ブランディング、コミュニケーション、チームワーク…。週1回の社長ブログです

ブログ:2022年3月

社長の脳みそ整理mono-log モノログ

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最近のウクライナや新型コロナウィルスに関する問題を巡って、
テレビのニュースやSNSのタイムラインを見ていると、
「事実とはなんだろう?」という気持ちになります。
国を挙げてのフェイクニュース、
個人の私見を事実のように発しているツイート、
偏った情報だけを流すテレビ番組など、
気をつけないと、なんでもかんでも事実だと信じ込んでしまいます。

前にも少し触れた漫画(最近フジテレビでドラマ放映中)
『ミステリと言う勿れ』(田村由美作)の中で、
主人公の久能整くんは、「真実は一つじゃない、2つや3つでもない、
真実は人の数だけあるんですよ。でも事実は一つです」
という名台詞を残しています。
一方、名探偵コナンくんは「真実はいつも一つ!」と言っているようですね(笑

改めて「事実」と「真実」について辞書を引いてみました。
デジタル大辞泉(小学館)によると、
「事実」:実際に起こった事柄。現実に存在する事柄。
「真実」:うそ偽りのないこと。本当のこと。また、そのさま。まこと。

パッと見ただけだと、なんだか違いがよく分かりません。
でも、「事実」には観念的なことは含まれず、現実的な事象を指していること、
「真実」には観念的なことも現実的なことも含まれていること、そう理解すると、
久能整くんの言葉とコナンくんの言葉は矛盾していないと説明できます。
久能整くんの言う真実とは、事実に対する嘘偽りのない解釈のことなのですね。

「コップに水が200ml入っている」は事実ですが、
「コップに水が半分しかない」「コップに水がまだ半分ある」は解釈です。

同じ事実に基づいて2人の人が別々の解釈をした場合、
その人にとっての真実、すなわち解釈に正解・不正解はありません。
水が「半分しかない」も「まだ半分ある」もその人にとっての真実なわけですね。

でも、片方の人の持つ事実情報がもう片方の人より不足していたり、
間違っていたりすると、解釈自体がおかしいということにもなりえます。
また、事実情報が同じである限り、正解・不正解はないとはいえ、
ある解釈は共感され、別の解釈は共感されないということもあれば、
ある解釈は洞察が深いと評価され、別の解釈は浅いと評されることもあります。


マーケティングの権威者であるフィリップ・コトラーの本にこんな例えがあります。
ある企業で、人々が裸足で暮らしている南の島で靴を売れないかということになり、
ABCの3人の担当が現地に赴き、可能性を評価しました。
Aは「ここの人は靴をはいていない。ここには市場はない」とし、
Bは「ここの人々は靴をはいていない。ものすごい市場がある」とし、
CはBより詳細に数字的事実を理由に「この市場に参入すべきだ」と言いました。
Aの解釈もBの解釈も、必ずしも間違っているとは言えません。
でも、Cの解釈が洞察が深いと評されるであろうことは言うまでもありません。

だから、洞察を深めるには、一般的には情報が多い方が良いということになります。
その方が、高い解像度で事実を理解できるので、解釈にも深みが出るのでしょうね。


一方で、情報過多には弊害もあります。
情報が多いからといって、皆んなが皆んな、
高解像度で物事を理解し、深い解釈ができるとは限りません。

たとえば、物事の選択。
情報が多すぎると、人は適切な選択ができなくなるという実験結果があります。
細かいことが気になって、どれが重要なのか、混乱するためだそうだ。
まあ、そうでしょうね。
また、自分は情報不足なのではないかという脅迫観念に縛られて、
情報を追いかけるうちに「情報過多シンドローム」に陥る人もいるそうです。
知っている情報が思い出せない、話が理解できないといった症状が特徴らしいので、
なんとも皮肉な話です。

事実情報とどうつきあうか、つくづく難しさを感じます。
でも、いずれにしても、
情報に振り回されたくないですし、
人生は知識の暗記を求められる受験勉強ではないのですから、
インプットした事実情報に対し、
自分なりの解釈を持たないと意味がないとも思います。
そのためにも、受け取った情報が事実なのか解釈なのか、
見極めることが大切ですし、
部下やお客様とのコミュニケーションでもその意識を持つことが必要ですね。
人は、自分の解釈を事実であるかのように思い込んでしまいやすいので、
事実なのか解釈なのかという自問も欠かせません。

いやー 情報社会に生きるって大変ですね~
今週も1週間、おつかれさまでした!!
来週も元気に行きましょう!

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世の中を見て教わったことがたくさんあります。
その一つが「紹介」の不思議。

人に、誰かを紹介し、繋ぐことありますか?
反対に、人から誰かを紹介されることは?
公私問わず、もちろん、ありますよね。
いったいどうして「紹介」が起きるのでしょう?

私は、今でこそ紹介する・されるのどちらもありますが、
20代の頃は、紹介されることの方が圧倒的に多かったです。
ありがたいことに、人だけではなく、仕事も紹介していただきました!

仕事で出会った方が、私のことを思い出して、
ほかの人に紹介してくれる。
何かしら気に入られたからなのだろうとは思いますが、
何をモチベーションに紹介してくれるのか、やっぱり不思議でした。

しかも、若い時は勝手がわからず、
特別なお返しをしなくていいのか、気になったものです。
ですが、今思えば、それは失礼なものの見方でした。
なぜなら、皆さん、純粋な気持ちで紹介してくださったのだと思うからです。


時は進み、今から17年ほど前。。。
当時、私は40代になっていましたが、
当社の20周年のパーティーに集まってくれた方たちの
相関図は実に興味深いものでした。
知り合いを6人辿れば誰とでもつながれると言いますが、
100人ほどの出席者が何らかの形でつながっていました。
しかも、その繋がりは直列的なものばかりではなく、
HUBのような形で繋がっている人もいました。

まさに縁送りとはこのことだと思ったものです。
そんなこともあって、いつのまにか自分も
人と人を繋げる動きをするようになりました。
縁送りは恩送りでもあるのかもしれません。


「人を紹介する・される」という言葉に抵抗感を抱く人はいないと思いますが、
「人脈づくり」と聞くと、なぜか少し心がザラっとします。
なぜでしょう? 多分、その言葉には、
損得勘定のようなものが見え隠れするからかもしれませんね。
いろいろな人生観があっていいと思いますが、
個人的には人脈というのは打算的に「作る」というよりも、
「信頼の結果」なのではないかと思います。


さて、「紹介」という行為。その本質は何なのでしょうか?
少なくても、Give & Takeで行うものではない気がします。
レバレッジシリーズを書いている本田直之さんは、
著書「レバレッジ人脈術」の中で人脈の本質はギブではなく、
コントリビューション(貢献)だと書いているようですが、
貢献欲求もあるでしょうけれど、
繋がりのシェアという感覚の方が近いような気がします。


そう思う理由は、自分自身が誰かを誰かに紹介しようと思うとき、
次のような条件が重なることが多いからです。

第1に、あの人にこの人を引き合わせたら、何かしら化学反応が起きて、
それは双方にとって良いことなのではないかと思えること。
第2に、その人の夢や志を知っていて、応援したいと思えること。
第3に、人として、信頼できると思っていること。


反対に、頼まれても絶対紹介しないと思う人もいます。
第1は、損得勘定でしか人と付き合わな人。
第2は、自分の話しかしない人。
第3は、いい加減な人。(ほかにもありそう笑)
こう考えてみると、紹介する・されるというのは、とても貴重なことですね。

縁をもらい、縁を繋ぎ、また縁をもらい、また縁を繋ぐ。
縁をいただくには、自分のことしか考えないようではダメですね。
縁をいただきたいから、こうすると考えるのもきっとダメですね。
英語でも「Pay it forward」という表現があるくらいだから、
縁は、グローバルでも大切な考え方なのかもしれません。


花粉が悩ましい季節の変わり目。
体調を整えて乗り切りましょう! 素敵な1日を!

ブログを書いている人

小野真由美

グラスルーツの代表。組織をただの集団ではなく、チームにするための組織内コミュニケーションはどうあるべきだろう?…なんていうことを、いつもツラツラ考えています。ブランディングやコミュニケーション、チームやリーダシップ系の話題が7〜8割、その他の話題が2〜3割。そんなブログを目指します。ぜひおつきあいください。

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