ブランディング、コミュニケーション、チームワーク…。週1回の社長ブログです

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社長の脳みそ整理mono-log モノログ

あけましておめでとうございます。
年末年始はゆっくりお休みできましたか?


澄み渡った空、東京では富士山も見えた元旦、
私は、車で両親の居る老人ホームへと向かいました。
親子四人で食事するために私の家に連れて帰りたかったからです。


1階のスタッフも、両親の居室のある3階のスタッフも
気持ちよく迎えてくださいました。
で、3階のチーフと一通りの挨拶を交わした後、
彼女が言いました。
「私は夜勤明けなので、そろそろ失礼させていただきます」。


元旦の朝に働いているすべてのスタッフに感謝の気持ちを抱きましたが、
中でも31日の晩から朝まで、入居者をケアしてくれた方たちがいること、
その上に私の生活が成り立っていることを感じ、
つくづくありがたいと思いました。



そうしたら、急に想いがあっちにもこっちにも及び、
私の生活はいろいろな人たちによって、
見えないところで支えられているんだと思えてきました。


電気、ガス、水道、道路、ネットなどのインフラを
昼夜支えてくれている人たち。
今日食べた農作物を丹念に育ててくれた人たち。
今日食べた魚を獲ってくれた漁業に携わる人たちもいれば、
今日食べた肉を肥育してくれた人たちもいます。
それを運ぶ運送業に携わる人たちや
スーパーマーケットで働く人たちにも支えられています。


食生活やインフラだけではありません。
私は最早アップルやアマゾンなしには生きられないし笑、
マンションの管理人の青木さんがいてくれないと困るし、
私の肌に合うスキンケアがなくなったならパニックになるだろうし、
あのカフェのスタッフの笑顔が見られなくなったら寂しいし、
「スターウォーズ」を見られないまま死んでいく人生なんて想像もできません。



つまり、、、、
私の人生は、私が会ったこともない数限りない人たちが居てくれるからこそ、
維持もでき、より豊かなものになっているんですね。
人だけでなく、地球にも感謝しなくてはいけないかもしれません。
...ってことに、なぜか元旦に老人ホームに両親を迎えに行って、思い至りました。



でも、私の生活を支えてくれている人たちは、
私が感謝していることを知りません。
自分の仕事は重要だと思っている人も大勢いると思いますが、
そこに気づいていない人も大勢いると思います。
私が元旦に自分は「支えられてる」と気づいたように、
どんな仕事に携わっている人であっても、
自分が多くの誰かを「支えている」と気づけたらいいのにな、と思いました。
私たちグラスルーツの重要な仕事の一つは
そこに気づいてもらえるようにすることだ思います。


しかも、誰かを支えるというのは、仕事そのものを通じてとは限りませんよね。
おはようの一言掛けが人を支えたり、ただ話を聞くことが助けになったり、
笑顔が誰かを癒したり。


あなたも今、きっと誰かを支え、
その人はきっと「居てくれて、ありがとう」と思っているのではないでしょうか。



あなたが居てくれて、うれしい。
あなたが居ないと、困る。


2018年、誰かから、そんな風に思ってもらえる存在で居られるように
日々の小さなことを大切にしたいですね。
今年もよろしくお願いします!

年賀状シーズンがやってきました。
メールやメッセンジャーが発達しても、
今のところ年賀状を止めるという話は、
私の周りでは聞きません。
世代的なものもあるかもしれませんが...。

社員や元社員に年賀状を出すとき、
毎回、ふと自問することがあります。
それは、社内結婚した人たちに出すときです。
一般的には二人に1通出すのが普通だと思いますが、
私は一人ひとり別々に出しています。
自問の内容は、うざいと思われちゃうかな...?
銘々に返信しなくてはいけないような
負担な気持ちにさせちゃうかな...?
です。


といっても、それほど深く考えているわけではありません。
ただ、子どもの頃に両親二人の名前で届いた年賀はがきが、
父宛の年賀はがきに分類されているのを見て、
ちょっとした違和感があったこと。
ウチの母は自分一人の名前で(夫婦連名ではなく)
自分の年賀状を出していたことなどの
影響を受けているような気がします。

つまり、深くは考えていないなりに、
私は「個人」というものを尊重したくて、
夫婦であっても別々に年賀状を出してきたのだと思います。

そんなことを考えていたら、
いったい「個人」を尊重するとは、どういうことなのか、
ぐるぐると考え出してしまいました。


英単語の【individual】(個人)は、
もはやそれ以上【divide】(分割する)ことができない
ことに由来するそうです。
平野啓一郎さんの著作「私とは何か」では、
「個人」は分けられるという概念として
「分人」という言葉も出てきていますが、
物理的に分割できないという意味で、
個人はやっぱり最小単位だと思います。

そんな個人は、個人として存在しながら、
いろいろな役割を背負っていますよね。
たとえば、赤ちゃんは「オギャー」と生まれた瞬間は、
純粋な個人として存在できます。
なんの責任も抑圧もなく、
なんと自由な状態であることでしょう。
しかし、やがて親から「お兄ちゃん/お姉ちゃんなんだから...」と言われて、
役割を持たされます。

社長、部長、課長...
父親、母親...
長男、長女...
地域の委員、マンションの理事...
宴会の幹事、介護する役割...
話の聞き役、ムードメーカー...


役割は、モチベーションを生むこともあれば、
抑圧を生むこともあります。
個人の上に乗っけられた役割なのに、
個人が役割に負けてしまうと、
人生の主人公が誰なのか、わからなくなりますよね。
だから、
まず自分自身が個人としての自分を尊重することが大切だと思います。


では、自分自身が個人であることを尊重するとは、
いったいどういうことなのでしょう?

それは、「オギャー」と生まれた瞬間の状態、
つまりそこに存在している自分自身をただそれだけで尊いものと思うこと、
自分の心を自分自身で束縛せず、
命を与えられたことに感謝することなのではないか...。
私は、そんなふうに受け止めています。


なので、最初の問題に立ち返って、
私が元社員の夫婦宛に個々に年賀状を書くのも、
そこに存在してくれていること自体への感謝を示したい、
役割に飲み込まれずに、個人の幸せを追求してほしい、
きっとそのような願いからなんだろうな...。

個人の人生の上に、役割の人生があるのだから、
役割の人生がすべてになってしまってはいけないんだろうな...。
年賀状からそんなことに考えが及びました。

今年もあとわずかです。
素敵な1週間をお過ごしください。

171211_nanseiki.jpg年末が近づいてきましたね。
毎回、ブログを書く時に、何について書こうかなぁと思います。
今回もアレにしようか、コレにしようかと思いましたが、
大河ドラマ「女城主直虎」が最終回に近づいているのと、
facebookが、「過去の思い出を振り返ろう」というメッセージとともに、
2014年の12月10日に書いた私の投稿を見せてくれました。
それに刺激を受けて、今日は「〜は〜らしく」という価値観や強迫観念に対し、
アンチの視点で書こうと思います。


大河ドラマ「女城主直虎」は来週12月17日が最終回です。
今年も随分と楽しませてもらいましたが、
脚色はあるにせよ、現代への示唆に富んだドラマでした。
その一つが、「〜は〜らしく」は必要ないというメッセージです。


第4回、主人公である直虎は、南渓和尚に次郎法師と名づけられます。
形こそおなごであれ、あれは次郎。
蝶よ花よと育てるものではない。
...というように、「女だから」とは違う目線で物語が展開されます。
(ま、厳密に言うと、南渓和尚は女なら本来「蝶よ花よ」と育てるべきだろうが...
と思っているようなので、根底では「〜は〜らしく」という気持ちが
あるのだと思います)
で、ドラマとしては、そこから女城主が誕生するわけです。


直虎は「戦(いくさ)のない世にするための戦」に勝つために
行動して行きます。


史実として直虎が女性であったのかどうかを含め、
実際のところはわかりません。
でも、男性と女性とで、大勢としての感覚や発想に違いがあることに
異論がある人は少ないのではないでしょうか。
もっと言えば、男性だったとしても個々に異なり、
女性だったとしてもそれぞれが違う。
最後は、人は個々に違うと言う話になりますが、
やはり母性を負っている女性は血を流し命を落とすこと自体を嫌う傾向が
男性よりも圧倒的に強いと思います。DNA的に。


だからこそ、女性は戦いには向かない、
女性は家の中にいて家を守っていればいい、
そうやって家を守ってきた女性は社会について見識がない...
そんなふうな暗黙の合意が長い歴史の中でできてきてしまったんですよね。


でも20世紀(21世紀?)になって「女性だから」という決めつけ自体が
タブー視されるようになり、現代に至っています。


それでも、、、、
実際には小さい少女がこんな悲しい思いをしています。
それが、冒頭に書いた私の2014年のfacebook投稿です。


私が注目したのは、サッカーをやっているある少女の作文でした。
「女の子がサッカーをやっている」という大人の反応に彼女の心は傷つき、
そして彼女自身が自らそれを乗り越えていく姿に私は感動しました。
読んでいただても1分もかからないので、まずはこちらを見てください。
http://buzzmag.jp/archives/16462


これを読んで、どう感じましたか?


私は、こんなことが起きているなんて信じられない、ではなく、
ああ、やっぱりそうなんだな...と思いました。
まだまだ私たち大人の心の中に、いろんな決めつけや思い込みがあり、
それが社会の進化の妨げになっているんだな、と。


ここは女の子のいるところじゃない、
女の子(なんか)に男の子は負けるな!


これが少女の聞いた大人たちからの叫びだったのではないでしょうか。
しかも、その叫びの理由は試合に出ている自分の子どもが男の子だからです。
母親自身は女性なのに、自分の子どもが男の子だと
女性への視点を失ってしまうという悲しい構図。
とても痛い指摘だと思います。


私には子どもがいませんが、
この作文を書いた女の子の気持ちを想像することはできます。
だから、男の子がいるお母さんも、冷静になればもちろん想像できると思うんです。


「男なんだから女に負けるな」
これは20世紀の発想で、もうこういう時代ではないってことを。


女性が上司にいたとしても普通な時代に、
親が「男なんだから女に負けるな」と思っていたら、
男の子はむしろ傷つきますよね。


で、、、、私が今回書きたいのは、男性女性の話だけではなく、
「〜は〜らしく」という方程式でのその他諸々の思い込みや決めつけについてです。
私も「社長なんだから社長らしくしてくれ」と言われたり、
疲れているから欠席したいと言ったら「友だちなんだから出てよ」と言われたり、
ちょっとしたことでたくさんの困惑を感じてきました。


そして、最終的に出てきた答えは、
人の思惑のせいにするなってことです。
人が「〜なんだから〜らしくしてよ」と自分に期待していたとしても、
自分が快適でないなら、あるいは、やりたくないならやらなければいい。
自分の人生なんだから、それが第一であって当然だと今は思います。
で、これは、自分側の解決方法です。


でも、やっぱりそうは思えない時代があったわけで、
社会の価値観が変わってほしいと願っていたな。
具体的には、みんなが「〜は〜らしく」という方程式を捨てて、
決めつけなしのコミュニケーションが取れたらいいな、と。
私は、多様な価値観にアンテナを張ること、
これからの時代は必須だと思うんですよね。
「〜なんだから〜らしく」と自分が思っていることに気づいたら、
リセットする。そんなふうな素直さを持ち続けていたいものです。


さて、あなたはどう思いますか?
今年もあと半月。
今週も素敵な1週間をお過ごしください!

171204_sontaku.gif

先週金曜日に毎年恒例の流行語大賞が決まりました。
その1つが「忖度(そんたく)」です。
この言葉が広まったきっかけは、
今年3月の籠池泰典氏の発言、
「直接の口利きはなかったが、忖度があったと思う」だそうです。


検索ランキングの上位に上がったように、
一度は辞書検索をした方も多いのではないでしょうか。
私も、このメルマガを書くために、あらためて検索してみました。
デジタル大辞泉によれば、
[名](スル)他人の心をおしはかること。また、おしはかって相手に配慮すること。


つまり、この言葉は本来、悪い意味を持たない言葉でした。
でも、SNSや日常会話でも気軽に使われるようになったのは、
日本的な習慣や発想を揶揄したり、茶化したりしてのことだと思います。


言い換えると、良いも悪いもなかったものが、
忖度の中には、悪い忖度があると多くの人が気づいたとも言えます。
悪い忖度は、自分の心に背いてでも、相手が期待することに応えようとしたり、
相手が期待していることを与えることで、自分に見返りがくることを期待したり。
でも、これは、贈収賄などの不正に限りません。


企業では、自分の上役に対して、こうした気持ちを持つ人が多くなると、
決して健康な状態とは言えないのではないでしょうか。
いわゆる「顔色を伺って行動する」ということですから、
主体性も何もあったものではありません。


さて、、、
私たちの生活、実際にはどうでしょう?
自分も含め、周りの会話に目を向けると、忖度だらけだったりします(笑)
つまり、私たちは、良くも悪くも、
相手の心を推し量り、配慮するということをしていますよね。
そして、良い意味での忖度=心配りをしたつもりが、
実はまったく相手の気持ちを汲み取れていなかった、、、
などということもよく起きます。


たとえば、
・Aさんは、○○の役割を交代してほしいと思っているようだ。
・Aさんは、○○の役割を手伝ってほしいと思っているようだ。


どちらもAさんの気持ちを推し量っていますが、まったく見方が違います。
人の気持ちへの解釈がこんなふうに分かれるという経験、
あなたにもあるのではないでしょうか。
しかも、所詮解釈なのだから、どちらが正しいとも言えないはずなのに、
「いや、そんなはずはない」と主張して、
正しいのは自分だという論戦を繰り広げたり。


本当は、Aさんに聞いてみればいいのだと思いますが、
Aさんがその場にいない場合などは、こんなことが起きがちです。
私も最近あるコミュニティで、そんな場に居合わせました。


おそらく人は、自分の思い込みに基づき相手の気持ちを推し量り、
自分の都合のいいストーリーで相手を解釈する。
知らず識らずのうちに、そういうことをやっているのかもしれません。
もちろん悪気などありません。


せめて自分はどんな心がけがいるのかと自問してみると、
・解釈を正しいとは主張しない。
・想像するよりも直接聞いて言質を取る。
・自分の心に背かない。
そんなところでしょうか。


年末まで1カ月を切りました。
忙しい季節ですが、だからこそ心を亡くしたくないですね。
素敵な1週間をお過ごしください。

今週、11月29日(水)は当社の33周年となる創立記念日です。
改めて当社の強みは何なのかと自問したり、再確認したりしながら、
強みを強みとして維持発展させるには、イヤなことも避けてはいけないな、、、
と、そんな確信にたどり着きました。


どんな会社にも、何かしら強みがあります。
創業者のこだわりが強みとなって受け継がれて行くケースも多いと思います。
では、「受け継がれる」というのは簡単なことなのかというと、
実はとても難しいことですね。
あなたの会社には、どんな強みがありますか?
上手く受け継がれていますか? 今日はそんなことを考えたいと思います。


当社を例に挙げると、、、
強みの一つに「企画」というものがあります。
「企画」に対して、とてもこだわりが強い会社です。
私自身がそこにこだわりを持ち、
他社よりもぶっちぎりで企画が強い会社でありたいと思ってきたからです。
そうです、ぶっちぎりでなければ、強みとは言えません。


あなたの会社の強みに関しても、同じことが言えるのではないでしょうか。
ぶっちぎりで他社より強くありたいと思ってきたことは何か?


強み=企画という当社の例に話を戻しますね。
ロジカルに物事を分析したり、
議論をし尽くしたり、
発想をジャンプさせたり。。。。
美しく一本筋の通った、明快なコンセプトの企画。
なるほど、それは効果がありそうだと思えるような企画。
お客様が喜んでくださる企画。
エクスタシーを感じるような企画。
そう言ったものにこだわりを持って取り組んできたので、
そのノウハウの上にコンサルティングなどの別のサービスを
展開することができました。


しかし、この「企画」という行為、
色々なスキルが求められ、
経験を積まないと、そう簡単に自律的にできるようにはなりません。


OJTで社員に企画を教えるたびに、
ダメ出しをしたり、注文をつけたりしないといけない。
実は、このフィードバック、どんなに言葉を選んだとしても、
する方も、される方も、
あまり気分のいいことではありません。


人は、誰しも受け入れられたい生き物ですからね(笑
諸手を挙げての「OK!」でない限り、
NGや注文出しなどのフィードバックは、
なるべくならされたくないのが人の本音です。


でも、コアコンピタンスを守るためには、
高い要求をしないとならない。
で、要求した結果、どうなるかというと、、、、


入門者は「やっぱりオノさんはオノさんの思う通りにやらないと
イエスとは言わない。自分はオノさんの金太郎飴にはなれない」という
反応を示します。
それは、時には反発となるし、
時にはやる気の低下を生んだりします。


しかし、そこから3年が経ち、5年が経つうちに、
その人自身が、何がOKで何がNGなのかを判断できるようになり、
グラスルーツらしいこだわりを受け継いで、
その目線から後輩の指導をするようになります。
その時点で、すでに目利きになっています。
不思議なことです。


もちろん、反発を感じて、やめてしまった人もいたことでしょう。
でも、おそらく今では私が私の金太郎飴を作りたかったわけではないこと、
わかってくれているような気がします。


企業が、強みを持つということは、
何かしらに半端ないこだわりを「集団として」持ち続けるということです。
では、半端ないこだわりを持ち続けるとはどういうことか?


私は、こう考えます。
・独りよがりでないか、自己満足でないか、シビアな目をみんなが持っている。
・ギリギリの合格ラインとぶっちぎりの判断基準を持っている。
・これは「ぶっちぎりか?」という自問を各自が持ち続けている。
・ぶっちぎりでなかった時に、エクスキューズをせず、潔くそれを認め、
 どうしたら良かったのかを考え続けている。


結局、コアコンピタンスというのは、
風土と密接に繋がっているのだと思います。
OKなのか、NGなのかを、なあなあにしてしまう組織風土の中で、
コアコンピタンスが維持成長できるはずはないですからね。


つまり、OKはOK。NGはNG。
組織風土の中に、その明瞭さがなくなると、
強みだったものは、あっけなく消えていくと思います。
強みを築くのは大変ですが、
消えていくときは、本当にあっけなく、消えていくでしょうね。


あなたの会社は、どうですか?
守っていきたい強みは何ですか?
OK/NGが明らかで、強みを守れる風土がありますか?


というわけで、もうしばらくは私も自社のコアコンピタンスの維持のために、
NG出しを通じて貢献しましょうぞ!
短期的には気分のいい仕事ではないかもしれませんが、
長期的には絶対必要な仕事だと信じているので。


今週はもう12月に突入!
2017年のエンディングに向けて、素敵な1週間でありますように!

171120_working_cat.jpg部下が伸びて行けるようにするには、自分はどう関わったらいいのか、
これは私でなくても、上の立場にある人なら、きっと誰もが考えていることです。


もちろん、私も考えます。
そこで、今回は「自立」という単語を入り口に、
育成や成長のあり方について考えたいと思います。


人の欲求の一つに「自立して仕事をしたい」というものがあります。
特に経験が浅ければ浅いほど、その欲求はとても強いのではないでしょうか。


自立して仕事をしたい。
 ↓
上司からの支援がなくても一人で仕事ができる自分でありたい。
 ↓
報告はするので、仕事を任せてほしい。


まず部下の立場に立つと、
こう思うのは、とっても自然なことですよね。
このとき、部下は、「自立」というのは、一人でできるようになること、
と思っている場合が多いような気がします。


そして、上司も、早く独り立ちしてほしいと思っているので、
自立心を持っていること自体を悪く評価する人はいないのではないでしょうか。
ところが、私の体験から言って、「一人でできる」という場合の
「できる」の目盛り合わせを十分していないと、
上司部下の双方にとって、あまりいい結果になりません。


似たような意味合いの言葉に「自立」と「自律」があります。
この2つの単語はどう違うのだろうと考えていたら、
キャリア・ポートレート コンサルティング 代表の村山 昇さんという方が、
「INSIGHT NOW」でとてもわかりやすい比喩を使っていました。
数式を投げかけて、答えを出させる3つの方法とその違いについてです。
https://www.insightnow.jp/article/20


村山さんはこんなふうに違いを説明しています。


・3+5=●は、自立レベル
・●+●=8は、半自律レベル
・●+●=○は、自律レベル


右辺は、ミッション・ゴール、たどり着く先。
左辺は、それを実現させるためのプロセスや実現方法です。


自立というのは、
英語で言えば、self-standing(自力で立つことのできる)。
「3+5」という与えられたやり方を一人で実行し、
一人で「8」以上のゴールにたどり着ける。(←私の解釈です)
他に依存しないで、自分でやっていける段階ということのようです。


自律レベルは、右辺(○)も、それを実現するための左辺(●+●)も
自分で考えて、実行できる段階です。
英語で言えば、self-directing(自分で方向付けできる)。
自力で立った後は、自分が決める方向に進んでいけるということだとしています。


さて、、、、
恐らく最初の段階で部下の気持ちにあるのは、
「自立(self-standing)」の方ではないかと思います。
要は、他者の力を借りずに、自分の力だけでやり遂げたいという気持ちです。
一人前だと自認でき、他者からも認められたい、そんな気持ちでもあります。


ところが、営業のようにゴールを定量的に定められる場合は、
「8」以上のゴールにたどり着けたのかどうか、
明瞭にわかりますが、サービス的なもの、ソフト的なものは、
一目瞭然にはわかりません。
そして、「8」の状態を体験したことがなければ、
自分が「8」の状態を生み出せているのか、
自ら見極めることができないし、できなくて当然です。


ですから、「8」の状態がどんなものであるのかを、
いかにして共有するかがとても重要だということになります。
上で述べた「一人でできる」という場合の
「できる」の目盛り合わせをしておくということです。
そして、あくまで「8」は合格ラインであり、
「8以上」を目指すのだと共有された状態をつくること、
それが大切なのではないでしょうか。


ところが、これが簡単ではない。
なぜなら、そもそも「8」の状態を体験したことがない部下は、
体験していない部分を想像で補うしかないわけですから。
しかも、往々にして部下はゴールのレベルを追求することよりも、
まずは「一人で進めたい」という欲求の方が強い場合が多いです。
スポーツに例えると、「勝ちたい」よりも「試合に出たい」という感じでしょうか。


これに対する最善の答えは私にもわかりません。
でも、こんな仮説を持っています。
仮に「自立的に仕事をしようとすること」よりも
「より良い仕事をしようとすること」の方に価値があるという
共通認識が持てていたなら、
与えられている仕事の現状認識を一致させることが
大切だと思えるのではないでしょうか。
あるいは、もっとより良くするためにはどうしたらいいかという観点で
「8」のあり方について、
自然に質の高いコミュニケーションを図るようになるのではないでしょうか。
それが、目下の私の仮説です。


村山さんの話に出てきた「自立」ではなく、「自律した状態」、
つまり、自分が決める方向に進んでいける状態というのも、
結局、より良い方向に向かって進んでいける状態ということだと思います。
自律的になると、「試合に出たい」を卒業し、「勝ちたい」となる。
私は、そんな気がしています。あなたは、どう思いますか?


どうぞ素敵な1週間をお過ごしください!

171113_tamcoc.jpg11月の3日から6日間ほど一人でベトナム/ハノイを旅行してきました。
一人旅の面白さを語れるほど、私は一人旅に慣れているわけではありません。
ですが、急にスケジュールが見通せて、行けそうだと思う時、
パッと行くことを決めるので、結局一人で行くしかないことがあります。

で、一人旅だからこそ得られるインプットというのがやっぱりある。
今日は、今回の旅行で得たたくさんのインプットの中から、
一つを拾い上げて紹介しますね。

それは、「フレンドリー」であることについてです。


ハノイは面白い街でしたが、信号もない中、
車とバイクが激しく行き交う道を体を張って横断するのに疲れてしまい、
現地滞在の正味4日のうち、2日は自然を求めて日帰りで遠出をしました。
具体的には、ガイドさん付きの現地ツアーに参加するという形でです。
1日はハロン湾へ、もう1日はホアルー&タムコックへ。
いずれも世界遺産です。


タムコックのツアーは現地ホテルで申し込んだためなのか、日本人の参加は私だけ。
20数名の参加者のほとんどは欧米から来ている人たちでした。
フランス人、カナダ人、オーストラリア人、スウェーデン人、etc.
男女2人組もいれば、男性3人組もいるし、
女性3人組もいれば、夫婦とその友達の3人組もいました。
もちろん一人旅の人たちも。

バスで移動し、古都ホアルー観光や、
ツアーにありがちなお土産屋さんでの休憩、
最後のタムコック観光を通じて、20数名が少しづつ打ち解けあっていくのですが、
その時にフレンドリーな人とそうでない人がいることに気づきます

しかし、一見フレンドリーでないように見える人
(言い換えると自分からは話そうとしない人)も、
話しかけられれば、話すんですよね。
人間観察的にいうと、まずこの感じが面白い。

私自身は一人だったので、心理的な孤立感を恐れていたからでしょうか、
どちらかというと自分から話しかけた方だと思います。
恥ずかしいほどのブロークンな英語で(笑泣)


そんな中、私に最も大きな刺激を与えてくれた人物は、
インドネシア/バリ島から一人で来ていた28歳の女性です。
彼女はいろいろな人にどんどん話しかけていき、
二人だけの世界にドップリ浸かっているように見えたカップルさえ
彼女が話しかけると、楽しそうに会話に参加していました。

敢えて表現を選ばずにいうなら、
日本ではきっとこれを「オバチャン力」というのかもしれません。
相手がどう思うかなんて、彼女は気にせず、
自分が思うままにどんどん話す。。。
でも、美しくチャーミングなバリニーズがこれをやっていると、
「オバチャン」どころか、
「素晴らしくフレンドリーな人」と表現したくなります。
私は、彼女のフレンドリーさに感化され、見習いたいと思いました。


さて、ツアーから戻ってハノイで一人で夕飯を食べていたら、
隣のテーブルの人たちから突然話しかけられました。
マレーシアからの旅行者で、きれいな英語を話す4人家族でした。
一言、二言話した後、言われた一言がショックでした。
「日本人は話したがらないからね...」と。
言葉の裏側で「あなたは違うね」と言われたと感じたので、
「いや、私だって英語で話すのは得意じゃないですよ」と言ったら、
「それは問題じゃないよ」と言い返され、これまた別の意味でガ~ン。

どうやら私は「フレンドリー」な方に分類されている!?
私なんて、あのバリニーズに比べたら、遠く及ばないのに。
とても低い次元で、なのに褒められている。。。
複雑な心境になりました。


彼らと別れてから湧いてきた疑問、
それは、なぜ「日本人は話したがらない」と彼らは思ったのか、です。
ある時、日本人に話しかけたのに、そっけない対応をされたという経験があるのか?
そもそも「話しかけないでくれ」というオーラを日本人が発していると感じるのか?

私の頭をよぎったのは、オリンピックのプレゼンです。
あれだけ「お・も・て・な・し」をアピールしちゃっているのに、
なんかこれヤバクない?と思いました。
「話したがらない日本人」であることは
「おもてなしする日本人」であることと矛盾している。
国際的にはそう映ると思いました。
日本人としては、それとこれは別なんだよと弁明したいけど、
多分、それは通用しない。。。


結局「フレンドリー」の本質って何なのでしょうか?

当社の社員に、やたら外国人に話しかけられやすいY君がいます。
私は、「フレンドリー」についてある仮説を持って、彼に聞きました。
「Y君は、外国人に微笑まれたら、微笑みを返すんじゃない?」と。
彼の答えは「イエス」でした。

私の感覚でのフレンドリーの基本は、
・まず目を合わせることを厭わないこと、
・そして目が合ったなら、微笑みを送ること、
...ではないかなと思っています。
私はベトナムで無意識のうちにそれをやっていたので、
あのマレーシア人の家族にフレンドリーだと思われたのだと思います。


実は、目を合わせたり、微笑みを送るというのは、
社内でも大切なことですよね。
ですが、これ、私も含めて意外にやれていないのではないでしょうか。

で、これを社内から始めようとすると、むしろやりにくい面もあったり(笑
トレーニング的な意味での私のオススメは、
コンビニで買い物をする時に意識を持つことです。

店員さんとちゃんと目を合わせて、目が合ったなら微笑みを送ること。
そして、「ありがとう」とちゃんと言うこと。
店員さんも目を合わせる人が意外に少ないということに気づくかもしれません。
相手が目を合わせてくれないその時に感じる「フレンドリーでない感じ」を
しっかり感じると、「フレンドリー」の意味をより強く感じ取ることができる思います。
私は、これを意識的にやっています。
そして、本当は、名札を見て名前を覚え、「ありがとう、○○さん」と言いたい。
でも、やっぱり気恥ずかしくて、いまだにできていません。
よし、明日こそ、いや今日こそやってみます!

さて、、、
あなたのフレンドリー度は何点ぐらいですか?
私のフレンドリー度を10点満点で表すと、
多分6点ぐらいですね。
あのバリニーズが私の中での10点モデルです。
楽観的な私は、これ、自分の伸びしろだと思うことにします!

11月ももう後半。
どうぞ今週が素敵な1週間でありますように!

一緒にメルマガを書いている阿部が
「スウェーデン式アイデア・ブック」という本を手にしていたので、
貸してもらいました。(フレドリック・ヘレーン著、ダイヤモンド社)
本の帯には「ひらめきが生まれる小さなヒントが満載!」とあり、
短いエッセイ30本で構成された気軽に読める本です。


例えば一番目のエッセイのタイトルは「針を探す」です。
アインシュタインの逸話を盛り込みながら、
答えは一つではないのだから、誰かが問題の解決案を提示した時、
別の方法はないかと聞くよう勧めています。
他人のアイデアを認めない偏屈な人物だと思われたとしても、
もう少し粘ることによって、もっといいアイデアが生まれてくるのだ、と。


そうかと思えば、「『イエス』より『ノー!』」というエッセイでは、
批判がアイデアを磨くとして、
アイデアを思いついた時はむしろ批判してくれる人を探して、
批評を得よと語っています。
アイデアにはタフネスが必要だと言わんばかりです。


この本で、私が面白いなと思ったのは、
「ノー」という概念をポジティブに扱っていることでした。


一般的に、アイデアはポジティブに取り扱う方が
膨らんでいくので良いと言われています。
人は否定されたくないし、
否定はモチベーションを下げるというのが通説です。
研修などでイエスアンド話法を教わったりするのも、
そういう前提があるからではないでしょうか。


ま、これ、ある意味正しいかと思いますが...


でも、その考え方にはちょっとした落とし穴もある、
ということをこの本は気づかせてくれました。
というのは、私たちはついつい「イエス」は善玉で、
「ノー」は悪玉と考えてしまいがちです。
擬人化して例えるなら、
背中を押して応援するのが「イエス」君で、
目の前に立ちはだかり妨害するのが「ノー」君です。
キャラクター的に言えば、
「イエス」はキラキラ輝くヒーローのような存在、
「ノー」はダークサイドの悪者というイメージでしょうか。


しかし、もし私たちが「良いアイデアを生み出す人」でありたいなら、
「ノー」とも仲良くしないといけないのですね。
考えてみれば、本当に良いアイデアは
その辺にゴロゴロと転がっているものではなく、
たくさんの「ノー」を克服したその先にある。
ごもっともです。


でも、私たちの心の中にある嫌われ者の「ノー」のイメージは
ちょっとやそっとで良くなりそうにありません。
どうしたら「ノー」と仲良くなれるのか...?
「ノー」と言われることにも、言うことにも恐れがなくなり、
「ノー」を違うイメージで見ることができるのか...?


「スウェーデン式アイデア・ブック」には
メタファーで表現することで視点が変わるとありましたので、
早速やってみました。
「ノー」をダークサイドの悪者ではない
別のキャラクターにできないか、と考えてみたのです。
以下、私がしてみた連想ゲームです。

 ノー
  ↓
 難しい問いかけ
  ↓
 禅問答
  ↓
 禅僧
  ↓
 達磨大師
  ↓
 ヨーダ


なるほど。
「ノー」のイメージのネガティブな側面が、
「スター・ウォーズ」に登場するヨーダのイメージになり、
深い知恵を持つ導師のように思えてきました。


私たちの頭の中から浮かんでは消えていくたくさんのアイデア。
「イエス」も「ノー」も味方につけて
アイデアの育て上手になりたいものですね。


どうぞ素敵な1週間をお過ごしください。

ランチを食べながら、隣の席にいた見知らぬ二人が、こんな会話をしていました。
「仕事を頼んでも、彼女はまったく自分で考えようとしない」
「細いことまで指示しないと、やってくれない」
男性と女性の二人の会話、聞き耳を立てていたわけではないのですが、
すみません、耳に入ってきてしまいました。


主体的に考えない人が組織内にいて、
それに対して悩みや不満を言う先輩/上司。
どんな組織にもありがちなことですよね。
そして大抵の場合、不満を述べている先輩/上司は、
自分たちは主体的に考えていると自認しているだけに、
考えないなんてありえない、理解できないと思っています。


さて、あるあるのこのシーン、
私たちは何をどう考えるべきなのでしょうか。
私はこの会話を聞きながら、何か違和感がありました。
なんとなく上から目線な批判に思えたからです。
気になったことをシェアさせてくださいね。


1つ目は、主体的に自分の考えを述べない人がいたからといって、
必ずしも考えを持っていないとは言えないと言うことです。
ただ単に、考えを言いにくい雰囲気だと感じているから、
考えを発しないだけかもしれません。


聞かれてもいないのに、自分の考えを発言できる人と言うのは、
むしろ少数ではないでしょうか。
多くの人は、水を向けられてもなお、
こんなことを言っておかしくないだろうか...と気にしてしまいます。
あるいは、考えをまとめてからでないと、発言すべきではないと
行動をセーブしてしまったりします。


大抵の場合、過去に嫌な体験があるからです。
笑われたとか、
否定されたとか、
無視されたとか。。。


勇気を出して発言したのに、傷つくような体験があると、
おそらく二度と同じ思いをしたくないと思うのが、
普通の感覚なのではないでしょうか。


どんな意見でも歓迎されると言う前提があるのと、ないのとでは、
当然言いやすさも違いますよね。
言いやすい雰囲気や安心安全の場を作ることは、
リーダーやファシリテーターの重要な役割だと思います。
これが、簡単ではないのですが。


もう1つ気になったことというのは、、、、
筋道立てて考えたり、物事の本質を理解しながら考えるというのは、
実はとても高度で難しいことです。
ですから、これをスラスラできる人というのも、実はとても少数だと思います。
できている風に振る舞う人は大勢いますが、
そういう人に限って、物事の奥深さを甘く見ていたり、
謙虚に考えることをしていないように見えます。
私も、考えることが仕事ですが、
この「考える」行為は、何年やっていても侮れないと感じます。


ということは、逆にいうと、
ただ単に「考えろ」という上司では部下は困ると思うのです。
ただ考えろというだけなら、これほど簡単なことはありませんからね。


で、実際、上司にとって、考えることを部下に教えるのはとても難しい。
教えるスキルを学ぶ機会もあまりありません。
さらにいうと、自分自身が常日頃どのようなプロセスで考えて、
どのように物事を進めているかさえ、上司は整理できていないと思います。
暗黙知だからです。
だから「彼女はまったく自分で考えようとしない」と
批判するだけの上司にはなりたくないなと思いました。


ロジカルシンキングなどのようなコンサル系アプローチとは違う方法で、
考えるコツや考えることを教える方法があるといいですよね。
私のライフワークにしようかな〜笑 ←ちょっと本気。

先日、会社のビルの1階にあるコンビニでコーヒーを買って、
フタをしようとしていたら、フタがなかなか閉まらず、
ちょっとあたふたとしていたんです。
そうしたら、同じくコーヒーを待っていた40前後の女性が、
親切にも「閉まりません? ちょっとやってみましょうか?」と言って、
私のカップのフタを閉めてくれました。
閉まらなかった理由は、おそらくキャップが不良品で、
サイズが微妙に小さかったから。
彼女は「あれ、おかしいな」と言って、そのフタを諦め、
別のフタに取り替えて、そうしたらうまくフタが閉まりました。
その間のやりとり、約1分半でしょうか。


私は、最初はあらら、こんなことで手を煩わせてしまって
申し訳ないなと思いましたが、
フタが閉まった瞬間、とっても幸せな気持ちになりました。
と同時に、なぜ彼女は手を差し伸べてくれたのだろうと不思議に思いました。


実は、そのちょっと前に、社内のある人との間でこんな話が出ました。
おせっかいはしない方がいいと思いがちだけれど、
それはもしかしたら間違いかもしれない、
おせっかいかもしれないと思っても、オノさんは、
手助けをしたくなる雰囲気を持っていますよね、というような話だったか、
あるいは、おせっかいという気持ちを抱かせない、というようなことだったかな?
詳細は忘れてしまいました。。。何しろ褒められたみたい〜♪


もし、このコーヒーの例のように、
見ず知らずの人が私を助けたく思ってくれるなら、
これは私のスゴい才能なのかもしれません(笑)
見ず知らずの人は別として、いろいろな人に助けられているという自覚はあります。
でも、なぜ助けてくれるのかはわかりません。
助けてもらうコツは?と聞かれても答えられません。


それでも、もしかしたら関係あるかもしれないと思うことが1つだけあります。
それは、言いにくいことも言いやすい人でいたい、
オープンな心でいたい、そうずっと願ってきたことです。
これは多分、10代か20代か、そのくらい昔から願っていました。


本能的に、直感的に、人が躊躇しないで発言できることが、
自分にとっても、他の人にとって大切だと感じていたのだと思います。
ありのまま、思ったままを発言できること、
自分自身がそうでいられない状況は窮屈だと感じるので、
だからこそ、まず自分は「言いやすい人」でいたいと思ったのでしょうね。
で、私自身が今、どこまでそれを体現できているかどうかとか、
言いやすいことと人が助けてくれることに因果関係があるかどうかはともかく、
言いやすい人/言いやすい関係が増えることは社会にとって良いこと、
これはまんざら間違っていないと思います。


では、いったい「言いやすい人」とはどんな人でしょうか?
「言いやすい人」は「波風立てない、いい人」でしょうか?
「言われたことにそのまま応える人」でしょうか?
そうではないことは、なんとなくわかりますよね。


で、「言いやすい人とは?」のその答えは、
相手の発言自体(言われたこと)をどう位置づけるかで、変わってきますよね。


言われたことを、指摘である、文句である、リクエストである、
期待に応えるべきことである、相談である、受け流せば良いことである、
コミュニケーションの入り口の情報である...。
このように言われたことをどう位置づけるかで、
受け止める時の自分の感情自体が随分変わりますよね。
相手の言葉を文句と位置づけたら、単純に反発したくなりますし(笑


私自身は、言われたことを
・コミュニケーションを深めるための入り口にある情報
・相手が寄り添ってほしいと思っている感情
こんなふうに受け止めるようになり、それによって、
ニュートラルに受け止めることができるようになりました。
(もちろん人間ですから未だに不完全ですが、、、苦笑)


防衛的でなく聞く。
攻撃的でなく言う。
これだけで、社会はもっと快適になると思うんですよね。


そのような考えから、当社では先週から勉強の場として
「育自プロジェクト」を展開中です。
これは、まさに「防衛的でなく聞く」「攻撃的でなく言う」の実践。
社会がそうなってほしいので、まずは自分たちからそうありたいと思います。


そして、私たちは仙人ではないので、実はそんなに簡単にはできません。
それでも、やってみて、軌道修正し...それを組織として繰り返していくことが
とても大切だと思います。


ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。
素敵な1週間をお過ごしください!

ブログを書いている人

小野真由美

グラスルーツの代表。組織をただの集団ではなく、チームにするための組織内コミュニケーションはどうあるべきだろう?…なんていうことを、いつもツラツラ考えています。ブランディングやコミュニケーション、チームやリーダシップ系の話題が7〜8割、その他の話題が2〜3割。そんなブログを目指します。ぜひおつきあいください。

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