2014年のキーワード
2014年もまもなく終わろうとしています。
今日は、今年、私の心に残った仕事に役立つキーワードを紹介します。
(1)ライブに伝える
組織の中で、気持ちを素直に出せるというのは大切ですね。気持ちにはいろいろあって、ポジティブなものから、ネガティブなものまであります。上に立つ人ほど、そのどよめきを得てから、自分の気持ちの表明までが短いほど、良い、、、。そんな実感を持つ1年でした。
大抵の場合、自分が感じたどよめきは、良いものも、悪いものもありますが、「貯金」してはいけないのだと思います。自分が感じたことは、多くの場合、周りも感じています。それを一度「貯金」してから発すると、意図することよりも重くなって伝わります。「伝えたいことは、ライブに伝える」ということが、実はリーダーにはとても重要なことなのかもしれません。
(2)「真剣さ」のバロメータは「アクト」
歳は一回り以上下なのに、とてもリスペクトしているFさんという方に今年出会いました。彼女の仕事はマーケティングコーチです。先週末も、彼女の招きで、仲間数人と山中湖の「森の家」で過ごしました。会話があまりに濃厚だったので、ここだけ切り取ることには、いささか抵抗がありますが...。彼女曰く、「いろいろ相談は受けるけれど、『行動する人』『行動しない人』に分かれる」のだそうです。それが、真剣さのバロメータである、と。前週、これをやると約束しても、翌週必ずいい訳をする人がいる、と。確かに...。
ここで、今これを読んでくださっているあなたに、伺います。あなたはあなたの課題に対して真剣ですか? 行動しようとしていますか?
(3)「潔い人」
多くの人は、どんな局面でも、どんな人間関係でも、「遠慮」という感覚と付き合いながら行動します。「遠慮」できる感覚は、美徳でさえありました。でも、リーダーは「遠慮」していてはいけませんね。この「遠慮」の感覚、何なのですかね〜? 百害あって一利無しですね。この「遠慮」が引き起こすものは、リーダーにとっての「欺瞞」「迎合」、メンバーに対しての「不遜」「不信」「不安」などです。
周囲の人を仲間にしたいと思うなら、「潔く選択し」「潔く意見し」「潔く自分の非を認める」人、であるべきなのかもしれませんね。
2014年は、あなたにとって、どんな1年でしたか?
2015年がより良い1年になるといいですね。
今年も1年、このブログを読んでいただき、ありがとうございました。
今号が年内最後になります。
来年も、皆様にとりまして、より良い年になりますよう、お祈り申し上げます。
年賀状はDMか? 御中は有効か?
そろそろ年賀状を書く時期になってきました。
当社も年賀状プロジェクトのメンバーが、最終準備に入っています。
一口に年賀状と言っても、いろいろなタイプのものがあります。
私たちがいただく年賀状を分類すると、
挨拶状的な性格のもの、DM的な性格のもの、
それがミックスしたタイプのものがあるようです。
当社が出す年賀状は、挨拶状でありながら、
自社の特徴が出るようなものを心がけていますが、
それほど厳密にコントロールしているわけではないので、
年ごとに若干ニュアンスが異なっているかもしれません。
そんな折、今年の年賀状プロジェクト担当者から、
年賀状は挨拶状なのだから、きちんと年始の挨拶をすべきで、
それがおざなりな印象を与えるのは良くない、
と、そんな意見が出されました。
この意見は、年賀状はDMではない、ということを語っています。
私も、それに同感ですが、
これには正解があるわけではなく、
営業施策の一環として送る年賀状もあっていいと思います。
DMのように映る年賀状と、挨拶状のように映る年賀状、
その分かれ道はどこにあるのでしょうか。
私は、次のような場合に、DM的な印象になるのだと思います。
1.年始の挨拶文面としての印象が薄い
2.個別に書かれた手書きメッセージがない
3.宛名が「〜御中」で届く
ところで、3番の、宛名が「〜御中」で届く年賀状、
あなたの会社ではどのように取り扱っているでしょうか。
「〜部 御中」の意味は、「その中のどなたか」ということですが、
それで送った場合、いったいどこに届くのでしょう?
あるいは、届いたその年賀状は回覧されたりするのでしょうか?
とても興味があります。
ここから先は、私の想像になります。
多くの場合、「〜御中」で届いた年賀状は、
その部門の責任者に渡され、そして通常は回覧されず、
その責任者もスルーして読むだけで、自分に届いたとも思わない。
しかも、差出人も企業名だったりし、返事のしようがない。
こんなことが起きている気がします。
つまり、何かを告知するためのDM、露出度を上げるためのハガキは別として、
挨拶状の意味で出している年賀状の場合、
とってももったいない結果になっているのではないかな〜と想像します。
あなたが出す年賀状は、DMですか? 挨拶状ですか?
1通の送料52円。それを大量に出すのですから、
無駄なゴミを増やさないためにも、もっと意味にこだわりたいですね。
「場」を読む、「場」を創る
アメリカでは、白人警察官が黒人を死亡させた事件を大陪審が不起訴にし、デモが起きています。いったいなぜこのようなことが続くのでしょうか。審議の場で、どのようなことが行われているのでしょうか。しかし、大陪審の審理は、そこで語られた内容を明らかにしてはいけないことになっています。今日は、そんなことを糸口に、「場」というものから、コミュニケーションを考えたいと思います。
まず、今、挙げたアメリカの警官不起訴問題。私は、審理が密行的に行われるからこそ、起きてしまうことがあるのではないかと、推測しています。
たとえば、オープンにされない状況に置かれると、誰かが周りの陪審員の心理を作為的に操作することはいくらでもできると思います。たとえば、警官を無罪にしたいある陪審員が、この事件での警官の行為は有罪に値すると考えている別の陪審員の弱みを握っていたとします。仮に、そこにさりげなくプレッシャーを掛けたら...。相手は自分を守るために、にらまれないように行動してしまうかもしれません。あるいは、議論を行う中で、自信を持って堂々と発言する声の大きな人に、周りが引っ張られるということは、社会では日常茶飯事に起きます。声の大きなその人に周りの人を操作しようという意識がなくても、自分の主張を通したいという意識はあるはずです。
こうしたことが起きると、その「場」に何らかの力関係、つまり「場」を支配する者と、支配される者という関係が生じて、個々の人がニュートラルに判断しているとはいえない状況が生まれるのではないでしょうか。しかも、その「場」にそのようなことが起きていることに、意外と人は気がつかなかったりします。
なぜ、気がつかないかというと、そもそも一見すると強固なものに思える「事実」という概念が、意外にも脆いものだということに、思いを巡らす人が少ないからです。一般的には、「事実とは、本当にあった事柄」と受け止めますよね。ところが、出来事というのは捉え方にもよるので、結局、何が本当にあった事柄なのか、各自各様の解釈をしているだけで、実は本当の一つの事柄など誰にも言えない。
たとえば、昨日は早朝から16時頃まで雨が降っていたとします。それを、ある人は、「天気が悪い一日だった」と思うでしょう。でも、その後、一瞬、素晴らしい青空が見えたことが、別のある人にとって強烈に記憶に残ったならば、その人は「昨日の天気は悪かったどころか、晴れ渡った青空が印象的な一日だった」と語るに違いありません。
でも、多くの人は事実は一つだと思っているので、声の大きな人が「天気が悪い一日だった」と言えば、それほど鮮明な記憶がなければないほど、「そうだった、天気が悪い一日だった」と思ってしまうのではないでしょうか。
事実とはアテにならないものだと思った体験を、今から10年ほど前にしました。当社は事務所の大家さんを相手に訴訟を起こしたことがあります。転出しても、保証金を返してくれなかいことがその理由でしたが、そうしたら何と逆提訴されました。どんなことをされたかと言うと、「あること、ないこと」ではなく、「ないこと、ないこと」を書類にされ、訴え返されました。まるで作り話です。幸いにも、裁判は当社が勝ちましたが、まるで事実であるかのような資料が公に出されることに、非常に憤慨しましたし、恐怖を感じました。と同時に、こんなに簡単に事実風なことは創られるのだと知りました。それ以来、「これは事実」と私が思っていたことが、果たして本当なのか、思い込みではないのか、自分の感覚に注意を払うようになりました。
この裁判で起きたことも、「場」をどちらが支配するのかの戦いだったと思います。もちろん、それは弁護士が担うわけですが、「場」を支配した方が勝つわけです。
さて、、、、
リーダーは「場」を読むことが重要だ、とは良く言われることです。そして、空気を読むという言葉があるように、日本人はどちらかと言えば、読み過ぎなくらい、場を読むのが上手な国民らしいです。けれど、リーダーが空気だけ読んで行動すると、「迎合」が生まれ、それはそれであまりいいことはありません。
また、「場」を読むと同時に、「場」を創るのも、リーダーには必要なことですが、自分にとって好都合の「場」を創ることにだけ埋没してしまうと、、実はとても危険ですよね。映画「スターウォーズ」の中のダースベーダーがそれを物語っています。映画には、暗黒側へ落ちてはいけないという、とてもわかりやすいメッセージが込められています。
どうやって「場」を読み、「場」を創るか。意識的、無意識的なことはあるにせよ、多くのリーダーはそういうことと日々格闘しているのではないでしょうか。そうした中で、周囲に迎合して「場」を読みすぎず、自分のために計算して「場」を創りすぎず、周りの人を考えた上での自分の信念のために「場」を考えられる人、それが本当のリーダーだなと思います。私自身、これについては60点です。年中、スベっていますし、今もって修行中です。「場」という切り口で、ご自身を振り返る、おススメします!
企業の存続には「心」が最も大切
11月29日(土)、当社は創立30周年を迎えました。こちらにもご挨拶文を掲載しましたが、30年にわたって存続できているのは、お客様やパートナーの皆様、今のスタッフやかつて在籍していたスタッフみんなのおかげです。本当にありがとうございます。
継続は力なりと言いますが、継続する上で重要なことを挙げようとしたら、いくら挙げても足りないかもしれません。ポジショニング戦略やターゲット戦略を組み立てる力、戦略だけでなく、実際のサービスの質、時代への適応力、お客様に信頼される真っ当さ、価値観の社内共有レベル、さらには「運」などなど。
どれ一つ欠けてもいけないのだとは思いますが、それでも敢えて一番重要なものをひとつを選ぶなら、私は「真っ当さ」や「誠実さ」ではないかと思います。つまりは、「心」の問題です。企業というのも、所詮は人の集まりです。そこにいる人たちの「心」のあり方が、会社を成り立たせるために、とても重要なのではないかと私は考えます。具体的には、当社は「フェアである」を行動指針に掲げています。ここには、「願い」が書かれています。けれど、人は聖人ではありませんから、必ず間違いを犯します。私自身もそうですし、当社の社員もそうですし、いわば誰しも間違えます。本当は望まないのに、うっかりとか、勢いでとか、流されてなど、自分が望まない振る舞いをしたりします。その後に、どの程度のセンサーでチェック機能を働かせられるか。そして、自分のセンサーが働かない時には、人のセンサーを活用できるか、間違ってしまった時に、素直に謝れるか...そういうことがとても大切だと思います。
それを、この機会にもう一度自分たちの行動を再確認できたらな、と思います。ご支援ありがとうございます。