人生の出会い(poem)
なぜかふいに思い立って、4月になったらセドナ(米国アリゾナ州)に行こうと思います。と言っても、セドナについて何も知らないので、いろいろ調べていたら、とても素敵な詩に出会いました。今日は、その詩を紹介しようと思います。
が、その前に...、まるでJRの広告のように、「そうだ! セドナに行こう!」と私が思ったのは、セドナがパワースポットとして、あるいはネイティブインディアンの精神性が伝承されている地として世界的に知られていることや、ヒーリング系のサービスのメッカであることと無関係ではありません。(大丈夫です、占いで経営方針を決めたりしませんから。笑)
というのは、ここ数年を振り返ると、公私ともにいくつかの大きめの「別れ」がありました。わかりやすいところでは親しい人との死別。そのほか、会えない関係になったり、関係が変わったりするのも一種の別れです。一方ではとても素晴らしい「出会い」があり、信頼し合える存在、見守り合える貴重な存在を得た時期でもありました。しかし、数では圧倒的に「出会い」の方が多くても、インパクトの大きさでは「別れ」が勝る。すると、それが自分の人生観や行動に何らかのネガテイブな影響を生み出します。で、これを放っておくと、良くないぞーということで、リセットをかけたくなりました。
どんなネガティブな影響かといえば、初めから「別れ」を恐れて、なるべく傷つかない距離で人と付き合おうという気持ちになることです。それは、まったく私らしくありません。「別れ」を恐れてしまうと「出会い」を育てることができなくなります。なので、私の場合は、マインドセットし直す場として、セドナがふさわしいように直感的に思ったのです。なにしろ、人生は「出会い」と「別れ」で出来ているようなものですからね。
なぜ「恐れ」に縛られたくないのか。それは、スターウォーズ的にいうと「恐れはダークサイドにつながる。恐れは怒りに、怒りは憎しみに、憎しみは苦痛へつながる」からです。私なりに別の言葉で表現すると「恐れは防衛本能を煽り、自分を愛する力を弱め、自分の魅力を封じ込め、幸福になれない道をまっしぐらに進む」からです。私には幸福欲アンテナがあって、それを続けていると幸福になれないぞという時にはブザーが鳴りだします。つまりブザーが鳴ったということですね。
さて、、、以上、恥ずかしながらコクってみました。自己開示です(笑)
皆さんは、どうでしょうか。別れへの恐れなんて自分にはないとお考えですか? 私は、別れへの恐れは誰にとっても人生のそこかしこに転がっていると思っています。たとえば;
・嫌われたくない
・気まずくなりたくない
・拒絶されたくない
・仲間外れにされたくない 等々
すべて別れへの恐れです。恐らく多くの人にとって《別れ=自分が否定されること》なのでしょうね。だから、恐れるのだと思います。もし多少なりとも私のこの意見に同意していただけるのであれば、この詩「人生の出会い」は役に立つかもしれません。
詠み人知らずのこの詩は、素晴らしく真理を突いています。
下に書き出した詩「人生の出会い」の出典は、Youtubeのこのビデオからですが、エンヤの曲が流れるのでテキストを添えました。
原語も見ていただきたいところです。
ーーーー
『人生の出会い』
あなたの人生に現れる人は・・・
何らかの理由があって現れる人
人生のある一定期間にだけ現れる人
あるいは生涯ずっと現れる人
そのいずれかです
誰がどんな形で現れたのかが分かれば
あなたは自分がどう対処したらよいのかわかることでしょう
誰が何かの目的をもってあなたの人生に現れた時・・・
大体は、あなたが表現したことに対して
ある必要性があって
その人はあなたの人生に現れてきています
彼らはあなたが困難を乗り越えていくために
その助けになろうとやってきたのです
あなたを導き応援しようとしてやって来たのです
物質的にも、感情的にも、霊的にも
あなたの役に立ちたいと思ってやって来たのです
彼らは神の使いのように思えることでしょう
実際、その通りなのです
あなたが必要として理由があるから、彼らはそこに現れています
そして彼らは・・・
あなたに迷惑をかけることもなく
都合が悪い時を選ばずに
その関係を終わらせるような何かを言ったり、したりすることでしょう
彼らは死んでしまうこともあるし、
何処かへ行ってしまうこともあります
彼らは具合いが悪くなることもあるし
あなたにはどうしようもないことだったりするのです
私たちが分かっていなくてはならないことは
私達の願望が満たされるために
必要な事が起こったということなのです
彼らの役目は終わったのです
あなたの祈りは届けられ
もう先に進んでいくときが来たということなのです
それから・・・
ある一定期間にだけあなたの人生に現れてくる人もいます
彼らはあなたと共に分かち合ったり
成長したり、学んだりする人たちです
あなたに、心穏やかな体験と笑いを
もたらしてくれるような人たちです
彼らは、あなたが今まで体験したこともないことを
教えてくれるかもしれません
信じられないほどの喜びをもたらしてくれるのが彼らなのです
信じて下さい、本当のことです
でもそれは、ホンのつかの間なのです
それから・・・
生涯をかけた関係には生涯の学びがあります
しっかりとした感情的な基盤を築くために
あなたがしなくてはならないことがあります
あなたがすべきこと・・・
その学びを受け入れ、その人を愛し
そこで学んだことを実践することです
そして・・・
その他すべての人間関係と人生のどんな場合でも
その学びを応用させることです
愛は盲目であり、友情は千里眼を持つ・・・
と言われます
私の人生に現れてくれてありがとう
理由があったにせよ
つかの間であったにせよ
生涯の関係であるにせよどんな形であれ・・・
私の人生に現れてくれてありがとう
(詠み人知らず)
ーーーー
出会いというものを、人は「その誰かの役に立ちたいと思って現れる」と捉えたり、別れというものを「役目が終わり」「もう先に進んでいくときが来た」と捉えるというのは、なんとまあ合理的でサバサバとしていてシンプルなのでしょうか。詩には「彼らの役目は終わったのです」とありますが、これはある意味お互い様で、こちらの役目も終わったということ。一見聞くとドライな価値観に思えますが、まさに人生を一期一会ととらえた表現で、とても共感しました。
誰かとの関係が死別であれ離別であれ何であれ途絶えたとき、とかくなぜこういうことになってしまったのか...と自分を責めたり相手を責めたりしがちです。でも、そうありたくはありませんよね。それを続けても、幸せにはなれないからです。
誰かとの今の関係が今後続こうが、変わろうが、終わろうが、どうなろうが、この詩のように毎日「私の人生に現れてくれてありがとう」という感謝の気持ちを抱き、「明日には別れているかもしれない」というつもりで大切に過ごすことができたら、結果として幸せですよね。そうありたいものです。あ〜 なんかすっきりした! なら、セドナにいく必要もない? いえ、セドナ詣でには行ってきます!
あなたもあなたも、彼も彼女も、私の人生に現れてくれてありがとう!
どうぞ良い1週間をお過ごしください!
「我慢」という罪
今日は我慢強い、忍耐強いということが本当にいいことなのか?という話です。
心理学者アドラーが「すべての悩みは対人関係の悩みである」と言ったように、
人間関係はストレスの最大原因といっても過言ではありません。
ストレスを抱えてしまう人は「我慢」しようとする傾向が強いと言われます。
やりたいことや希望とは裏腹なことに直面しても我慢する、
イヤなことを頼まれても何も言わない、
ネガティブな感情を出してはいけないと思っている、
波風を立てるようなことは避けたいと思う、
言いたいことがあっても飲み込んでしまう、などなど。
これを聞いてどう思いますか?
全然、特殊なことではありませんよね。
私にも当てはまるし、恐らくあなたも自分ごとに感じられるのではないでしょうか。
◆「我慢」を是とする価値観はどこから?◆
この「我慢」を是とする価値観はどこから来たのかと思い、調べてみました。
東洋的なものなのかといえば、必ずしもそうでもなく、
たとえば新約聖書「ローマ人への手紙」にも次のような記述があります。
「忍耐をもって善を行ない、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、
永遠のいのちを与え...」(2章7節)、
「忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す...」(5章4節)。
しかし、福音総合研究所のスミス牧師の解説によると、
この「忍耐」は「しょうがないから、我慢しよう」というようなものではなく、
「信仰と希望をもって積極的に頑張って生きる」ことであるそうです。
では、仏教はどうなのでしょう?
仏教用語での「忍耐」とは「心の平安や平和」を意味し、
「忍耐しなさい」は、「落ち着いていなさい、平和な心を保ちなさい」の意。
仏教でも、「忍耐」は苦しいことを耐え忍ぶことではなく、
まして「我慢」に至っては、煩悩の一つなのだそうです。
自分を偉いと思い、他人を軽んじることであり、
自分に執着することから生まれる慢心が「我慢」なのだとか。
「我慢」を是とする価値観は、どうも仏教から来たとは考えにくいですね。
では、私利私欲を捨てて公のために生きることを是とした武士道の影響か?
「和をもって尊しとなす」という聖徳太子の言葉にあるように、
個よりも集団の「和」を重んじる大和時代からの精神性の影響か?
その答えはわかりませんが、国民的な刷り込みがあるように思うのは、
私だけではないと思います。
◆「我慢」は自分への執着◆
根源はさておき、私たちが人間関係で「我慢」している状態というのには、
共通点があります。
・自分と誰かとの関係において、自分が願うことと違うことが起きている。
・それを言うと、相手を傷つけたり、波風が立ちそうに思えたり(恐れ)、
言ったところで、変えられそうにないと思える(諦め)。
波風を避けたいというのは、防衛本能から来るものでしょうし、
諦めるというのも、願って叶わない結果になるのがイヤだという心理でしょうから、
これもまた傷つきたくないという防衛本能が根底にあると思います。
まさに「我慢」の本質は「自分への執着」だと思えてきて、
仏教の教えは真理を突いているなあと感じます。
自分を守ろうとすると、相手は遠のく。
それは信頼関係を築くこととは反対のベクトルにあるものです。
本来は、相手との間に「和」を築きたいのに、結果的に反対方向に向かってしまう。
これは、自分にとっても、相手にとっても、悲しいことに違いありません。
自分に背くことを罪とするなら、「我慢」はまさに罪だと言えます。
◆相手に「我慢」をさせてない?◆
けれども、では我慢をした方だけが悪いのでしょうか。
たまに部下から「ずっとこう思っていた」と打ち明けられることがあります。
それは大抵の場合、言いたかったけれど、これまで言えなかった話です。
そんな時、そこで打ち明けてくれたことは良いことなのに、
「なんでもっと早く...」という気持ちが私の頭の中をよぎるんです。
一瞬ですが、心の中で相手を責める。
未熟な私の防衛本能ですね。
そして、そこからめっちゃ反省モードに入って、
言いやすい関係になれていなかったんだろうな...
信頼関係に慢心があったのかもしれないな...
サインを出してくれていたいのに見逃していたのかもしれないな...など、
自分にダメだし。
だから、、、
自分が我慢をしているときには、
我慢は「自分への執着」であり、自分に背く「罪」だと思い、
相手が我慢をしているとわかったときは、相手を責める前に、
自分を振り返って相手の気持ちを大切にする人間でありたいものです。
仏教の修行をしたくなりました。
読んでいただき、ありがとうございます!
どうぞ素敵な1週間を!
白魔術師になって正しい言葉を使いたい〜「四つの約束」を読んで
週末は春のように暖かな陽気でしたね。あまりのポカポカにベランダで読書にいそしみました。読んだのは、ドン・ミゲル・ルイス著の「四つの約束」(コスモス・ライブラリー)です。これは、以前参加した研修会での課題図書だったのですが、当時は今ひとつ興味が持てず、途中で挫折して読み終えませんでした。
この本で著者ドン・ミゲル・ルイスは、古代メキシコでスピリチュアルな知識を伝承する「トルテック」と呼ばれる人々(科学者や芸術家)の智慧に基づき、人が幸福に生きるためには4つの約束を守る必要があると説いています。そのため、序文が少々神話的であり、本文も宗教や心理学の本であるかのような印象であることは否めません。しかし、やっぱり本を読むにはタイミングというのがあるのですね。今回は、とてもぐいぐいとひきつけられる感覚で、読み進むことができました。
4つの約束が何であるかの前に、この本の主張は、私たちは子どもの頃から大人から刷り込まれた自己像を背負って、褒美をもらいたいがために生きているが、他者の価値観に添うのではなく、ありのままの自分を受け入れて生きなければ、真の幸福は得られないということが前提となっています。その意味で、アドラー心理学などにも通じるものがあり、4つの約束の内容自体もどこかで聞いたことがあることが再整理され、こうして提示されているという印象でもありました。
では、4つの約束とは何でしょうか...? 以下、4項目は引用です。
(1)正しい言葉を使うこと
(2)なにごとも個人的に受け取らないこと
(3)思い込みをしないこと
(4)つねにベストを尽くすこと
掻い摘んで要点をお伝えすると...
(1)「正しい言葉を使うこと」というのは、罪のない言葉=自分に背かない言葉を使うこと。愛する相手を束の間の感情で罵ったりすることは正しい言葉を使っていない。
(2)「なにごとも個人的に受け取らないこと」というのは、自分に関する良い話も悪い話も個人的に受け取らず、それに影響を受けないで生きるということ。
(3)「思い込みをしないこと」。思い込みとは、物事をはっきりさせるためにすべき質問をせずに、こうであるに違いない、相手はわかってくれているはず...という考えが真実であるかのように思い、その考えに縛られていることに気づかないこと。
(4)「つねにベストを尽くすこと」というのは、今を生き、その状況で最善を尽くした自分でいるということ。そうすれば、自分を責めることなく生きられる。
いずれの約束も破ると、感情的な毒を撒き散らして人を傷つけたり、自分が傷ついたりする羽目に陥ります。
さて、私にとって、この中で一番印象に残ったのは、やはり「正しい言葉を使うこと」でした。そりゃそうですよね、『「言葉」で未来をつくる』が企業理念ですから。
その章の中で、こんな話が書かれていました。
ある母親が仕事で疲れ頭痛を抱えたまま帰宅した時、小さな娘が大はしゃぎで歌を歌っていた。母親は我慢できずに、「静かにしなさい。変な声で歌わないで!」と怒った。そこを境に、その娘は二度と人前で歌わなくなり、愛されるためには感情を抑圧しなければならないと学んでしまった。母親にとって、その娘は目に入れても痛くない存在であったのに...。
作者はこのような罪のある言葉を「まじない」「黒魔術」と表現しています。黒魔術というのは、罪のある言葉=自分に背いた言葉を使うことです。「誰それは◯◯が上手だ/下手だ」「誰それは可愛い/ブサイクだ」など悪意のない評価も罪ですよね。
愛する相手を束の間の感情で罵ったりすることは、なおさら正しい言葉とは言えません。ああん、耳が痛い。。。
言葉は白魔術に使わなくてはいけない、それが作者の主張です。白魔術というのは、たとえば愛を分かち合うことに使うこと。そのためにも、まずは自分に向けて使うことから始めることを勧めています。「(自分が)どれだけ素晴らしい人間であるか、自分に言いなさい。どのくらい自分を愛しているか、自分に言いなさい。」と。
それが幸せな生き方に直結する...ということのようです。
この本を読んで思ったのは、まったく自覚できない意識のレベルで、私たちは意外に自己否定しているのかもしれないな、ということ。よく「あの人は自己肯定感が低い」などという表現で、他人を評価する声を耳にしますが、そんなことを語っている当人を含めて、もしかしたら誰もがどこかで理想の自分になれていない自分を自己否定していて、それを直視したら辛すぎるから意識の彼方へと葬り去って、自己肯定している自分を演じているのかもしれません。
うーん、人の心理は奥深いですね〜
とにかく「白魔術師になりたい」とそんなことを考えた週末でした。
どうぞ良い1週間をお過ごしください。
「必要のないこと」に価値がある
今日は、本日配信のメルマガを転載しますね。。。
昨日は、ちょっと変わった珍しい会に参加してきました。
私は、「サザエさんの街」で知られる世田谷の桜新町というところに、
30年ほど住んでいます。
桜新町では今の住まいが4軒目になるのですが、
昨日は2年前まで住んでいたマンションのOBOG会に招かれ出席してきました。
そんな話、聞いたことありますか? ですが、そんなマンションだったのです。
住んでいた当時も、個性的なマンション&コミュニティで大好きでした。
住民同士、顔と名前がわかっており、懇親会を重ねるうちに、
家族構成はもちろん、おおよその仕事や出身地などを知るようになりました。
だから意外ではなかったのですが、
それでも本当にお誘いの電話をいただいたときは感激しました。
会には、8年前に退出した世帯も含め、
19世帯のうち12世帯が参加し、大盛況でした。
で、気づいたのは、「必要のないこと」を「推めること」には
価値があるということです。
どういうことかというと、、、
ここでいう「必要のないこと」というのは、
それがなかったとしても、「メチャメチャ困るわけではないこと」です。
一度暮らしたマンションのOBOG会が開かれなかったとしても、
誰も困らないし、むしろ開かれることの方が驚きです。
必要性はゼロに等しい会合と言っても過言ではありません。
でも、現在も住民であり長老格のMさんが、それを思いつき、 「やろう」と呼びかけた。
そうしたら大勢が賛同して参加する、ということが起きました。
それは、「こんなのがあったらいいな」という願いを
Mさんが実行したから起きたこと。
別に「みんなが困っているから解決しよう」と思ったわけではありません。
「必要性」というのは合理性の世界。
それに対し「あったらいいな」は夢の世界です。
必要性に対して行動することにももちろんん価値はありますが、
むしろ人々の幸福や喜びにつながるような革新的なことというのは、
「あったらいいな」から生まれるような気がします。
しかも、「あったらいいな」と思うということは、
「今はない」ということ。
世界初の...
日本初の...
東京初の...
業界初の...
創業以来初の...
初だからといってなんでもかんでも価値があるわけではないでしょうが、
でも歴史的転換点を生み出したことに変わりはなく、
それはみんな誰かの「あったらいいな」から始まるものだと思います。
けれど、「あったらいいな」を実行することは、
思いのほか簡単ではなく、勇気や行動力が必要ですよね。
マンションの会を開くというようなことさえ、
普通ならちょっと尻込みしてしまうのではないでしょうか。
なぜなら周りの人にとっては「必要性がない」と思うからです。
私たちは、知らず識らずのうちに、
自分の夢を合理性がないという理屈でぶち壊しているのかもしれませんね。
だからこそ、それを実行してくれた人を私は讃えたいし、
自分が尻込みしないためにも、
まずは「こんなのあったらいいのにね〜!」とクチにすることを
心がけたいと思います。「誰かのため」ではなく、
まず「自分のため」の「あったらいいな」を大切にして...。
小さな「あったらいいな」を誰もが気軽にクチにして、
フットワーク軽く始めることができたら、社会が変わるような気がします。
インフルエンザが流行っていますね。
どうぞ健やかな1週間でありますように!
教えてやろう、気づかせてやろう...を卒業する
年が明けたかと思ったら、あっというまに1月が過ぎ、今日から2月。
2月といえばまもなく卒業シーズン。
当社に昨年9月から働いてくれていた大学生のL君も、
まもなく卒業です。
「卒業」という言葉、最近は教育の課程を修了する以外でも、使いますね。
「〜を卒業します」
子育てはもう卒業します、
AKBを卒業します、
紅白を卒業します、
ユニクロダウンを卒業します、
恋に恋する『かわいい私』を卒業します、
モンスト卒業します、
拒食症から卒業します。
これらは、「卒業します」で検索した結果です。
恋人や友人との関係にピリオドを打つ時にも使われているようですね。
わかるけど、それは、どうなんだろうなあ?
それほど好きな言葉とは言えませんが、
とはいえ「卒業する」というと、過去の何かから脱出して、
新しいことに向かって一歩前に踏み出せるような感じがするのは事実ですよね。
あなたは今卒業したいこと、ありますか?
私自身はどうだろう?と我が身を振り返ってみたら...? コミュニケーションの面でありました。
自分より経験の浅い人と接する時、
特に、たとえば何か指導的なことをする場合に、
「教えてやろう」「気づかせてやろう」と思うことを卒業したいですね。
いや、あの、私はそんな上から目線の人間ではないつもりですが〜!
でも、教える行為を授ける行為だと意味づけていると、
心のどこかに「自分はGIVEする側だ」という心理が生じます。
ある意味、相手の成長に対して
真剣にコミットしていることではあるのですが、
私がどうこうして授けようと考えるのではなく、
相手はそもそも創造的で才知に溢れた存在であり、
欠けるものなどなく、素晴らしい力を持ち合わせた存在なのだ、
という目線の自分でいられたらなぁ...と思います。
"People are Naturally Creative, Resourceful and Whole.(NCRW)"
つまり、この言葉自分の血肉にできたら、
私も、今の自分を卒業して、素敵な人間になれるんだろうな、と。
何度追試を受けてもなかなか合格できない...なんてこともありそうですが、
卒業できるようにがんばってみよう!
今日は如月の第1日。
どうぞ良い1週間、良い1カ月をお過ごしください。