解決がすべてではない
4月15日(土)から23日(日)まで、
青山のギャラリーで私の作品を発表する展覧会を個人的に開きました。
個展という形でアウトプットしたら、本当にたくさんのインプットを得たのですが、
今日はそんな中でもひとつだけ紹介します。
それは、「解決=価値」とは違う世界についてです。
この展覧会について簡単に紹介すると、
人生の出会いと別れをテーマに「流転」と題して行ったもの。
展示した作品は、アクリル絵具で描かれた記号的絵画作品と、
インタラクティブな言葉のパネル作品です。
ただ黙って眺める展覧会ではなく、
自分の人生を重ねたくなるような参加型の構成に特徴がありました。
観て、想像して、選んで、読んで、書いて、、、
テーマは少し重いですが、心と体を使って感じてもらうことを目指した、
そんな内容です。
来てくださった方たちは、自分の人生を通して作品を解釈したり、
感情移入をしたり、自分の心を観察する...ということをしてくれたわけですが、
その結果、感想のコメントに現れてきたのは、様々な「視点」でした。
人の感性はなんと豊かなんだろうと感じましたし、
その裏側には十人十色の人生があるということを痛感しました。
個人個人の現在の状況も様々だし、そこまでの道のりも実に多様です。
そして、人生が違えば、見方や感じ方も違って当然です。
まさにダイバーシティの本質がここにあると感じました。
もう少し具体的にお伝えしますね。
たとえば、21枚の絵で構成され、
ひとつのストーリーになっているペインティング作品があったのですが、
その話を自分の過去と現在に照らして観る人もいれば、
息子に起きた別れ話や、両親の関係に思いを馳せて観る人もいました。
また、「別れ」という概念の捉え方も人によって千差万別。
大半の人は、実在する誰かと自分が体験した別れと捉えましたが、
自分自身との決別と捉える人や
この先の未来に訪れる別れを思い描く人もいました。
さらに、スピリチュアルな存在を感じながらも
切り離されている状態を別れと捉える人も。
一方で、そこまで葛藤したり、負の感情を味わったことはない、とか、
自分は感情をないがしろにしていたのかもしれないとか、
忘れていた感情を思い出したとか、
自分の感情に「フタをしがち」だったなどの感想も多く聞かれました。
それらの感想を含め、
観る人が、それぞれの視点で観てくれたのがとてもうれしかったですし、
人の感性の豊かさに触れた思いがします。
視点の多様性に驚いたと同時に、
総じて言える共通点もありました。
それは、来た方の多くが何かしら感じ入ってくれた、ということです。
我田引水の面も多少あるかもしれません。
でも、涙を流す人が何人もいたり、次のような感想をいただいているので、
まんざら勘違いというわけでもないと思います。
(許可を得て掲載しますね)
ーーーーーー
私は、亡くなった父、生まれてこなかった子との別れを
しっかり味わう時間となりました。
こんなにたくさん泣いた個展は初めて。
グリーフセラピー的な個展でした。
ーーーーーー
この話、別に自慢したくて書いているのではありません。
私がこの事から気づいたのは、
この展覧会が参加者にもたらしたのは「解決」ではない、
けれども「解決」という価値以外の世界にも、
何かしら意味があるようだ...ということです。
とかくビジネスの世界で生きていると、
ソリューションを提供することこそ価値だと思い、
それ以外の価値に鈍感になりがちです。
でも、今回のような世界にも実は価値があるのかも...と
そんな気持ちになりました。
なぜなら、ビジネスといったって、所詮人間社会だからです。
それはいったいどんな価値なのでしょう?
癒し?
内省?
対話?
自浄?
どんな言葉がふさわしいのか、私自身よくわかりませんが、
心や感情の取り扱いに関することであることだけは確かです。
だから「ビジネスとはいえ、解決がすべてではない」。
解決最優先でいると、道を間違えるかもな...ということ。
それが今回得た大きな気づきです。
ご来場いただいた皆さま、
ここまで読んでくださった皆さま、ありがとうございました。
まもなくゴールデンウィークですね。
素敵な1週間でありますように!
個展の模様(「流転〜WOOとMOOの場合」ほか)
言葉の作品「COMMAND」のpdf(展示したパネルとはサイズや比率が異なります)
「表現の自由」を満喫するということは...?
週末は不安定なお天気でしたが、桜が見頃でしたね。
私は土曜日、友人宅に招かれ、千鳥ヶ淵の桜を満喫してきました。
桜の名所はあちこちありますが、やっぱり千鳥ヶ淵は圧巻ですね。
そして、なんとなく日本人としてのアイデンティティを再確認させられました。
さて今日は、「表現の自由」について考えたいと思います。
と、なぜか今日は大上段に第一声を挙げてみました(笑
私たちは「表現の自由」という憲法で定められた基本的な権利があるのに、
その権利を十分使っているでしょうか?
この権利、日頃あまり考えませんし、あって当然だ...というぐらいにしか、
普段は考えませんよね。
かくいう私もその一人です。
だからなのかな、
今週末から個人的に個展を開くのですが、
それに対する人の反応を見ていると、
「表現の自由」を奪っているのは、
もしかしたら私たち自身なのではないか?と
ふとそんなことを感じました。
ですので、今日は、憲法的かつ権利的な意味からではなく、
表現する自由について、私たち自身の心の面から考えてみたいと思います。
「表現の自由」は日本国憲法第3章第21条に定められています。
WIKIペディアを引用すると、
すべての見解を検閲されたり規制されることもなく表明する権利[1]。
外部に向かって思想・意見・主張・感情などを表現したり、発表する自由[2]
なんですね。基本的人権でもあります。
政治的権力から不当に制限されやすい人権だからこそ、
守られるべきである権利であり、
また人々の見解はそれぞれに違って当然で、
自由に発表できるからこそ違う意見を知ることができ、
それが民主主義にとって重要である...
というような意味づけもあるようですね。
ま、こんなふうに言われても、日常生活には何の関係もない...
というのが、多くの人の感覚です。
ですが、せっかく持っているこの「表現の自由」という権利、
それに対する感覚は私たちの中で養われているでしょうか?
私は権力的なものがもたらす影響もあるとは思いますが、
それ以前にまずは日常における自分たちのスタンスも大きいと思います。
「表現の自由」という以上、まず自分に対して、
「〜であらねばならない」という思い込みから逃れる必要がありますよね。
でも、多くの場合、そんな思い込みばかりではないでしょうか?
そう思っている限り、「表現の自由」という権利は
生かされにくいのではないでしょうか。
たとえば今回の私のように、個展を開くということを例に挙げるなら、
それについて、多くの人にはこんな思い込みがあると感じました。
・個展を開くなら、高い技術の作品でなくてはならない。
・個展を開くなら、お金を払ってギャラリーを借りなくてはならない。
・個展を開くなら、見る人にとって価値ある作品でなくてはならない。
・個展を開くるなら、ある程度まとまった作品数がなくてはならない。
私は、どれも思い込みだと思います。
高い技術の作品であるべきなのは、なぜですか?
技術が高い作品は、誰にとっていい作品でしょうか?
ギャラリーを借りなくても、ネットの時代、発表は可能ですよね?
見る人にとっての価値とはなんでしょう?
マーケットインでアート作品を作って楽しいですか?
個展を例にしましたが、
「表現の自由」というのは、絵画作品の制作&発表というシーンに限りません。
社内会議でちょっとした意見が求められて、なんと答えるか、
そこでも「表現の自由」という権利があり、
どう立ち振る舞うかの判断と実行があります。
私たちの中に、こんな思い込みはないでしょうか?
・会議で発言するなら、他の人が賛同する意見でなくてはならない。
・会議で発言するなら、意見は理路整然と述べなくてはならない。
・会議で発言するなら、自分を含め、誰かの対面を守らなくてはならない。
表現には自由があるのですから、
「〜でなければならない」と思う時点で、
権利と反対方向、言い換えれば権力側に向かっていると思います。
しかもそれ、あなただけの思い込みではなく、
周りの人も含めて、みんなで思い込んでいる場合もあるかもしれませんね。
でも実際には、
「こんなことを言ったら、波風が立ってまずいかな...」とか、、、
こんな心理が働いてしまうこと、ありますよね。
でも、、、
このスタンスでは「表現の自由」を満喫しているとは言えませんよね。
私が「表現の自由」というコンセプトにおいて、
大切だと思うのは2点です。
(その1)周囲目線ではなく、常に主語が自分であり続けること。
(その2)(アタマ)「〜であらねばならない」ではなく
(ココロ)「〜が楽しいからやりたい」であること。
「〜が楽しいからやりたい」という軸でやってみた時に、
もしかしたら周りの人から批判を受けるかもしれません。
でも、人は誰かから評価されるために生きているわけではない、
それが基本的人権の考え方にあると思います。
だから、ちょっとやそっとの批判や評価に負けてはいけないんですね。
「自分は果たして『表現の自由』という権利を満喫しているだろうか?」
まずは、そんなことのセルフチェックをかけてみたいものですね。
今週もいい1週間をお過ごしください!
「価値観」のぶつかりあいとは、「思い込み」がぶつかっているだけ
先日、当社の社外取締役である川添香さんと食事をし、
とても良いインプットを得ました。
川添さんはシステムコーチングといって、
組織の関係をより良くするコーチングのプロフェッショナルでもあり、
エグゼクティブコーチでもあります。
グラスルーツはコーチングという手法とは異なりますが、
組織の中にある感情的な「問題」を取り出して、
議論の場をファシリテートし、施策に落とし込むという意味で、
川添さんと共通点のある仕事をしています。
そんな二人が食事をする中で、上司と部下の関係において、
あるいは上司が部下を成長支援するという関係において、
起きやすい問題について話題が及びました。
大きな組織といえども、小さなグループの集合体ですから、
個々の関係で起きていることが、結局組織のあちこちで起きて、
それが組織全体の問題になったりしますよね。
で、よくぶつかりあうことの一つが、「価値観」です。
「価値観」は、人それぞれが大切にしていることであり、
それを会社や上司から「変えろ」と言われるのは、
言われた方からすると言語道断ではないでしょうか。
しかも、そこに社会人としての常識やら何やらが重なって、
状況はもっとややっこしい。
「会社の飲み会には出たくない」という部下。
「仕事が終わっていないのに、用事があるからって帰るわけ?」という上司。
コミュニケーションの問題である場合もあるでしょうが、
「価値観」のぶつかりあいである場合も多い。
当たり前のことですが、「価値観」には
良い価値観、悪い価値観ってないんですよね。
だからこそ、「価値観」を巡って上司が部下に
「それは、おかしい」と表現すると大抵は反発されます。
しかし、「おかしい」という表現は良くないまでも、
上司も伊達に歳を取り、経験を積んだわけではないので、
「そのままその発想を続けていくと、成長できないんじゃないかな...」
と思うからこそ、何か部下に対して助言したいわけです。
でも、一つ間違えると、相手は価値観を否定されたと感じてしまい、
伝えたかったことが伝わらない。。。。
こんなシーン、実はあなたの周りでもよくあるのではないでしょうか。
川添さんが一刀両断に言った一言が、私には新鮮でした。
「価値観と言っても、所詮は単なる思い込みだからね...」。
いや、実際そうですよね。
これは、上司も部下も、誰の価値観もそうです。
私自身が大切にしている価値観も含めてです。
結局、それってみーんな思い込みなんですね。
ある経験をして、あることを感じ取り、それを信じる。
その上に、また経験を重ねて、それを強固にしていく。
そうやって出来上がっていくのが「価値観」です。
だから、まさしく「価値観」=「思い込み」ですね。
そう思ってしまえば、何のことはないのですが、、、、
「価値観」に性格的なことが絡むと、さらに厄介です。
慎重な部下と、自由闊達な上司という組み合わせを想像してみてください。
これは、性格とも言えますが、価値観でもあります。
実は、昨日、友人の経営者がそんな会話をしていました。
その話はまた別の機会にするとして、、、
「価値観」=「思い込み」だと思ってみると、
自分が何をどう思い込んでいるのか、セルフチェックができます。
たとえば私は、人生は短いのだから、やりたいと思ったことを、
とっとと決めて、とっとと試してみて、楽しいかどうかを判断し、
楽しければ続行、楽しくないなら次に行こ!...
という価値観(思い込み)が働きがちです。
つべこべ言っていると、人生はあっという間に終わっちゃうよ!というような。
私のこの価値観には、何かをスピーディに達成したいという願望が根底にあります。
でも、何かを達成しなくても意味のあることはありますよね。
何かを達成しないと人生の意味がないと思う「思い込み」は
どこかで自分を限定しているとも言えます。
自分を拡げるには、その「思い込み」が邪魔をしている可能性があることを
知っておく必要があります。
今のは私の例ですが、そんな思い込みは多分あなたにもある。
「価値観と言っても、所詮は単なる思い込みだからね...」
川添さんの一言、これを聞いて、あなたはどう思いますか?
せっかくなので、川添さんのメルマガを紹介します。
え?こんなことまで無料で教えてくれちゃうの?
...と思うくらい、豊富な知識をわかりやすく提供してくれます。
たまーにM社長として登場するのが私です(笑
ご興味があればぜひ! 私は、ほぼ毎号おもしろく読んでいます。
http://www.reservestock.jp/subscribe/58493
さて、今週はお花見シーズン。
桜。平均寿命からして男性80回、女性87回しか見られません。
(赤ちゃんのときは見た自覚がないから、もっと少ない)
だからこそ、イマココで味わうことが大切だなと思う今日この頃です。
どうぞ素敵な1週間をお過ごしください!