[2010.09.27]
ブログを書くときの深層心理との戦い
こんにちは。小野です。
実はたった今、いったん書いた記事をボツにしました。書いたのは「仕事」についてです。そうですね、ざっと言ってもいつもの記事と同じぐらいのボリュームまで書いたのですが、でも、やっぱりやめにしました。なぜかといえば、ただ活字が並んでいるだけで、何を言いたいのか不明瞭な、歯切れの悪い内容だったからです。
正直なところ、このブログはお金をいただいて書いているものではないので、あまりハードルを上げずに、気軽に書くことをモットーとしています。ですから、内容的には65点(?)ぐらいでもヨシとしてしまうこともしばしば。
つまり、今、書いた記事をボツにした理由は、それ以下だったということなのですが、そのボーダーについて、あまり真剣に考えたことはありませんでした。でも、改めて考えてみると、答えはこうです。
内容の深さ浅さ以前に、たとえ内容が深くはなくても、「自分なりの、書きたい1点が明瞭にあるかどうか」です。言い換えれば自分のフィルターで「伝えたいこと」があるかどうかです。
ブログの文章というのは、必ずしも主張を持っている必要はありません。「これについて、どう考えていいか、わからない」というなら「わからない」でいいと思っています。でも、「わからないと書きたい」という意思を持って書いたならいいのですが、それさえ持たずに「何か書かなくては」という気持ちだけで文章を書くと、結果的に何が言いたいのかわからないということに陥ります。
毎週更新を続けて早半年。正直なところ、日によっては、いえ、もしかしたら"いつも"(笑)、早く活字で埋めて、書く作業を終わらせたいという誘惑にかられます。65点と書きましたが、別に採点表があるわけではありませんし、ブログの記事に正しいも、正しくないもありません。ですから、ボツにする/しないは、自分の良心との戦いのようなものになります。ことば系の仕事をしているというプライドと言ってもいいかもしれません。
私の自己基準で言えば、一番よくないのは、専門家らしく良い印象を与えたいがために、もっともらしい言葉を並べ立てて、それ風に書けたと満足することです。会社のブログである場合、そのような心理に陥る人も少なくないような気がします。ワタシの心の中にも、そういった心理はあります。「この人の書くことはおもしろいと思われたい」とか「専門知識がありそうだと思われたい」という心理です。いや,待て。こう書くと、まるで常にそういうことを気にして書いているような印象ですよね。ワタシの場合は、先ほども書いたように65点でもヨシとしていて、むしろエラそうになっていないかの方を重視しています。
そんなわけで、改めて告白。先ほど書いた記事は、もっともらしく言葉を並べ立てただけの記事でした。んなわけで、ボッツ?! 自分の良心に従ったワタシ、エライッ!
[2010.09.27]
NTTドコモの横山達也さん著「25歳からの勉強のルール」

こんにちは。小野です。
今日は、最近いただいた本についてご紹介します。当社のお客様にNTTドコモ様があり、当社は代理店様向けの施策のお手伝いをしてきました。本をお贈りくださったのは、その窓口であった横山達也さんです。現在は、NTTドコモの社内ベンチャー制度で独立され、(株)ダイナステップという企業を社長の寺崎元治さんととともに経営されています。
本のタイトルは、「25歳からの勉強のルール」(刊:明日香出版社)です。実は、ワタシ自身はビジネス書は読むことがあるものの、自己啓発系の書籍を読むことはほとんどありません。売れている理由を知りたい等の理由で勝間和代さんの本を読んだりしたことはありますが。
この本は、その意味では自己啓発というジャンルに属すると思いますが、結論から言うといろいろな意味で参考になりました。
本のタイトルにあるように、横山さんが社会人になってから意識的に勉強し出したのは25歳頃からだそうです。きっかけは何だったのでしょうか。
横山さんが社会人になりたての頃、上司にこんな方がいたそうです。「お前、◯◯は好きか?」と尋ねて、「好き」と答えた人に仕事を与える。好きこそものの上手なれということなのでしょうね。また、お客様から「横山さんの専門分野は何ですか?」と聞かれた体験があり、好きなことや専門領域を持つことの大切さを感じたことが、勉強を始めた動機になったそうです。
専門領域と言っても、横山さんは好きであることを重視しており、大上段なテーマでなくても話題づくりのつもりで勉強すればよいと説いています。ところが、好きなことをピックアップしようとしても、最初は好きなことが何であるのかわからなかったとも。本の中で、好きなことを100件書き出すことを勧めていますが、意外にそれは誰にとっても難しいはずで、でもそういう目線でモノを見出すと、興味が持てるようになるそうです。
ワタシ自身を振り返ってみると、勉強はしているつもりですが、横山さんのように意識的に生活設計として取り込んでいるかといえば、そうではありません。
知りたいという欲求に応じて、ただ単純にその欲求を満たすために本を読んだり、調べたりという行動を取っています。
特にアウトプットするという前提があるときは、制限時間ギリギリまでインプットを続けます。アウトプットだけを目的にするなら、極論を言えば既存の知識だけでもできるかもしれませんが、アウトプットをきっかけとして利用しながら、深くインプットすることで、自分に知識を蓄え、既存の知識体系の中に整理し直すことができるからです。
でも、時間をどうやって捻出し、どうやって使うかという発想で生活することは、チリも積もれば山となるという意味で、重要なことですね。
と書きながら、ヒアリングマラソンその他数々の英会話学習で挫折したことが甦ってきました。仕方ありませんね。やりたいことはたくさんあるので。
と、自己肯定に走るワタシでありました。。。。
[2010.09.20]
新サービス「マンガde!」シリーズをリリース
こんにちは。オノです。
今週は、敬老の日とお彼岸で、あっという間に1週間が過ぎそうですね。
今日は、ささやかながらも前回少しだけ書いた新サービスのお知らせです。
「ストーリーマンガをビジネスに! ビジネスに思いを!」を合い言葉に、5つのサービスをリリースしました。
5つの「マンガde!」シリーズ
(1)マンガde理念!
(2)マンガdeビジョン!
(3)マンガde中計!
(4)マンガde新社長!
(5)マンガdeルーツ!
社内に何かを浸透させたいときは、「思い」とともに伝えること、伝え手の「顔」が見えること、「なぜ」がわかることが大切。このサービスは、そうしたことの大切さを伝えたくてつくりました。
マンガを「たかがマンガ」と受け止めてはいけません。世界的な地位を築いた日本のアニメの礎を築いたのはマンガの文化です。小説や映画と同等のドラマの表現、それがマンガであるとワタシは思います。
このサービスは、アドマンガ.comを主宰されているトレンド・プロさんとのコラボレーションで提供していきます。
トレンド・プロの岡崎社長は、ソフトでダンディな方。初対面でも温かく迎えてくださいました。三好副社長は、打ち出し方を含めて様々なアドバイスをくださいました。心から御礼申し上げます。
[2010.09.13]
なぜ今マンガか - 心情を伝えるストーリーのチカラ
こんにちは。オノです。
さて、今日はまもなくリリース予定のサービスについて予告を兼ねてご紹介します。新サービスはストーリーマンガ(劇画)という手法で、理念やビジョン、中期経営計画や会社のルーツを紹介する、というものです。
なぜマンガに着目したのか。考えてみると、あまりロジックでは考えていませんでした。この機会に、少しだけ掘り下げて考えてみたいと思います。
人が何かに感動したり共感するのは、フィクションかノンフィクションかは実はあまり関係ありません。感動・共感には様々な要素が関係していますが、今回強調したいのは、誰かの心情を汲み取ったり、読み取ったりできたときに人は心を動かされる、という点です。そうやって汲み取った心情に応援したくなったり、賛同したいと思えたなら、大抵の場合、少なからず感情移入できるのではないでしょうか。
たとえば、「もしドラ」はドラッカーの著作をネタとしたフィクションです。フィクションとしては稚拙すぎるという手厳しい意見を言う人もいますが、ざっくりベースでいうなら、主人公の心情や行動に共感した人が多かったから、大ヒットとなったのだと思います。
一方で、NHKの「プロジェクトX」、テレビ東京「カンブリア宮殿」などは人を惹き付けるノンフィクションの例でしょう。多少クサい演出があっっても、事実の裏側にある心情というものが常に語られています。
これらが右脳的な理解の上に成り立っているとするなら、もう一つの理解は左脳的な理解になります。心情的なものが排除された事実や情報を、そのまま受け止める場合です。テレビや新聞で伝えられるニュースは、むしろそれが伝え方の基本になっているので、そこに感情移入することはありません。まれに社会面の記事でジワッと何かを感じ取るのは、その事件に巻き込まれた人の心情を受け手が自分の想像力で汲み取るからにほかなりません。
左脳的理解は、ニュース報道に限りません。売上ナンバーワンを謳う広告なども、感情とは別の次元で受け止めていますし、広告の作り手もそれを狙っているはずです。
心情が描かれていると、人はそこに物語を感じ、頭ではなく心で理解をする。これが私の仮説であり、マンガに着目した理由でもあります。パンフレットや資料等による伝達方法の場合、登場人物はいませんから、心情を語るには限界があります。しかし、マンガの場合、登場人物がいる時点で、心情に触れないわけにはいきません。
心情が重要であるのは、何も伝達行動に限ったことではありません。何かをプロデュースしようとする人は、思いを大切にすべきだと語っているのは、この本。
(著:佐々木直彦、刊:日本能率協会マネジメントセンター)
心情を伝える。それは、人と人が心をひとつにする必要があるときの基本の方程式なのかもしれません。
[2010.09.06]
人が何かを吸収するには年齢は関係ないんですね?ハワイ旅行から

オノです。こんにちは。
上の写真は、美しいハワイの景色のお裾分けです。
あまりエラそうなことは書けませんが、たまには私も親孝行をします。先週は夏休みを使って両親とハワイに行ってきました。これだけ書くとのどかな感じに聞こえますが、高齢な両親を海外に連れ出すのは、ちょっとした覚悟が必要です。言ってみれば添乗員ですから、二人が転んだり,事故にあったりすることなく、無事帰国できてホッとしました。
親と旅行して感じることはたくさんありますが、その中でも自分にとって役立つ刺激がいくつかあります。その代表的な例を紹介しますと。。。
1)歳を取るとどんなことがハードルになるのかがわかる
2)「年寄り時間」にいちいちイライラしないコツがわかる
3)高齢者視点での親の学びを通じて自分も学ぶ
歳を取るとどんなことがハードルになるのかがわかる
やがては自分も歳を取るということに対しては、一定年齢以上になれば、それなりのイメージを持つものです。でも、細部にわたっての実感は伴いません。
たった今まで手に持っていたはずのものが、どこに置いたかわからなくなったり、サービスのしくみや関係性を理解するのに時間がかかったり、方向感覚が弱って地図上の現在地がわからなくなるなど、認知力というものが歴然と衰えてきています。
もちろん体力的なこと、生理的なこと、経済的なことでも、様々なハードルができます。たとえば、昭和一桁世代の私の両親の場合は、長時間歩く体力はなくなっているのに、リゾート的な過ごし方(歩き回らずのんびり過ごす)は性に合わないので、クルマ&ガイドをチャーターしてお金がかかったりするのです。あるいは、スーツケースの鍵を家に忘れて来てしまい、ホテルの人に鍵をこじあけてもらわざるを得なくて、スーツケースを買い替えることになったり。
短い旅行でも様々な出来事が生じます。老いというものを観察することは、自分自身の人生を考える上でも意味のあることだと感じます。
「年寄り時間」にいちいちイライラしないコツがわかる
異世代が会話するとイライラしたり軋轢が生まれるというのは、よくあることです。でも、私は多分普通の人よりもイライラしない方かもしれません。
両親には両親の時間感覚があります。モノがなくなれば、探す時間が必要になるし、予定していなかったスーツケースを買うにも、時間が必要になります。状況ごとに優先すべき事柄が変わりますから、それによって時間が無駄になったと考えても仕方ありません。
また、高齢者が物事を理解するために、多少時間がかかるのは、社会生活のバックグラウンドが違えば当然です。実はこれ、高齢者に限らないのですよね。たとえば違う仕事をしている友だちや、仕事をしていない友だちに、私の仕事を理解してもらうのはとても難しいです。仕事の概念を理解するには、しくみの概念を理解しないとできませんから、しくみを理解するのが難しいのだと思います。
でも、往々にして同世代の会話でイライラしない人も、高齢者と会話するとイライラするものです。
私自身、まったくそうでないと言えばウソになりますが、それでも、あまりイライラしないのは、海外に行けば時差に合わせて時計の針を変えるように、自分の時計を年寄り時間の目盛りに合わせてしまうからだと思います。最初から織り込んでおけば、それほどイライラしないものです。もちろん毎日のことでないからできるのでしょうが。
高齢者視点での親の学びを通じて自分も学ぶ
さて、タイトルに記したように、最後のこれが一番印象に残りました。たとえ高齢といえども、両親は両親なりに、今回の旅行でも何かを発見しているということへの発見です。ポツリと父が言ったのは、「海外のお年寄りは外に出て行く積極性が日本のお年寄りよりも高いように感じる。日本の年寄りは内に籠りがちだけれど、もっとがんばらないといけない」。ホテルのエレベーターで酸素ボンベを付けながら移動していたアメリカ人らしき高齢の女性を目の当たりにしたときの感想です。
この感想がどうだということよりも、いかに体力や認知力が衰えたとしても、何かに触れて、そこから吸収する力、その刺激を咀嚼する力を衰えさせないことはできるのだというのが、私の発見です。そのようなフレッシュな目線は歳をとっても忘れたくないものだと改めて思いました。添乗員旅行を通じて、カラダが弱ろうとも何かを吸収し続ける、そんな姿を学ばせてもらったというところですね。
写真は、オアフ島のハレイワの海岸です。ワイキキと違って、周りにはなにもない素朴で美しいビーチでした。