事実と真実はどう違う? ~事実情報とのつきあい方
最近のウクライナや新型コロナウィルスに関する問題を巡って、
テレビのニュースやSNSのタイムラインを見ていると、
「事実とはなんだろう?」という気持ちになります。
国を挙げてのフェイクニュース、
個人の私見を事実のように発しているツイート、
偏った情報だけを流すテレビ番組など、
気をつけないと、
前にも少し触れた漫画(最近フジテレビでドラマ放映中)
『ミステリと言う勿れ』(田村由美作)の中で、
主人公の久能整くんは、「真実は一つじゃない、
真実は人の数だけあるんですよ。でも事実は一つです」
という名台詞を残しています。
一方、名探偵コナンくんは「真実はいつも一つ!」
改めて「事実」と「真実」について辞書を引いてみました。
デジタル大辞泉(小学館)によると、
「事実」:実際に起こった事柄。現実に存在する事柄。
「真実」:うそ偽りのないこと。本当のこと。また、そのさま。
パッと見ただけだと、なんだか違いがよく分かりません。
でも、「事実」には観念的なことは含まれず、
「真実」には観念的なことも現実的なことも含まれていること、
久能整くんの言葉とコナンくんの言葉は矛盾していないと説明でき
久能整くんの言う真実とは、
「コップに水が200ml入っている」は事実ですが、
「コップに水が半分しかない」「コップに水がまだ半分ある」
同じ事実に基づいて2人の人が別々の解釈をした場合、
その人にとっての真実、すなわち解釈に正解・
水が「半分しかない」も「まだ半分ある」
でも、
間違っていたりすると、
また、事実情報が同じである限り、正解・不正解はないとはいえ、
ある解釈は共感され、
ある解釈は洞察が深いと評価され、
マーケティングの権威者であるフィリップ・
ある企業で、
ABCの3人の担当が現地に赴き、可能性を評価しました。
Aは「ここの人は靴をはいていない。ここには市場はない」とし、
Bは「ここの人々は靴をはいていない。ものすごい市場がある」
CはBより詳細に数字的事実を理由に「この市場に参入すべきだ」
Aの解釈もBの解釈も、必ずしも間違っているとは言えません。
でも、
だから、洞察を深めるには、
その方が、高い解像度で事実を理解できるので、
一方で、情報過多には弊害もあります。
情報が多いからといって、皆んなが皆んな、
高解像度で物事を理解し、深い解釈ができるとは限りません。
たとえば、物事の選択。
情報が多すぎると、
細かいことが気になって、どれが重要なのか、
まあ、そうでしょうね。
また、自分は情報不足なのではないかという脅迫観念に縛られて、
情報を追いかけるうちに「情報過多シンドローム」
知っている情報が思い出せない、
なんとも皮肉な話です。
事実情報とどうつきあうか、つくづく難しさを感じます。
でも、いずれにしても、
情報に振り回されたくないですし、
人生は知識の暗記を求められる受験勉強ではないのですから、
インプットした事実情報に対し、
自分なりの解釈を持たないと意味がないとも思います。
そのためにも、受け取った情報が事実なのか解釈なのか、
見極めることが大切ですし、
部下やお客様とのコミュニケーションでもその意識を持つことが必
人は、
事実なのか解釈なのかという自問も欠かせません。
いやー 情報社会に生きるって大変ですね~
今週も1週間、おつかれさまでした!!
来週も元気に行きましょう!
「紹介」の不思議
世の中を見て教わったことがたくさんあります。
その一つが「紹介」の不思議。
人に、誰かを紹介し、繋ぐことありますか?
反対に、人から誰かを紹介されることは?
公私問わず、もちろん、ありますよね。
いったいどうして「紹介」が起きるのでしょう?
私は、今でこそ紹介する・されるのどちらもありますが、
20代の頃は、紹介されることの方が圧倒的に多かったです。
ありがたいことに、人だけではなく、
仕事で出会った方が、私のことを思い出して、
ほかの人に紹介してくれる。
何かしら気に入られたからなのだろうとは思いますが、
何をモチベーションに紹介してくれるのか、
しかも、若い時は勝手がわからず、
特別なお返しをしなくていいのか、気になったものです。
ですが、今思えば、それは失礼なものの見方でした。
なぜなら、皆さん、
時は進み、今から17年ほど前。。。
当時、私は40代になっていましたが、
当社の20周年のパーティーに集まってくれた方たちの
相関図は実に興味深いものでした。
知り合いを6人辿れば誰とでもつながれると言いますが、
100人ほどの出席者が何らかの形でつながっていました。
しかも、その繋がりは直列的なものばかりではなく、
HUBのような形で繋がっている人もいました。
まさに縁送りとはこのことだと思ったものです。
そんなこともあって、いつのまにか自分も
人と人を繋げる動きをするようになりました。
縁送りは恩送りでもあるのかもしれません。
「人を紹介する・される」
「人脈づくり」と聞くと、なぜか少し心がザラっとします。
なぜでしょう? 多分、その言葉には、
損得勘定のようなものが見え隠れするからかもしれませんね。
いろいろな人生観があっていいと思いますが、
個人的には人脈というのは打算的に「作る」というよりも、
「信頼の結果」なのではないかと思います。
さて、「紹介」という行為。その本質は何なのでしょうか?
少なくても、Give & Takeで行うものではない気がします。
レバレッジシリーズを書いている本田直之さんは、
著書「レバレッジ人脈術」の中で人脈の本質はギブではなく、
コントリビューション(貢献)だと書いているようですが、
貢献欲求もあるでしょうけれど、
繋がりのシェアという感覚の方が近いような気がします。
そう思う理由は、自分自身が誰かを誰かに紹介しようと思うとき、
次のような条件が重なることが多いからです。
第1に、あの人にこの人を引き合わせたら、
それは双方にとって良いことなのではないかと思えること。
第2に、その人の夢や志を知っていて、応援したいと思えること。
第3に、人として、信頼できると思っていること。
反対に、頼まれても絶対紹介しないと思う人もいます。
第1は、損得勘定でしか人と付き合わな人。
第2は、自分の話しかしない人。
第3は、いい加減な人。(ほかにもありそう笑)
こう考えてみると、紹介する・されるというのは、
縁をもらい、縁を繋ぎ、また縁をもらい、また縁を繋ぐ。
縁をいただくには、自分のことしか考えないようではダメですね。
縁をいただきたいから、こうすると考えるのもきっとダメですね。
英語でも「Pay it forward」という表現があるくらいだから、
縁は、グローバルでも大切な考え方なのかもしれません。
花粉が悩ましい季節の変わり目。
体調を整えて乗り切りましょう! 素敵な1日を!