その謙遜は必要か?~謙虚と謙遜は違うという視点から
今日は、冒頭からちょっと脇道にそれて、お知らせを。
私事ですが、10月11日(木)から17日(水)の7日間、
表参道のギャラリーConcept21で「Denim Age~自由であるということ」
という個展を開きます。
「デニムエイジ 自由であること」で検索してみてください。
ほぼ在廊していますので、お時間が許せば、
私は、
幸せだな、と思います。
どこかで、もう少し詳しく話させてくださいね。
さて、、、今日もそんなことと無関係ではありません。
最近の当社社内の重要な話題、それは、
18日の今日もそんなミーティングを行う予定です。
そんな中、行動面での「謙遜」についても話題になっているので、
今日は、「謙遜」について、真正面から考えてみたいと思います。
というのも、当社の価値観には、不必要にへりくだったり、
不必要に自分で自分を下げることを「非」
社内も社外も上も下もなく、対等な関係であることを「是」
謙虚、謙遜、卑下。
これらは、本来違うのに、
特に日本社会では、謙虚謙遜は美徳とされています。
でも、この二つは本質的に違うことです。
いったい、どう違うのでしょうか?
ゆっくり考えてみましょう。
今、謙虚を辞書で調べると、
「自分を偉いものと思わず、すなおに他に学ぶ気持があること」
つまり、
一方の謙遜の辞書的な意味は
「へりくだること。控え目なつつましい態度でふるまうこと」
「へりくだる」というのは
「他人を敬って自分については控えめな態度をとること」です。
これだけを聞いたら、一概に悪いこととは言えません。
でも、言葉の意味からわかることは、
この言葉は「振る舞い」を示しているということです。
つまり、謙虚=姿勢、謙遜=振る舞い、なので、
謙虚な気持ちがない人が謙遜して振る舞うと、
あるいは単なるお約束として、その振る舞いをすると、
それは単なるポーズにしか映りません。
人の嗅覚は鋭く、それはいとも簡単に見抜かれます。
謙遜表現の中でも、私があまり好感を持たない例を挙げると、
まず身内を悪くいう「愚妻」「愚息」。
褒められた時に返す「いえいえ、私なんて...」。
自分を下げて相手を持ち上げる「私には到底思いつきませんが、
露悪的にエクスキューズして「自分はおばちゃんだから/
これらは決して「謙虚」さの表れではありません。
これらは「卑下」、一歩譲ったとして「謙遜」です。
「卑下」とは、「自分を人より劣った者として扱うこと。
へりくだること。謙遜すること」です。
「卑下」は字面も美しくありませんが、
字面から浮かぶ行為も美しくない、と思いませんか。
だって、自分を卑しめ、
謙遜と卑下は、本来的には違うことですが、「振る舞い」
そして、この振る舞いをされた時に、私たちが感じるのは、、、、
実は「負担」。
「ご謙遜、ご謙遜」というセリフがあります。
あれは、謙遜されたら言い返すお約束のセリフでもあります。
これ、はっきり言って、面倒な慣習ではないでしょうか。
だって、「何をおっしゃいます、そんなことはありません」と
否定しなくてはならない。
内心はポーズとして言っているのだと分かっているのに、
わざわざケアする(これまたポーズで)。
よーく考えてみたときに、これ、
あー 私、エラそうに書いていますね。でも、
40歳頃だったでしょうか。
同級生と飲んでいました。で、私がこんな発言をしたのです。
「ごめん、もうおばちゃんだから...」とか
「おばちゃん、もうついていけない...」とか
文脈も言い回しも忘れてしまいましたが、
キーワードが「おばちゃん」
それほど深い意味もなく、
多分、ちょっと自虐的に軽く言っただけのつもりでした。
そしたら、その同級生は素晴らしいことを私に教えてくれました。
「実際に、もうおばちゃんなんだから、
こっちが気を遣ってカバーしなくてはならないようなことを
言わないでくれる?」と。
おばちゃんとおじちゃんが飲んでいるのに、
おばちゃんじゃないよと言わせるな、と。
これは、私にとって人生で重要な教えの一つでした。
サッカー、野球、テニスなど、
一流のスポーツ選手は決して謙遜しませんよね。
でも、謙虚です。
謙虚ではあるけれど、謙遜はしない。
その方が単純に美しい。そういう生き方をしたいものですね。
今週も素敵な1週間でありますように。
意識が言葉に現れ、言葉が意識を変える
昭和から平成へ、平成から新元号へと時代が変わって行く中で、
昭和にはなかった言葉(概念)が多数生まれてきました。
ネット用語はもちろんですが、
「ダイバーシティ」「ハラスメント」といった言葉も昭和にはなかったですし、
「アンコンシャス・バイアス」も「ポリティカル・コレクトネス」
といった言葉もありませんでした。
こうしてみると、やっぱりカタカナが多そうですね。
その分、各自各様の解釈があったり、
言葉の辞書的な意味は知っていても、行動と結びついていなかったり...
ということが起きているような気がします。
たとえば、「ダイバーシティ」。
「グローバル化が進んでいるし、女性が働きやすくするためには、
価値観や働き方が多様でなければいけない、ということでしょ?」
という程度の理解で本当に十分でしょうか?
ダイバーシティを上のようにとらえていると、あまり自分ごとにはなりませんが、
本来はどういう意識で日常生活を過ごすかが大切なのだと思います。
子育てしている人が、
「男の子なんだから...」と男のお子さんに言ったり、
「好きな男の子はいるの?」と女のお子さんに聞くシーン、
SNSなどでも時々見かけます。
でも、子どもを性別で決めつけをしている時点で、
ダイバーシティの考え方に反しています。
そして、これを聞いてもなお、
うちの子どもに限ってと思う方もいると思いますが、
それ自体がNGな時代になってきています。
頭で理解しながらも、なかなか行動との間でバランスを取れないのには、
やっぱり理由があります。
私たち人間は、生きている間に良くも悪くも、いろいろな学習をします。
褒められた体験、叱られた体験も学習材料になるし、
何がメジャーで、何がマイナーなことなのかも学び、
それを元に判断基準を作り上げたりします。
このような過去の経験や周りの環境などから、
自分自身では気付かないうちに身についた先入観のことを
「アンコンシャス・バイヤス」と言います。
日本語だと「無意識の偏見」と訳されるようですが、
要は「思い込み」ですね。
思い込みが怖いのは、正しいと思い込んでいるあまり、
自分の考えを疑ってみるきっかけがないこと。
・いまどきの若者は〜
・歳を取ると〜
・女性というのは〜
・外国人は〜
の「〜」の部分に入れてしっくりくると感じるものがあるとすれば、
大抵の場合、思い込みです。
どんな弊害があるかのか、例を挙げるなら、
「子育て中の女性に重要な仕事は任せられない」と上司が思い込んでいると、
その部下は機会が奪われてしまいます。
とはいえ、人間から思い込みをなくすことは不可能です。
でも、少しでもなくそうという発想で取り組めることもあり、
その一つが「ポリティカル・コレクトネス」(PC)といって、
表現に関する考え方を見直す運動です。
トランプ大統領が、「I know it's not PC, but...」
(政治的に公正な表現じゃないことは分かっているんだけど...)との
前置き発言が多いことから、2016年頃に日本でも広まった感じがあります。
Wikipedeaによると、「ポリティカル・コレクトネス」は、
「政治的・社会的に公正・公平・中立的で、
なおかつ差別・偏見が含まれていない言葉や用語のことで、
容姿・身分・職業・性別・文化・人種・民族・信仰・思想・性癖・
健康(障害)・年齢・婚姻状況などに基づく差別・偏見を防ぐ目的の表現を指す。」
割と知られている具体例、言葉が見直された例を挙げます。
ビジネスマン → ビジネスパーソン
Miss(ミス)/Mrs(ミセス) → Ms(ミズ)
看護婦 → 看護師
痴呆症 → 認知症
ああ、そういう見直しのことかと、ピーンと来られたのではないでしょうか。
他にもいろいろあります。
アメリカでは、消防士はファイヤーマンではなく、ファイヤーファイター。
警察官はポリースマンではなく、ポリースオフィサー。
そのうち、スーパーマンもウルトラマンもスーパーパーソン、ウルトラパーソンになるのでしょうか?笑
今現在はキャラクターはキャラクターだとして、その言い換えはなさそうです。
その他にも、、、色の名前としての肌色はNG。
女優、女流棋士、女医などもNG。
ハウスワイフはホームメーカー等、いろいろあります。
単語自体ではなく、言葉の書き方についても同様の視点から議論があります。
子供 → 子ども
(「供」という字が「お供え物」「お供する」などを差別的な連想を与えることを
理由に、新聞などでも「子ども」が多用されているが、賛否両論ある)
障害者 → 障がい者
障害を持つ人が「害」である連想を与えるという配慮から、多くのマスコミは
「障がい者」を使用。NHKは、社会にある障害と向き合う人たちと捉えて「障害者」を使用するなど、
やはり賛否両論ある)
ちなみに、私の個人的理解では、「ポリティカル・コレクトネス」は
もはや政治世界、マスコミ世界のものではなくなっていて、
日常生活とも密接に関わっていると捉えています。
しかも、言葉の表現のみならず、
パンフレットや映像を制作する業務に携わっている人は、
登場する人物の描き方などでも
表現に「アンコンシャス・バイヤス」が含まれていないか、
チェックする姿勢が必要だと解釈しています。
北河内人権啓発推進協議会がまとめたパンフレットが、
とてもわかりやすくて良いと思いました。シェアします。
北河内人権啓発推進協議会パンフレット
その人の意識は言葉に現れます。
また言葉を変えると意識が変わります。
無意識の偏見を持たないように、お互いに気をつけたいものですね。
どうぞ素敵な1週間を!
分かり合うこと、それは「言葉」を大切にすること
当社では、仕事で分からないことを分からないと言わないと、
叱られます。
何が分からないかが分からない時にも、
何が分からないかが分からないと言えと、教えられます。
でも、世の中ではそうではない会社もたくさんあるようです。
私のパーソナルトレーナーはコンサル出身ですが、
調べれば分かることを調べずに聞くのはNGだったのだとか。
そんなことに上司の人件費と使うなという考え方だったそうです。
そういうことならまだ分かります。
でも、採用活動などをしていると、
たとえ目的さえよく分からない時でも、質問できる雰囲気にない...
そんな組織も多々あるようです。
分からないまま進めて、出戻りが増えるくらいなら、
分かった状態で進めて、そのアウトプットにフィードバックする方が、
効率的だし、成長スピードも上がるはずなのに。
さて、今日のテーマは「分かる」と「言葉」の関係です。
この記事で考えたい「分かる」の対象は、
・自分について
・接触する相手について
・自分を取り囲む物事について
です。
それぞれについて、自分が今何が分かっていて、
何が分かっていないのか、
そこにアンテナを立てることは、
コミュニケーション上も、重要ですよね。
たとえば「自分について」。
心理学で使われるフレームワーク「ジョハリの窓」の中に、
「盲点の窓」というのがあります。
自分について、他人は気づいているのに、
自分は気づいていない自己のことです。
そこに興味を持ち、分かろうとすることは、
コミュニケーションのズレを減らすために重要だとされています。
友人知人を含め、私の周りにいる人たちを観察すると、
「分かる」ことにこだわる人とこだわらない人がいるようです。
「こだわる」という言葉を使うと、まるで価値観のようですが、
私は、ただ行動習慣に違いがあるだけであって、
価値観でもなければ、能力的な違いでもないと考えています。
両者は「分かる」の捉え方も違います。
前者にとって、体系的かつ論理的に話せる状態が「分かる」であり、
後者にとって、ピンと来ていたら「分かる」です。
でも、、、そんな二人が会話をすると、
噛み合わないという事態に陥りがちなのも事実。。。
体系的かつ論理的に「分かる」ことにこだわる人が、
そこにこだわる理由は、分かることに意欲的だからというよりも、
分からない状態を放置しておくことが気持ち悪いと感じるからのようです。
この人たちに共通する特徴は、自分との対話を頻繁にしている点。
内省とか、内観と言ってもいいかもしれません。
その時、駆使しているのが「言葉」です。
自問し、言語化しながら自分の考えを整理していく、そんなやり方。
「〜ついて考えたのですが...」「ふと疑問に思ったのですが...」などと
話し出すことが多く、意見が明瞭で、説明も上手です。
一方、体系的かつ論理的に「分かる」ことにあまりこだわらない人は、
考えることや意見を持つことが苦手な人でもあります。
共通するのは、言語化して分かろうとせず、
イメージや感覚で分かろうとすること。
直感的に何が正しいかを感じ取ることに長けていて、
いきなり答えを口にしたりします。
その反面、説明も感覚的になりやすいので、
分かっているのは自分だけという状況になりがちです。
私自身は、「分かる」ことにこだわりますが、
直感が先に働くことも多いので、後者の人の気持ちはよく分かります。
で、先ほども書いたように、前者と後者の二人が会話をすると、
大抵の場合、なかなか話が噛み合いません。
さて、人が誰かに分かってほしいことを分かってもらうための
重要なツールが「言葉」です。
おそらくこれに異論がある人はいないのではないでしょうか。
では、こっちの2つはどうでしょうか?
「言葉」は、
・自分の考えや自分自身について理解を深めるためのツールでもある。
・相手について理解を深めるためのツールでもある。
私たちグラスルーツの理念は、「『言葉』で未来をつくる」ですが、
言葉にこだわるのは、分かり合う努力をし続ける世の中でありたいからです。
だからこそ言葉をそのための重要なツールとして、大切に扱いたい。
自分を、相手を、物事を、私は分かろうとしているだろうか?
言葉というツールを駆使しているだろうか?
そんな自分との対話で始めたい9月第1週です。
今年も残るは4カ月。
どうぞ素敵な1週間をお過ごしください。