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『大切にしたい姿勢』カテゴリの記事

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ChatGPTなどのAIに注目が集まっているためか、
私たちの「言語化能力」がこの先どうなっていくのか、
という問いが頭の片隅に常駐しています。

もしかしたら、このような関心は時代特有のものかもしれません。
たとえば、1冊10分で読める書籍要約サービス「flier(フライヤー)」の
アクセスランキング(2023年1月1日~31日)にもその傾向が表れています。

年代別ランキングで、30代の上位にあったのは
1位「言語化の魔力 言葉にすれば「悩み」は消える」(樺沢紫苑/幻冬舎)
2位「リーダーは話し方が9割」(永松茂久/すばる舎)
7位「東大教授の考え続ける力がつく思考習慣」(西成活裕/あさ出版)

各書籍の切り口は微妙に異なるのだと思いますが、
「言語化」「伝え方・話し方」「思考整理」をテーマにした本に
関心が寄せられているのは、他の年代でも概ね同じです。

では、そもそも「言語化」とは何をすることなのでしょうか。
いろいろな表現の仕方があると思いますが、
ここでは、次のように定義してみました。

自分が頭の中で考えていることを言葉に変換し、
さらに相手がより理解しやすい言葉で伝えること。


ここで重要だと思うことが2つあります。
1つは、頭の中だけで考えることと、言葉にすることは違うということです。
一人で考え、頭の中では整理したつもりでも、
いざ人に伝えようとすると言葉に詰まるという体験、誰にでもありますよね。
人の脳がどのように働くのかは知りませんが、
頭の中を過ぎていく言葉であるうちは言語化とは言えないわけです

もう1つは、自分のための言葉ではなく、
相手のための言葉にしてこそ意味があるということです。
伝えたかどうかではなく、伝わったかどうかが重要なのですね。

だから、コミュニケーションを大切にしたいと思うなら、
自分の考えを言葉として発することから逃げてはいけないのだと思います。



一方で、人々の関心が言語化にありながら、
「ふんわり」「ふわっと」という言葉もしばしば耳にします。
いろいろな意味で使われているようですが、
その1つに「あいまいな」という意味もあるようです。

「ふんわりした話」といえば、
核心をつかないぼんやりした話というような意味でしょうか。
また、具体性に乏しく抽象度が高い話の場合も、
ふんわりしていると言ったりしますね。

「あいまい」という言葉だと少しネガティブな印象ですが、
「ふんわり」になると必ずしもそうでもありません。
今はまだ漠然としているけれど、これからクリアになっていくかも...という
期待さえ抱かせる気がするのは、持ち上げすぎでしょうか。
あるいは、「内容がぼんやりしていてダメ」と言いたいところでも、
「なんか、ふんわりしていますね」と言うことでソフトになるような。
あいまいさを否定しないところは、日本的な知恵なのかもしれません。


私は言葉を使って仕事をしているので、言語化の大切さは常に感じています。
でも、言語化にはデメリットもあります。
逆に言えば、ふんわりにメリットがあるということです。

どういうことかというと、
言語化というのは複雑な考えやそのニュアンスを潔く絞り込む作業なので、
捨て去る概念の中に実は大切なエッセンスが含まれている場合があるわけです。
1番大切なことは言葉になるけれど、
5番目ぐらいに大切なことは言葉にはされず、
結果的に思考の中から排除してしまうことにつながったりします。
論理的な言葉が勝り、感情的な言葉が置いてきぼりになりやすいのも、
そのようなことと無関係ではないと思います。


仕事というのは大抵はふんわりしたところから始まります。
ふんわりしたままでは始動できないので、誰かが言語化する。
すると、具体的なタスクになっていきます。
誰かと協働するにはコミュニケーションは避けられないですし、
AI時代だからこそ言語化能力は必要不可欠になっているとも思います。
言語化能力を養いながら、一分の隙間にふんわり力も持っていたいものですね。


今日が良い1日でありますように!

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4月は新入社員が入ってくる時期だからか、
上司部下間の面談が多いシーズンなのではないでしょうか。
最近は1on1と呼ばれる日常的な面談を導入する企業も増えており、
面談はコミュニケーションの一環として日々行われるようになりました。
その面談でよく出る話題が「課題は何か?」です。

この課題という言葉、言うまでもなく上司・部下間の面談用語ではありません。
企業の経営課題、今年度の取り組み課題、社内風土的な解決課題等、
いろいろなシーン、いろいろな文脈で使われる言葉です。

さて、ここで質問です。
「課題」と聞いて、この言葉の語感やイメージは
あなたにとって良いもの、言い換えるとポジティブなものですか?
それともどちらかといえばネガティブなものを含んでいますか?

なぜ、この質問を立てたかというと、
少なくても仕事における「課題」という言葉に対しては、
イメージがポジティブ派とネガティブ派に分かれているのではないか、
と思ったからです。


では、「課題」という言葉への受け止めは
ポジティブ派とネガティブ派でどのように違うのでしょうか?
独断と偏見に基づいて言うことをお許しいただくのであれば、、、

ポジティブ派:
課題とは理想に向かうための道筋であり、伸び代だと思っている。
なので、課題が見つかると自分が何をすればいいかがわかり、うれしくなる。

ネガティブ派:
課題とは現在不足しているものを見える化したものであり、
「足りないポイント」を並べたものだと思っている。
なので、課題と向き合うことは苦痛以外の何者でもない。


日本語の同一単語「課題」に対して、
人によって、もしこれだけ言葉の受け止め方が違っていたなら、
当然、面談はうまくいきません。

上司と部下がともにポジティブ派なら、
課題という言葉で会話をして共通のスタート地点に立てますが、
仮に部下はネガティブ派で上司がポジティブ派という組み合わせだったなら、
共通言語がないだけに、部下はただ「できないよね」と言われているだけ、と、
そんな気持ちになることでしょう。


実は、お客様との会議でも同じようなことがしばしば起こります。
私たちは課題解決型でコンテンツの企画に携わるのが基本スタンスなので、
「貴社の課題はここではないか」とか、
「その課題の原因はここではないか」など、お客様と率直に議論します。
しかし、それに対して消極的あるいは否定的な反応しか
返ってこない場合があります。なぜでしょうか?

大抵の場合、理由には次の2つのどちらかが当てはまります。
1つ目は、当社にはそんなに大きな問題はないと認識しているから。
2つ目は、課題への自覚や認識はあるが、課題というと
自社を否定しているような気持ちになり、使いたくないから。
2つ目は、個人ベースの「課題」と同様に、
「課題」という語句への認識がネガティブだからこそ生じる反応です。

しかし、「課題とは?」の定義合わせをして、
ポジティブ派の解釈のように理想へ向かう道筋だと捉えたなら、
前向きな対話ができるのではないでしょうか?


もう1点、こんな視点も大切かもしれません。
たとえば、「課題」という語句は理想に向かうための道筋を示したもの、
と理解していたとしても、その内容に納得できていなかったら?
誰かから指摘はされたが、自分としてはそれが課題だと思えなかったとしたら?
あるいは、課題だとわかっていても真剣に取り組む気持ちが湧かないとしたら

つまり、そもそも「課題」とは理想に向かうための道筋であるとして、
それがわかっていても、そう簡単に理想に向かってまっしぐら...とはならない。
多分その本質は、その「課題」の根っこにある問題を
今すぐにでも解決したいと思っているかどうかなのだと思います。
ということは、解決せずに放っておいたらどうなるか、
課題を解決できた後にどれほど良いことが待っているのか、
これがイメージできないと、
掲げた「課題」はただのお題目で終わってしまう、ということになります。

結局自分の理想をくっきりはっきり描くこと、
そこに向かうためにどうするかと考えること、
それが課題意識の本質なのでしょうか。

3月最終週です。桜も見納めですね。
どうぞ素敵な1週間を!

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今日は今、世界的に話題になっている「chatGPT」を使ってみて、
私なりに気づいたこと、感じたことをご紹介します。
この動き、人間とAIがどういう関係なるのかという意味で、
絶対押さえておいた方が良いと思います。


「chatGPT」は、OpenAI社が開発した自然言語生成モデルで、
対話形式で質疑応答が出来るチャットボットです。
https://openai.com/blog/chatgpt/
と聞くと小難しく感じますが、ブラウザからログインし(現時点では無料)、
質問すると答えを返してくれるしくみです。
大学入試レベルの問題を解いてしまい話題となり、
すでに大学の宿題で利用禁止されるというぐらい「スゴすぎ」という評判です。

OpenAI社の技術は、Googleの検索に変わるしくみとなるのではないかと言われ、
同社は、イーロン・マスクやマイクロソフトなどによって、
数十億ドル単位か、それ以上かの投資が行われているとされる注目企業です。
脚光を浴びる彼らが昨年2022年11月に公開したのが、この「chatGPT」です。


チャットボット自体はすでに使ったことのある方も多いと思いますが、
私の経験では、なんとなくいつもイマイチでした。
このサービスはチャットボットの延長線にあるので、
正直「ほんとうにそんなにスゴいの?」と半信半疑だったのですが、
確かにそれは、既存のチャットボットをはるかに凌ぐ体験で、
驚きを感じざるを得ませんでした。

使い方の詳細は検索すれば出てくるのでお調べいただくとして、
ざっくり言えば、
①ユーザがテキストで質問する ②チャットボットがテキストで回答する
この繰り返しです。


実験結果を紹介しますね。

まず「社内報の文章を上手に書くコツは?」と尋ねたところ、返ってきたのは、
こんな答えです。

ーーー最初の回答① ここからーーー
社内報の文章を上手に書くコツは以下の通りです。

1. 読み手を意識する:社内報は社員に向けたコミュニケーションツールなので、読み手である社員の興味・関心・ニーズを把握し、その視点に立って文章を書くことが大切です。

2. 簡潔かつ分かりやすく:社内報は情報量が多くなりがちなため、できるだけ簡潔かつ分かりやすくまとめることが必要です。冗長な表現や専門用語を避け、具体的な例や図表を活用することも有効です。

3. 読みやすい体裁:見出しや段落の構成、フォントや文字サイズ、行間など、文章を読みやすい体裁に整えることも大切です。また、適切な画像やイラストを挿入することで、視覚的に情報を伝えることもできます。

4. 報道価値を意識する:社内報は社員に向けた情報伝達だけでなく、企業イメージの向上や社員のモチベーションアップにもつながるため、報道価値のある情報や面白い記事を盛り込むことも大切です。

5. フィードバックを受け入れる:社内報は社員とのコミュニケーションの場でもあるため、社員からのフィードバックや意見を積極的に受け入れ、今後の改善点につなげることが必要です。
ーーーここまでーーー


なんか、スゴくありませんか?
でも、このアドバイスを受けて、メキメキ文章が上達する人は、まあ、いませんよね。なぜかというと、それぞれの回答に対して、疑問がたくさん湧いてくるからです。

ここでは、試しに、「2番についてさらに質問です。簡潔にするためのコツは何でしょうか?」と質問してみました。

すると、「文章を簡潔にするためのコツは以下の通りです」として5つの点が返ってきました。


ーーー次の回答② ここからーーー
1. 要点を絞る:書きたい内容の中から、読み手が知りたいと思う重要なポイントを絞り出すことが大切です。そのポイントを明確にし、それに集中することで、余計な情報を削減し、簡潔にまとめることができます。
2. 簡明な表現を心がける:読み手が理解しやすい、わかりやすい表現を使うことが大切です。専門用語や難しい言葉は避け、簡単な言葉で伝えるようにすることで、スムーズな読み取りが可能になります。
3. 文字数を制限する:読み手が長文に飽きてしまうことがないように、文字数をできるだけ制限することが大切です。一つの文章で伝えたい内容が多い場合は、分割するなどして、分かりやすい単位でまとめることが望ましいです。
4. 実例を使う:抽象的な概念やアイデアを説明する場合は、具体的な例を挙げることが有効です。例えば、数字や図表、事例などを交えることで、読み手にイメージを持ってもらい、理解しやすくなります。
5. リライトを繰り返す:一度書いた文章を、何度も読み直して、不要な部分を削除し、簡潔で分かりやすい文章に修正することが大切です。また、文章を少し離れてから読み返すことで、改善点が見えてくることがあります。
ーーーここまでーーー


うーむ。まあ、スゴいですよ!
こんなにスラスラと回答できるんですからねー


さて、ここからは私の気づきです。
いろいろありますが、一番は、AIを使いこなそうと思ったら、
自分の疑問を持てるかどうかだなぁということ。
言い換えると、1つ目の質問への回答を読んで、
分かったような気分になってはダメだということ。
なのですが、おそらくこのしくみの問題は、
実は8割ぐらいの人は分かったような気になってしまうのではないか、
という点です。
分かったような気にならず、2つ目の疑問、3つ目の疑問と、
自分の疑問を出せるかによって、
AIを使いこなせるかどうかの分かれ道になるな、と思いました。


ところが、現実社会では、我々は自分の「理解」というものに対して
ふわっとしたままでも過ぎていきます。
そのような現実に自分を合わせていると、
永久にAIを使いこなせるようにならないのではないかと
懸念を抱きます。
いえ、AIの方は、第一の問いに対して確実に答えを返してくるわけですが。。。。

私は、AI時代には、正しいとか正しくないとかではなく、
「自分」というものを持っているかどうかが、
AIに負けない価値を持つと思っています。
それには、多分ふわっとした自分でいてはダメなのでしょうね。
このことから、さらに「自分を持つって何なんだ?」という自問が湧いてきますが、
自問を持つことこそ人間の好奇心の表れです。
なので、今後の社会で重要視されるのは、
「自問力」「好奇心」かなと思いますが、あなたはどう思いますか?
まずは、chatGPTを使ってみてください。

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昨日の当社の定例ミーティングで、
ズバリ一言ですが、うちのメンバーにこんな話をしました。

仕事での様々な関係の中で、いろいろな会話がされているけれど、
そのとき社会では「目的」が忘れられがち。
もし「目的」から考えたら7割のことは正しく判断できるはずだが、
話が複雑になってしまうのは、「目的」を忘れがちだからだと思う、
グラスルーツは「目的」思考の会社でありたいので、よろしく!と。

まあ、これ、正論ではありますが、
正論で解決できないことがあるから、目的が二の次になったりするわけですよね。

では、正論で解決できないこととは何でしょうか?
いろいろあるとは思いますが、
その1つに、組織の中で「抗えない」という心理状況があると思います。

こんなことを言ったら、周りから何か言われる...
これをやめると言ったら、角が立つ...
これを変えたいが、あちこちから反発を喰らいそう...
一度は婉曲的に伝えたけど、それ以上は言いにくい...

だから「抗えない」。

ある意味、想像に難くないですよね。
実際、三人寄れば公界(くがい)というくらいですから、
人が3人いると社会ができてしまうし、
3人いると銘々が別のことを考えています。
そして、誰もが生存本能から「人から嫌われたくない」と思っているので、
ちょっとしたことを発言する=モノ申した人=波風を立てた人=人から嫌われる
そんな図式が生まれてしまうのだと思います。
アドラー心理学などでも、これ自体はよく言われることでもあります。

ましてや組織になり、自分の発言が「所属部門」の発言になるとなれば、
そりゃ軽率にモノが言えない気分になるのもわかります。


ですが、こういう体験はありませんか?
「抗えない」と思ったから取った自分の行動で、
実は結果的に自分の評価が下がった、みたいな。

私はありますよ、若い時に。
まあ、正確に言えば「抗えない」というほど
突き詰めて考えて取った行動ではありませんでしたが、
「この人の言葉に従うべきだろう」
「この人の判断通りに行動していたら問題ないだろう」と考えていたら、
自分が非難されたり、スベったりした経験。


2つ例を挙げますね。
1つ目は、ある上場企業の秘書室で業務を引き継いだ時、
前任の先輩から言われた通りにやったのに、
「○○さんなら、そんなやり方はしなかった」と
担当していた役員からお叱りを受けました。しかも、2度も!
自分で判断して行動したならまだしもでしたが、
納得できない気持ちが残りました。

2つ目は、PR会社に転職し、プレスコンタクトをしたことのない時期に、
上司は「連れて行くから、待っていてね」と、私はSTAYを言い渡されました。
よく言えば直々に教育指導してくださるつもりだったのでしょうけれど、
上司が動いてくれないと動けない状況に、私はストレスを感じました。
でも、同じ頃、隣の部に入社した新人が、
「プレスコンタクトに行ってきます」と行って出かけて行くのを見た私の上司は、
「この新人はスゴイ!」と発言。
その時は「おいおい、あなたが私をステイさせたんだよね」と思ったものです。


この体験には、いろいろな示唆が含まれています。
上の人から言われたことは、忠実に守らなくてはいけない...。
私は、そう思っていましたが、実はこれはウソだということです。

もう少し正確に言うと、忠実に守ろうとするのも、それはその人の自由ですが、
その結果には誰も責任を持ってくれないし、
「自分は言うことを聞いただけです」という言い訳など成り立たないということ。

そう気づいてから以降、私は仕事であれ、恋愛であれ、
「自分が選択した」という意識を持つことにアンテナが立つようになりました。
「抗えない」「言われたことはやるしかない」と思うのは、
自分の思い込みであると。

その結果何が起きるかというと、「自己責任」の世界に浸かるということ。
でも、それって潔くて快適です。
というわけで、今日のテーマは本当に抗えないのか、でした。
あなたはどう思いますか?

今週末は30年ぶりにスキーに行きます。
ケガなどせずに帰ってこられるよう、祈ってくださいまし。ではまた!

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改めまして、今年もよろしくお願いします。
新年1号目の今回は趣味の話題です。

私事で恐縮ですが、コロナが始まる1年前の2019年頃から、
高校時代の同期生たちと俳句の会を始めました。
その名も「一句会」。
といっても、座長はある男性が務めてくれていて、
奉行と呼ばれる幹事役は3カ月交代の持ち回り方式です。
幽霊会員もいますが、毎月十数名が投句、選句に参加し、
かれこれ3年少々続いてきました。

私が続けてこられたのは、自分が言い出しっぺの一人であるという責任感と、
大人の遠足と称して出かけた後の飲み会の楽しさゆえ。
俳句自体にはある意味「適当」に取り組んできました。

具体的には、投句の締切日、締め切り時間の直前に、
ちゃちゃっと作って投句するという具合です。
切れ字の使い方もろくに学んでいないので、
季語が入っていて、五七五である...という程度のゆるい取り組み。
まあ、それでもOKというのが会のスタンスだったので、
お茶を濁してきたわけです。


で、この「適当さ」に関して言うと、
真剣に取り組んでいる人は少数派で
私が適当派の最右翼ですが、
見方によっては、みんな気軽につくっていて、
ある意味、似たようなものでもありました。
それでも、他人の日記を読ませてもらうような楽しさがあったのも事実です。


「適当さ」のおかげで続いたとも言える反面、
私は、時間が経つに従って、段々飽きてきました。
つまらないと思っていると、ぶっちゃけ辞めたくもなる。

そんな話をしていたら、友だちの一人が本を貸してくれたのです。
NHK俳句 あるある! お悩み相談室 「名句の学び方」。

読んでみると、読めば読むほどおもしろい!
気を良くした私は、もう1冊別の本を取り寄せたところです。


「適当」はラクだし、それが悪いわけではありません。
人生には「適当」という楽しみ方もあっていい。
だけど、「適当」というスタンスには「好奇心」が働いていません。

好奇心を持って主体的に知識を取りに行くと、
まったく別の楽しみに触れることができる。
今回のことで痛感しました。
もしかしたら、語学学習や筋トレなどについても、
同じことが言えるのかもしれません。


で、その好奇心。抱くにはきっかけが必要で、
周囲の人との雑談や、情報のシェアなどがそれになりうるのでしょう。
リモートワークの時代だからこそ、
一人の世界に入り込みすぎないようにすることが大切だとも思います。


ちなみに当社では、毎週1回、自分の調べたことや
おもしろいと思ったこと、気づいたことなどをシェアする勉強会を行なっています。
話す人は持ち回りです。
話す人にとっては、自分で取りに行った知識だから身につきやすいですし、
聞く側にとっては、知識をお裾分けしてもらうメリットがあります。
でも、この勉強会、負担になりすぎると持続できなくなるので、
「適当」で良いことになっています。

良い点、悪い点のある「適当さ」。
うまくつきあっていきたいものですね。

寒い日が続くようです。
体調を崩されませんようご自愛ください。

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いきなりですが、クイズです。
以下に並ぶ6名の方たちに共通することは何でしょう?

三宅一生
野茂英雄
井深大
向井千秋
吉田都
アレサ・フランクリン


(若い方には厳しいかな~? でも20秒ぐらいは考えてみてください笑)



ファッションデザイナー、元プロ野球選手、ソニーの創業者、
元宇宙飛行士、新国立劇場 舞踊芸術監督、シンガーソングライター...。
一見するとつながりがあるように見えませんが、
実は6名は「初」の文字で繋がっています。

今年亡くなったファッションデザイナーの三宅一生さんは、
1973年、日本人として初めてパリ・コレクションに参加した方。
ちなみにニューヨークコレクションだと初は森英恵さん(1965年)です。

野茂英雄さんの初は戦績での偉業。
ロサンゼルス・ドジャースで1995年にデビューし、
ノーヒットノーランを2回達成、
最多奪三振を2回獲得、新人王受賞といずれもアジア人史上初のことでした。

ソニーに「初」はいろいろありますが、
ここではニューヨーク証券取引所に日本企業で初上場したことに注目してみました。
1970年のこと。その時の社長は創業者だった故・井深大さんです。

続く向井千秋さんは、1994年、スペースシャトル・コロンビア号に搭乗した、
日本人女性初(アジア人女性初でもある)の宇宙飛行士。

新国立劇場 舞踊芸術監督として現在活躍されている吉田都さんは、
元は世界的バレリーナであり、イギリスの2つのロイヤルバレエ団で
最高位プリンシパルになった方。日本人女性初の快挙でした(1988年、1995年)。

「クイーン・オブ・ソウル」の異名を持つ故・アレサ・フランクリンさんは、
音楽好きの方ならおなじみ。
1987年、音楽史上初めてロックの殿堂入りした女性シンガーソングライターです。


なぜ、こんなクイズを出したかというと、2022年の今年、
大谷翔平選手の活躍があまりにもすごかったからです。
初の34本の二桁本塁打、15勝の二桁勝利という
ベーブ・ルースの記録を100年ぶりに塗り替える偉業を達成しました。
何事も「初」ってすごいなと思ったからこそ、「初」を成した人に注目してみました。
大谷翔平選手は二刀流という新しい「道」をつくりました。

でも、メジャーリーグへの「道」は野茂やイチローなど、
彼の先輩たちがつくりました。
いえ、野茂でさえ、それ以前に村上雅則という先輩がいたわけです。
そう考えると、誰かが成し遂げた「初」なんとかは、
その前の誰かの「初」なんとかの上にあるんですよね。
一人の人間の歴史は他の誰かの歴史と繋がっているように思えてきます。


なーんて考えて、あれこれ調べていたら、
なんとタイミングよろしく、この秋、日本テレビで
「ファーストペンギン!」というドラマが始まったようですね。
堤 真一さんが出ているので見ちゃおうかな。。。
公式サイトによれば、坪内知佳さんという実在の人物の体験に基づく物語だそうで、
シングルマザーの主人公が、経営難の漁師たちとともに飲食店や消費者に
直接魚を届けるビジネスを立ち上げて奮闘するお話なのだとか。
どんな世界にもいるんですねー 道を切り拓く人が。

今でこそ多少知られるようになったファーストペンギンという言葉
一般には「新しい世界に最初に飛び込む人」「新しいことを最初に始める人」という
意味で使われますが、厳密に言うと、天敵の存在というリスクを知った上で、
勇敢に行動し、先行者利益を得るペンギンのことです。

こう聞くととてもカッコいいのですが、言葉の発祥の背景には
アデリーペンギンという種類のペンギンの存在とその習性があります。
彼らは、海の中に天敵のアザラシがいないか確認するために、
仲間の1羽を海に突き落とし、食われないことを確かめると後に続くらしいです。
考えてみるとずいぶん酷いことをするものです。
でも、もしかしたら仲間の間では英雄になっているのかもしれません(笑)


さて、私たちの仕事。
英雄になろうと思って仕事をしている人なんて、いるのでしょうか。
多くの人は、誰かに喜ばれるのがうれしくて仕事をしているのでは?と思います。
そんな私たちの世界にも、小さな「初」なんとかはあります。

あのお客様を獲得した最初の人。
このやり方を確立した最初の人。
新しいことを導入した最初の人。
意味なく続いていることをやめようと言った最初の人。

こういう人は何かをより良くしたくて、ただそのためにやるのだと思います。
私も、英雄になどにならなくて良いから、そういう人でありたいです。

高村光太郎の代表的な詩「道程」の冒頭にこんな一節があります。
 僕の前に道はない
 僕の後ろに道は出来る

後ろに道がつくれたらいいなと思いませんか?

小さな「初」なんとかをみんなでたくさんたくさんつくることが、
世の中を変えていくことにつながるような気がします。

今週もおつかれさまでした。
良い週末をお過ごしください!!

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個人的な話で恐縮ですが、ここ数年の間に、スタンスを変えたことがあります。
それは、目や耳から入ってくる情報の見方、聞き方です。
発信者が誰であろうと、100%は信じずに50%で眺めるようになりました。

「発信者が誰であろうと」の意味は、
国や大臣たちの言うことだろうと、
NHKをはじめとするマスコミの言うことだろうと、
有名人や有名論客の言うことだろうと、
仲のいい友達であろうと、です。

「50%で眺める」といっても「信じない」は言葉としてキツすぎるかもしれません。
「本当かもしれないが、そうではないかもしれない」
「そういう面があったとしても、すべてではないかもしれない」
「本当かどうかはともかく、○○はこう言っているということはわかった」
つまり、常に「別の真実があるかもしれない」「別の見方があるかもしれない」と、
意識的に心に余白を持って眺めるようになったと言うのでしょうか
目の前の情報を鵜呑みにしないように強く意識するようになりました。

そんなの当然ではないかと思う方もいるかもしれません。
でも、以前の私も含め、多くの人は情報を受け取ると、
聞くところによれば「~らしい」「~だそうだ」という見方をし、
頭ごなしに信じているとは言わないまでも、
「そうなんだ」と受け入れるのが先、
「本当か?」は後というスタンスなのではないでしょうか。


私が「本当か?」といちいち思うようになったのは、
1つにはcovid-19に対する専門家の発言への不信感や
マスコミの煽り報道への不信感も影響しています。
マスコミといえば、covid-19の煽り報道だけではなく、
政治報道で「報道しない自由」を濫用するようになって
信頼できなくなったというのもあります。
また、ある一場面を切り取られると、悲しいかな、
本当だと思ってしまったことが何度かありました。


最近の例で、鵜呑みにしてしまいそうな「情報」の例を挙げてみますね。

たとえば、ちょうど1週間ほど前、鳩山由紀夫元首相が
誤った情報をツイッターで発信しました。
それは、ワクチンを打った人の方が打たない人より3倍入院する確率が高い
とWHOが認めたという発信です。ツイートを引用します。

<勉強会で白澤卓二先生にあらためて訊きました。WHOがワクチンで重症になる確率はコロナで入院する確率の3倍とWHOが認めたのは事実ですかと。河野太郎大臣はデマと否定されましたがと。白澤先生は事実ですと答えられました。私はアンチエイジングの権威の白澤先生の言葉を信じます。>

元総理大臣の発言となると、「そうなのか」と思う人がいてもおかしくない。
でも、悪気はなくてもこの情報は間違っていました。


また、今年はこんなこともありました。
7月の参議院選挙の際に、元東京都知事で維新から立候補した猪瀬直樹氏が、
同じ維新の候補者であった海老沢由紀氏に対し、街頭演説の最中に
肩(胸だとも)を触るなどのセクハラ行為を働いたとして、
その映像がネットを駆け巡りました。
私もそれを見て、最初はセクハラと言われても仕方がないと思ったのですが、
その後の海老沢氏のブログを読んで、「こちらの方が真実だ」と思い、
切り取り報道、印象操作の恐ろしさを痛感しました。


現代社会は、あまりにも多くの情報で溢れかえっています。
そして、民主主義国家だからこそ、
発信者は誰もが自分の見方に基づいて、自由に発信できます。
さらに、フェイクニュースのように悪意を持って情報を流したり、
意図的に流さないことも可能です。

ということは、絶対的に正しい情報など存在しないのかもしれません。
これが何を意味するかと言えば、
各自が情報としっかり向き合い、判断することが必要だということです。
残念ながら、人間にはムードに流され、声が大きいものに同調してしまう
代表性バイアスという心理的特性があります。
つまり、何かの力によってコントロールされる可能性がある、とも言えます。

そんな状況にあって、私たちはどうしたらいいのでしょうか。
まず第一に「鵜呑みにしない」に尽きますよね。
さらに言えば、やっぱり「調べる」です。
昔と違って、検索すればいろんな解説が出てきます。
問題は、これだけ情報が多いと、いちいち調べていられないということ。
でも、「鵜呑みにしない」という態度をみんなが持つだけで、
誰かが描いたシナリオを闇雲に信じてしまうことはなくなりますし
それだけで世論の健全化は図れるのではないでしょうか。

すっかり秋らしくなってきました。
今週も残りわずか。素敵な9月最終週にしたいものですね。

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広報職にとって割と重要と言えるスキルの一つに、
多面的な視点、多様な視点から物事を捉え、判断するということがあります。
たとえば、発信しようとする情報やコンテンツについて、
読む相手がどう感じるかを想像して表現に落とし込むのもその一つ
性別、世代、部門、役職の有無など、異なる立場の人がどう思うか、
想像し、判断するのはとても大切な仕事です。
しかも、配慮しすぎて何を伝えたいのかわからなくなっては意味がありません。

多面的な視点、多様な視点から物事を見ることと、
「客観視」はイコールではありませんが、ニアリーイコールだと言えそうです。
「客観視」の辞書的な意味は、「自分自身に直接関わる事柄を、
第三者的な立場で見ること。また利害や感情などを除いた観点で状況を見ること。」
だそうですが、見る対象が自分が書いた原稿であっても自分自身であっても、
客観的に他者の目で自己を見ることで成長できるような気がします


なのですが、実際、自分を客観視しようとすると、誰にとっても難しいです。
改めて、なぜ難しいのか考えてみました。

私が思いついた理由は3つです。
1つは、人は誰でも自分に対して否定的になりたくないから、です。
まして、他者から否定的に思われたり、ネガティブな評価を得ているかもしれないと
想像することは苦痛以外の何ものでもありません。
だから自分を客観視した方が成長できるとわかっていても、
あまり積極的にやる気が起きない。
人間はそのような生き物なのではないかと思います。

もう1つは、人は往々にして自分の考えていることは正しいと思っているので、
それ以外の考えを想像しようとしても、思い浮かばないというものです。
自分はやっているつもり。
でも、周りからはやっていないと言われる...ということが起きるのも、
言ってみれば、この派生系です。
自分は期待に応えているつもり(主観)
周囲の本当の期待に目を向ける(客観)
それなのに、自分は正しいと思っているから、気づかないという図式です。

そして、このような自分の気持ちに負けなかったとして、
3つ目の難しさは、「想像」です。
他者の目線に立つというのは、他者の気持ちを想像すること。
想像は人間の特権であるにもかかわらず、残念ながら簡単ではありません。


あ、まるで自分はそうではないかのように書いていますけど、
私も例外ではありません。
客観視が難しいことはわかっているので、
お客様案件での原稿は必ず阿部に見てもらっています。
そうすると、やっぱりボロボロと指摘が入る(泣笑
しかも、よりフィードバックを得るのが難しいと思うのは自己客観視の方です。


「客観視」に似た言葉に「俯瞰する」という言葉もあります。
ここでは、物ごとを判断するときに一部だけを見るのではなく、
対象の全体像を把握するために、いろんな角度から視点を変えて見ること、
と捉えてみましょう。

「俯瞰」という言葉で思い出されるのは、樹木希林さんです。
生前『一切なりゆき~樹木希林のことば~』(文藝春秋)の中で
次のように語っています。

『私はお仕事で関わっている人達を、自分も含めて俯瞰で見るように
しているんです。そうすると自分がその場でどんな芝居をするべきかが
とてもよく分かる。初めてこの世界に入った時に、俯瞰で見ることを覚え、
どんな仕事でもこれが出来れば、生き残れるなと感じましたね』

確かに、どんな仕事でも持って損がない能力です。


多様な視点から見る。
多面的に見る。
客観視する。
俯瞰する。

おや? 結局、どれも「想像力」が重要だということになります。
最近思うのですが、「想像力」って現代のキーワードですよね。


今週もおつかれさまでした。来週は8月です!
体調に気をつけて夏を乗り切りましょう!

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今日は、私にとって耳の痛いテーマになります。
というのは、やりたい、やりたいと思っていても、
やらなくちゃ、やらなくちゃと思っていても、
やれていない状況に目をつむったり、言い訳したりする、
そんな自分自身の話でもあるから(苦笑

たとえば、このメルマガ。
実に久しぶりになってしまいました。
調べたら、なんと5月25日以来です。
メルマガのように継続性が重要なことは、
一度休むと戻ってくるのが大変。
そんなことは百も承知なので、
今までこんなにお休みしたことはありません。

つまり書けなかったのは尋常じゃなく忙しかったからなのですが、
できなかった日に「しょうがないや」と自分をなだめることは、
あまり美しいことではなく、結構ストレスでもあります。
継続には無理は禁物、でもできる無理は必要。
要はそのバランスが重要だと思っているので、
マイルール的にはヨシとしましたが、
やるのもストレス、やらないのもまたストレスなんですよね。


あ、でもこの間にちゃんとやり遂げたこともありますよ。
3月からの4カ月で3kg痩せるという目標は、
先週ちゃんと達成できました。
完璧にストイックな生活を送ったわけではありませんが、
お酒を控えたり、カロリーコントロールしたりと、
それなりに意識して実行した成果です。

やりたいし、やった方がいいと思っている。
でも、できないことがあります。
なぜできないのか、胸に手を当ててよく考えてみました。
それは多分、実は「やりたい」はウソなんですよね。
本当の願望としての「やりたい」になっていない。
本当の願望でないと、スイッチって入りませんね。

たとえば3kg痩せるというのも、
特別太っているわけでもないから、それだけだと切実度は低いわけです。
ただ3kg痩せられたら、こういう服が着られるとか、
その程度の願望はあります。
でも、その程度だと本当のスイッチってなかなか入らない。

なのですが、我が家の場合、遺伝的に循環器が弱く、
悪玉コレステロール値が高かったりすると
(真剣に取り組もうと思った理由はまさにこれでした!)
血栓ができて、血管が詰まるなどの可能性があります。
すると「きゃー こわい!」と、スイッチが入ります。


「やりたい」はウソではなく、本心なのにできないこともありますよね。
大抵は、それをやる時間の確保をないがしろにしてしまうというか、
目先のことを優先してしまう場合に起きます。
よく言われるところの、重要度が高いけれど緊急度が低いこと、
重要度は低いけれど緊急度の高いことがある時、
人は緊急度の高いものを優先してしまうというアレです。

で、これを突き詰めていくと、緊急度が高いと思い込んでいることを
手放す勇気がない時に起きるのだと思います。
体は1つ。1日は24時間なのだから、何かを手放さないと時間は作れません。
頭ではそれがわかっているのに、手放すことができない。
なぜなら、きっと手放すというのは、諦めることだからです。
手放す→諦める→粘り強さが足りない→悪いこと
多分こんな思い込みがあって、積極的にはやりたくない。
まして若い時は時間がたくさんあるので、執着しがちです。
この歳の私でさえ、手放すのは諦めではなく、選択だと言い聞かせてますが、
それでも何かを手放すことは簡単でないと感じます。


やらない理由はほかにもあります。
現状に何の問題意識もなく、あくまで現状肯定している場合です。
楽観的な性格だったり、自信過剰で自分を客観視する習慣がない場合、
努力しようという発想になりません。
そう考えると、自己客観視は成長に不可欠なものだと言えそうです。


がんばったつもりなのに、新しい体験から咀嚼をやらなかったために、
身につかないなんてこともありますねー
「つまりこういうことか」と整理する習慣があると、
コツが早くわかるのに、整理をやらない。
でも、それにも、きっと理由があります。
おそらく結果良ければすべて良しで、
終わるとホッとしてそのまま放置してしまうからなのかな?
立ち止まらないとできないことだから、
忙しい忙しいと言っているとできないのかも。

人間は得てして怠け者です。
そうだったからと言って、誰からも罰せられません。
でも、人生は一度きりです。
やらない後悔はイヤですよね。
Just do it.
...と、どこかのスローガンにもあるこんなテーマで
コンテンツの企画ができそうですね(笑

まもなく3連休です。
まずは今週を乗り切りましょう!

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ある人に勧められて今読んでいるのは、人生100年時代をテーマにした本です。
2016年に発刊された「LIFE SHIFT(ライフ・シフト)」。
リンダ・グラットンとアンドリュー・スコットの共著です。
本によれば、2007年生まれの日本人(今15歳)の場合、
50%の人が少なくとも107歳まで生きるそうですし、
1987年生まれ(今35歳)なら98~100歳まで、
1967年生まれ(今55歳)なら92~96歳まで半数の人が生きるそうです。

従来の教育を受けるステージ、仕事をするステージ、引退後のステージという
3ステージではなくマルチステージになり、
なおかつ長く生きる分、長く働かないと、経済的に生きられない。
そんな時代にどう生きるか、考える材料を与えてくれるような内容です。
といっても、まだ読み終わったわけではないので、
この本の内容を紹介したいわけではありません。


健康で人間関係にも恵まれている前提で長生きしたとして、
どうやって稼いでいくかは誰にとっても重要な課題になっています
今行われている「延長雇用」のようなことでは対処不能な時代に突入する、
そんな社会の中で自分はどうあろうかとそんなことを考えました。

ツラツラと考えたのはこんなことです。
以下、私の脳内...(笑
何歳になっても、何かしらの価値を提供できないとお金は稼げないだろうな...
人から信頼されていないと相談されたり、頼まれたりすることはないだろうな...
結局「評判」が大事なのだろうけれど、
ブランディングといっしょで、「評判」は自分では決められない...
周囲の人たちが、自分の知らないところで評価した結果が「評判」なわけだし...
それに、「評判」は大事だけれど、
「評判」を良くするために生きたって幸せとはいえない...
結局自分の心に正直に生きることや、
後ろめたいことをしないことが先で、
報酬は後から付いてくるものなんだろうな...ぶつぶつ...


で、思い出したのがこの詩です。
この詩を人生100年時代に立ち向かわなくてはならない
すべての人に贈ります。

ーーーーここからーーーー

The lnvitation
『ただ、それだけ / It's that simple』
(オーリア・マウンテン・ドリーマー著)より

あなたの仕事が何かには興味が無い。
私が知りたいのはあなたが何を願っているか
その願いをかなえる勇気があるかどうかだ。
あなたの年齢には興味が無い。
私が知りたいのはあなたが愛のために、夢のために、
生きるという冒険のためにばかになれるかどうかだ。

あなたがどんな星のもとに生まれようと興味がない。
私が知りたいのは
あなたが自分の悲しみにの核にふれたかどうか
人生に裏切られたことがあるか
さらなる苦痛をおそれて、
殻に閉じこもったことがあるかどうかだ。
あなたが人や自分の苦しみから逃げ隠れせず
ごまかしたりつくろったりせず
じっと耐えていられるかどうかを、私は知りたい。

あなたが人や自分の喜びを心から味わい
陶酔に我を忘れて踊りだせるかどうかを、私は知りたい。
人目を気にしたり、我に返ろうとしたり、
自分に枠をはめたりせずに。

あなたが聞かせてくれる話が真実かどうかには興味がない。
私が知りたいのはあなたが人を裏切っても
自分に正直でいられるかどうか、人から裏切り者と責められても、
自分の魂を裏切らずにいられるか
不誠実になれるがゆえに、人から信頼されるかどうかだ。

あなたが日々の中で、
美しく見えないものにも美を見いだせるかどうか
美の存在から自分の人生を
掘り起こせるかどうかを、私は知りたい。

あなたが人や自分の失敗を受け入れることができるかどうか
失敗してもなお湖畔に立って銀の月に向かって
「イエス!」と言えるかどうかを、私は知りたい。

あなたが住んでいる場所や、
どのくらいお金を持っているかには興味がない。
私が知りたいのは、あなたが悲嘆と絶望の夜を過ごした朝に起き上がれるかどうか
心身ともにどん底にあっても、
自分の子供にごはんを食べさせてやれるかどうかだ。 

あなたが誰を知っているか、
どうやって生きてきたかには興味がない。
私が知りたいのは
あなたが危機の最中で、
私と一緒にひるまずにいられるかどうかだ。

あなたがどこで誰と、何を学んできたかには興味がない。
私が知りたいのは、すべてが消え去ったあと
何があなたを内側から支えているかだ。

あなたがひとりきりでいられるかどうか
むなしいときも自分といて心から楽しめるかどうかを、
私は知りたい。

ーーーーここまでーーーー

5月も残りわずかになってきました。
まずは今週を元気で乗り切りましょう!

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ブログを書いている人

小野真由美

グラスルーツの代表。組織をただの集団ではなく、チームにするための組織内コミュニケーションはどうあるべきだろう?…なんていうことを、いつもツラツラ考えています。ブランディングやコミュニケーション、チームやリーダシップ系の話題が7〜8割、その他の話題が2〜3割。そんなブログを目指します。ぜひおつきあいください。

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