ブランディング、コミュニケーション、チームワーク…。週1回の社長ブログです

ブログ:2015年10月

社長の脳みそ整理mono-log モノログ

こんにちは。10月も最終週ですね。
今日は、「インタビュー」というものについて考えてみたいと思います。


今日、この話題を取り上げようと思ったきっかけは、先週の社内のランチミーティングでした。その時取り上げられたテーマは、読者を感動させるようなストーリーを書くには、どんなスタンスで臨んだらいいのか、何が大切なのか、でした。


このときの前提は、私たちのお客様の社内報における「インタビュー」とその記事の書き方についてです。編集方針によって社内報の作り方は異なりますが、紙媒体でもWEBでも、社内報においては、1部のコーナーに社内のプロジェクトをドキュメンタリータッチで紹介したり、人の気づきやそれに伴う個人の成長の様子を記事にして紹介するようなコーナーを設ける場合があります。その時、書き手に求められるのは、読者である社員の方がその記事に感情移入でき、読んだ後に勇気づけられたり元気づけられたと感じるものに仕上げること。つまり、ここでいう「感動」とは、読者が読みながらその話に共感し、心を震わせた結果、読み終わった時に気持ちがポジティブに変化したその過程そのものだということができます。ランチミーティングでこの話題を投げかけてくれた人も、「プロジェクトX」のようなコーナーを担当している人物でした。


「『インタビュー』を通じて得られた自分の感動をベースに記事を書いて良いのだろうか」とか、「良いとしたなら、自分が感動できなかった場合にはどうしたらいいのだろうか」など。ランチを食べながらの、フリーディスカッションです。ですので、私が今書いているこの記事も社内広報誌を前提としたものになりますが、実のところ、人や人が関わった出来事を紹介するために、取材をし、共感を得るような記事にまとめるのであれば、媒体が何であれ、本質は同じです。


さて、、、
インタビューで、その人の話から自分が何も感じなかったなら、それを記事にしたとしても、共感や感動が生まれるはずがありません。で、ここで問題になるのが、自分が感動できなかった原因が、相手の側にあるのか、自分の側にあるのかです。言い換えれば、「インタビュー」の対象となった人物にはそもそも魅力がなく、その人が関わった出来事(記事の題材)にも何のドラマもなかったということなのか、自分の話の引き出し方が悪かったのか、人物や話の内容に対する自分の心の感度が悪かったのか、原因がどこにあったのかです。現実的には、原因はおそらく一つではないと思いますが、ここではインタビュアーの姿勢としてどうあるべきかを考えてみましょう。


自分の心に刺さるような話が引き出せなかったとき、その原因を不可抗力であったと思いたくなったり、事実自体が面白みのない内容であったと思いたくなったりするのは、インタビュアーに起きがちな心理かもしれません。心に刺さらない話で終わった...。そのようパターンには、話を聞いた結果、相手をリスペクトできたかどうかという無意識の判断があったのではないでしょうか。リスペクトできていないときに、その話が面白いとは思えない。


では、インタビュアーはどういうときに相手をリスペクトできなくなるのでしょうか。それは、自分の価値観と相手の行動(つまり話の内容)が相容れないときです。別の言い方をすれば、こんな話が聞けたらいいなという期待に対して、相手が応えてくれないときです。こんな話が聞けたら、すごいと思えるのだから、そんな話を聞きたいと、暗黙の期待をインタビュアーは求めてしまうことがあります。先日のランチミーティングでも、その人が何かを能動的に変えようとしたことがわかれば感情移入して聞けるが、そうでないときにはつまらなく感じるという声が出ました。私は「それ自体が思い込みなのではないか」と返しましたが、このミーティングは自由に感じていることを出すことが大切なので、どの声も、1つとして無駄のない良いディスカッションでした。


さて、どのようなインタビューがベストなのかといったことに絶対的な方程式はありません。ですから、私がここに書こうとすることも、仮説的な精神論のようなものであって、唯一の正解だと言うつもりは毛頭ありません。だから、ここに書こうとすることは、言わば信条の紹介ですね。


さて、信条のその1。私は、インタビュアーは「謙虚で真摯」でなければならないと思っています。
では、謙虚であるとはどういうことか。それは、相手の人生そのものに思いを馳せるということです。今聴いている「インタビュー」の内容だけではなく、相手が30歳の人なら30年間を、50歳の人ならそれまでの50年間を、いかに大変な人生を歩んできたかを想像しながら、今、その人が話しているその話を聴くということです。つまり、話の内容によってリスペクトしたり、しなかったりするのではなく、リスペクトして聴くことを当然のこととして聴く。なぜって、人生を生きるって、ある意味、それだけで大変じゃないですか? どんな人生でも同じだと思います。そう思ったら、自然にリスペクトする気持ちが湧いてきます。それが謙虚な姿勢というものではないかなと思っています。しかも、おもしろいことに、リスペクトして聴くからこそ、相手は心を開いてくれます。リスペクトして聴いていると、聴きながら、うるうるしてしまうことさえあります。それは、相手に伝播します。そうやって、何の作為もなく、相手との信頼関係を作ることができます。
次に、真摯であるとはどういうことか。それは、一生懸命聴くということです。一生懸命の意味はいろいろあります。
最後まで諦めずに聞く、細かいニュアンスにこだわって聞く、思い込みで聞いていないか、自問しながら聞く。そんな一生懸命さが「インタビュー」の結果を左右するのではないでしょうか。


信条のその2は、「期待しない」です。インタビュアーが何かを期待することほど危険なことはないと私は思います。どんな危険か。それは、インタビュアーが描いたストーリーありきの記事にしてしまうことです。そうなった時点で、アウトです。しかし、残念ながら、多くの編集者、ライターはあらかじめ描いていた答えのように記事をまとめようとします。その悪い意味での発展系が、「やらせ」です。発信者の発信内容に関するエビデンスとして、インタビューがあると、結果的にはそうなります。ですから、そもそも制作ポリシーをどう持つかと、インタビュー姿勢は密接に絡んでいるのです。


信条のその3は、「絞る」です。たまにですが、私もインタビューされることがあります。そのときにひろーく網羅的に聴いてくれて終わる人がいます。質問に答えながら、「このインタビューはどこに向かっているのだろう? そのうちに、収束に向かうのだろうか」という気持ちになるのですが、そういう方って、決して収束には向かわないのです。多分、「なるべく広めに聞いて、集めた情報から記事を考えよう...」というメカニズムが働いている気がします。しかし、記事を作るというのは、そういうものではありません。目的もあれば、読者に何を伝えたいかという意図もあります。ですから、聞いた後で考えれば済むものではないのです。1時間のインタビューなら、前半で、深掘りすべきネタを探し、後半はそのネタの深掘りタイムになっていなくては面白い記事はまず作れないと思います。


信条のその4は、「意訳不要」「わからなかった以外は確認不要」インタビューは、聴く場であり、相手を理解する場です。それは相手にとっても、ある意味同じです。聴かれたいし、理解されたい。ここでは、相手のニュアンス通りにいったん受け止めることが重要であって、わからなかった場合以外、このタイミングで意訳をして確認する必要はないと思います。そうしないと、時間のロスだからです。でも、コミュニケーション的には、「つまり、こういうことですよね?」「つまり、こう思ったってことですよね?」と意訳したくなるのも人情。そして、それは絶対的NGというわけではありません。
でも、大切なのは時間配分。理解できなかったならいざ知らず、ただただ念押しのために、あるいは理解したことを相手に伝えるために、自分が理解した内容をたくさんの言葉を使って「〜ということですね?」と聞くのはナンセンスではないでしょうか。


どんなインタビューであっても、リスペクトの気持ちを抱いて聞いていると、次から次へと興味が出てくるものです。「この人の人生において、この出来事にはどんな意味があったんだろう」。まず、この問いを満たそうとするだけで、たくさんの問いが出てきますもの。


もし、これを読んでくださっているあなたが、社内報の企画制作担当者なら、次のインタビューはどんなふうにしますか? 社内報に載る。それは、その人の人生にとって、エポックメイキングかもしれません。毎号、作っていると、時としてそのインパクトを忘れてしまいがちです。より良いインタビューにチャレンジしてみてください。そして、もしよろしければ、その結果をお知らせください。


では、10月最終週、元気に行きましょう

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ここ最近、「言いにくい話」を「する? しない?」ということが、
私の周りでよく話題に上っています。
社内ミーティングでも「オープンマインドでありたいね」とか、
「とは言っても、遠慮してしまう」などの話が出たり。
そんな折、かつて当社のスタッフだったX君と飲みに行ったのですが、
偶然にもまたそんな話題になりました。
X君は、某ベンチャー企業で経営を任され、
苦労はあっても、仕事が楽しくてたまらない様子。
けれど、リーダーとして次のステージに行くには、
言いにくいことも言えるようになりたいと感じているのだそう。


リーダーであろうが、なかろうが、
人に対して言った方がいいのかな...と思いながらも、
言いにくさを感じることは、誰にとってもありますよね。
で、言いにくくなる理由が何かといえば、
・それを言ったことによって、相手を傷つけてしまうのではないか
・その結果、相手から嫌われてしまうのではないか
...の2点ではないでしょうか。
そして、そんな危険を冒してまで、相手にそれを言う理由はあるだろうかと問い、
言わないことが安全だと信じて、言わない道を選びます。


私は、人が人から「嫌われたくない」と考えるのは、
動物の本能として当然だと思います。
嫌われることは、敵を作ることを意味し、
敵を作ることは、攻撃されることを意味し、
攻撃されることは、それだけ生存しにくくなることを意味する、
と考えれば、動物の防衛本能そのものだとも言えます。

しかし、仮に嫌われもしないし、攻撃もされない、
むしろ信頼されるとわかっていたら、私たちはどう振る舞うでしょうか?


こうすると「好かれる」、こうすると「嫌われる」の法則は、
実はかなりの部分が思い込みから来ているように思います。

たとえば、、、、
「営業は、ニコニコ元気な態度である方が好感を持たれる」は、本当でしょうか。
もちろん、仏頂ズラが良いとは言えないかもしれませんが、
ニコニコ元気な態度を取られると、
何かを売りつけられると思って、むしろ警戒しませんか?
なのに、営業はこうあるべきだと教えられるし、
一度そう思い込んでしまうと、そのままそうしがちです。


「こうすると嫌われる」も同じようなことが言えます。
ある人が自分に何らかの助言をしてくれたとして、
本当に自分のことを思ってくれていることさえ理解でき、
押し付けられているのではないことがわかれば、
むしろ信頼したくなりませんか?
その助言の通り、行動しなかったとしても、信頼感は増すと思います。
反対に、いくら円満な雰囲気で会話できていたとしても、
上っ面の会話しかしない相手は、信頼しないのではないでしょうか。


反対側から見ると、そう思えるのに、
それができないのにも、やっぱり理由があります。
言いにくい時ほど、相手のことを考えていないからです。
嫌われたらイヤだなというのも、結局考えているのは自分のことですし、
こっちの言い分を押し付ける心理、
相手を否定している心理にあるから、言いにくくなります。
要するにどこか「後ろめたい」ってことですよね。


私自身はこのような考えでいるので、どちらかと言えば、
言いにくいと思わずに言う方なのですが、
それでも言いにくいと感じてしまうことがあります。
そういう時は、大抵、相手を否定している心理があったり、
相手を思うよりも、自分の考えをわかってほしいという気持ちの方が強かったり、
どこかしらバランスを欠いています。


「言いにくさ」を感じた時、
その裏には、人としての成長のヒントがたくさん隠れている。
そう思うと「言いにくさ」ともうまく付き合えそう!

10月も残すところ2週間。どうぞ良い1週間をお過ごしください。

⚫️大好きだった友だちMさんが残した言葉「NCRWを忘れないで」とは?


「NCRW」。初めてこの言葉を聞いたとき、なんのこっちゃい?と思いました。しかし、今は、リーダーが持つべき素晴らしい哲学だと、私は受け止めています。なぜ、今日、「NCRW」について書こうと思ったのか。それには訳があります。


一昨日の11月3日、私より3つ上の先輩であり、大切な友人のMさんが亡くなりました。その彼が社会に対して伝えたかったメッセージ、それが「NCRW」です。NCRWとは、コーチを養成している世界的組織、CTIが提唱する「コーアクティブ・コーチング(R)」の根底に流れる次のような考え方を表すものです。その考え方とは...


People are ;
Naturally Creative Resourceful and Whole. (NCRW)
人は;
もともと創造力と才知にあふれ、欠けるところのない存在である。


亡くなったMさんは、コーチとして活動している人でした。私が初めて出会ったのは、昨年、2014年4月。1年間のリーダーを対象とした学びの場においてです。しかし、その半年後、Mさんは余命10カ月と医師から診断され、そのことを共に学んでいた私たち仲間に公表しました。ガンでした。結果、診断よりも2カ月長く生き切って、一昨日亡くなったのです。


昨年、Mさんが余命宣告を受けた後、私は彼とメッセージ交換をしました。ゆっくりと飲みながら対談し、最後にお互いが相手にメッセージを贈る、そんな約束での会食でした。事前に私は、彼に対しこのように趣旨を説明しています。

...誰にでも発したいメッセージがあると、私は思っています。誰に向かってかといえば、広くは社会だし、後世の人たちだし、狭く言えば、家族や友達に向けて。私はそれを聞きたいのだけど、そういうと広すぎるので、「私」に向けて、メッセージをほしいです。それは、私以外の人にとっても、きっとメッセージになるはず。...


そんな私の要望に応えてくれて、彼はメッセージをくれました。次の3行に彼の思いが凝縮されています(実際にはさらに多くの言葉があり、内容も複眼的なものでしたが)。

『NCRWと出会って、僕自身が大きく変わった。これを広めることで、人と人のコミュニケーション、人と人の関係が変わるという信念を僕は持っている。社会を良くするためにも、自分や周りの人が幸せであるためにも、NCRWを忘れないでほしい。』


亡くなったMさんは、もともとは厳格な父親でした。しかし、この言葉に出会い、すでに成人していたお子さんとの関係を変えたいと思ったそうです。そして、彼は子どもを変えようとすることをやめ、自分が変わろうと考えました。すると、彼は、その後、どんどん変わっていきました。私が最初に出会った昨年4月、彼の第一印象は、は岩のように頑として動かなそうな、近寄りがたい人物...というものでした。でも、上のメッセージを贈ってもらった昨年11月、彼は相手を包み込むような受容の人になっていました。それ以降、ずっと彼は、自分をオープンにして、その生き様を見せてくれたような気がします。


知り合って1年半の間、Mさんは私に対してNCRWの言葉通りに接してくれました。私が悩んでいるときに、何度も「ありのままのあなたでいいんだよ」と声をかけてくれました。一方で、ある友人は、突き放されて叱られたそうです。突き放されても、愛を感じたそうです。NCRWを握って叱咤激励をしてきたMさん。


もう一度、書きます。
NCRW=人は、もともと創造力と才知にあふれ、欠けるところのない存在である。
それを忘れないでほしいと、私は託されました。



⚫️防衛本能が「NCRW」の敵


さて、、、、
私は、周りの人に対し、NCRWのような考え方、持てているのでしょうか。
あなたはどうですか? そういう考え方をどう思いますか?


たとえば、部下の出した結果が期待を下回ったとき、
「なんでこの程度しかできないんだ? どうして期待に応えてくれないんだ」と
心の中で相手を責めていないでしょうか。
それをきっかけに、相手の力はこんなもんだと決めつけたりしませんか。


たとえば、自分の子どもが親である自分の言うことを聞かないとき、
「困ったものだ、こんなことではこの先が思いやられる。どうしたものか?」と
子どもに不満や不安を抱いて、ついつい言葉に出していないでしょうか?
(私の場合の対象はむしろ親になりますが)


悪気はないのに、デフォルトの私たちは、上のように反応してしまいがちです。なぜか。私たちにとって、「成果が現れない(できない)」のは「恐ろしい」のです。それは防衛本能からくるものです。「恐ろしい」という防衛本能を源にコミュニケーションしようとすると、無意識のうちに相手をコントロールしたくなります。本当に、無意識のうちに、です。しかし、そうすると、相手は期待に応えるどころか、本来持っている力を出し切れず、その力はどんどん弱まってしまいます。


私に限らず、あなたに限らず、私たちは防衛本能に根ざした潜在意識で自分を縛ってしまいがち。その潜在意識は、自分本来の「こうありたい」「こうしたい」を妨害するだけでなく、人との関係の「こうありたい」を阻害します。そして、「こうしたい」「こうありたい」方向にある自分と、それを押しとどめようとする自分との間で葛藤しながら、生きています。本当は安心して人を信頼したいのに、思うようにできなかったり。

ところが、もし相手の想像力、才知、あらゆる潜在能力を信じて、そこに立脚して関係を作ろうとしたなら、いったい何が生まれるでしょうか。
NCRWという言葉は、NCRWで接した関係とそうでない関係とでは、まったく違う結果が生じるはずだ...と教え諭しているのだと思います。



⚫️「あなたはできる!」と「大丈夫?できる?」の違い


相手を信頼する、相手の力を信頼する、いずれも見守る側の心情としては、簡単なことだとは思いません。でも、「あなたはできる!」と信頼から始めるのと、「大丈夫? できる?」と半信半疑で始めるのとでは、その後の関係も変わるし、結果も変わるはずです。というのは、何かを成そうとしたなら、当人がまず「自分はできる」と思えていることが不可欠です。自分が「自分はできる」と思えていないことには、大抵できません。そんな経験、ありますよね。「できるかな?」と不安に思っていたら、案の定舞い上がってできなかった、など。心のあり方が自分のパフォーマンスに大きく関係しますよね。だからこそ、相手に何かを達成してほしいなら、当人に「自分はできる」と思ってもらうことが不可欠なのだから、「大丈夫? できる?」というスタンスで周りが接触していいはずがありません。Mさんが伝えたかったNCRWの本質の第一は、こういった人の能力をいかに高めるかという視点だと思います。でも、私の勝手な解釈では、それだけではなく、もっと大きなものだったと感じます。

たとえば、子どもが生まれてきたその瞬間に、その子の能力がどうであるかなどと無関係に、ただただ生まれてきてくれたことに感謝し、幸せな気持ちになるのではありませんか? 命の尊さに触れると、誰でも敬虔な気持ちになると思います。きっとMさんは、そういうことを悟り、そういう広さでNCRWという哲学を伝えたかったのではないかと、私は解釈しています。


長くなってきました。最後に私の友人、Mさんの思いを、もう一度、書きます。


『NCRW(人は、もともと創造力と才知にあふれ、欠けるところのない存在である)と出会って、僕自身が大きく変わった。これを広めることで、人と人のコミュニケーション、人と人の関係が変わるという信念を僕は持っている。社会を良くするためにも、自分や周りの人が幸せであるためにも、NCRWを忘れないでほしい。』

ブログを書いている人

小野真由美

グラスルーツの代表。組織をただの集団ではなく、チームにするための組織内コミュニケーションはどうあるべきだろう?…なんていうことを、いつもツラツラ考えています。ブランディングやコミュニケーション、チームやリーダシップ系の話題が7〜8割、その他の話題が2〜3割。そんなブログを目指します。ぜひおつきあいください。

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