもりが、
結局は経済的にもやりがい的にも損を生み出す。
だから、損しないために発言しないはナンセンスだと思います。

さて、、どんな会社にも文化があり、発言しにくいこともきっとあることでしょう。
でも、あなたの意見が風穴を開けるかもしれません。
意見を言える世界とは、正解が1つという世界とは違います。
意見を言える会社、意見を言う個人。それ自体に意味がある。
そういう存在が増えると、日本は変わっていけると思うのですが。。。
意見を言うことについて、あなたはどう感じ、どう行動していますか?

どうぞ素敵な1週間を!

PS)あ、そうそう、最後に個人的な活動の宣伝をさせてください。
「DENIM AGE(デニムエイジ)~自由であるということ」というテーマで
個展を開きます。ご興味があり、お時間が許せばお運びください。
期間:10/11木~10/17水(11時~19時。最終日は15時まで)
場所:ギャラリー「Concept 21」(表参道徒歩5分)
〒107-0061 東京都港区北青山3-15-16
Tel.&Fax.03-3406-0466(画廊)

180305_inochi.jpg

先週21日、俳優の大杉漣さんが66歳で亡くなりました。
あまりに若くして亡くなられたことが残念でなりません。
だからというわけではありませんが、
今日のメルマガは、命の話です。
いったい私たちにとって命とは何なのでしょう?


ここに書くことは、私自身への自問でもあります。
よろしければ、お付き合いください。


私たちは、いったい何のためにこの世に生まれてきたのでしょう?
あの世に行く直前、
「おまえ、よく生き切ったよ」と自分が自分に言えるためには、
どうあったら良いのでしょう?


命について、私はこんなイメージがあります。
 命はエネルギーそのもので、
 人は皆、同じ量のエネルギーを与えられて生まれてくるのではないか。
 でも、上手に使わないと不完全燃焼となり、
 エネルギーを使い切ることができない。
 だから、若くして亡くなってしまう人がいるのはもちろん残念なのだけれど、
 命は短くても、命を使い切った人はきっと幸せに違いない。


それでも、残された人にとって、
身近な人を失うことほど、辛いことはありません。
私にも、そんな経験があります。
けれど、その辛さというのはやがて昇華され、
彼らが教えてくれたこと、残してくれたことを、
味わえるようになります。
それはまるで余熱を味わうかのような感覚で、
彼らが放出したエネルギーがそこに残っているとさえ感じられます。


何年か前に参加したある合宿研修で「人生の目的」について
問われたことがあります。
何のために生きるのか、という問いに対して、
自分なりの答えを持てということなのでしょう。
それまで私は、そんなことを考えたこともありませんでした。


で、ぶっちゃけ悩みました...笑
まず、何か立派なことを掲げないといけないような、
そんな気持ちに陥りました。
でも、そこで問われた「人生の目的」とは、
きっとそういうことではなかったのだと今は思います。
ちょっと意訳すると、
「あなたは、どんな心の声に従って生きると幸せか?」
ということでしょう。
さらに少し付け加えるなら、自分一人での幸せと、
自分以外の他者とどういう関わりであったら幸せなのかの二軸で
自分の幸せを考える...そんなことなのだろうと思います。


例えば、、、、
それについて、私が今、感じていることを書くとすれば、
きっと私は冒険心や好奇心の赴くままに生き、
そこから得たことや感じたことを人と分かち合うこと。
私の場合は、そんな合わせ技でしょうか。
前回のメルマガで阿部が書いていた羽生結弦選手は、
自分ができると信じたこと、しかもやったことのないことに
チャレンジすることが彼の幸福であるように見えますし、
同じフィギュアスケートの選手でも、宇野昌磨選手は、
自分が思い描いた通りの世界を表現することに喜びがあるように見えます。
自分の幸福の追求なくして、命を使い切ることはできないのかもしれません。


さて、命について考えさせられる有名な絵本の一つに
「葉っぱのフレディ」があります。
タイトルの通り、主人公フレディは木の葉っぱです。
「この木も死ぬの?」と聞くフレディに、親友ダニエルはこう語ります。
「いつかは死ぬさ。でも『いのち』は永遠に生きているのだよ。」


すごく哲学的です。
ダニエルの言葉の意味を、あなたはどう考えますか?
自分の命を、どう使い切りたいですか?
本当は飲みながら話したいところですね笑


どうぞ素敵な1週間をお過ごしください!

年賀状シーズンがやってきました。
メールやメッセンジャーが発達しても、
今のところ年賀状を止めるという話は、
私の周りでは聞きません。
世代的なものもあるかもしれませんが...。

社員や元社員に年賀状を出すとき、
毎回、ふと自問することがあります。
それは、社内結婚した人たちに出すときです。
一般的には二人に1通出すのが普通だと思いますが、
私は一人ひとり別々に出しています。
自問の内容は、うざいと思われちゃうかな...?
銘々に返信しなくてはいけないような
負担な気持ちにさせちゃうかな...?
です。


といっても、それほど深く考えているわけではありません。
ただ、子どもの頃に両親二人の名前で届いた年賀はがきが、
父宛の年賀はがきに分類されているのを見て、
ちょっとした違和感があったこと。
ウチの母は自分一人の名前で(夫婦連名ではなく)
自分の年賀状を出していたことなどの
影響を受けているような気がします。

つまり、深くは考えていないなりに、
私は「個人」というものを尊重したくて、
夫婦であっても別々に年賀状を出してきたのだと思います。

そんなことを考えていたら、
いったい「個人」を尊重するとは、どういうことなのか、
ぐるぐると考え出してしまいました。


英単語の【individual】(個人)は、
もはやそれ以上【divide】(分割する)ことができない
ことに由来するそうです。
平野啓一郎さんの著作「私とは何か」では、
「個人」は分けられるという概念として
「分人」という言葉も出てきていますが、
物理的に分割できないという意味で、
個人はやっぱり最小単位だと思います。

そんな個人は、個人として存在しながら、
いろいろな役割を背負っていますよね。
たとえば、赤ちゃんは「オギャー」と生まれた瞬間は、
純粋な個人として存在できます。
なんの責任も抑圧もなく、
なんと自由な状態であることでしょう。
しかし、やがて親から「お兄ちゃん/お姉ちゃんなんだから...」と言われて、
役割を持たされます。

社長、部長、課長...
父親、母親...
長男、長女...
地域の委員、マンションの理事...
宴会の幹事、介護する役割...
話の聞き役、ムードメーカー...


役割は、モチベーションを生むこともあれば、
抑圧を生むこともあります。
個人の上に乗っけられた役割なのに、
個人が役割に負けてしまうと、
人生の主人公が誰なのか、わからなくなりますよね。
だから、
まず自分自身が個人としての自分を尊重することが大切だと思います。


では、自分自身が個人であることを尊重するとは、
いったいどういうことなのでしょう?

それは、「オギャー」と生まれた瞬間の状態、
つまりそこに存在している自分自身をただそれだけで尊いものと思うこと、
自分の心を自分自身で束縛せず、
命を与えられたことに感謝することなのではないか...。
私は、そんなふうに受け止めています。


なので、最初の問題に立ち返って、
私が元社員の夫婦宛に個々に年賀状を書くのも、
そこに存在してくれていること自体への感謝を示したい、
役割に飲み込まれずに、個人の幸せを追求してほしい、
きっとそのような願いからなんだろうな...。

個人の人生の上に、役割の人生があるのだから、
役割の人生がすべてになってしまってはいけないんだろうな...。
年賀状からそんなことに考えが及びました。

今年もあとわずかです。
素敵な1週間をお過ごしください。

171113_tamcoc.jpg11月の3日から6日間ほど一人でベトナム/ハノイを旅行してきました。
一人旅の面白さを語れるほど、私は一人旅に慣れているわけではありません。
ですが、急にスケジュールが見通せて、行けそうだと思う時、
パッと行くことを決めるので、結局一人で行くしかないことがあります。

で、一人旅だからこそ得られるインプットというのがやっぱりある。
今日は、今回の旅行で得たたくさんのインプットの中から、
一つを拾い上げて紹介しますね。

それは、「フレンドリー」であることについてです。


ハノイは面白い街でしたが、信号もない中、
車とバイクが激しく行き交う道を体を張って横断するのに疲れてしまい、
現地滞在の正味4日のうち、2日は自然を求めて日帰りで遠出をしました。
具体的には、ガイドさん付きの現地ツアーに参加するという形でです。
1日はハロン湾へ、もう1日はホアルー&タムコックへ。
いずれも世界遺産です。


タムコックのツアーは現地ホテルで申し込んだためなのか、日本人の参加は私だけ。
20数名の参加者のほとんどは欧米から来ている人たちでした。
フランス人、カナダ人、オーストラリア人、スウェーデン人、etc.
男女2人組もいれば、男性3人組もいるし、
女性3人組もいれば、夫婦とその友達の3人組もいました。
もちろん一人旅の人たちも。

バスで移動し、古都ホアルー観光や、
ツアーにありがちなお土産屋さんでの休憩、
最後のタムコック観光を通じて、20数名が少しづつ打ち解けあっていくのですが、
その時にフレンドリーな人とそうでない人がいることに気づきます

しかし、一見フレンドリーでないように見える人
(言い換えると自分からは話そうとしない人)も、
話しかけられれば、話すんですよね。
人間観察的にいうと、まずこの感じが面白い。

私自身は一人だったので、心理的な孤立感を恐れていたからでしょうか、
どちらかというと自分から話しかけた方だと思います。
恥ずかしいほどのブロークンな英語で(笑泣)


そんな中、私に最も大きな刺激を与えてくれた人物は、
インドネシア/バリ島から一人で来ていた28歳の女性です。
彼女はいろいろな人にどんどん話しかけていき、
二人だけの世界にドップリ浸かっているように見えたカップルさえ
彼女が話しかけると、楽しそうに会話に参加していました。

敢えて表現を選ばずにいうなら、
日本ではきっとこれを「オバチャン力」というのかもしれません。
相手がどう思うかなんて、彼女は気にせず、
自分が思うままにどんどん話す。。。
でも、美しくチャーミングなバリニーズがこれをやっていると、
「オバチャン」どころか、
「素晴らしくフレンドリーな人」と表現したくなります。
私は、彼女のフレンドリーさに感化され、見習いたいと思いました。


さて、ツアーから戻ってハノイで一人で夕飯を食べていたら、
隣のテーブルの人たちから突然話しかけられました。
マレーシアからの旅行者で、きれいな英語を話す4人家族でした。
一言、二言話した後、言われた一言がショックでした。
「日本人は話したがらないからね...」と。
言葉の裏側で「あなたは違うね」と言われたと感じたので、
「いや、私だって英語で話すのは得意じゃないですよ」と言ったら、
「それは問題じゃないよ」と言い返され、これまた別の意味でガ~ン。

どうやら私は「フレンドリー」な方に分類されている!?
私なんて、あのバリニーズに比べたら、遠く及ばないのに。
とても低い次元で、なのに褒められている。。。
複雑な心境になりました。


彼らと別れてから湧いてきた疑問、
それは、なぜ「日本人は話したがらない」と彼らは思ったのか、です。
ある時、日本人に話しかけたのに、そっけない対応をされたという経験があるのか?
そもそも「話しかけないでくれ」というオーラを日本人が発していると感じるのか?

私の頭をよぎったのは、オリンピックのプレゼンです。
あれだけ「お・も・て・な・し」をアピールしちゃっているのに、
なんかこれヤバクない?と思いました。
「話したがらない日本人」であることは
「おもてなしする日本人」であることと矛盾している。
国際的にはそう映ると思いました。
日本人としては、それとこれは別なんだよと弁明したいけど、
多分、それは通用しない。。。


結局「フレンドリー」の本質って何なのでしょうか?

当社の社員に、やたら外国人に話しかけられやすいY君がいます。
私は、「フレンドリー」についてある仮説を持って、彼に聞きました。
「Y君は、外国人に微笑まれたら、微笑みを返すんじゃない?」と。
彼の答えは「イエス」でした。

私の感覚でのフレンドリーの基本は、
・まず目を合わせることを厭わないこと、
・そして目が合ったなら、微笑みを送ること、
...ではないかなと思っています。
私はベトナムで無意識のうちにそれをやっていたので、
あのマレーシア人の家族にフレンドリーだと思われたのだと思います。


実は、目を合わせたり、微笑みを送るというのは、
社内でも大切なことですよね。
ですが、これ、私も含めて意外にやれていないのではないでしょうか。

で、これを社内から始めようとすると、むしろやりにくい面もあったり(笑
トレーニング的な意味での私のオススメは、
コンビニで買い物をする時に意識を持つことです。

店員さんとちゃんと目を合わせて、目が合ったなら微笑みを送ること。
そして、「ありがとう」とちゃんと言うこと。
店員さんも目を合わせる人が意外に少ないということに気づくかもしれません。
相手が目を合わせてくれないその時に感じる「フレンドリーでない感じ」を
しっかり感じると、「フレンドリー」の意味をより強く感じ取ることができる思います。
私は、これを意識的にやっています。
そして、本当は、名札を見て名前を覚え、「ありがとう、○○さん」と言いたい。
でも、やっぱり気恥ずかしくて、いまだにできていません。
よし、明日こそ、いや今日こそやってみます!

さて、、、
あなたのフレンドリー度は何点ぐらいですか?
私のフレンドリー度を10点満点で表すと、
多分6点ぐらいですね。
あのバリニーズが私の中での10点モデルです。
楽観的な私は、これ、自分の伸びしろだと思うことにします!

11月ももう後半。
どうぞ今週が素敵な1週間でありますように!

ランチを食べながら、隣の席にいた見知らぬ二人が、こんな会話をしていました。
「仕事を頼んでも、彼女はまったく自分で考えようとしない」
「細いことまで指示しないと、やってくれない」
男性と女性の二人の会話、聞き耳を立てていたわけではないのですが、
すみません、耳に入ってきてしまいました。


主体的に考えない人が組織内にいて、
それに対して悩みや不満を言う先輩/上司。
どんな組織にもありがちなことですよね。
そして大抵の場合、不満を述べている先輩/上司は、
自分たちは主体的に考えていると自認しているだけに、
考えないなんてありえない、理解できないと思っています。


さて、あるあるのこのシーン、
私たちは何をどう考えるべきなのでしょうか。
私はこの会話を聞きながら、何か違和感がありました。
なんとなく上から目線な批判に思えたからです。
気になったことをシェアさせてくださいね。


1つ目は、主体的に自分の考えを述べない人がいたからといって、
必ずしも考えを持っていないとは言えないと言うことです。
ただ単に、考えを言いにくい雰囲気だと感じているから、
考えを発しないだけかもしれません。


聞かれてもいないのに、自分の考えを発言できる人と言うのは、
むしろ少数ではないでしょうか。
多くの人は、水を向けられてもなお、
こんなことを言っておかしくないだろうか...と気にしてしまいます。
あるいは、考えをまとめてからでないと、発言すべきではないと
行動をセーブしてしまったりします。


大抵の場合、過去に嫌な体験があるからです。
笑われたとか、
否定されたとか、
無視されたとか。。。


勇気を出して発言したのに、傷つくような体験があると、
おそらく二度と同じ思いをしたくないと思うのが、
普通の感覚なのではないでしょうか。


どんな意見でも歓迎されると言う前提があるのと、ないのとでは、
当然言いやすさも違いますよね。
言いやすい雰囲気や安心安全の場を作ることは、
リーダーやファシリテーターの重要な役割だと思います。
これが、簡単ではないのですが。


もう1つ気になったことというのは、、、、
筋道立てて考えたり、物事の本質を理解しながら考えるというのは、
実はとても高度で難しいことです。
ですから、これをスラスラできる人というのも、実はとても少数だと思います。
できている風に振る舞う人は大勢いますが、
そういう人に限って、物事の奥深さを甘く見ていたり、
謙虚に考えることをしていないように見えます。
私も、考えることが仕事ですが、
この「考える」行為は、何年やっていても侮れないと感じます。


ということは、逆にいうと、
ただ単に「考えろ」という上司では部下は困ると思うのです。
ただ考えろというだけなら、これほど簡単なことはありませんからね。


で、実際、上司にとって、考えることを部下に教えるのはとても難しい。
教えるスキルを学ぶ機会もあまりありません。
さらにいうと、自分自身が常日頃どのようなプロセスで考えて、
どのように物事を進めているかさえ、上司は整理できていないと思います。
暗黙知だからです。
だから「彼女はまったく自分で考えようとしない」と
批判するだけの上司にはなりたくないなと思いました。


ロジカルシンキングなどのようなコンサル系アプローチとは違う方法で、
考えるコツや考えることを教える方法があるといいですよね。
私のライフワークにしようかな〜笑 ←ちょっと本気。

先日、会社のビルの1階にあるコンビニでコーヒーを買って、
フタをしようとしていたら、フタがなかなか閉まらず、
ちょっとあたふたとしていたんです。
そうしたら、同じくコーヒーを待っていた40前後の女性が、
親切にも「閉まりません? ちょっとやってみましょうか?」と言って、
私のカップのフタを閉めてくれました。
閉まらなかった理由は、おそらくキャップが不良品で、
サイズが微妙に小さかったから。
彼女は「あれ、おかしいな」と言って、そのフタを諦め、
別のフタに取り替えて、そうしたらうまくフタが閉まりました。
その間のやりとり、約1分半でしょうか。


私は、最初はあらら、こんなことで手を煩わせてしまって
申し訳ないなと思いましたが、
フタが閉まった瞬間、とっても幸せな気持ちになりました。
と同時に、なぜ彼女は手を差し伸べてくれたのだろうと不思議に思いました。


実は、そのちょっと前に、社内のある人との間でこんな話が出ました。
おせっかいはしない方がいいと思いがちだけれど、
それはもしかしたら間違いかもしれない、
おせっかいかもしれないと思っても、オノさんは、
手助けをしたくなる雰囲気を持っていますよね、というような話だったか、
あるいは、おせっかいという気持ちを抱かせない、というようなことだったかな?
詳細は忘れてしまいました。。。何しろ褒められたみたい〜♪


もし、このコーヒーの例のように、
見ず知らずの人が私を助けたく思ってくれるなら、
これは私のスゴい才能なのかもしれません(笑)
見ず知らずの人は別として、いろいろな人に助けられているという自覚はあります。
でも、なぜ助けてくれるのかはわかりません。
助けてもらうコツは?と聞かれても答えられません。


それでも、もしかしたら関係あるかもしれないと思うことが1つだけあります。
それは、言いにくいことも言いやすい人でいたい、
オープンな心でいたい、そうずっと願ってきたことです。
これは多分、10代か20代か、そのくらい昔から願っていました。


本能的に、直感的に、人が躊躇しないで発言できることが、
自分にとっても、他の人にとって大切だと感じていたのだと思います。
ありのまま、思ったままを発言できること、
自分自身がそうでいられない状況は窮屈だと感じるので、
だからこそ、まず自分は「言いやすい人」でいたいと思ったのでしょうね。
で、私自身が今、どこまでそれを体現できているかどうかとか、
言いやすいことと人が助けてくれることに因果関係があるかどうかはともかく、
言いやすい人/言いやすい関係が増えることは社会にとって良いこと、
これはまんざら間違っていないと思います。


では、いったい「言いやすい人」とはどんな人でしょうか?
「言いやすい人」は「波風立てない、いい人」でしょうか?
「言われたことにそのまま応える人」でしょうか?
そうではないことは、なんとなくわかりますよね。


で、「言いやすい人とは?」のその答えは、
相手の発言自体(言われたこと)をどう位置づけるかで、変わってきますよね。


言われたことを、指摘である、文句である、リクエストである、
期待に応えるべきことである、相談である、受け流せば良いことである、
コミュニケーションの入り口の情報である...。
このように言われたことをどう位置づけるかで、
受け止める時の自分の感情自体が随分変わりますよね。
相手の言葉を文句と位置づけたら、単純に反発したくなりますし(笑


私自身は、言われたことを
・コミュニケーションを深めるための入り口にある情報
・相手が寄り添ってほしいと思っている感情
こんなふうに受け止めるようになり、それによって、
ニュートラルに受け止めることができるようになりました。
(もちろん人間ですから未だに不完全ですが、、、苦笑)


防衛的でなく聞く。
攻撃的でなく言う。
これだけで、社会はもっと快適になると思うんですよね。


そのような考えから、当社では先週から勉強の場として
「育自プロジェクト」を展開中です。
これは、まさに「防衛的でなく聞く」「攻撃的でなく言う」の実践。
社会がそうなってほしいので、まずは自分たちからそうありたいと思います。


そして、私たちは仙人ではないので、実はそんなに簡単にはできません。
それでも、やってみて、軌道修正し...それを組織として繰り返していくことが
とても大切だと思います。


ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。
素敵な1週間をお過ごしください!

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最近、私の周りでよく話題に上るのが、苦手なこととどう付き合うか、です。


苦手なことを克服しようとがんばるよりも、
得意なことを伸ばす方がいい、とか
好きなことだけすることに罪悪感を抱く必要はないとか、
がまんして嫌いなことをするよりも、
嫌いなことはやらないと決める方が幸せになれるなど、
自分の活かし方や才能の伸ばし方に関する
ひとつの示唆に富んだ考え方だと思います。


でも、「苦手なことより好きなこと」というのを
「好きなことをすることが幸せ」と短絡的に捉えてしまって、
好きなことがみつからない、
自分のやりたいことがなくて焦る...と悩む人も見かけます。


確かに好きなことだけして食べていけるなら、
いいなあと思いますよね。
もちろん何もかもうまく行くなんてことはありえませんから、
好きなことを始めたものの、経済的には苦しく、
そうこうするうちに、結局立ち行かなくなった...などということも
起きたりします。
それでも、やっぱり一度だけの人生なんだから、
やりたいことや好きなことがあるなら、
やってみる方がいいですよね。


でも、こうも思います。
幸せってそういうことだけではないんじゃないかな、と。
何をしていても、幸せを感じられる人は感じていますから。


さて、、、、
苦手なことを巡っては、こんな考え方もありますね。
苦手意識は単なる思い込みであって、
それを取っ払ってしまうことで、自分の可能性が大きく広がる。
これはこれで、共感できます。


親や先生からこんなことを言われた体験はありませんか?
「歌は上手だけど楽器が下手だね」
「応用問題が苦手だね」
「積極性が足りない」
「絵を描く時に神経質になりすぎる」
こんな経験があると、それをそのまま受け取って大人になってしまい、
未だにそんな自分像を抱いているという話はよくあります。
だからこそ、刷り込まれた決めつけに振り回されず、
自分を白紙で眺めると、新しい可能性が広がるということなのでしょうね。


でも、白紙にするという発想がないままに、
ただ苦手なことを克服しようとすると、
苦しいだけになります。


では、最初の「苦手なことをがんばるよりも、得意なことをする」という考え方と、
「苦手だという思い込みを手放すと可能性が広がる」という考え方、
これらは相反することなのでしょうか。

私はいずれも「自分を大切にする」ということであって、
どちらか一方が正しいというものではないと思っています。


苦手なことは克服しなければならない...
好きなことだけして生きるなど許されない...
自分は〜が苦手だし、できるわけがない...


これらはいずれも自分で自分を制限してしまっていて、
自分で自分を認めていない考え方だと思います。
自己制限をせず、自分を大切にする。
結局、そういうことが自分を生かすことにつながるのかもしれませんね。
私は、自分自身がそう自分を取り扱いたいですし、
当社のスタッフに対してもそういう目線で接したいなと思います。


ここまで読んでくださってありがとうございました。
どうぞ素敵な1週間を!

今日は、私のモヤモヤにお付き合いください。
最後まで読んでいただいても、なるほどと思っていただけるようなことは、
おそらく何もありません。
でも、このテーマ、もしかしたら今流行りの AIなどとも関係しているような気がします。
私の問いを大上段に書くとするなら、
個人が無意識に行っている思考のプロセスをどうやったら普遍的なもの、
体系的なものに変換し、他の人たちと共有できるか、です。


きっかけは、先週、私の友だちが、facebookに書いたこんな投稿でした。


「431円の買いもので、硬貨を13枚使いました。
1円玉、10円玉、50円玉、100円玉、それぞれ何個づつ使ったでしょう。」
だんだん教えるの難しくなってきた...。


問題の出所は、ベネッセのオプション教材「考える力・プラス講座1〜3年生」だそうです。
これを読んだ時、最初に思ったことは、「あ、ここにヒントがありそう!」でした。
何のヒントかといえば、暗黙知のプロセス伝承の本質です。


これを書いているきっかけはそんな出来事でしたが、
このテーマを考えている背景には私の仕事があります。
具体的には、私が部下に伝えたい(教えたい?)ことが100あるとして、
それらがルーティン的なものではない場合、
言い換えれば、一見するとケースbyケースで対応しているような事柄の場合、
私が「それはケースbyケースだから...」と言っている限り
人に教えることができない、という事実です。


メソッドとして浸透させるには、
考え方の原理原則を伝える必要があります。
ティップスを教わっても、人は応用できませんからね。
ということは、原理原則を導き出す必要があるってことです。


例えば、当社の無料メール講座で伝えていること、
これはコンテンツ企画のメソッドです。
そもそもどうして誕生したかというと、
コンテンツの企画というわかりにくい業務を社員に教える必要があるのに、
これがなかなか難しい。
殴り書きの企画書を提出用に作成してもらうという
超原始的かつ体育会系的な教え方から始まって、
拙い言語でわかったような、わからないような教え方を経て、
「体系を作る」を目標に掲げて、今のロビンフッド発信術は生まれています。


これはこれで、とても良いメソッドとして確立できていると思います。
でも、、、、
このアプローチだと、小さな業務単位で、すべてをこのレベルに落とし込まないといけない
という話になり、
とてもではありませんが、あらゆる業務の伝承をしようとしたら、
途方もない数のケースに対応する必要があることになります。


と言うのは、当社へのご相談は、案件ごとにかなり多岐にわたっています。
ですから、ノウハウの伝承という観点で言うと、大項目ベースでさえ、
・ヒアリングをする
・提案書を作る
・見積もりをする
・体制を作る
・会議を設計する
・実際に成果物を作る、etc.
などがあって、これを業務に応じて細分化するとなると、
普通の発想ではかなり複雑な結果になりそうです。
ま、そこを厭うようではダメという考えもありますが。。。

で、最初の「431円の買いもので、硬貨を13枚使う」という問題に戻って。。。。


この問いのような問いは現実世界では、ほぼ起きませんよね。
「431円の買いもので、硬貨を13枚使ったが、どのコインと使ったか?」なんて
考えることはまず必要ありません。
ですが、仕事ではこういう発想が必要なことは多々ありますよね。
例えば、あるものを作ろうとして/改善しようとして、
そのためには、この条件を満たさなければならない、
どうすればいいか、こんなケースです。


私は、人に伝えるためには何が必要なのかを考えるために、
まずはこの問題をやってみました。


最初にやったこと。
適当に置いてみることでした。
100*4=400
10*2=20
1*11=11
結果、コインは17枚になりました。


そこで、あと4枚減らすために、10円コインと1円コインの配分を変えてみました。
100*4=400
10*3=30
1*1=1
結果、8枚になって減りすぎです。


で、今度はあと5枚増やすには?という発想で、100円コインを50円にブレーク。
50*8=400
10*2=20
5*2=10
1*1=1
これで、13枚達成です!

※実際の問題では5円は使ってはいけないそうなので、実はこれは正解ではありません(涙


しかし、、、、
このままで原理と言えるものがありません。
強いて言えば、「分解しながらいろいろ試す」。
それ以上でも、以下でもない。


で、ベネッセの解説では、、、?
特に「なるほど!」っていう教え方はなくて、
一番少ない硬貨で払うとしたら?を考えて、
置き換えて、置き換えて13枚になるまで試すらしい。


この例題をうちのスタッフに話したら、
実際、最初の段階でするのは最も少ないコインで431円を作る
という意見が多かったです。
私は13枚に向かって適当に置いてみましたが、
最も少ないところから始めるというのは、
わかりやすいアプローチですね。


さて、、、
これはコインの組み合わせを考えるというお題ですが、
これを普遍的な問題への回答になるようにするにはどうしたらいいか、
今、私は答えを持ち合わせていません。


ただ一つ言えるのは、やっぱり「分解」が大事だなということ。
そして、今回「431円の買いもので、硬貨を13枚」を試したように
結局無意識的な行動を分解してみるしかないのかもしれませんね。
なぜそう判断したのかという理由とともに。
あー 途方に暮れる(笑
分解の話は、今月7月3日のブログも読んでみてくださいね。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました!

先週の金曜日、RCI(関係性開発協会)のワークショップ
「関係性の智慧に目覚める」に行ってきました。
それはRCI解散前の最後のイベントでした。
残業しないと土曜日に仕事をしなければならない、、、、
そう葛藤しながらも、参加を決断したのは、
CRR JapanのCLOである森川有理氏の登壇だったからです。
ゆりさんという呼び名で呼ばれている森川さんは、
システムコーチングの大御所。
過去4度ほど接点があり、以前から大ファンでしたので、
結果、土曜日に仕事をすることになりましたが、
行って良かったと思いました。


今回参加してみて、たくさんの学びや気づきがあったのですが、
今日、ここに書きたいのは「聞いている」「見ている」ことを示すことが、
お互いの関係にとって、とても重要だということです。
よく「リーダーは褒めよ」と言われますよね。
でも、私は、どうしても「褒めよ」という語感には上から目線を感じ、
部下をコントロールしようとしているかのような違和感があって、
しっくり来ませんでした。でも、
「あなたの話を聞いている」
「あなたのことを見ている」はしっくりきます。


ゆりさんは、まず成果を上げるチームの要素として、
ダニエル・キム氏が挙げた4要素を紹介。
三角形を上から4層に分け、
上から「成果」「行動」「思考」「関係性」とし、
上の2つは目に見えるけれど、下の2つは目に見えない。
「関係性」が「思考」に影響を与え、
「思考」が「行動」に影響を与えると語りました。


では、「感情」はどこに位置付けられるのでしょう?
その疑問を質問という形で私はその場に出しました。
すると「関係性」が「感情」をつくり、
「感情」が「思考」に影響する...、
そんな構図が見えてきました。


さて、関係性と聞いて、あなたはどんな経験を思い出しますか?


実は、この問いは、ゆりさんがその場でしたものです。
良い体験(光)を思い出す人もいれば、
悪い体験(闇)を思い出す人もいますよね。
その問いかけから、その後、二人ひと組で自分の体験を語り合うという
ワークにつながっていくのですが、
その前にゆりさんはご自分の体験を話しました。
それは光と闇の両方にからんだエピソードでした。
(以下、私の理解が違っていたらごめんなさい...を前提とした話です)


ある時、ゆりさんはアメリカで開かれた会合に参加していました。
コーチングか、システムコーチングか、リーダーシップかを学んだ
そのような人たちの会合だったようです。
世界から集まった人たちの中で、アジェンダもなく、
意見を述べたい人が次から次へと前に出て行き意見を述べる、、、
そんなプログラムだったのだと想像します。
さらに想像ですが、参加者にチャレンジさせる機会という意味もあったのでしょう。
いろんな人が登場しては自分の意見を述べる中、
ゆりさんは勇気を振り絞って、自分も発言しようと出て行ったそうです。

「でも、誰も私の話なんて聞いてくれませんでした」

ゆりさんはそう語りました。
勇気を出して、前に出てみたものの、周囲の反応に体が固まってしまったと。
しかし、そのとき、CRRの創始者の一人、フェイス・フラーがその場にいて、
こう言ってくれたのです。


「I'm listening to you.」


ゆりさんは、大多数の人が聞いてくれなかったとしても、
たった一人の人が「聞いている」と言ってくれたことで、
勇気づけられ、固まっていた体が力で溢れたそうです。
人はその一人がいることがとても重要なんだと気付いたと語りました。


私、これが、めちゃめちゃ刺さりました。
小さな意見でも、若い人の声でも、
「I'm listening to you.」と言える人でありたいなと思いました。
別の言い方をすると、見ている人でありたいなということでもあります。
そして、「リーダーは褒めよ」が嫌いな理由もわかりました。
それは結局、マニュアルチックな発想に感じるからです。
褒めておけばうまくいく、、、、そんな訳ないだろう!と思うからです。
純粋に「すごい!」「素晴らしい!」を言うのはイヤじゃないしね。


「I'm listening to you.」と言える人でありたいのに、
私は、これまで失敗も多々しています。
でも、聞ける人でいること。見守る人でいること。そうありたいと望むこと。
それは、なんか、しっくり来ますね。

あなたはどんな関係を築きたいですか?
花粉が厳しい季節ですが、どうぞ良い1週間を!

 

ブログを書いている人

小野真由美

グラスルーツの代表。組織をただの集団ではなく、チームにするための組織内コミュニケーションはどうあるべきだろう?…なんていうことを、いつもツラツラ考えています。ブランディングやコミュニケーション、チームやリーダシップ系の話題が7〜8割、その他の話題が2〜3割。そんなブログを目指します。ぜひおつきあいください。

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