自分に興味を持つことは、自分を大切にすること
あなたは、もし上司から「何でもやっていいよ、
今までやっていないようなことにチャレンジしてほしい」と言われたら困りますか?
先週、ある企業のトップから、社内に対しては「何でもやって良い」という
メッセージを出していると伺いました。
でも、「何でもやって良い」と言われると戸惑う人もいる...
そんなことに話が及んだので、今日はそこを糸口に考えていきたいと思います。
確かに、戸惑わない人より、戸惑う人の方が多いような気がしますよね。
その方も上場企業の社長でしたが、
おそらく社長やリーダーになっていく人たちは、
「何でもやってよい」と言われて困ることはないと思います。
私も、規模は小さくても一企業の社長をしているわけですが、
若い時から、言われなくても何でもやってきたように思います。
「何でもやってよい」と言われると困る人と困らない人の違いは何なのでしょうか?
あ、誤解があるといけませんね。
ここでは、困らない人の方がエライと言いたいわけではなく、
いろいろな価値観や行動パターンがあることに目を向けたうえで、
私自身にとってもヒントになることを探したくて書いています。
「何でもやってよい」と言われて困るということの本質は何でしょうか?
きっと「そう言われても、何をしていいかわからない」ということですよね。
この状態は、何かをしたいという欲求がない状態とも言えますし、
見方によっては、あまり考えずにいる状態とも言えます。
というのは、欲求というのは好奇心を抱いて初めて湧いてくるものですが、
物事をぼーっと眺めていただけでは好奇心は湧いてこないからです。
こんな状態でチコちゃんに出会ったら、
「ボォーと生きてんじゃねーよ」と叱られてしまうかもしれません(笑)
でも、、、
果たして、好奇心も欲求もないという人は存在するでしょうか?
私は人間である以上、誰もが持っているものだと思います。
ところが、自分の好奇心や欲求に意識を向けて暮らしている人は
意外に少ないのかもしれません。
というのは、考えないことには好奇心が生まれない、
好奇心が生まれないと欲求も生まれないという図式から見ると、
考えるからこそ気持ちが動き出すわけです。
ところが、戦後の学校教育では考えることを疎かにしてきたからか、
多くの人は自分の好奇心や欲求に気づけない、それが私の仮説です。
幸いなことに、私自身は小学校の3〜4年生の時に、
考える楽しさを教えてくれる素晴らしい先生と出会いました。
教え方も含めて、とても大きな影響を受けたと思います。
でも、考えることに慣れていない原因が学校教育にある、
と他責で考えてしまうのは簡単過ぎますよね。
特に、今の時代はAI社会です。
想像や創造など、人間だから持っている本来の能力を眠らせておいたなら、
ロクなことになりません。
では、自分の考えを深めるためのコツはあるのでしょうか?
私は、考えることに慣れていない人は、
考える際の入り口で性急に答えを求めすぎなのではないかと思うことがあります。
たとえば「何でもやってよい。何をするか考えて」と言われたとします。
このときに、考えることに慣れている人は、
「何をすべきか」といきなり考え出しません。
でも慣れていないと、そこから考えようとしてしまうのではないでしょうか。
入り口で、結論的な答えを見つけようとしてしまうと、
考えることなどできないということを知らないために、
うまく考えることができないのではないか、
これが私の仮説です。
では、考える行為の入り口にあるべきものは何でしょうか?
それは、心に湧いてきた「疑問」を
言葉にして自覚できるようにすることです。
「何をすべきか」というのも、一応「問い」の形式にはなっていますが、
この問いは「答えは何か?」と言っているのと同じなので、
考えを深めるように作用する問いではありません。
だから、最初にすべきことは素朴な疑問を言葉にすることだと思います。
しかし、こんな反論もあるかもしれません。
考えることに慣れていない人間にとっては、
その疑問さえ浮かんでこないのだ、と。
確かに、疑問さえ浮かばないという時点で、
考えるのをやめたくなってしまうことはありそうです。
というのは、学校で習うことの大半には正解がありましたが、
疑問に正解はありません。
正解がないのに、正解探しをしたくなるから、
それが私たちにとって大きなストレスになります。
でも、本当は正解がないからこそ、そこを楽しんだらいいのでしょうね。
また直感に対して否定的に感じてしまっていると、
それも考えない方向へと向かわせる気がします。
直感的にはこう思う、けれど理由はよくわからない...というときに、
プライベートはともかく、仕事の場では
なかなかそうは言いにくいのが実情ではないでしょうか。
でも、直感的に思ったことには大抵理由があります。
だからこそ、直感的に思ったことを大切にして理由を探していけば、
立派な考えにたどり着くはずなのですが、
直感的に思ったことはダメなことと決めつけていたり、
直感的に思ったことに理由なんてないと思い込んでいると、
自分の考えを育てられなくなってしまいます。
そうだとしたら、もったいないですね。
さて、、、
私のカンペ的な問いはこちらです。
「そもそも、これは何のため?」
オーソドックスだけど、強力な問いかけの代表選手です。
そして、自分は考えているつもり...という私のようなリーダーが注意すべきなのは、
自分の考えこそ正しいと固執せず、他の人の考えに目を向けることかもしれません。
さらに、若い人に対して考える楽しさを伝えること、ですかね〜?
私に影響を与えてくれた恩師のように。
これも、ここまで書いてきたから気づいたこと。書くって大切ですね。
なんやかんやたくさん書いちゃいましたが、
今日、私が一番伝えたかったことは、
自分の心の動きに対し、自分自身が興味を持つことの大切さです。
心をよぎった疑問や興味、ときめきやザワザワをスルーしないことは、
自分を大切にする基本中の基本ではないでしょうか。
ゴールデンウィーク直前の1週間。
平成最後の1週間です。
お互いに存分に味わいましょう!
今を生きるために何を手放す?
今日は、一つのビデオ(上)を紹介します。
O&Oアカデミー創設者プリタジさんのTEDでのスピーチです。
彼女の考えによれば、ストレスや苦しみの意識の中で、幸福を考えても限界があり、
美しい意識状態にあってこそ、幸福に到達できる...そんなプレゼンテーションです。
イェスミとノーミ、二人の登場人物による物語を通じて、
そのメッセージを伝えています。
イェスミとノーミは、誰の中にもいるであろう心の動きを意味しています。
18分ほどの動画ですが、
聞けば聞くほど、あぁ、そうだなと思います。
ストレスの多い現代社会だからこそ、こうした考え方が必要だと感じました。
私たちはノーミになりやすい。
ノーミになっていることさえ気づかず、
自分を正当化する毎日を送っているのかもしれない。
そんな気づきを与えてくれます。
イェスミは、周りの目など気にせずに、自分の信じる通りの生き方をしています。
人にとってストレスになりうるネガティブな感情を超越して生きています。
本当にそれを実現することはたやすいとは思えませんが、
人のあり方としての理想のように思えました。
さて、話は関連するような、しないような。
個人的な話で恐縮ですが、昨日は母の一周忌でした。
命日は5月6日ですが、連休前にということもあって、昨日執り行いました。
母は、すい臓がんで余命宣告をされていましたが、
去年の今頃はすでに宣告よりもずいぶん長生きしていました。
4月初めはギリギリ寝たきりではなく、一緒にお花見をしました。
母はビール党で、大好きなスーパードライをまだ飲めていました。
そして、4月後半から食事もできなくなり、起きられなくなりましたが、
なぜか、母にも私にも悲壮感がなく、
亡くなったその瞬間にさえ一滴の悲しみもありませんでした。
むしろ、誇らしい気持ちで送り出した感じでした。
母の振る舞いや佇まいが私をそういう気持ちにさせたのだと思います。
今思えば、母がプリタジさんの物語のイェスミのように見えたのかもしれません。
何しろ85歳ですし、まだら認知ですから、
どこまで何がわかっていたのか、正確なところはわかりません。
でも、プリタジさんが言う「自分、自分、自分、、、」ということはなく、
自分の人生や過去に執着する様子もなく、
でも、今を大切にして「おいしいね」「きれいね」と言ったり、
施設のスタッフに「ありがとう」「悪いわね」と言ったり。
彼女にも人生に執着する時期はあったと思います。
いえ、ありました。
それなのに、どうしてあんなにあっさり手放せたのか。
もしかしたら、「2度目のがん」だったからかもしれません。
40代の終わりに乳がんになったとき、母はもっと人生に執着していたような。
そりゃそうですよね、しない方が不思議だから。
でも、85歳になって、何か達観したのでしょうか。
答えは謎です。
もしかしたら、ただ単に母を美化しているだけかもしれません。
でも、私にとってはある種の教材を母から与えられた心境です。
私は今を生きるために、いったい何を手放すべきなのか、
そんな問いが浮かんできました。即答できるものは何もありません。
あなたご自身はどうですか?
今週も素敵な1週間をお過ごしください。
飾らない話は心地よい
桜が花咲き、春が訪れました。
なぜか心がウキウキするのは、季節のせいでしょうか?
今年に入って多忙続きだったのですが、今月はようやく一段落。
新しいことをどんどんやって行こうと思います!
(1月と4月、私を前向きにさせてくれてありがと〜 笑)
さて、、、
そんな心のゆとりもあって、先週は二人の方と夜、会食しました。
一人は男性Aさん。もう一人は女性Bさんです。
どちらもお客さまでも取引先でもなく、
でも、仕事をきっかけに出会った方たちです。
男性Aさんとの食事は私がアポを申し込み、
女性Bさんとの食事は誘っていただいたのがきっかけです。
仕事をきっかけに出会ったからか、
お互いに自分の仕事の話をよくしました。
そもそも私も含めて、仕事とプライベートで線を引かない人種なのかも。
しばらく会わない間に起きたこと、今の状況、感じている課題、
これからチャレンジしたいことなど。
私も話しますし、相手の方も話してくれます。
なんというか、お互いに飾らずに話している実感がある。
これは、心地よい時間以外の何物でもありません。
さらに、カッコつけないでいることは、距離感をぐっと縮めます。
飾らない心地よさというものに加えて、
そこにあるのは「考える場」の楽しさでした。
話を聞く。
興味を持つ。
直感的な感想を言う。
質問する。
考えを言う。
別の視点の新たな考えが返ってくる。
質問する。
また考えを言う。
その結果、自分の人生を豊かにするような発見があり、
その人の新たな一面を知ると言う発見がある。
それも受け身で聞いていたのでは起きようがなく、
興味を持って話を聞き、
その話を元に自ら考えるから楽しいのだと思います。
「考える楽しさ」というのは、上辺だけの関係では生まれない、
飾らない関係だから生まれる楽しさですね。
もうひとつ気づいた点があります。
忘れた頃に再会する...という傾向、私の人間関係にはあるようです。
Bさんとはたまたま3カ月ぶりでしたが、
Aさんとは3年ぶりでした。
なのに、久しぶり感からくる「ぎこちなさ」はまったくありませんでした。
Aさんだけではありません。
ここ数カ月の間に何人かの方たちと数年ぶりに会いましたが、
どの相手とも、まったく久しぶり感を感じませんでした。
これ、ほんとうに不思議です。
久しぶりに会って、普通ならぎこちなくなりそうなものなのに、
お互いがそうならないのはなぜなのでしょう?
答えは誰にもわかりませんが、
自己防衛しないで接すると、相手もオープンに接してくれる。
フラットな接し方をすると、相手もそのように接してくれる。
どちらからともなく、そんなことが起きている気がします。
私自身は、それがもう自分らしさなので、
あえて意識しなくてもそうなってしまっている気がします。
お互いがそうであると、最初からオープンでフラットな場になり、
「何を話そう?」「沈黙が怖い」「よく思われたい」という心理に陥ることもなく、
あっというまに自分らしく振る舞い合える場が生まれます。
私のこの仮説が正しいとしたら、
自己防衛しない、オープンかつフラットでいる、
つまりは「飾らない」というのは、
心地よい人間関係を作るもっとも手っ取り早い方法かもしれませんね。
飾らない話、飾らない関係を大切にする人。
自分らしくあることを大切にする人。
そんな人たちが集まった会社。
その先にある社会。
そういう理想を掲げ続けたいな。
4月第2週目です。
素敵な1週間でありますように!
令和〜そして、美智子さまと「でんでんむしのかなしみ」
今日、平成に変わる新元号が発表されました。
「令和」
最初はぴんとこなかったのですが、
万葉集の梅の花の歌の序文
「初春の令月(れいげつ)にして、
氣淑(きよ)く風和らぎ、
梅は鏡前(きょうぜん)の粉(こ)を披(ひら)き、
蘭は珮後(はいご)の香(こう)を薫(かお)らす」から引用した...
そう聞くと、とても素敵な元号に思えて来ました。
万葉集は、さまざまな身分の人々が詠んだ歌を集めていますので。
「平成」の発表の際は、昭和天皇崩御の流れからのものでしたので、
あまり明るい気持ちになった記憶がありません。
でも、今回は新しい時代が始まることに自分も含め、
社会が希望を見、ワクワクしているのを感じました。
平成は、あと1カ月で幕を閉じます。
こういう時期だからだと思いますが、
週末、NHKで「天皇 運命の物語 第4話〜皇后 美智子さま」
という番組が放映されていました。
お生れから現在までをなぞったドキュメンタリーです。
憲法で、天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴と定められていますが、
私は子どもの頃、この「象徴」の意味がよくわかりませんでした。
でも、最近はわかります。
テレビ報道などで、天皇皇后両陛下の映像を拝見していると、
素晴らしいお人柄が滲み出ていて、
自分も人としてこうありたい、少しでもこのような徳を持った人間になりたい、
そんな気持ちになります。
だから、今は「象徴」というのは日本人のアイデンティティに根ざした「手本」
を意味するのだと思っています。
けれど、生まれたときから持っていたものだけでは
あそこまでのオーラは出ないのではないでしょうか。
いえ、もちろん生まれ持った品格は当然あると思いますが、
でも、
人として、あるべき理想を描き、毎日求めて生きてこられたからこそ、
仁智溢れる何かが伝わってくるのではないでしょうか。
天皇陛下と歩み、支えてこられた美智子さま。
その人生観に影響を与えた児童文学があります。
幼少期に読んだ新美南吉の「でんでんむしのかなしみ」です。
美智子さまは、1998年に開催された第26回IBBY(国際児童図書評議会)の
ニューデリー大会基調講演において紹介しています。
その物語は、こんな内容です。
ある日、でんでん虫(カタツムリ)は「自分の殻の中には『悲しみ』しか詰まっていない」と気付き、「もう生きていけない」と嘆く。そこで友だちのでんでん虫にその話をすると「自分の殻も悲しみしか詰まっていない」と言われ、また別の友だちからも同じことを言われた。主人公のでんでん虫はやっと「悲しみは誰でも持っている」と気づく。自分の悲しみは自分で堪えていくしかないと嘆くのをやめた。
IBBYにおいて、美智子さまはこの話を次のように紹介しています。
http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/ibby/koen-h10sk-newdelhi.html
その頃、私はまだ大きな悲しみというものを知りませんでした。だからでしょう。最後になげくのをやめた、と知った時、簡単に「ああよかった」と思いました。それだけのことで、特にこのことにつき、じっと思いをめぐらせたということでもなかったのです。
しかし、この話は、その後何度となく、思いがけない時に私の記憶に甦って来ました。殻一杯になる程の悲しみということと、ある日突然そのことに気付き、もう生きていけないと思ったでんでん虫の不安とが、私の記憶に刻みこまれていたのでしょう。少し大きくなると、はじめて聞いた時のように、「ああよかった」だけでは済まされなくなりました。生きていくということは、楽なことではないのだという、何とはない不安を感じることもありました。それでも、私は、この話が決して嫌いではありませんでした。
皇太子妃として皇室に入られてから、皇后になられ、
美智子さまご自身にもさまざまなご心労があったことでしょう。
思い起こせば、バッシングを受けて、失声症となった時期もありました。
もしかしたら、そんな時は「でんでんむしのかなしみ」に
支えられたのかもしれません。
美智子さまから醸し出されているあの慈愛は、
元来お持ちだったものに加えて、
きっとご自身が人としての感情と向き合い、
ご自分を高めて来た中で培われたもののように感じます。
番組では、被災地を訪れて掛けられている言葉自体は
決して特別な言葉ではなく、ごく普通の言葉だったけれど、
その言葉とともに寄り添おうとする気持ちが尋常でなく強いことが相手に伝わる、
と紹介していましたが、本当にそうなのだと思います。
ただただ美智子さまのお人柄に敬服と憧れを抱く、
そんなブログになってしまいました。
新年度が始まりました。
気持ちをリフレッシュして、いいスタートを切りたいですね。
どうぞ素敵な1週間を!