ブランディング、コミュニケーション、チームワーク…。週1回の社長ブログです

ブログ:2024年3月

社長の脳みそ整理mono-log モノログ

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今日は「お久しぶり!」という関係についての話です。
というのも、ここ最近、そのような出来事が多かったからです。

ですが、人との関係や間合いの作り方について、
私の考え方は少数派すぎてあまり参考にならないかも...と思いつつ書きます。
たとえば、ある人と初めて会ってからもう何年も経っていて、
しかもご無沙汰している場合、多くの人はそれだけでコンタクトしませんよね。
私はあまり気にせずにコンタクトする方なのですが、
ある時ようやく、それは多くの人はしない行為なのだと気づきました。

そう気づいたのは、ある人からこんなことを言われたからです。
具体的には30年ぐらい前、相手は某大新聞の文化部にいた記者のFさん。
意気投合したので1度飲みに行き。。。で、その後しばらくはそれっきり。
何年かしたある時、ふとFさんはどうしているかなと思ってご連絡し、また飲みに行きました。
楽しく飲んだその日、Fさんがこう言いました。
「あなたは変わってるね。普通はこれだけ時間があいたら連絡してこないよ」と。
そう言われて初めて、自分が「時間経過」に対して無頓着であると気づきました。


この経験から私は「人を久しぶりに誘うと相手は困惑する」という当たり前のことを
遅ればせながら学んだ次第です。
ここでいう「困惑」とは「意外なことに出会った驚き」のこと。
本来の「困って、どうしてよいかわからないこと」ではありません。
「困惑」の「困」の反応は、ある程度関係が築けているせいか、ほぼ起きません。
ましてSNSの時代ではなおさらだと思います。


さて、最近の私の「お久しぶり!」の例を挙げると...

3月1日付の本メルマガ「出張シェフの一言に脱帽!」という記事で、
「私以外の3人は全員お互いが『はじめまして』の関係だった」と書きましたが、
あの時のメンバーの1人Yさんも実は10年以上前に当社にいた元社員の方で、ご無沙汰歴も8~9年? 

一方、今月は別の元社員の方からも「お久しぶりです」とコンタクトがありました。
自分から連絡した場合も、された場合も、「お久しぶり」はうれしいものです。
会いたいから会う、どうしているだろうと思うからコンタクトする。
考えてみれば、自然なことですよね。


昔よりも「お久しぶり!」がしやすくなったのは、SNSのお陰もあります。
だけど、、、
いくらSNSがあったとしても、やっぱり抵抗感を抱く人は多い気がします。
久々だとコンタクトしにくい理由。心の中には何があるのでしょうか?

「相手は自分を覚えているか?」
「誰?と反応されるのではないか?」
そう思うと怖いですよね。
「会いに行くもっともらしい理由が見つからない」
と思ったら、自己制限がかかりますよね。

話がズレますが、このメルマガに感想をお寄せいただく時もそうかもしれません。
「書いたらどう思われるかな?」と心配になる方は少なからずいると思いますが、
時々いただく感想やご意見、ほんの数行のメッセージ...
これらはうれしい以外の何物でもありません!
(いえ、まるで催促しているようですが笑)、本当にうれしくて「やる気スイッチ」が入ります!


話を戻します。
「お久しぶり! お元気ですか?」と意思表示するだけなのに、
なぜか必要だったりする小さな勇気。
そんな時、役立つのは「覚えていないかもしれませんが...」というダメ元精神です。
実際にそのように言葉にして接すれば、相手が自分を思い出せない時も、
お互いに気まずさがなくなります。

「覚えていないかもしれませんが...」と言って
「ごめんなさい、思い出せないのですが...」と言われたら
「ですよね~」と言えば済みますもの笑

人と人の関係にはいろいろな局面があります。
最近は「人間関係の断捨離」という言葉もあるそうですし、
今の人間関係を手放さないと、新しい出会いは生まれないという主張も耳にします。
そういう考え方もあってもいいし、
今はそう考える時期と判断するのもあっていいと思います。

だけど、しばらくコンタクトしていなかった相手に、
ちょっとだけ勇気を出してコンタクトしてみると、
新しい関係が始まるかもしれませんよ。
最近私が思い出した人は、うふふ... ヒミツ。

春ですし、思い出したあの人にちょっと勇気を出してコンタクトしてみる。
いかがでしょうか? 笑

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うちの会社では、毎週木曜日に持ち回りで勉強会を行っています。
発表者が好きなテーマで30分程度説明し、意見交換するというような流れです。
毎回、終了まで40~50分程度でしょうか。
たとえば、私が扱ってきたテーマの例を挙げてみますね。

・論点コンシャスになろう
・「Fast Worker」になるための秘訣
・今日は心理学、です!
・自分主導の説明と意思表示
・カテゴライズのすすめ
・自分ブランディング

そのほかこれまで、NISA、防災、リーダーシップ、図解、知的財産、デザイン、
オープン社内報など、飽きることのないテーマで開催されてきました。


さて、昨日は、たまたま私の番で、今回は題して「意味付けの話」をしました。
ここでの「意味付け」とはアドラーがいうような心理学的な概念を含むもので、
いろいろな事柄に対して、意義や価値、理由や教訓などの形で、
人が自分なりにしている「解釈」のことです。

たとえば、人が最も頻繁に行なっている意味付けは、
他人を評価判断することではないでしょうか。

あの人は、~だ。
あの人には、~なところがある。
あの人は、いつも~する。

自分の解釈で人を決めつけると、その人物像が頭の中で膨れ上がっていきます。
人と人は、お互いに相手の人柄や性格、能力や行動様式などについて解釈し、
その解釈があたかも本当の姿であるかのように決めつけをし合っています。
しかも、その評価判断はポジティブなことばかりではなく、
むしろネガティブなことの方が記憶に刷り込まれやすいと言えるかもしれません。


ネガティブな評価判断をしてしまう顕著な例は、苦手な人についてのものです。
誰にでも苦手な人の一人や二人はいるもの。
私はどちらかといえば、人の好き嫌いは激しくない方だと思いますが、それでもやはり苦手な人はいます。
たとえば、自分の話ばかり機関銃のような速さでする人、
しかも、声が大きく、感情の起伏が激しい相手は、ちょっと苦手です。
そのような人と話していると、30分を超えたあたりから、
気が遠のくような感じになって、まったく集中できなくなります。

実際に、一回り近く年上の方で、そのような人がいました。
前記の「自分の話ばかり機関銃のような速さでする」は意味付けというより
事実と言っても良いと思いますが、
私はその人を「幼稚な人」「子どもっぽく、わがままな人」と捉えていたので、
こちらは明らかに私の解釈です。


前置きが長くなりましたが、実はここからが今日の本題です。
この人との間で、あるとき不思議なことが起きました。
人が人に抱く気持ちに「好意、好感」というポジティブな感情、
「反感、悪意、敵意」などのネガティブな感情、
さらに「普通、どちらとも言えない」という感情があるとすると、
この人の私に対する気持ちに「好意」を感じる出来事があったのです。


そうしたら、何とあれだけ苦手意識があったその人に対し、
この人の良いところを見つけようという気持ちが湧いてきました。
おそらく、「子どもっぽく、わがままな人」という意味付けをしていた頃は、
心の中で被害に遭いたくないという深層心理が働いていたのですが
「好意」を感じ取ったことで、(敵対する相手ではないのだから)
寛大に捉えても大丈夫だと無意識ながらに思ったのだと思います。

ロバート・チャルディーニの著書「影響力の武器」の中で、
「好意の返報性」について書かれていますが、まさにそれだったのでしょう。


職場での悩みとして、各種調査でしばしば「人間関係」が上がっています。
「あの人は~だ」は必ずしも事実ではなく、解釈であるかもしれないと思えば、
見え方が変わるような気もします。
さらに必ず関係が変わるとは言えないまでも、「好意」を表現することで
関係が変わる場合もあることは、試してみる価値があるかもしれません。


桜の便りが楽しみになってきました。
どうぞ良い週末をお過ごしください。

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先日の3連休の最後の日、我が家で友人を呼んで食事会をしたのですが、
その際に出張シェフを利用しました。
実は、この会、私以外の3人は全員お互いが「はじめまして」の関係。
私が出張シェフを利用するのも初めてで、いろいろな意味でドキドキワクワクの機会となりました。


Sharedineというサービスを利用したのですが、このしくみでは、
調理器具や調味料は依頼主が用意し、材料はどちらが用意してもOK。
今回、私は買い物も含めてお願いしました。
結論からいうと、味、量、価格とも大満足です。

さて、そのようなしくみなので、あると思っていたものが行ってみたらない、ということも考えられます。
今回のシェフRyuさんにそんな時はどうするのかを尋ねたところ
「自分は、自分の方を状況に合わせます」と迷いのない回答が。

以前は、たとえば包丁を10本ぐらい持ち歩いたこともあったそうですが、
所詮、レストランの厨房に家庭の厨房はかなわないので、
その環境でのベストを尽くせば良いと考えるようになったそうです
包丁の切れ味が悪いなと思ったら、たとえ砥石がなくても、
その場でできる工夫をしてしのぐのだとか。

この割り切りは簡単そうで簡単ではありませんよね。
「なんだ、○○○も揃っていないのか」
「思った料理ができないのは相手のせいだ」と
心の中で相手を責めることもできます。
こう思ってしまうのは、条件が整わないとベストの結果は得られないと思っているからなわけで、
人生言い訳が多くなりそうですね。

それに対して、Ryuさんのこの潔い考え方は素敵です。
だけど、、、一歩間違えると自分に甘くなってしまいそうでもある。
たとえば、私の場合、筋トレでバーベルを持ってスクワットをしているとき、
限界の一歩手前で手を抜き、
「ベストを尽くした風」にやってしまうことがありますから。


心理学用語に「アカウンタビリティ」という言葉があります。
ビジネスでは説明責任の意ですが、心理学では「責任の概念」と捉えるそうです。
自分に起きたことは自分自身の責任の結果である、という考え方で、
ちょっと聞くと厳しそうに感じますが、実は自由に解放される道なのだとか。

なぜでしょう?
ほかの人のせいや何かのせいにしていると、心の中に罪悪感が生まれるからだろうというのが、私の解釈です。
先ほどの私の筋トレの例でも、手を抜いたことは自分が一番よく分かります。
だから、そんなときは潔くベストを尽くせなかったと思えばいいのだと思います。

昨年のウィンターシーズン、スキーを卒業するために滑り納めをしました。
しかも、ゲレンデに立つのは何十年かぶりのこと。
最後の最後の私のチャレンジは、しっかり前傾し、大きな弧を描いて滑ること。
スピードが出てしまうと怖いのですが、ベストを尽くしたと胸を張れます。
そのときに得たのは、爽快感、満足感、達成感、充足感。。。。


Ryuさんの言葉をきっかけに考えてみたら、今できる最善を目指すことは、
結果の良し悪し以上に重要な気がしてきました。
私たちは、思いもかけない不運や想定外の出来事に見舞われると、
ついそのことを悔やんで、前を向けなくなります。
自分はベストを尽くしたか?
それを基準にすると、清々しい日常に繋がっていくのかもしれません。

今日から弥生です。桜も早そうですね! そして花粉も...
元気に参りましょう!

ブログを書いている人

小野真由美

グラスルーツの代表。組織をただの集団ではなく、チームにするための組織内コミュニケーションはどうあるべきだろう?…なんていうことを、いつもツラツラ考えています。ブランディングやコミュニケーション、チームやリーダシップ系の話題が7〜8割、その他の話題が2〜3割。そんなブログを目指します。ぜひおつきあいください。

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