「待つ」で考える「人との関係」
あなたは、誰かが自分を待っていると感じることはありますか?
若い頃、実家の両親は私の訪問をいつも待っていたと思いますが、
親の言いなりになるのが嫌だったのか、
期待に添うような行動を取りませんでした。
当時、実家は30分ほどで行ける場所にあり、
帰ろうと思えばいつでも帰れたはずなのに、若気の至りです。
待ってくれる人がいる幸せに気づかなかったんですね。
別の例で、最近、こんなこともありました。
青山で30年以上にわたって、こだわり系の飲み屋さんをやっている人から、
「コロナで営業が大変だから、来てほしい」と電話がありました。
偶然にも同じ世代。口が悪く、個性的なオーナーです。
どうしようか?...と一瞬思ったけれど、結局行きましたよ(笑)
相手が待っているのは、私ではなく、お金を落とすことなのかもしれませんが、
やっぱり、そこには人間関係があります。
「待つ」は「期待」だと理解するようになって、
「待つ」にもいろいろな意味があることを知りました。
ある人の元気な姿を見たくて待っている人。
自分の気持ちや行動に気づいてほしいなと思って、待っている人。
与えた課題を部下がクリアしてくれることを待っている上司側の人。
提出した課題にOKが出るのを待っている部下側の人。
あなたは、誰を待っていますか?
誰が、あなたを待っていますか?
待つ=期待。
そう思うと、その人との関係も見え方が変わってきますよね。
ところで、世の中には「指示待ちはダメ」という考え方があります。
指示待ちが起きる主な要因は、2つあるのではないでしょうか。
1つは、その人の思考行動特性のような、内的要因。
もう1つは、その人と指示を出す側の人との間にある、関係的要因です。
今日のテーマで取り上げたいのは、後者です。
その昔、PR会社に転職した私の若い頃の経験を例に考えてみました。
ある時、制作部からマスコミ対応や取材誘致を行うPR部へと異動になりました。
上司は私が右も左もわからないだろうからと、
「自分の人脈を紹介するので、待ってて」と言いました。
知り合いの記者にアポを取って、連れて行くという意味です。
ところが、その後、何週間かして「記者さんの紹介の件ですが...」と聞いても、
「わかっているから、ちょっと待ってて」と。
私の異動と同じ頃、ある日、経験者が入って来ました。
彼女は、入社の翌日に「プレスを回りたいので、名刺をください」と。
それを聞いた上司の反応は、大絶賛でした。
「え? そういうこと?」
上司の「待ってて」は何だったのだろうと思いながら、
それをきっかけに、私は目的から考えればわかることを一人で始めました。
このことから何がわかるでしょうか?
この時の私の指示待ちの責任は上司にある、と言うつもりはありません。
私と上司との関係や私の認識から生まれたのだと思います。
その認識とは、次のようなものでした。
・自分は上司に心配されている。
・勝手に動いて、変なことをされては困ると思われている。
・上司は、部下の面倒を見るのが自分の仕事だと思っている。
概ね正しいと思いますが、でも、こう申し出ることもできたはずです。
「紹介していただけるのはありがたいので、ぜひお願いします。
でも、自分としては、わからないなりにやってみたいので、
注意事項があれば教えてください」。
そう言われた上司が私を止めたとは思えません。
それなのに、私がそう言わなかったのは、上司を不安にさせないようにとか、
上司を立てないと悪いなど、そんな遠慮があったからでした。
つまり、指示待ちにならないための前提として必要なことは、
あなたはきっとできると信頼され、期待されていると思える関係があること。
そんなふうに考えますが、いかがでしょうか。
自分の体験ばかり書いてしまいました。
読んでくださってありがとうございます。
「待つ」という行為から、あなたと周りの人との関係を考えたら、
何が見えてくるでしょう?
どうぞ素敵な1週間をお過ごしください!
「〜とは?」という問いはパワフルです!
あなたは「自分にとって、〜とは?」と考えることはありますか?
私は、何かについて立ち止まって考えるとき、よくこう自問します。
今日この話を書こうと思ったのは、最近2つの出来事があったからです。
一つは、私が参加している俳句の会での出来事です。
昨年開催された高校の同期会をきっかけとして、
いくつかの大人の部活動が始まりました。
その一つが「一句会」なる俳句の会です。
師といえば、夏井いつき先生の本やYouTube、プレバト。
歳時記や植物検索アプリ片手に、ゆるいルールで作句しています。
毎月1回、投句、選句、句会があり、すべてネットで完結しています。
一昨日の土曜、一周年記念のzoom句会(兼飲み会)がありました。
司会当番だった私は、いつものコメント交換に加えて、
「自分にとって、俳句とは?」
を考えてきてもらうよう参加者にお願いしました。
するといろんな声が集まりました。俳句とは...
「記録して、記憶するためのもの」
「心地よいエクササイズ」
「心の写真」
「気持ちとシーンを重ねて切り取ったもの」
「感性に刺激を与えるもの(喜び)」
「遊び」
「日記」
「自分が感じたことを人と共有できるように表現したもの」etc.
同じ俳句に対して、人によってこんなに違うっておもしろいですよね。
それは、俳句へのその人の意味づけであり、
見方や価値観のようなものにもつながっています。
私自身は、割と気軽な気持ちで取り組んでいるので、
俳句とは「記録して、記憶するためのもの」と捉えていました。
「日記」と言った人に近い感覚です。
でも、人の俳句観を聞くうちに、
自分の俳句に対する見方「俳句とは?」を変えると、
作り方も変わり、出来上がる俳句も変わるだろうと思いました。
「自分にとって、〜とは?」という質問は、
結構パワフルだと思いませんか?
ものの見方をリセットでき、アウトプットを変えてしまうのですから。
もう一つの出来事は、先週木曜日のこと。
ある企業からの依頼で、インナーコミュニケーションをテーマとする
オンライン勉強会でレクチャーしました。
冒頭、私は自己紹介でこんなことを話しました。
考えを言葉で整理する役割
「コンセプトオーガナイザー」を自認していて、
「もやもやを放置しないこと」を大切にしています、と。
すると、勉強会の終盤の質疑応答の時間に、こんな質問がありました。
「もやもやをクリアにするために、どんな心がけが大切でしょう?」
私が答えたのは「〜とは?と考えて、言葉の定義を明確にすること」
「自分一人でするのではなく、周りの人と定義を考えること」でした。
どうでしょう?
実は、こういうことって、あまり行われていないと思いませんか?
たとえば、ある調査によれば、社内コミュニケーション活動の三大目的は、
•コミュニケーションの活性化
•経営理念やビジョンの浸透
•社内(グループ内)の一体感の醸成
...だそうです。
でも、、、、
「活性化とは?」
「浸透とは?」
「一体感とは?
言葉の定義次第で、何を達成しなくてはいけないのか、
ゴールも変わってきます。
なのに、「定義」が話し合われない。
これは日本語だからなんでしょうね。
みんな辞書的な意味はわかっているので、
わかっている「つもり」になってしまいます。
言葉の粒度が細かいと、コミュニケーション密度も高まるんですが。。。
8月になりました。
「自分にとって、〜とは?」という自問をし、あれこれとリセットしようかな?
どうぞ素敵な1週間をお送りください。