自分を自由に操縦する!?
ゴルフや筋トレ、ドラムなどをやっているとき、
ふとこんな感覚に陥ることがあります。
自分のボディを操っているのは操縦席にいる自分なのに、
自分をうまく操縦できていない、と。
「操縦」とは「自分の思いのままに操ること」です。
元々は乗り物を意のままに動かすことを指したのでしょうけれど、
そこから転じて、人を操るという意味でも使われます。
他人を操りたくはありませんが、
自分も誰かから操られたり、何かに支配されたくありません。
自分のことは自分で操縦したい、そう思いませんか?
でも、日常生活では自分で自分を操縦しているなどと
感じることは滅多にありません。
ボディの操縦はもちろん、マインドの操縦に関しても、
操縦しているという意識など持たないのことの方が多いと思います
まるで自動運転の車に乗っているような感覚で、
私たちは日常生活を過ごしているのかもしれません。
というわけで今回は、操縦の中でもマインドの自己操縦について
考えたいと思います。
では、伺います。次の文章の○○に入る言葉、
ご自身の場合、3分でいくつぐらい出てきますか?
「あ、また○○を食べちゃった/飲んじゃった」
「やろうと思っている○○が、またできなかった」
「ついつい○○しちゃうクセ、直らないな」
私の場合、多分3分で10件ぐらい楽勝で出てくる気がします(
そして、「なんて意思が弱いんだろう...」と自責の念にかられる。
アルアルですよね。
でも、これらは「自己操縦」の例と言えなくもありませんが、
どちらかと言えば「自己制御」、すなわち自己操縦機能の中でも
アクセルとブレーキが使えるかという話に近い気がします。
操縦席にいると、もっと困ること、怖いことがあって、
実はそれが日々起きていると思うのです。
たとえば、あなたがもし、飛行機や新幹線、
その操縦席にいて、もっとも起きてほしくないことは何ですか?
いろいろあるかもしれませんが、
そのうちの1つに「操縦席をテロリストに乗っ取られること」が
入るのではないでしょうか。
自分の意に反して、テロリストに操られてしまうことは、
最も恐ろしいことの1つだと思います。
多分もう私がお伝えしたいことが何なのか、
ぴんと来られたはずです。
自分の心が「誰か」や「何か」に「支配」された状態、
つまり自分の操縦席を奪われた状態に陥ると、
私たちは自由を失います。
支配とは、誰かや何かが人を意のままに操り、
ところが、ややっこしいのはここから先です。
相手に干渉して束縛するタイプの支配はわかりやすいですが、
一見支配されていながら、実は裏支配しているということも
深層心理的には起きるようなのです。
たとえば、支配される側に立つことで
自分を正当化して責任を相手に押し付けて支配するとか、
支配される体を取ることで相手に支配させる満足感を与えて支配を
支配させてやっている自分には価値があると認めさせて支配するな
こう聞いても、「そんな人いるの?」
威張っている人の目の前では媚び諂いつつ、
裏で悪口を吹聴している人はある意味「裏支配」
あるいは、この会社では、これこれをやりたくてもできない...
行動はしないというパターンや、
うちは創業期からずっとこれでやってきたのだから変えるわけにい
という考え方も、何かに支配されているようでもあり、
裏支配しているようでもあります。
さて、ここでもう1つの疑問が湧いてきます。
他人を支配しようとしている人や、
自分を支配できていると言えるのでしょうか。
故ネルソン・マンデラ元大統領を主人公にした映画「
ウィリアム·アーネスト·ヘンリーの詩の一節が出てきます。
「私が我が運命の支配者 私が我が魂の指揮官」
本当にそうありたいもの。
というわけで、6月も終盤です。
時速200キロ、いえ、
「ふんわり」の功罪
ChatGPTなどのAIに注目が集まっているためか、
私たちの「言語化能力」がこの先どうなっていくのか、
という問いが頭の片隅に常駐しています。
もしかしたら、このような関心は時代特有のものかもしれません。
たとえば、1冊10分で読める書籍要約サービス「flier(
アクセスランキング(2023年1月1日~31日)
年代別ランキングで、30代の上位にあったのは
1位「言語化の魔力 言葉にすれば「悩み」は消える」(樺沢紫苑/幻冬舎)
2位「リーダーは話し方が9割」(永松茂久/すばる舎)
7位「東大教授の考え続ける力がつく思考習慣」(西成活裕/
各書籍の切り口は微妙に異なるのだと思いますが、
「言語化」「伝え方・話し方」「思考整理」をテーマにした本に
関心が寄せられているのは、他の年代でも概ね同じです。
では、そもそも「言語化」とは何をすることなのでしょうか。
いろいろな表現の仕方があると思いますが、
ここでは、次のように定義してみました。
自分が頭の中で考えていることを言葉に変換し、
さらに相手がより理解しやすい言葉で伝えること。
ここで重要だと思うことが2つあります。
1つは、頭の中だけで考えることと、
一人で考え、頭の中では整理したつもりでも、
いざ人に伝えようとすると言葉に詰まるという体験、
人の脳がどのように働くのかは知りませんが、
頭の中を過ぎていく言葉であるうちは言語化とは言えないわけです
もう1つは、自分のための言葉ではなく、
相手のための言葉にしてこそ意味があるということです。
伝えたかどうかではなく、伝わったかどうかが重要なのですね。
だから、コミュニケーションを大切にしたいと思うなら、
自分の考えを言葉として発することから逃げてはいけないのだと思
一方で、人々の関心が言語化にありながら、
「ふんわり」「ふわっと」という言葉もしばしば耳にします。
いろいろな意味で使われているようですが、
その1つに「あいまいな」という意味もあるようです。
「ふんわりした話」といえば、
核心をつかないぼんやりした話というような意味でしょうか。
また、具体性に乏しく抽象度が高い話の場合も、
ふんわりしていると言ったりしますね。
「あいまい」という言葉だと少しネガティブな印象ですが、
「ふんわり」になると必ずしもそうでもありません。
今はまだ漠然としているけれど、
期待さえ抱かせる気がするのは、持ち上げすぎでしょうか。
あるいは、「内容がぼんやりしていてダメ」
「なんか、ふんわりしていますね」
あいまいさを否定しないところは、
私は言葉を使って仕事をしているので、
でも、言語化にはデメリットもあります。
逆に言えば、ふんわりにメリットがあるということです。
どういうことかというと、
言語化というのは複雑な考えやそのニュアンスを潔く絞り込む作業
捨て去る概念の中に実は大切なエッセンスが含まれている場合があ
1番大切なことは言葉になるけれど、
5番目ぐらいに大切なことは言葉にはされず、
結果的に思考の中から排除してしまうことにつながったりします。
論理的な言葉が勝り、
そのようなことと無関係ではないと思います。
仕事というのは大抵はふんわりしたところから始まります。
ふんわりしたままでは始動できないので、誰かが言語化する。
すると、具体的なタスクになっていきます。
誰かと協働するにはコミュニケーションは避けられないですし、
AI時代だからこそ言語化能力は必要不可欠になっているとも思い
言語化能力を養いながら、
今日が良い1日でありますように!