ブランディング、コミュニケーション、チームワーク…。週1回の社長ブログです

ブログ:2010年5月

社長の脳みそ整理mono-log モノログ

 前回、「企業内コミュニケーションの原点「What」にこだわる」というテーマでトップのビジョンの発信について、書きました。今日は、PM理論からトップメッセージの発信の仕方について考えてみたいと思います。トップメッセージの発信に関わる方の参考になれば幸いです。

 PM理論というのは、社会心理学者、三隅二不二が提唱したリーダーシップ理論であると同時に、組織風土の分析等にも活用されています。
 わかりやすく意訳しますと…。リーダシップには「目標達成機能(Performance function:P機能)」と「集団維持機能(Maintenance function:M機能)」があり、その強弱によってリーダーを4つのタイプに類型化できるとしています。

P機能:叱咤激励したり強く明快な指示により集団の目標を達成する働き
M機能:人間関係や和を重んじ、チームワークを維持する働き

<%image(20100530-PMtheory.jpg|574|271|PM理論概念図)%>

 P機能が強ければ、一方通行的な指示や命令が多くなり、M機能が強ければ、議論や合意が尊重されることが多くなります。もちろん、長所と短所は裏返しですから、M機能が強ければ目標達成ができなかったり、P機能が強ければイエスマンが増えるといったことも起きがちです。
 P機能とM機能の両方ともが高ければ、自由闊達な組織風土であると同時に、組織のモラールも個人のモチベーションも高くなり好ましいわけですが(図の右上)、多くの場合、そう簡単にはいきません。

 図の右上を目指そうとするのであれば、トップのメッセージは現状を補完する形で設計されるべきだとワタシは思います。P機能が強い風土なら、M機能に配慮したトップメッセージにすることで、共感が生まれます。M機能が強い風土なら、敢て意図的に強い意思、強い要求をメッセージに託すことで、緊張感が生まれます。

 しかし、現実世界では、そんな読み解きが行われないまま、トップはインタビューに応え、それがそのまま映像や活字になって内部に流されているのではないでしょうか。「オレ流」「ワタシ流」の方が個性が出て良い場合ももちろんあります。けれど、個性を貫くことは目的ではありません。

 以前、ある企業の社内報分析を行ったことがあります。社長交替が行われてから1年経った時期でした。強力なリーダーシップ、まさにP型の経営で社内を大改革していたのですが、社内のモチベーションは上がっていませんでした。理由は、メッセージがP的表現で書かれており、「なぜ」や想いが書かれていなかったのです。

 経営スタッフ部門が、トップの話をストレートに流すだけなら、それはアシスタントであって、参謀とはいえません。トップメッセージの発信に携わる経営スタッフ部門は、PMの目盛り合わせをトップとの間で行うべきですし、ライターを雇うのであれば、表現のニュアンスの擦り合わせをした上で取材の場を設けることをお勧めします。殊に、話し言葉で誤解を得やすい人ほど、書き言葉で補っていくことが重要です。
 経営スタッフ部門は、トップの参謀です。そんな視点で仕事を再点検すると見えてくることがあるのではないでしょうか。
 

 こんにちは。小野です。

 ワタシは性格的にも物事を深堀りしやすい質なのですが、最近は、まるで哲学者のように企業コミュニケーション(特に社内コミュニケーション)について考えています。

 「コミュニケーション」という言葉が使われるとき、一般的には2つの意味で使われますよね。一つは「あの人はコミュニケーション能力がないから…」というような文脈で使われる、どちらかといえばFace to faceのミクロ的なコミュニケーション。1:1のコミュニケーションです。もう一つは、「当社のコーポレートコミュニケーション戦略は…」とか、「当社の社内コミュニケーションを活性化するために…」というようなマクロ的なコミュニケーションです。テレビCMなどのマス広告は、まさにマクロ的なコミュニケーションで、1:n(1対多)のコミュニケーションです。(最近はTwitterを代表とするネットコミュニケーションもありますから、1:n:nという構図になっていますけど)

 企業の中で、トップは1:1のコミュニケーションと、1:nのコミュニケーションを同時に行っています。いや、トップに限りませんね。少なくてもリーダーである人は1:1と、1:nの両方に関わっています。そして、1:1はうまくいっているが、1:nがうまくいかないという場合もあれば、その反対の場合もあるかもしれません。少なくても、nの意識は千差万別なので、どこに照準を合わせるのかという難しさがあります。

 企業活動では、ビジョンがあり、経営目標を達成するために、全体がチームとなって行動する必要があるわけですが、それだとイメージが持ちにくいので、個人に置き換えて考えてみましょう。たとえ話です。
 Aさんは、仕事とは別に、ラーメンの食べ歩きが趣味でした。趣味が高じて、国内だけでなく中国探訪もするようになり、今では、「日本一の中華麺評論家になりたい」という意欲を持っていました。そして、「そのために中国各地の麺を100回食べに行き、本を書こう」「そのためには無駄遣いはせずに旅行代金を貯め、現地の人とコミュニケーションを取るには中国語を話せるようになる必要もあるし、麺づくりについても学ばないといけいない。おもしろい読み物を書くための文章力も養いたい」とこんな風に考え始めました。

 「日本一の中華麺評論家」というのは、人からそのように認識されたいという意味で、ブランドアイデンティティの規定とも言えますし、ビジョンだとも言えます。
 「そのために中国各地の麺を100回食べに行き、本を書こう」というのは、中長期的な大目標です。
 「無駄遣いはせずに旅行代金を貯め、現地の人とコミュニケーションを取るには中国語を話せるようになる必要もあるし、麺づくりについても学ばないといけいない。おもしろい読み物を書くための文章力も養いたい」というのは、そのための小目標だとも言えますが、仮にAさんが無駄遣いしがちな人で、どちらかといえば引っ込み思案な人であるなら、自己変革テーマでもあります。

 つまり、目標にはざっくり言って3つのレイヤーがあります。
1 ポジションとしてのゴール:日本一の中華麺評論家になる
2 ポジションを得るための大目標:中国各地の麺を食べる取材旅行を100回し、本を書く
3-1 大目標を達成するための小目標(増やすべき行動や能力)
   ・旅行代金を貯める
   ・中国語でコミュニケーションできるようになる
   ・麺づくりについて知識を習得する
   ・文章力を鍛える
3-2 大目標を達成するための体質改善(なくすべき行動)
   ・無駄遣いをしない
   ・消極的な態度をとらない

 さて、この場合、Aさんは「日本一の中華麺評論家になる」という目的意識があるから、無駄遣いをやめようと思えるわけです。「日本一の中華麺評論家になる」ことが自分にとって意義のあることだと心から思えるからこそ、その努力ができますが、中途半端な思いなら、その努力も続きません。

 これを企業に置き換えてみると…。
 1番の「ポジションとしてのゴール」を目指す意義が共有できていないときに、小目標(3-1)や体質改善(3-2)の話をされても、人はやる気が起きません。また、1番と2番のつながり、2番と3番のつながり、3番と自分のつながりがわからなければ、自分ごとにならないものだと思います。

 さて、話を元に戻すと、リーダーはこれらのことを1:1、1:nの関係の中で伝えていく役割を持っています。単に伝えるだけでなく、納得や共感を得られているかどうかが、ゴール到達や目標達成にかかってきます。
 しかし、一番の発信元は、トップである社長です。ところが、とかく社長はビジョンを繰り返し語らず、3番や2番をベースにコミュニケーションしているのではないでしょうか。

 1番がしっかりと腹に落ちさえすれば、2番3番は与えられなくても、みんなが知恵を出せるようになる。そう考えると、実は1:1かとか、1:nなのかではなく、トップはクドいほどに、1番を語るべきではないでしょうか。それでなくても、1番を腹に落すというのは大変なことですから。Appleのスティーブ・ジョブズやソフトバンクの孫さんは、そういうことをやっているのではないかと想像します。ところが、Whatをきちんと設計せずに安直に表面的に捉えてしまうと、繰り返して語っても目的は達成されません。Howももちろん重要です。でも、Howの前に、ビジョンというWhatに徹底的にこだわって、伝える内容を練りこむ。そのメッセージアーキテクトが企業内コミュニケーションの原点だと思います。

---------
7月14日(水)にパートナーオブスターズ株式会社の代表:星野善宣さんとセミナーを開催します。詳細は追って、当サイトでお知らせします。

 こんにちは、小野です。

 CAREERZINEで、日本人は「Define yourself」能力が足りないというインタビュー記事を目にしました。日・中・米企業で人事に携わった経験を持つTim McIntoshさんの指摘です。ヘッドハンターがスカウトする際に重視するのは、「Define yourself」。自分自身を定義できているかどうかなのだそうです。自分が誰で、何ができて、何をやりたい人なのか、McIntoshさんは「あなた自身のラベルをシンプルに示すこと」だとしています。以下、引用です。

日本人は、この能力が弱い人が多いように感じます。自分自身のことをきちんとプレゼンする能力、つまり自己主張が弱いため、グローバルスタンダードから見ても、損をしているように感じます。自分がどういう人間なのかを主体的に考えて伝える能力が、今後ますます、グローバル化が進むビジネス界では重要になるはずです。

 おっしゃる通り。その重要性については同感です。
 控えめが美徳という日本的な精神文化とも関係しているのか、ストレートに自分をアピールできる日本人は多くないように感じます。
 一方で、控えめだからというよりも、自我を確立できている人が少ないという見方もできるのかもしれません。そういえば、私も20代の前半、10歳以上年上の人から「自我に目覚めていない」と指摘されたことがあります。当時は、その意味さえもわかりませんでした。
 今は自己再定義中です(笑)
 私がここでいう自我の確立とは、フロイト的な意味で言っているのではなく、自分(長所も短所も)を認識して他者との違いについて居直り、願望は願望として認識したらクチに出す、というようなことです。もちろん欠点についてはただ居直っていれば良いというわけではありませんが、人からどう思われるかといった他人軸でものを考えるのではなく、自分軸でものを考えられる状態を言っています。
 ですから、自意識と自我は違います。自意識が強い人は多いのに、自我が確立できている人は少ない。自我が確立できれば、人の価値観に左右されなくなります。自分を受け入れて居直れないのは、「人と同じでいないと不安」という日本的社会とも関係しているのかもしれません。

 著作は読んだことがありませんが、アメリカの組織心理学者であるE・H・シャイン博士という人もキャリア・アンカー(仕事経験から作られる自己像)という言葉で自己定義について同じようなことを述べているようです。人は、25歳から30歳ぐらいまでの間に、キャリアを選択するときに譲歩できない価値観や欲求から「自己像」(セルフ・イメージ)を形成するそうです。その柱となるのは、自分のコンピテンシー、モチベーション、バリューという3要素なのだとか。達成へ向けた能力特性、意欲の源や動機、価値観ということでしょうね。

 実際、私たちは自分の自己像について毎日毎日考えることはありません。でも、人間は、自分が抱く自己像に合わせて無意識にいろいろな態度を取っています。そして、その態度や立ち振る舞いで、他者の中で自分のイメージが決まっていきます。
 他者が自分に抱くイメージはコントロールできないけれど、自分が自分に抱くイメージはコントロール可能ですから、自分を定義づけるために自分と向き合うことは、重要です。あ、この話、何かと似ていると思ったら、企業のブランディングでした。本質は同じなのですね。
 

 こんにちは。小野です。

 何を書こうかなと考えることひとしきり。今日は最近、肌で感じる時代の風向きについて書こうと思います。キーワードは「Open(開)」です。オープンと聞いて、「なんだ、オープンソースとか、そんなことだろ? 今さら言うまでもない」と思う方もいるかもしれません。ワタシがここで書きたいのは、むしろ「公」と「私」の関係におけるボーダレスの流れについてです。
 日本では、90年代半ばにインターネットが、2002年頃にはブログが普及し始めました。Twitterが日本で普及しだしたのはまさに去年から今年にかけてです。

 この流れの中で、個人が特別の知識がなくても、「私発」の情報を発信できるようになったブログの登場はまさに画期的な出来事でしたが、実はこの時代、発信といっても、あくまで匿名の利用者が多かったのではないかと思います。それは、言ってみれば「2ちゃんねる」という掲示板が匿名の書き込みの集積であるのと同じで、自分のサイトであっても自分が何者であるか、少なくても実名を書き記す人は少なかったのではないのか、と。あるいは、周囲の人には自分のブログのURLを公開していたとしても、ブログのプロフィールで実名は公開しないなどの切り分け方で、広義での匿名性が保たれていたのではないかと思うのです。しかし、もちろんこれは統計情報に基づいて書いているわけではありません。あくまでワタシの皮膚感覚で感じていることを書いています。実際、ワタシ自身も会社のブログを始める以前に個人のブログを始めましたが、友人には公開していても、広い意味では匿名でブログを書いていました。

 ところが、Twitterの時代になり、大分匿名性が減っているのではないかと感じます。プロフィールの覧を見ると、たとえそれがアルファベットであったとしても、実名を使っている人が増えています。
 ワタシも、最初はどうすべきか迷いました。選択肢は3つです。
1)小野真由美を名乗らない。
2)小野真由美を名乗るが、グラスルーツの代表であることは名乗らない。
3)小野真由美を名乗り、グラスルーツの代表であることも名乗る。
 結論から言うと、3番を選びました。そうしないと、なんだか2重人格になりそうでイヤだと思ったからです。その時点で、周りの人たちがどうであるかを観察していませんでしたが、フタを開けてみると、個人名を出している人が多いことに驚きました。

 実名を出しているからでしょうか。多くの人は、仕事に関連する事柄も、プライベートな事柄も、どちらにも属さない事柄も短い言葉で発信しています。公私の境が感じられません。一番驚いたのはソフトバンクの孫さんです。ユーザのつぶやきにも「やりましょう!」とその場で返信したり、「コンタクトね、◯◯くん」と社員に指示まで出してしまう一方で、大河ドラマの「龍馬伝」を見て泣いた?などともつぶやいています。

 Twitterでつぶやいて何の意味があるのかと考えてしまう人は、「Twitter=個人のつぶやき」という文脈でしか捉えていないのだと思いますが、公と私の境がなくなるという流れは個が中心になるということを意味していますし、建て前社会から本音社会になることをも意味しています。それは個人の幸せにとってとても良いことだと思います。その文脈でTwitterを見ると、つぶやきはただのつぶやきだと思えなくなります。

 一方で、個が中心の社会に移行しているのだとすると、組織に存在し、ただ与えられた仕事をしているだけでは個の存在価値を感じてもらえない社会に変貌していることを意味しています。何ら見返りなく発信しているからこそ、人のリスペクトを集め、その人の存在価値も高まるのであって、出し惜しみしている人の存在価値はどんどん下がるのではないでしょうか。ところが、まだ「発信=自己主張」だという文脈でしかとらえていない人たちもいます。そういう人たちの間では、変に自己主張するのはカッコ悪いと思われているような気がします。この場合、「Twitter=つぶやき」あるいは「Twitter=発信=自己主張」と思われてしまうからでしょうか、「ツイッター? 興味ないから」で終わってしまいがちです。公私のオープン化というような流れについて、切り捨てる(=目を向けない)人が多いと感じます。

 さて、まるでTwitterが時代の中心であるかのように書いてしまいましたが、実はそうではありません。Twitterがなかった時代のアナログ世界を振り返ってみても、実は同じことが言えます。自分は、Giveするのか、Takeするのか。Takeだけの人は、信頼されない。たかが「つぶやき」でも、そんな意味もあるのではないでしょうか。ワタシも、まったくGiveできていませんが、Takeだけでは申し訳ないと思っているひとりです。

 ワタシが書きたかったキーワード「Open」には、さらに別の意味(今日の話が縦軸だとすると、横軸の解釈)もありますが、長くなりましたので、この辺で。少なくても、ワタシはオープンな社会の方が好きだなー。微力ながら、今、自分にできることをやります。ではまた

インビクタス/負けざる者たち ブルーレイ&DVDセット ゴールデンウィークは終わったものの、あと2日休暇を取って連休にしている方やまだ会社自体がお休みという方も中にはいらっしゃるのではないでしょうか。今日は木曜日ですし、出勤していても馬力がかかりにくいのも事実。(ということを言い訳にして)今日は軽い話題を。

 ゴールデンウィーク中に2つの映画を観ました。1つはDVDで「アバター」を、もう1つは現在上映中の「アリス・イン・ワンダーランド」です。ご存知の通り、前者はジェームズ・キャメロン監督作品で、アカデミー賞で9部門にノミネートされながらも最終的には「ハート・ロッカー」に大半の賞をさらわれてしまったことで話題となった作品。後者は、ティム・バートン監督、ジョニー・デップ主演で、原作はルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」です。予め計画してGW中にこの2作品を観ようと思っていたわけではないので、ここで2作品を比較するのも変な話ですが、観る前に抱いていた「期待」と事後に抱く「感想」との関係に、改めてふむふむと思ったので、比較して書こうと思います。

 結論から書くと、「アバター」の方が良かったのです。実は、「アバター」はそれほど期待して観たわけではありませんでした。観た理由は、上に書いた通り、アカデミー賞で話題になったからにほかならず、予告編で観た青い異星人にも、「アバター」というタイトルにも、あまり興味は持ちませんでした。でも、断じてSF嫌いではありません。ただ同じSF、同じCGでもあまりゲーム的な表現は好きでないという好みはあって、どちらかといえばそんな先入観があったのかもしれません。でも、蓋を開けてびっくりの世界観で描かれていて、大いに引き込まれました。
 一方の「アリス・イン・ワンダーランド」は、ティム・バートンもジョニー・デップも好きだから観に行ったという感じ。二人のコンビで作られてきたこれまでの映画の流れで、これまで以上のものが観られるといいなという期待感がありました。ところがオーディエンスは勝手なもの。映画がおもしろかったかどうかもさることながら、期待以上であったかどうかでも評価してしまうのですね。映画自体は、とてもおもしろくできていました。ことさらにティム・バートンファンでもなければ、ジョニー・デップファンでもないなら、大満足してもおかしくない類いの映画だと思います。でも、なまじティム・バートンらしい毒のおもしろさに魅せられていると、それがちょっとでも物足りないと手放しで褒めちぎれないのです。

 ここに人の「評価」というもののコワさがありますね。不満だったわけではない、でも期待以上でもなかった、という。実は、仕事でも同じようなことがあるのだろうと思い、ちょっと神妙な気分になりました。期待されていないとき、ちょっとしたことでも相手は新鮮に受け止めてくれますが、期待される関係になるとハードルはどんどん高くなっていき、以前なら期待以上と思ってもらえても、だんだんと当然のことになる。自分たちがつくったハードルは自分たちで乗り越えなければいけないのですが、ともすると前のハードルと同じ高さを超えたことで自分たちだけ満足し、相手はもはや満足しないということが起きやすくなります。本来比較対象ではない2作品を観ながら、ちょっと我が身を振り返りました。

 さて、だからといって、「アリス・イン・ワンダーランド」がおすすめできないわけではありません。ややディズニーチックに偏った感はありますが、それはワタシの微妙な好みの問題であって、十分堪能できる映画ですし、お世辞ヌキにおすすめしたい映画です。でも、ここでは深追いせず、むしろ「アバター」の感想について、少しだけ深堀りさせてください。

 「アバター」のわかりやすいメッセージは、アンチ自然破壊的なものだと言えます。でも、もうひとつ押し進めると宇宙の神秘というようなメッセージをワタシは感じました。映画の中では「自然との調和」というコトバで語られていましたが、人知を越えた何かが宇宙にはあるということを語っていたのだと思います。
 個人的にはそこに共感しました。「人知を越えた何か」という文脈に。たとえば、地球に暮らしていると、少なくてもワタシたちには上と下という感覚があります。頭がある方が上。足がある方が下です。でも、宇宙という視点でいったら、上も下もないのです。地球についての表現でも、北が上と決めたのは、人間が決めただけであって、本来、東西南北のどこにも上下がない。上も下もない空間が存在していること。それだけで人知を越えていますよね。同じように考えれば、人間が優れていて他の生物が劣っていると考えるのが間違えであることは感覚的にわかります。

 それほどまでに感銘を受けた「アバター」ですが、敢て作品として難をつけるとするなら、宮崎駿の「風の谷のナウシカ」を連想させすぎて、その分オリジナリティがなかったことでしょうか。もういちど「ナウシカ」を観たくなりました。

ブログを書いている人

小野真由美

グラスルーツの代表。組織をただの集団ではなく、チームにするための組織内コミュニケーションはどうあるべきだろう?…なんていうことを、いつもツラツラ考えています。ブランディングやコミュニケーション、チームやリーダシップ系の話題が7〜8割、その他の話題が2〜3割。そんなブログを目指します。ぜひおつきあいください。

社長メッセージを見る >>

これまでの記事

視点発見の旅
メルマガ【開-CAY】お申し込み

ご一緒に「視点発見の旅」へ!
メルマガは「開-CAY」で届きます

詳細を見る >>

「個人情報の取り扱いについて」

このページのトップへ