ディレクターの阿部が日々の気づきをつぶやくコーナーです

ブログ:2022年4月

スタッフの阿部が日々の気づきをつぶやくコーナーアベログ

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最近、YouTubeで透明水彩の描き方の
動画を視聴しています。
柴崎さんという70代の日本人男性が
講師を務めているチャンネルで、
とても見応えがあります。

何といってもプログラムが良くできています。

たとえば、
超初心者用にわかりやすく解説するコーナー、
視聴者から募った作品に先生がコメントし、
お直しするとしたらココを示すコーナー、
新しい画材を試してみるコーナーなど、
いくつかのコーナーが用意されていて、
視聴者を飽きさせません。

中でも私のお気に入りは、
視聴者から募った作品を
先生がお直しするコーナーです。

ちなみに私は、絵は描いておりません。
なので、自分の作品づくりに生かすとか、
そういう目的はないのですが、
それでもこのコーナーを見てしまうのは、
絵を描くためだけでなく、
ものづくりに共通する学びがあるからです。

先生のもとに届く作品のレベルは
さまざまですが、
比較的上級者レベルのものが多く、
もう直すところないんじゃない?
と思うほどの出来栄えのものもあります。

でも、よく見ると、全面にわたって
同じ調子で描き込まれている作品が
多いことに気づきます。
とても上手なのですが、写真でいうと、
全面にピントが合っている状態です。

先生は、
「これはタイトルがこうだから、
たぶんこの方はこの建物を描きたかったのでしょうね」
というふうに、まず伝えたいものを決め、
構図や明暗、強弱を工夫して、
強めるべきところを強く、
逆に弱くするところを弱めていきます。

建物と同じくらいの面積で描き込まれた空や
地面を大胆にカットした構図にしたり、
明るいところと暗いところ、
細かく描き込むところと省略するところの
差をつけたりといった具合です。

そうして出来上がった絵は、絵全体ではなく、
強くしたところにまず目が行くので、
作品の印象ががらりと変わります。
絵のタイトルの印象も強くなるので、
感情にうったえるものも大きくなります。
なるほどなあと毎回感心してしまいます。

これ、原稿作成も同じなのだと思います。

たとえば、「何を伝えたいか」が
あやふやな状態だと、
いくら小慣れた表現を多用して仕上げても、
「つまり何?」と読んだ人が疑問に思う
原稿になってしまう。

あるいは、インタビューをしたとして、
聞いたことをどんどん入れ込んで仕上げるのも、
一見盛りだくさんではありますが、
メッセージの強い原稿にはなりません。

「何を伝えたいか」をしっかり決めて、
強めるところを強め、
弱めるところは弱める。

絵でも写真でも音楽でも、そして原稿でも、
だれかに伝えることを目的としたものづくりに
重要なことは共通しているんだなと
改めて感じました。

さて、4月も半分終わりました。
気温差が激しい季節ですが、
体調に気をつけてまいりましょう!

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子どもの頃、私にピアノを
教えてくださっていた先生が
ある日、母にこんなことを言ったそうです。

「ちゃんと弾けてるんだけど、
いつもすごく難しい顔をしているの。
弾けてるよと言っても、
しかめっつらで楽譜を見ているの」

小学校の中学年くらいのことだと思いますが、
何やらさっぱり覚えていません。
さぞかし難しい曲を弾いていたんだろうなと
思われるかもしれませんが、
ごくごく普通の練習曲しか弾いていません。
イメージ通りに弾けないとか、
そんなレベルでもありませんでした。
もしかしたら、「この曲、好きじゃない」とか
そういうことだったのかもしれませんが、
たぶん、何かがすっきりしていなかったんでしょう(笑)。

今、私は自分が「モヤモヤ嫌い」だと自覚しており、
「モヤモヤ」を感じると、全力で解消に向かうわけですが、 その頃から、すっきりしない状態に敏感だったのかもしれません。
でも、何にすっきりしないのか、
を見つけるところまで当時は行けなかったようです。

そう考えると「すっきりする」「わかる」ということは
大変なことだなあと思います。

まず、すっきりしていないことを自覚する。
次に、なぜ、すっきりしていないのか
原因を探り、問題を見つける。
調べたり、人に聞いたりして、問題解決する。
自分の中で感覚的にわかるようになるまで試行錯誤。
ようやく「わかる」
みたいなことなのかなと思います。

もっと知りたくなったので、
『「わかる」とはどういうことか
−認識の脳科学』という本を読んでみました。

著者の山鳥重氏は、神経内科の医師で
高次機能障害学を主として研究しています。

山鳥氏によると、「わかる」には種類があって、
以下のどれか、もしくは組み合わせで
「わかる」にたどり着いているといいます。

<全体像がわかる>
ものごとを遠い距離から眺め、
ほかの問題とのかかわりがどうなっているかを知ることで、 それまで見えていなかったことが見え、「わかる」

<整理するとわかる>
ある基準に沿ってものごとを分類することで、
今まで整理がつかなかったものが、ある見方で整理され
「わかる」

<筋が通るとわかる>
それだけではわからない現象が因果関係によって
説明されたときや、仮説によってものごとの説明がついたとき 「わかる」

<空間関係がわかる>
さまざまなものの位置関係が「わかる」、
頭の中で三次元のもののイメージが「わかる」、
一枚の紙に描かれた立方体が立方体だと「わかる」
(視空間的能力)

<仕組みがわかる>
見かけの理解だけでなく、見かけをつくり出している
からくりを理解することで、ものごとの本質が「わかる」

<規則に合えば、わかる>
すでにある決まりごと(ルールや公式)の
手順に当てはめて、ものごとを整理していくことで、
複雑なことが「わかる」

どうでしょうか。
例を説明されないと、なるほどー、とはなりませんが、
わかるということが簡単ではないということは
わかります(本当?)。

山鳥氏は、
「わかるの第一歩は言語」と言っています。

ある音韻パターンと一定の記憶心像が結びついていれば、 その音韻パターンを受け取ったとき、
心にその記憶心像が喚起されるのだそうです。

たとえば、だれかと話していて、
言葉が耳から入ってくると、
その言葉と自分の記憶心像(内容イメージ)が結びつく、
そうして「わかる」に至る、ということです。

なので、毎回、言葉に触れたときに、
「記憶心像(イメージ)」を形作っておかないと
いけないと山鳥氏は言います。
「記憶心像(イメージ)」を形作るには、
意味がわからないといけない。
意味がわからないままにしておくと、
言葉は単なる記号音のまま。
記号音のままスルーすることが続くと、
頭がそれに慣れてきて、聞き慣れない言葉を聞いても
「それ、何?」と問いかけなくなるそうなのです。

つまり、一つひとつの言葉を丁寧に扱い、
意味を正確に理解し、自分の中にイメージを
形成することを怠ると、
「もやもやする」「すっきりしない」「よくわからない」 ということにも気づかなくなるということ。
「わからない」ことがわからないわけですから、
「わかる」に向かっていけないということになります。

これは耳からだけでなく、目から言葉が入ったときも
同じだと解釈しました。
意味を正確に理解して、心像を形成しておかないと、
文字はただの形のままスルーされるということですよね。

いやあ、大変です、これは。

カタカナ言葉を中心に、日々新しい言葉に触れている私たち。 言葉の扱いを疎かにしてはいけない。改めてそう感じます。

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